6 招かれざる来訪者「後ろへ」「邪魔です」
石造りの公爵邸の壁を震わせるように、下層から響いてくる怒号は途切れることがなかった。
客室の窓から首を伸ばせば、手入れの行き届いた前庭の向こう、黒漆塗りの鉄柵門の前に、一台の辻馬車と、見覚えのある金髪の男が取り乱した様子で詰め寄っているのが見えた。
「エヴリン! そこにいるのは分かっているぞ! 隠れていないで出てこい!」
門の両脇に直立する私設衛兵二名が、長槍の柄を水平に構えて敷地への侵入を冷然と阻んでいる。しかし、男は槍先を恐れる様子もなく、鉄柵を両手で掴んで激しく揺さぶっていた。
午後を回った高台の貴族街は、普段であれば馬車の車輪の軋みと風に揺れる梢のざわめきしか聞こえない静寂に包まれている。
その整然とした並木道に響き渡る喚き声は、遠くを行き交う辻馬車の御者や、近隣の屋敷の門番たちが怪訝そうに視線を向けるには十分な騒音だった。
「……セドリック様ね。よく場所を突き止めたこと」
エヴリンは机の上の帳簿を閉じ、手元の手帳をポケットに滑り込ませる。眉ひとつ動かさず、至って平然とした声音だった。
「どこから漏れたかは知らんが、見苦しい真似を」
窓辺から視線を戻したオズワルドの横顔には、氷のような冷気と苛立ちが張り付いていた。彼は上着のボタンを素早く留め直すと、長身を翻して扉へと向かう。
「エヴリン、君は部屋から一歩も出るな。ハインツに鍵を持たせる」
「なぜ私が隠れねばならないのですか」
立ち上がったエヴリンがすかさず異議を唱える。
「あの男は、私の個人名義の預託口座から不正に金を引き出し、公衆の面前で根拠のない悪評を擦り付けた当事者です。用件があるのは私に対してであり、公爵閣下が代わりにお相手をなさる筋合いはありません」
「相手は正気を失っている。追い詰められた人間が何を仕出かすか分からんのだぞ。君が直接顔を合わせれば、腕力を振るわれる恐れがある」
「門の前には武装した衛兵が控えておりますし、昼下がりの往来です。腕力を行使されたところで、即座に取り押さえられて相手の立場が悪くなるだけですわ」
「危険を軽視するな! 君が怪我をしてからでは遅いのだ!」
オズワルドは声を荒らげ、エヴリンの腕を掴もうと手を伸ばした。しかし、エヴリンは身軽に半歩後退りし、その手を素早く見切って躱した。
「怪我をするような間合いには入りません。自分の問題は自分で片付けます」
エヴリンはオズワルドの制止を待たず、軽やかな足取りで客室の扉を開け放った。
藍色のドレスの裾を翻し、迷いのない足取りで中央階段へと進んでいく。
「おい、待て! エヴリン!」
背後から響く公爵の鋭い制止の声を完全に無視し、彼女は絨毯を踏みしめて一階へと降りていった。
◇
正面玄関の大扉を開けると、初夏の乾いた風とともに、門前の喧騒が一気に押し寄せてくる。
砂利の敷かれた前庭を進むエヴリンの背後から、荒い足音が追いついてきた。オズワルドだった。
彼の青灰色の瞳には制止を振り切られたことへの焦燥と、保護すべき対象を危険に晒すまいとする強固な気迫が満ちている。
鉄柵門の外では、セドリックが息を荒らげて喚き散らしていた。
数日前までの端正な貴公子の面影は見る影もない。上着の裾には泥が跳ね、整えられていたはずの金髪は汗で額に張り付き、充血した瞳が異様な光を放っている。
「どけ! 私はランベール子爵家の跡取りだぞ! 中にいるエヴリンを出しさえすれば――」
衛兵の槍を押し返そうとしていたセドリックの視界に、屋敷の玄関から歩み出てくる二つの人影が飛び込んできた。
一人は擦り切れた藍色のドレスを纏い、涼しい顔で歩いてくるエヴリン。
そしてもう一人は黒の軍礼服を着流し、圧倒的な威圧感を放ちながら彼女の斜め後ろに従うオズワルド・ヴァレンシュタイン公爵だった。
「エ、エヴリン……!?」
セドリックの動きがピタリと止まる。
次いで、彼の視線は彼女の背後に立つオズワルドへと向かい、その顔が驚愕と屈辱で歪んだ。
「貴様……なぜそんなところにいる!? 王都中の安宿や代筆屋を探し回らせていたというのに、まさか公爵邸に逃げ込んでいたというのか!?」
「逃げ込んでいたなどという下品な憶測はおやめください」
エヴリンは鉄門の三歩手前で足を止めた。
腕を組み、冷徹な眼差しで門外の元婚約者を見据える。
「私は正当な対価を支払い、一時的な滞在の契約を結んでいるに過ぎません。それよりセドリック様。公爵邸の門前で喚き散らすなど、子爵令息としての見識を疑いますわ。何の御用でしょうか」
「何の御用だだと……!?」
セドリックは鉄柵を両手で掴み、唾を飛ばしながら叫んだ。
「白々しい口を利くな! 貴様が夜会で見せびらかしたあの書類のせいで、私がどれほどの目に遭っているか分かっているのか! 父上からは廃嫡をちらつかされ、親族からは泥棒扱いだ! すべて貴様の捏造だろうが!」
「捏造?」
エヴリンは小首を傾げた。その表情には、怒りすら浮かんでいない。ただ愚鈍な生徒の珍解答を眺める教師のような、淡々とした冷ややかさがあるだけだった。
「私の名義の預託口座から四百二十万ゼルを引き出し、コレットのために豪奢なドレスや真珠の首飾りを注文なさったのは事実でしょう。為替商の台帳記録にも、宝飾店の売買記録にも、あなたの署名と受領印がはっきりと残っております。あれのどこが捏造だとおっしゃるのですか?」
「だ、騙したんだ! 貴様が私を罠に嵌めるために、最初から仕組んでいたに決まっている!」
セドリックは激昂し、門の格子の隙間から腕を伸ばしてエヴリンを掴もうとした。その瞬間、オズワルドが長い脚で前に踏み出す。
長身の影がエヴリンの頭上を覆った。オズワルドはエヴリンの肩を自らの体躯で覆い隠すように位置取り、漆黒の外套の端を翻しながら氷のように冷たい声で命じる。
「私の後ろへ」
オズワルドの背中は広く、軍務で鍛え上げられた武人の頑強さに満ちていた。
彼にとっては、これが当然の義務だった。
興奮した男の暴力から、か弱き令嬢を守るための盾となる。彼の全身からは、「一歩も前に出させはしない」という絶対的な庇護の意志が放たれていた。
だが、その背中に対して、容赦のない衝撃が落ちる。
「邪魔です」
「ぐ……っ!?」
エヴリンは両手をオズワルドの腰のあたりに当てると、体重をかけて無造作に彼を横へ押し退けた。
予想外の方向からの力に、王国屈指の武人であるオズワルドが二歩たたらを踏み、信じられないものを見る目で瞳を見開く。
「え……エヴリン……?」
「前が見えません。下がっていてください」
エヴリンは振り返りもせず、邪魔な障害物を退けたとばかりに平然と一歩前へ出る。
隙のない公爵が助けようとした令嬢に「邪魔」と切り捨てられ、居合わせた者たちの前で押し退けられた瞬間だった。背後で控えていた衛兵たちが思わず息を呑み、視線を宙に彷徨わせている。
オズワルドは硬直したまま、口を半開きにして立ち尽くすしかなかった。
エヴリンは鉄柵のすぐ内側まで進み出ると、ポケットから手帳を取り出し、冷静にセドリックを見据えた。
「セドリック様。あなたがどうしても『捏造だ』『罠だ』と主張なさるのであれば、こちらも相応の対応を取るまでです」
「な……何だと?」
「あなたが先々月から先月にかけて、私の私室へ寄越された直筆の書簡についてです。金銭の工面を懇願し、さらには私の委任状を無断で使用して決済を通す旨を記した手紙の数々を、私はすべて日付順に保管しております」
セドリックの顔から血の気が引いていく。
「あなたが正式に書類の捏造を主張なさるのであれば、私も予定どおり王都公証院へ正式な返還請求を提出する際、それらの直筆書簡もすべて証拠資料として添付いたします。筆跡の照合を受け、為替商の台帳と突き合わせれば、誰がどのような意図で金を引き出したのか、客観的な事実が白日の下に晒されることになりますが? それでも『罠だ』と言い張られますか?」
「う……そ、それは……」
セドリックは言葉に詰まり喉を鳴らした。
苦し紛れの責任転嫁で「エヴリンの捏造だ」と思い込もうとしていた彼にとって、自分自身が書き残した手紙の存在を突きつけられたことは、致命的な一撃だった。
自らの浅ましい筆跡が残っている以上、正式な場で争えば自分が墓穴を掘るだけだと、どれほど取り乱していても理解せざるを得ない。
「セドリック様。門前で喚き立てても、あなたの立場は何一つ好転いたしません」
エヴリンは手帳を閉じ、冷然と言い放つ。
「四百二十万ゼルを返還する意思がおありなら、正式な書面をもって代理人を通じてご連絡ください。返還の意思がないのであれば、私は予定どおり公証院を通じて法的な手続きを進めるだけです。これ以上、私や公爵家に無用な騒ぎを起こすのであれば、門前での騒擾や脅しとして直ちに憲兵へ知らせます。お引き取りください」
「く……っ、あ……」
セドリックの唇が震え、掠れた呻き声が漏れた。
エヴリンの淀みない正論と背後に控える衛兵たちの冷ややかな視線。そして何より、自らの過去の過ちを詳しく把握されているという現実の前に、彼はすっかり戦意を失っていた。
セドリックは後ずさりし、逃げるように乗ってきた辻馬車へと転がり込む。
「出せ! 早く出せ!!」
御者が慌てて鞭を打つ。辻馬車は車輪を軋ませながら、逃げるように並木道を駆け去っていった。
静寂が戻った公爵邸の門前でエヴリンは手帳をポケットに仕舞い、小さく息を吸い込む。
「衛兵の方々、お騒がせいたしました。門を閉めていただいて結構です」
「は、はっ!」
衛兵たちは直立不動で敬礼し、慌てて重い鉄門を閉ざした。彼らがエヴリンに向ける視線には明らかな畏怖の色が混ざっていた。
◇
エヴリンが踵を返すと、そこには腕を組んだまま、微動だにせず立ち尽くしているオズワルドの姿があった。
その彫刻のように整った顔立ちは、複雑怪奇な色に染まっている。
怒りでもなく軽蔑でもない。驚愕と戸惑いと、そして「自分は一体何を見せられたのだ」という強烈な呆然とした空気。
「公爵閣下。庭先をお騒がせして申し訳ありませんでした。これで当面の間、あの男が直接乗り込んでくることはないはずです」
エヴリンは事務的に頭を下げ、オズワルドの脇を通り抜けようとした。だが、オズワルドの低く掠れた声が、彼女の足を止めた。
「邪魔ですと言ったな」
「え?」
エヴリンが振り返ると、オズワルドが眉間に深い深い溝を刻んで彼女を見下ろしている。
「私は君を庇おうとしたのだ。逆上した男が突進してきた時のために、我が身を盾にして君を守ろうとした。それを君は両手で押し退けたな」
「ええ。前が見えませんでしたので」
「前が見えないからと、公爵を押し退ける令嬢がどこの世界にいる!」
「押し退けてなどおりません。安全のために、少し横へ移動していただいたまでです」
「それを世間では押し退けたと言うのだ!」
オズワルドは信じられないといった様子で片手で額を押さえた。
王国最高位の貴族であり軍を率いる統括総監が、守ろうとした相手から物理的に「邪魔」と押しのけられたのだ。彼のこれまでの武人としての誇りも、救済者としての矜持も形無しだった。
「それに……あの反撃は何だ」
オズワルドはため息をつき、青灰色の瞳を細めてエヴリンを見据えた。
「相手の矛盾を突き、手紙の存在を突きつけて退路を断つ。確かに筋は通っているが、そこまで冷徹に追い詰める必要があったのか? 相手はすでに狼狽していた。衛兵に命じて追い払うだけで十分だったはずだ」
「生温い対応をすれば、何度でもつけ上がって同じことを繰り返します」
エヴリンは冷然と言い放つ。
「足を踏まれたら、二度と踏む気になれない程度に強く踏み返す。それが私のやり方です。中途半端な情けをかければ、相手は『まだ交渉の余地がある』と勘違いして調子に乗るだけです」
「だからといって、あそこまで隙のない言葉で追い詰めれば、相手に余計な怨恨を残すことにもなりかねんぞ」
「逆恨みされたところで、事実と証拠の前には無力です」
一切の容赦もない、冷徹な現実主義。
オズワルドは眉をひそめ言葉を飲み込む。エヴリンの反撃には正当な理由がある。相手が先に言いがかりをつけてきたのも事実だ。
しかし、その反撃の鋭さには、どこか余計な一言まで叩き込んで相手を完膚なきまでに打ちのめそうとする、危ういまでの過剰さが微かに見え隠れしていた。
そこまで厳密に白黒をつけなくても、適当にあしらって追い払えば済む話ではないのか。
オズワルドの胸中には小さな違和感が残ったが、次の瞬間、オズワルドはふっと肩の力を抜き、深く息を吐き出した。
「……まあいい。怪我がなかったことだけは幸いだ」
その口調は静かで、先ほどの小言のような硬さは消えていた。
端正な横顔に浮かんでいたのは、プライドを傷つけられた男の不機嫌さではなく、ただ目の前の女に怪我ひとつなかったことに対する、飾り気のない安堵だった。
「え?」
エヴリンは思わず足を止め、オズワルドの顔を見上げた。
傲岸不遜で独善的な公爵。
こちらの都合も聞かず、勝手に救済を押し付けてくる厄介な男。
そう定義していたはずの男が公衆の面前で押し退けられ、散々文句を言った挙句に、真っ先に零したのが「怪我がなくてよかった」という安堵だったのだ。
(何なの、この人は……)
胸の奥に、奇妙な引っかかりが生まれた。
実家の父親も、継母も、妹も、そして元婚約者も。
誰一人としてエヴリン自身の身を案じたことなどなかった。彼らが気にするのは常に「家の体面」であり、「金」であり、「自分の都合」だけだった。
それなのにこの男は、自分の差し出した庇護を邪険に扱われた後でも、エヴリンの無事そのものを喜んでいる。
少なくとも、自分を都合よく利用するために匿っているわけではないことだけは、認めざるを得なかった。
「公爵閣下」
「何だ」
「……その、押し退けたことについては、謝罪いたします。少し手が滑りました」
エヴリンは視線をわずかに逸らし、スカートの裾を指先で摘みながら、ぼそりと呟いた。
型どおりの淑女の礼でもなく、論理的な抗弁でもない。
ただの、ぎこちない謝罪の言葉。
オズワルドは目を瞬かせ、次いでその唇の端をゆっくりと持ち上げる。
「手が滑ったか。ずいぶんと力強い滑り方だったがな」
「皮肉をおっしゃるなら、謝罪を撤回いたしますが」
「撤回するな。ありがたく受け取っておく」
オズワルドは低く笑い、踵を返して玄関へと歩き出した。
「中に入れ。風が出てきた。君の言う通り、あの男が二度とここへ近寄れないよう、門衛の巡回記録にも今のやり取りを正式に残させておく」
「……ええ。よろしくお願いいたします」
背を向けて歩いていく男の背中を見つめながら、エヴリンは小さく息を吐く。
相変わらず強引で、お節介な男だ。
だが――ほんの少しだけ、その背中に向ける警戒の針が緩んでいた。




