4 最初の衝突「善意なら許されると思うな」
公爵邸の二階、重厚なウォールナットの大扉で仕切られた執務室には、午後の陽光が斜めに差し込んでいた。
壁一面の本棚には革装丁の法規集や軍事記録が整然と並び、中央には黒檀の巨大な執務机が据えられている。床に敷かれた深い緑色の絨毯は足音を完全に吸い込み、室内にはオズワルドが羽ペンを走らせる乾いた摩擦音だけが響いていた。
その机の正面に置かれた肘掛け椅子に、エヴリンは背筋を伸ばして腰を下ろしていた。
裏木戸で捕縛され、馬に乗せられて連れ戻された直後だというのに、彼女の表情には疲労も狼狽もない。
乱れた前髪を指先で整え、氷のような眼差しで机の向こうの男をじっと見据えている。
オズワルドは最後の確認を終えると、ペンをスタンドに戻し、一息ついた。
「待たせたな、エヴリン」
「用件は何でしょうか、公爵閣下。私の外出の試みに対するお説教ですか? それとも、今度は部屋の鍵を外側から二重にかける通告でしょうか」
「人聞きが悪いことを言うな。そんなことをするはずがないだろう」
オズワルドは軽く息を吐き、机の端から一枚の上質な羊皮紙をエヴリンの前に滑らせる。
王都の紋章が上部に押印された推薦状の体裁をとった書類だった。
「先ほどの君の言い分について私なりに考えた」
オズワルドは両手を組み、青灰色の瞳をエヴリンに向けた。
「君は『誰にも頼らず、自分の力で生活基盤を整えたい』と言ったな。北部の別邸でただ静養を続けるのは、君の気概が許さないのだと。確かに何もせずに閉じこもっているだけでは、気詰まりに感じるという指摘には一理ある」
エヴリンは眉を微かに動かした。
あの独善的な男が、こちらの言葉に曲がりなりにも耳を傾けたように見えたからだ。だが、安易に信じ込むほど彼女の警戒心は薄くはなかった。
「……それで?」
「君が働くことを望むのなら、その機会を用意してやろうと考えた。当家と古くから交流のある王都救護財団だ。そこの記録整理部門に推薦枠として話を通しておいた」
オズワルドは自信に満ちた面持ちで書類を指差す。
「財団の事務局は警備の行き届いた中央区にある。仕事内容は過去の支援台帳の整理や目録の確認程度だ。実務の負担は軽く勤務日数も週に数日で構わない。もちろん正規の面談と手続きを経てからの採用となるが、当家の推薦がある以上、先方が断ることはまずない。これなら危険な通りへ就職活動に出向く必要もなく、安全な環境で自立の体裁を整えられる」
オズワルドの表情には、「これなら文句はないだろう」という確信が滲んでいた。
過酷な実家から放り出された誇り高い令嬢のために、自らの人脈を使って最も安全で、最も負担の少ない勤め先の候補を先回りして確保してやった。
彼にとっては相手の自尊心に配慮した誠実な「譲歩」だった。
エヴリンは無言で書類を引き寄せ、記載された条項にすっと目を走らせた。一行、二行と読み進めるうちに、彼女の冷え切った瞳の奥で小さな怒りの火が灯る。
パサリ、と乾いた音が室内に響く。
エヴリンが推薦状の写しを机の上に放り出した音だった。
「何か不満があるのか? 財団の事業内容に懸念があるなら別の慈善組織を紹介してもいいが」
「公爵閣下」
エヴリンの声は驚くほど静かだ。しかし、その底には刃物のような鋭利な冷気が宿っている。
「私はあなたに、『どこか楽で安全な勤め先を都合して私に紹介してください』とお願いしましたでしょうか」
「何?」
「この推薦枠のどこが自立ですか? 週に数日の負担の軽い作業、公爵家の後ろ盾を背景にした形ばかりの面談。先方が公爵家の顔色を窺って私に気を遣い、名ばかりの書類整理を与えて給与を払う姿が目に見えるようです」
エヴリンは机に両手を置き、オズワルドの目を真っ直ぐに射抜く。
「これは私の実力で勝ち取る仕事ではありません。公爵閣下の威光を笠に着て、安全な居場所をあてがってもらうだけの、体裁を取り繕っただけの施しです!」
「施しではない! 君が働きたいと言うから、安全を考慮した上で相応の働き口を探してやったのではないか!」
オズワルドもまた予想外の強い反発に声を荒らげる。
「なぜ素直に受け取れんのだ! 君の希望を汲み、危なげのない環境を用意してやったのだぞ。これのどこが不満だと言うのだ!」
「希望を汲んだですって?」
エヴリンは冷笑を浮かべ、男を見下ろした。
「あなたは私の希望を汲んだのではありません。ご自身の『弱者を保護してやりたい』という独善に都合のいい枠組みを、勝手に選んで押し付けてきただけです!」
「言葉を慎め、エヴリン! 私は君を危険から守ろうとしているのだ!」
「善意なら何をしても許されると思わないでください!」
エヴリンの鋭い声が静まり返った執務室を切り裂く。オズワルドが息を呑み、言葉を詰まらせる。
「あなたは私を救っている気でいるのでしょうが、やっていることは実家の家族と本質的には何も変わりません!」
「……何だと? 私と、あの浅薄な連中を一緒にする気か?」
オズワルドの青灰色の瞳に激しい困惑と苛立ちが揺らめいた。
名門公爵家の当主として、横領や虐待を働くような伯爵家と同列に扱われることなど、天地がひっくり返っても承服できるはずがなかった。
だが、エヴリンは怯みもしない。
「ええ、同じです! 彼らは利己心から私の意思を無視して都合のいい雑用を押し付け、屋敷の中に縛り付けた! そしてあなたは、善意から私の意思を無視して安全な立場を勝手に用意し、自分の手の届く範囲に囲い込もうとしている! 動機がどれほど高潔であろうと、本人の合意を得ず、相手の人生の段取りを一方的に決めているという点において、本質は何も変わらないと言っているのです!」
「私は君を不当に縛るつもりなど――」
「結果として私の選択の機会を奪っています! 私が求めているのは、他人の威光にぶら下がって得る形式的な自立ではありません! 自分の能力と知識に見合った正当な仕事を自分の足で探し、誰にも過剰な負い目を持たずに生きることです! 公爵様の顔を立てるためだけの椅子に座らされることなど、私にとっては侮辱です!」
息を整えながら、エヴリンは胸中の怒りを叩きつけた。
足を踏まれたら踏み返す。
相手がどれほど強大な権力者であろうと、善意を名目に自分の領域へ土足で踏み込まれたのなら徹底して撥ねつける。
「私の人生の道筋を、完成品のように勝手に設計しないでください。私を一人の人間として尊重する気がないのであれば、これ以上、救済者遊びに私を巻き込むのはやめていただきたいです」
張り詰めた沈黙が部屋を包み込む。
オズワルドは彫像のように固まったまま、眼前のエヴリンを見つめていた。
隙のない公爵。王国屈指の治安の統括者。
常に正しい秩序と判断を下してきたはずのオズワルドにとって、自らの差し出した善意を「侮辱」と断じられ、「実家の悪党と同じ」と言い切られた経験など、これまでの人生で一度としてなかった。
彼の唇が微かに開き、反論の言葉を探そうとする。
だが、エヴリンの眼差しに宿る一片の迷いもない強固な拒絶を前にして、言葉が上手く形を結ばない。
「……君は」
オズワルドが低く、掠れた声で呟く。
「君は他人が差し伸べた手を、そうやってすべて悪意のように跳ね除けねば気が済まんのか」
「悪意だとは思っていません。迷惑だと言っているのです」
エヴリンは冷ややかに言い放つと、机の上の書類を指先で軽く押し戻した。
「この話はお断りいたします。私は私のやり方で正当な職を探します」
エヴリンは背筋をぴんと伸ばしたまま、踵を返して執務室の大扉へと向かう。
オズワルドは今度は呼び止めることもできず、ただ去っていく彼女の後ろ姿を、やり場のない苛立ちと困惑を抱えたまま見送るしかなかった。
◇
同じ日の夕刻。
クロウフォード伯爵邸の応接間には、夕暮れの薄暗がりとともに重苦しい空気が漂っていた。
「伯爵。ですから、少しばかり融通していただけないかとお話ししているのです」
長椅子に腰掛けたセドリック・ランベールは、必死に貴族らしい落ち着きを繕おうとしていた。しかし、その指先は膝の上で小刻みに震え、目の下には隠しきれない隈が浮かんでいた。
対面のソファーに座るエドガー伯爵は、苦々しい顔で紅茶のカップを揺らし、視線を合わせようとしない。
その隣には不快そうに唇を引き結んだドロテア夫人と、落ち着かない様子で指を弄ぶコレットが座っている。
「セドリック殿。融通と言われても困る」
エドガーが不機嫌そうに吐き捨てるように言った。
「四百二十万ゼルといえば、小さな所領の一年分の余剰金に匹敵する額だ。それを他家の息子のために、はいそうですかと出せるはずがないだろう」
「他家だなんて、水臭いことをおっしゃらないでください!」
セドリックは身を乗り出し、声を一段高くする。
「元はと言えば、コレットのために用意した装飾品やドレスの代金ですよ! エヴリンの口座から一時的に立て替えた形になってはいますが、彼女の身を飾るために使われた金なのです。クロウフォード家としても、一部を負担するのが筋というものではありませんか」
「まあ、セドリック様!」
コレットが思わず声を上げた。愛らしい顔立ちに明らかな反発の色が浮かぶ。
「なんて見苦しいことをおっしゃるの。あの時あなたは、『愛するコレットのためなら、この程度の支度は当然の務めだ』と胸を張っておられたではありませんか。ご自分の甲斐性でお贈りくださったはずのものを、後から我が家に請求なさるなんて、あまりにも格好がつきませんわ」
「格好などと言っている場合か!」
セドリックは思わず声を荒らげ、眉間を押さえた。
「昨夜の騒動のせいで、今朝父上からどれほど厳しく問い詰められたと思っているんだ! 『婚約者の預託口座に手を付けたなどという話が社交界に広まれば、ランベール家の名折れだ。正式な返還請求を起こされる前に、エヴリン本人と話をつけ、返済の目処を立てろ』と酷く叱責されたのだぞ!」
セドリックは苛立たしげに貧乏揺すりを始める。
「父上はまだ、事態を内々に収められるなら多少の猶予は与えるとおっしゃっている。だが、全額を私個人の小遣いから即座に穴埋めすることなど不可能だ。伯爵、せめて半額だけでもクロウフォード家から用立てていただければ、私の方でも親戚に頭を下げて工面の算段がつく」
「断る」
エドガーは首を横に振った。
「我が家とて、今朝から商会との支払期限の確認や、雑多な帳簿の整理で手が回らんのだ。あの子がいなくなって初めて分かったが、今月中に処理せねばならん細かな支払いがいくつも重なっている。余計な出費を背負い込む余裕などない」
「そんな……! では、私一人に泥をかぶれと言うのですか!?」
「元々、エヴリンの委任状を無断で使ったのはセドリック殿、あなたでしょう。我が家に責任を転嫁されては困る」
ドロテア夫人も冷ややかに言い放ち、扇で口元を隠す。
「それに、昨夜エヴリンが公証院を通じて正式に返還請求すると宣言していた件だって、どうせあの子が一人で息巻いているだけですわ。どこか適当な安宿にでも隠れているのでしょうから、見つけ出して父親としての権限で手続きを思いとどまらせれば済む話ではありませんの?」
「それが、どこにいるのか分からんから困っているのだろう!」
エドガーが机を叩いた。
「昨夜、王宮を出たあとの足取りが途絶えているのだ。心当たりの宿や商会に使用人を走らせたが、誰もあの子を見ていない。あんな生意気な娘、野垂れ死のうと知ったことではないが、本当に公証院へ駆け込まれでもしたら厄介だ」
応接間には、気まずい苛立ちと責任のなすりつけ合いが充満していた。
互いに完全に決裂したわけではない。
まだ「エヴリンを見つけ出して手続きをやめさせれば何とかなる」「親戚筋に泣きつけば工面できるかもしれない」という甘い見通しにしがみついている。
しかし、昨夜の夜会でエヴリンを一方的に断罪していた時の結束は、すでにひび割れ、互いへの不信感がじわりと芽生え始めていた。
「とにかく、セドリック殿。我が家から金は出せん。まずはご自身でランベール子爵とよく話し合われることだな」
「……くっ」
エドガーに冷たく突き放され、セドリックは苦虫を噛み潰したような顔で立ち上がる。
コレットを見るその瞳には、かつての熱烈な愛慕の光はなく、どこか鬱陶しそうな苛立ちが混ざっていた。コレットもまた、そんなセドリックの態度に警戒と不快感を募らせ視線を逸らした。
◇
夜。ヴァレンシュタイン公爵邸。二階の執務室の窓からは初夏の夜空に浮かぶ三日月が見えている。
オズワルドは机の上に置かれたままのエヴリンに突き返された推薦状を、じっと見つめていた。
室内には壁のランプの油が微かに爆ぜる音だけが響く。
控えめなノックがあり、老執事のハインツがトレイを持って静かに入ってきた。
「閣下。書類の整理の手を休められ、少しお茶でもいかがですか」
「ああ……」
オズワルドは短く応じたが、机の上の書類から目を離さなかった。
「エヴリンはどうしている」
「夕餉を普段通り召し上がられた後、客室にて手帳に何事かを熱心に書き留めておられます。侍女の話では、王都の物価や住居の賃料について、手元のメモを整理されているようでした」
「あんな玩具のような手帳で、どうにかなると思っているのか」
オズワルドは苦々しく呟き、椅子の背もたれに体を預ける。
「なぜだ、ハインツ。なぜあの娘は私の提案をあそこまで頑なに拒絶するのだ」
オズワルドの青灰色の瞳には怒りよりも深い困惑が宿っていた。
「私はあの子を侮辱した覚えはない。安全を確保し、本人が望む『働く』という道を用意してやったのだぞ。多少の便宜を図ったとはいえ、それは庇護者として当然の配慮ではないか。それを『実家の悪党と同じ』だと? 理解できん」
ハインツは湯気の立つカップを机の端に置き、静かに佇んだ。主人の苛立ちと困惑を否定も肯定もせず、穏やかな声をかける。
「閣下の善意は誠実なものでございます。ですが、良かれと思って整えられた道であっても、相手が望む形と一致するとは限らないこともございます」
「だが、外に出せば危険なのは事実だ。現にクロウフォード伯爵やランベール子爵家が、彼女の行方を捜し回っているという報告が入っている。放り出せば碌なことにならん」
「左様でございますね」
「ならば、私のやり方の何が間違っているというのだ。安全を守ること自体は、絶対に正しいはずだ」
オズワルドは自らに言い聞かせるように呟く。
彼はまだ自分の救済の根底にある問題に気づいていない。
これまで疑うことすらなかった自らの善意が、真っ向から否定されたという事実に、酷く居心地の悪い衝撃を受けているだけだった。
「閣下。今夜はこれ以上考え込まず、少し時間を置かれてはいかがでしょうか。エヴリン様も今は頑なになっておられるご様子。焦って答えを出そうとなさる必要もございますまい」
「……そうだな」
オズワルドはため息をつき、冷めかけた茶に口をつけた。
納得がいったわけではない。
ただ、あの強情な娘をどう扱えばいいのか、これまでの軍務や政治の経験では測れない壁にぶつかっていることだけは、認めざるを得なかった。
◇
一方、客室の机に向かっていたエヴリンは、手帳に鋭い筆跡でペンを走らせていた。
「感情に任せて怒鳴り散らしたのは、交渉としては下策だったわね……」
エヴリンはインク壺にペン先を浸しながら小さく息を吐く。
「でも、あの公爵が良かれと思って私の人生を勝手に包装しようとしているのは間違いのない事実。あのまま流されれば、私は一生あの男の『哀れな保護対象』として扱われることになる。明日は、あの男がぐうの音も出ないような、論理的で対等な条件交渉の草案を突きつけてやるわ」
怒りは収まっていなかった。しかし、その怒りはすでに状況を自分の手で切り拓くための冷静な計算へと昇華されていた。
善意を信じて疑わない男と、他人の保護を拒み自力で立とうとする女。
互いの正しさが衝突した夜は、まだ静かに深まっていくばかりだった。




