3 善意の包囲網と、不屈の脱出計画
大理石のエントランスホールに張り詰めた静寂が落ちていた。
交差された槍の柄を挟んで、エヴリンとオズワルドは至近距離で見つめ合っている。
朝の光がステンドグラスを通して高い天井から降り注ぎ、二人の足元に幾何学模様の影を落とす。
「通してください、公爵閣下」
「通さん。昨日も言ったはずだ。君の安全が最優先だと」
オズワルドの声はあくまで低く、穏やかだった。
声を荒らげることも侮蔑の気配を滲ませることもない。だが、その頑なな響きは城壁の石垣よりも強固だった。
「私の安全を判断するのは私自身です。私は一人の分別ある成人であり、他人の指示に従わなければ歩道も歩けないような赤子ではありません」
「分別があることと、現実の危機を回避できることは別だ。君がどれほど弁が立ち帳簿に長けていようと、腕力と暴力の前には無力だ。クロウフォード伯爵やランベール子爵家が、昨夜の恥辱をそのまま飲み込むと思うか? 報復の手段としてならず者を雇って君を拉致し、脅迫して請求を取り下げさせることくらい連中の浅薄な頭でも思いつく」
「その危険を想定しているからこそ、白昼堂々と人通りの多い大通りを選び、王都の公的機関へ直接出頭するのです。登記局や公証院の敷地内にならず者が踏み込めば、それこそ重大な犯罪行為として即座に憲兵が動きます」
「途中の路地で襲われたらどうする。君の足で逃げ切れるのか? その細い腕で暴漢を取り押さえられるのか?」
オズワルドはエヴリンの華奢な手首を一瞥し、深く息を吐く。
「無理だな。君の計画は前提が甘い。したがって外出は許可できない」
「『許可』? なぜあなたに私の行動を許可する権利があるのですか? 雇用契約も結んでおらず、親族でもなく後見人の指定も受けていない赤の他人に、私の移動を制限する法的根拠はあるのですか?」
エヴリンが眉を吊り上げて問いただすと、オズワルドは微塵も動じずに答える。
「ない」
「……は?」
「私に君を公的に拘束する令状などない。法的な権利がないことは事実だ」
オズワルドは事も無げに認めた。
開き直る風でもなく、淡々と事実を述べる口調だ。
「だが、権利がないからといって、今この瞬間に君を危険な場所へ送り出す気もない。状況が落ち着き、安全が確認されるまでの例外的な保護措置だ」
「権利がないと自覚した上で実力行使に出るのは、ただの独善です!」
「独善と言われようと構わん。君を無事に生かしておくことのほうが、形式的な手続きより優先される」
オズワルドの青灰色の瞳には一点の曇りもない。
彼は法や秩序を軽視しているわけではない。むしろ治安を統括する立場として規律を重んじる男だ。
だからこそ「自分に正式な拘束権はない」と平然と認めつつ、それでも「目の前で弱者が危険に飛び込もうとしている以上、今だけは力尽くで止めるのが正しい」と本気で信じ込んでいるのだ。
この男の善意にはブレーキがついていない。
それこそが、エヴリンにとって何より厄介だった。
「朝食の席へ戻れ。君の今後の処遇については、私がすでに手を打ってある」
「処遇……?」
「北部の山間に当家が所有する静かな別邸がある。気候も温暖で庭園も広い。外部の喧騒とは完全に隔絶された場所だ。すでに管理人には連絡を入れてある。そこで半年ほど、読書でもしながら心身を休めるといい。生活に必要な費用はすべて当家が負担する。君は何も心配する必要はない」
オズワルドは満足そうに告げた。
不条理な罵倒と冷遇に晒されてきた令嬢に、外界の悪意が一切届かない平穏な居場所を用意してやる。彼にとっては、これ以上なく誠実な「救済策」なのだろう。
しかし、エヴリンの背筋を冷たい悪寒が走った。
(北部の山奥で読書をしながら半年間? そんな世捨て人のような軟禁生活を送れば、私の生活基盤は完全に失われるわ! セドリックへの返還請求の時効も迫るし、自分名義で生活を立て直すための手続きもできない。誰の役にも立たず、公爵家の施しを食いつぶすだけの飼い殺しじゃないの!)
エヴリンにとって、自分の頭で考え自分の手で稼ぎ、自分の足で立つことこそが尊厳だった。
贅沢な別邸に閉じ込められて安全を享受することなど、実家での冷遇と本質的には何も変わらない。檻の材質が錆びた鉄から磨かれた金に変わっただけだ。
「お断りします」
「なぜだ」
オズワルドは心底から不思議そうに小首を傾げる。
「君はもう誰かに怯えて、帳簿の隙間を縫うように生きる必要はないのだぞ。面倒な実務も理不尽な罵倒も、すべて忘れられる。これからはただ守られて平穏に暮らせばいい」
「私は泥をかぶるのが嫌で怒っているわけではありません。正当な対価や敬意もなく、都合のいい雑用係として扱われるのが嫌だっただけです。そして私は、誰かの玩具や飼い鳥になるために生きているのではありません。他人の施しで漫然と生きるくらいなら、野垂れ死んだほうがましです」
「言葉が過ぎるぞ、エヴリン。君は極端すぎる」
「極端なのはあなたです!」
二人の間に再びピリピリとした火花が散る。
その時、ホールの奥から軍服を着た副官らしき若い騎士が、革の鞄を抱えて小走りに駆け寄ってきた。
「閣下! 定例の治安統括会議の刻限です。王宮で宰相閣下がお待ちです!」
「……もうそんな時間か」
オズワルドは懐中時計を確認し、わずかに眉を寄せる。そして、エヴリンに向き直ると威厳に満ちた声で命じた。
「私は夕方まで留守にする。その間に頭を冷やし、私の提案を受け入れる準備をしておけ。ハインツ」
「は、ここに」
背後に控えていた老執事が一歩前に出る。
「エヴリン嬢が敷地外に出ぬよう、丁重に見守れ。決して粗相のないようにな」
「かしこまりました、閣下」
「では、失礼する」
オズワルドはエヴリンの返事を待つこともなく、翻した黒外套を風になびかせながら、大扉から堂々と出て行った。
交差されていた槍が引かれ、重厚な扉が重々しい音を立てて閉ざされる。
ホールに残されたエヴリンは、閉ざされた扉を冷徹な目で凝視する。
「丁重に見守れ、ね。要するに見張りを怠るなということでしょう」
「恐れながらエヴリン様、閣下は純粋にお体の安全を案じておられるのです……」
ハインツが恭しく頭を下げる。
エヴリンはため息をつき、手帳を胸元に仕舞った。
「善意であることと、それが相手にとって迷惑であることは両立するのです。とりあえず、部屋に戻ります」
「承知いたしました。昼餉の支度が整いましたらお呼びいたします」
エヴリンは踵を返し、階段を上り始める。
だが、その瞳には諦めの色など微塵もなかった。彼女の頭の中ではすでに新たな脱出計画の計算が始まっていた。
◇
王都の一角にある高級サロンでは、上流貴族の婦人や令嬢たちが集まる茶会が開かれていた。
銀の三段スタンドに盛られた焼き菓子、芳醇な紅茶の香り、そして軽やかな笑い声。一見すると優雅な社交の場だがその実態は噂話と情報収集が渦巻く戦場である。
そのサロンの一隅に、クロウフォード伯爵夫人のドロテアと次女のコレットの姿があった。
コレットは今日も華やかなフリルが幾重にも重なった若草色のドレスを纏い、胸元には昨夜と同じ真珠の首飾りを着けている。
しかし、その表情には微かな焦りが張り付いていた。
「――それでね、奥様方。本当に恐ろしいことですのよ」
ドロテア夫人が扇を広げ、声を潜めながら隣の伯爵夫人たちに語りかける。
「長女のエヴリンはずっと我が家で大切に育ててまいりましたのに、妹のコレットがセドリック様に見初められた途端、嫉妬に狂ってしまいまして。あの子、日頃から陰気で何を考えているか分からない娘でしたけれど、まさか公の夜会であんな見え透いた嘘を並べ立てて、妹と婚約者を貶めようとするなんて」
「まあ……実の妹を?」
「ええ。あまりの浅ましさに、夫のエドガーもついに堪忍袋の緒が切れましてね。昨夜のうちに勘当を言い渡しましたの。今頃はどこかの安宿で己の愚かさを悔いているはずですわ」
ドロテア夫人は勝ち誇ったように頷き、コレットに視線を送る。コレットもまた悲劇のヒロインを演じるように眉尻を下げ、か細い声を出した。
「私、お姉様が恐ろしくて……セドリック様が私を選んでくださったのは純粋な愛ゆえですのに、お姉様はそれを『妹が奪った』とお思いになって。昨夜も、セドリック様がくださったこの首飾りまで、自分の金で買ったのだと言いがかりをつけられてしまいましたわ」
普段であれば、サロンの婦人たちは「まあ可哀想に」「なんて酷い姉かしら」と同調の声を上げるところだ。しかし今日のサロンの反応はどこか違っていた。
ドロテア夫人の向かいに座っていた年配の侯爵夫人が、紅茶のカップをソーサーにコトリと置き、冷ややかな視線をコレットの胸元に向ける。
「……あら、コレットさん。その真珠の首飾り、リュミエール宝飾店の新作ではありませんの?」
「え、ええ! セドリック様が私のために特注してくださったのです!」
「そうですの。ですが、昨夜の夜会におりました私の甥が申しておりましたわ。エヴリンさんはその首飾りの領収書の控と、預託口座からの引き落とし明細をその場でお見せになったとか。しかも、専門家による筆跡鑑定書まで添えて」
「そ、それは……! あの子が勝手に書類を捏造しただけでして……!」
ドロテア夫人が慌てて取り繕おうとしたが、別の席の伯爵令嬢がくすくすと忍び笑いを漏らす。
「捏造ですの? でも王都登記局の出頭記録までありましたのでしょう。登記官の公印が押された公的記録を偽造することなど、伯爵令嬢の一存でできるはずがありませんわ。もしあれが偽造だというなら、なぜランベール子爵令息はその場で異議を申し立て告発なさらないのかしら?」
「それは、セドリック様は寛大なお方ですから。その場の騒ぎを収めるために……」
「寛大? 今朝、王都の金融商が集まる一帯では、ランベール子爵家が息子の放蕩と借財の返済について、親戚筋から厳しく追及されているという噂で持ちきりですわよ」
「な……っ」
コレットの顔から血の気が引いた。
昨夜の夜会には王都の有力貴族の多くが出席していた。いくら身内だけで「姉の言いがかりだ」と主張したところで、客観的な証拠を突きつけられて狼狽していたセドリックの無様な姿は、すでに多くの者の目に焼き付いていたのだ。
「それにしてもドロテア様。エヴリンさんを勘当なさったというのは本当ですの?」
侯爵夫人が扇を静かに畳み、怜悧な眼差しでドロテア夫人を見据える。
「うちと取引のある穀物商の番頭が申しておりましたわ。クロウフォード家との支払期限や請求書の確認で、窓口として一番几帳面に書類を整理していたのはエヴリンさんだったと。昨夜の整然とした証拠の揃え方を見るに、あの方が事実無根の言いがかりをでっち上げるとは到底思えませんけれど……」
「そ、それは商人が勝手なことを申しているだけでして!」
「そうですか。まあ、身内のことは各家のお考えでしょうけれど……公の場で騒ぎ立てた以上、社交界の目はそう簡単には誤魔化せませんわね」
周囲の貴族女性たちの視線が、観察と冷笑へと変わっていく。
自分たちを正当化し、エヴリンを悪者に仕立て上げるはずだった茶会は、かえってクロウフォード伯爵家の杜撰さと、セドリックの浅はかさを際立たせる結果に終わってしまった。
コレットはいたたまれなさに耐えかねて俯き、膝の上で握りしめたハンカチを爪が食い込むほどに絞る。
(どうして……昨夜の夜会にいた人たちが、みんなお姉様の味方みたいな顔をするの!?)
自分たちが見下していた姉が客観的な事実と証拠を積み上げただけで、これほど容易に自分たちの嘘を無効化してしまう。
コレットは初めて、足元が崩れ去るような居心地の悪さを感じていた。
◇
午後二時。ヴァレンシュタイン公爵邸の最上階、東側客室。
エヴリンは客室の机に向かい、一枚の羊皮紙に綿密な見取り図を描き上げていた。
この半日の間に、彼女は侍女がお茶を運んでくるタイミング、廊下を行き交う従僕たちの足音の間隔、そして中庭の歩哨の交代時間を割り出していたのだ。
「オズワルド閣下は夕方まで戻らない。ハインツは現在、一階の執務室で屋敷の月次点検の書類を確認中。廊下の見張りは二名で、彼らは二刻ごとに五分間の申し送りを行う。その瞬間だけ東階段の踊り場が死角になる」
エヴリンは手帳を懐に収め、型遅れの藍色のドレスの裾を邪魔にならないよう腰紐でたくし上げる。
脱出の経路は正門ではない。厨房の裏手にある、食材や薪を運び込む勝手口だ。
正門には私設近衛兵が陣取っているが、勝手口の警備は出入りする納品業者の確認が中心であり、人の出入りが多い時間帯なら紛れ込む隙がある。
エヴリンは息を潜めて客室の扉を開けた。
廊下に人の気配はない。ちょうど見張りの衛兵たちが申し送りのために角を曲がった瞬間だった。
音を立てずに絨毯を踏みしめ、使用人用の細い裏階段へと滑り込む。
階段の手すりを伝って音もなく階下へと降りていく身のこなしは、実家で継母や妹の目を盗んで深夜まで書類仕事をこなしていた日々で培われたものだった。
一階の配膳室を通り抜け、乾物や調味料の匂いが漂う薄暗い通路をくぐり抜けて、厨房の勝手口へとたどり着く。
通用口の外には野菜の木箱を積んだ荷馬車が止まっており、料理長が農夫と何やら受領証の確認をしていた。
二人が書類に目を落とした一瞬の隙を突き、エヴリンは植え込みの影へと身を滑り込ませる。
低木の間を縫うように進み、屋敷の西側を囲むレンガ塀に沿って進む。塀の角に庭師たちが刈り取った枝葉を運び出すための小さな木戸があった。
普段は施錠されているが、今は作業中らしく閂が外されてわずかに隙間が開いている。
(よし……! ここを抜ければ裏通りの住宅街に出られるわ!)
エヴリンは胸の中で小さく快哉を叫び、木戸の隙間から外へと身を滑り込ませた。公爵邸の敷地を一歩出た瞬間、初夏の乾いた風が吹き抜け街の喧騒が耳に届く。
エヴリンは乱れた髪を整え、何食わぬ顔で石畳の路地へと歩み出た。
「まずは四番街の乗り合い馬車に乗って、王都登記局へ……」
「どこへ行く気だ、エヴリン」
「――っ!?」
頭上から降ってきた聞き覚えのある低く澄んだ声に、エヴリンの心臓が跳ね上がる。
路地の出口。
街路樹の木陰に、一頭の黒馬を連れた男が立っていた。
漆黒の軍礼服に身を包み、長身躯をすっきりと伸ばした男――オズワルド・ヴァレンシュタイン公爵。
彼は馬の手綱を片手で持ったまま、少しも乱れていない涼しい顔で、木戸から出てきたばかりのエヴリンを見下ろしていた。
「な……な、なぜ、あなたがここに……? 王宮で会議中では……!?」
エヴリンは思わず後退りした。計算が狂った。
予定どおりなら問題なく動けるはずだったのに。夕方まで戻らないと本人が言っていたのではないか。
「会議は昼過ぎに終わった。予定より早く議題が片付いたのでな」
オズワルドは手綱を引いて一歩歩み寄る。
その足取りには、逃亡者を追い詰めた狩人のような険しさはなく、むしろ「やはりな」という深い納得の色が漂っていた。
「そして、君が屋敷でおとなしく待っているような殊勝な性格ではないことも、容易に予測できた。だから正門ではなく、この裏の木戸に先回りしていたのだ」
「……っ!」
エヴリンは屈辱に唇を噛む。自分の行動パターンを読まれていたのだ。
不遇を耐え忍ぶだけの令嬢ならいざ知らず、昨夜あれだけの証拠を揃えて婚約破棄を叩き返した女が、おとなしく部屋に籠もっているはずがないと、この男は予測していたのだ。
「なぜ逃げる」
オズワルドが静かに問う。その青灰色の瞳には、怒りではなくどこか痛ましげな光が宿っている。
「なぜ、そこまでして私の庇護を拒むのだ。あの部屋に不満があったのか。軽食が口に合わなかったのか。それとも、私のやり方が気に食わんのか?」
「全部です!」
エヴリンは開き直って言い放った。
路地の真ん中で、堂々と公爵を指差す。
「第一に逃走ではありません。正当な外出です! 第二に部屋や食事の問題ではありません! 第三にあなたのやり方のすべてが気に食いません!」
「理由を言え」
「私の意思を無視しているからです! 私は自分の力で生活基盤を整えたいと申しました。それなのにあなたは、北部の別邸に半年間隔離するなどという身勝手な計画を押し付け、私の移動の自由を奪った! これは保護ではなく体裁のいい軟禁です!」
「君を危険から遠ざけるためだと言っているだろう。君が一人で街を歩けば、どのような目に遭うか――」
「遭いません! 私は馬鹿ではありませんから、危険な路地は避けますし、不審者が近づけば大声を上げて衛兵を呼びます! 万が一に備えて、自衛のための護身用短剣も隠し持っています!」
エヴリンはスカートの裏地に仕込んだ、小さな鉄製のペーパーナイフの柄をちらりと見せた。書類を裁断するための事務用品だが、喉元に突きつければ多少の威嚇にはなる代物だ。
オズワルドはそれを見て、深々と、本当に深々とため息をつく。
「……そんな玩具のような刃物で、屈強な暴漢に対抗できると思っているのか。一人で全部背負おうとするな。他人の手を借りることは恥でも敗北でもないのだぞ」
「他人の手を借りること自体を否定してなどいません! 私が拒否しているのは、借りるとも言っていないのに頭上から降ってくる一方的な押し付けです!」
「君が頑なに意地を張り、無理に危険を背負おうとするからだ。無駄なやせ我慢をして、自分を危険に晒す必要がどこにある」
オズワルドは呆れたように首を振る。彼から見れば、エヴリンの行動は単なる意固地な痩せ我慢にしか見えていないのだ。
エヴリンはカッと頭に血が上るのを感じ、一歩前へ踏み出して言い返した。
「頼まれもしない救済を、一人で全部背負おうとしているあなたが言うのですか!?」
「何……?」
「私に『背負うな』とお説教なさる前に、ご自身の胸に手を当ててご覧なさい! 私がいつあなたに『助けてください』と懇願しましたか? 『守ってください』と頼みましたか? 頼まれてもいないのに勝手に馬車へ押し込み、勝手に別邸を手配し、勝手に人生を決めようとしている。 他人の事情を背負い込み、一人で善意に酔いしれているのは、公爵閣下! あなたの方ではありませんか!」
エヴリンの鋭利な舌鋒がオズワルドの正面に突き刺さる。オズワルドは目を見張り、眉を寄せて押し黙った。
だが、オズワルドもまた引かなかった。彼の中にあるのは、弱者を守るべきだという強固な義務感と自負だ。
自分がお節介を焼いているなどという自覚は微塵もない。
「私には守る力がある。力を持つ者が理不尽に追われた者を救うのは当然の責務だ。一人で戦おうとする君を放っておくことなど、私にはできん」
「ほら、ご覧なさい!」
エヴリンは呆れ果てて天を仰いだ。
「結局、最後は『私が守る』という独善に着地するではありませんか。私の言葉など最初から一言も聞いていらっしゃらない!」
「聞いている。聞いた上で危険だから連れ戻すと言っているのだ」
「それを独裁と呼ぶのです!」
エヴリンが身を翻して駆け出そうとした瞬間、オズワルドの腕が素早く伸び、彼女の腰を軽々と抱え上げた。
「きゃっ……!? ちょっと、離しなさい!」
「暴れるな。馬に乗せる」
「嫌です! 馬など乗りません!」
「歩いて屋敷に戻るより早い」
「そういう問題ではありません!!」
白昼の路地に、再びエヴリンの怒りに満ちた抗議の声が木霊する。
オズワルドは抵抗するエヴリンを器用に片腕で抱え込み、黒馬の鞍の前へと乗せると、自らも背後に飛び乗った。
「ハインツ! 木戸を閉めろ!」
屋敷の木戸から顔を出した執事に向かって短く命じると、オズワルドは手綱を引いた。黒馬が蹄の音高く石畳を蹴り上げ、公爵邸の正門へと向かって駆け出す。
風を切り裂きながら、エヴリンは背後から回された男の強固な腕を睨みつけ、ありったけの恨みを込めて呟いた。
「絶対に、絶対に後悔させてやりますからね、この独善公爵!」
「楽しみにしていよう、強情な令嬢」
オズワルドの口元に微かな笑みが浮かんでいたのを、エヴリンはまだ知る由もなかった。




