13 救済の終わりと、対等なふたりの契約
三番街の石造りアパートメントに初夏の爽やかな風が吹き抜けるようになってから、ひと月が過ぎていた。
二階の角部屋。南向きの窓辺に置かれた濃い色の木机の上には、丁寧に分類された伝票の束と、几帳面な筆跡で整えられた台帳が並んでいる。
「ベルント織物商会から追加で預かった先月分の仕入伝票、照合完了。端数の記載漏れ二件を付記して……これでよし」
エヴリンは羽ペンを置き、手元の書類を揃えた。
オズワルドが紹介してくれたベルント商会の案件を期日通り丁寧に納品したところ、先方の支配人から追加の伝票整理を任されるようになり、さらには知人の問屋からも定型契約書の書式確認が数件持ち込まれるようになっていた。
急激に大繁盛というわけではないが、家賃と食費をきちんと賄い、手元に少しずつの蓄えを残せる程度には実務家としての生活が安定し始めていた。
部屋の扉の外側に取り付けた小さな木製の看板――『事務請負・文書照合 エヴリン』。
伯爵家の名代でもなく名ばかりの閑職でもない。自分の知識と労力を提供し、相応の対価を得て自らの足で立つ。
かつて実家の泥沼で、生き延びるための武装として必死に磨いてきた実務の技術が、今では誰に脅かされることもない穏やかな日常を支える確かな土台となっていた。
午後の静かな室内に、規則正しい、しかしどこか遠慮がちなノックの音が響く。エヴリンは壁掛け時計の針に視線をやり、小さく息を漏らして口元を綻ばせた。
「きっちり十日ぶりね」
彼女は椅子から立ち上がり、足取り軽く扉へと向かう。鍵を開け扉を引くと、そこには予想通りの長身が立っていた。
濃紺の上質な上着を羽織り、彫刻のように整った顔立ち。
隠しきれない気まずさと微かな緊張を滲ませた男――オズワルド・ヴァレンシュタイン公爵だった。その手には一階のパン屋の紙袋がぶら下がっている。
「やあ、エヴリン。息災そうだな」
「いらっしゃいませ、公爵閣下。今日は扉を閉めようとしませんので、足を挟む必要はありませんよ」
「……以前のことをいつまでも蒸し返すな」
オズワルドは苦笑し、紙袋を軽く持ち上げてみせた。
「一階のパン屋の前を通ったら、焼きたての林檎パイが並んでいた。差し入れだ。甘い物くらい、仕事の合間に食べるだろう」
「ありがとうございます。ちょうど書類の区切りがついたところでした。お茶を淹れますので、どうぞ」
エヴリンが招き入れると、オズワルドは慣れた様子で狭い室内へと足を踏み入れた。
最初の頃こそ、天井の低さや部屋の狭さに居心地悪そうにしていた大貴族だったが、今では窓辺の小さな丸テーブルの前の丸椅子に、器用に長い脚を折りたたんで腰掛けている。
鉄瓶で湯を沸かし、素朴な陶器のポットに茶葉を入れる。部屋に広がる柔らかな湯気と林檎パイの甘いシナモンの香り。
エヴリンが厚手のカップを差し出すと、オズワルドは両手で受け取り、ふうと息を吹きかけて一口啜った。
「……相変わらず適温だな。無駄のない手際だ」
「お褒めにあずかり光栄です。それで、本日の『口実』は何でしょうか」
エヴリンは向かいの席に腰を下ろし、悪戯っぽく小首を傾げる。
「先々週は『近くの馬具屋のついで』、先週は『ベルント商会の支配人からの伝言』でしたね。今日は林檎パイのついでですか?」
オズワルドは一瞬カップを持つ手を止め、喉を鳴らした。
耳の端が微かに赤らむのを隠すように視線を窓の外へ逸らしたが、やがて観念したように息を吐き出し、カップを机の上に置いた。
「……口実ではない。今日は正式な用件があって来た」
「お仕事の紹介でしょうか。現在抱えている案件が二件ございますので、納期次第では受託を見送る可能性もありますが」
「仕事の話ではない」
オズワルドの声の調子がすっと変わった。いつもの気まずそうな軽口のトーンではない。低く、深く、そして真摯な重みを帯びている。
エヴリンは背筋をわずかに正し、青灰色の瞳をじっと見つめ返した。
オズワルドは姿勢を正し、机越しにエヴリンを見据える。
その表情にはかつてのような傲慢な庇護の気配も、高位貴族としての威圧感も微塵もなかった。
「エヴリン。最初、私は君を『過酷な境遇に喘ぐ、救うべき弱者』だと思い込んでいた。危険から囲い込み、君の生活の段取りを私の都合で完成させてやることが、最善の道だと信じて疑わなかった」
「ええ、存じております」
「だが、それは違った。君は最初から自分の足で立ち、自分の力で生きていける強い人間だった。このひと月、君が自分の腕一つで信用を築き、生活を整えていく姿を見て、私はそれを痛感した」
オズワルドは深呼吸を一つ挟み、真っ直ぐに彼女の目を射抜く。
「だから、これは救済ではない。私は君を哀れんでいるわけでも、守ってやらねばならんと義務感を抱いているわけでもない。一人の男として、君という人間に心底惹かれている」
オズワルドの呼吸がわずかに止まり、次いで、彼らしい力強い声が部屋に響いた。
「私の妻になれ」
静寂が一瞬だけ部屋を包み込む。
エヴリンは瞬きを一つし、至って平然とした顔で即答した。
「嫌です」
オズワルドが固まった。彫像のように目を見開き、言葉を失ったままエヴリンを見つめている。
エヴリンはカップにそっと手を添え、涼しい顔で付け加えた。
「命令形なので嫌です」
「……」
オズワルドの額にピシリと青筋が立ちかけたが、彼は必死に息を吸い込み、握りしめた拳を震わせながらぎこちなく言い直す。
「私の妻になってくれ」
その不器用すぎる修正にエヴリンの唇の端が微かに揺れた。だが、彼女はすぐに表情を引き締め、静かにオズワルドを見据える。
「オズワルド様。確認させていただきますが、私は結婚したからといって、この仕事を辞める気はありません」
「分かっている」
「この部屋も仕事場として使い続けますし、誰の妻になろうと、自分の手で稼ぎ、自分の生活を自分で支える実感を捨てるつもりはありません。私の生活の段取りを、あなたが勝手に決めることも認めません」
「努力する。君の領域に土足で踏み込まないと約束しよう」
「周囲から『身分違いだ』『公爵に拾われた女だ』と陰口を叩かれても、私は自分の足で立ち、自分の言葉で撥ね返します。あなたが先回りして相手を押さえ込むこともお断りします」
「……君が望まない限り手は出さん。君の隣に立つだけで我慢する」
オズワルドは苦笑混じりに、しかし一切の迷いなく頷く。
かつてのように一方的な枠組みを押し付ける気配はない。エヴリンという人間の意志と誇りを、そのまま丸ごと受け止める覚悟が、その瞳に宿っていた。
以前の自分であれば、どれほど誠実な言葉を向けられようと、誰かと人生を共にすること自体を「自由を奪われる罠」として警戒していただろう。
他人に心を開けば、いつか足元をすくわれると恐れていたはず。
だが目の前の男は、自分の過ちを知り、ブレーキをかけることを学び、エヴリンの引いた境界を尊重し続けてくれた。
エヴリンは静かに息を吸い込み、すまし顔で告げた。
「考えます」
「今答えろ」
オズワルドが即座に身を乗り出して眉をひそめる。エヴリンは思わず吹き出しそうになり、呆れたように肩を竦めてみせた。
「ほら、またそういうところです」
「なっ……」
「すぐに白黒をつけたがり、相手の猶予を奪おうとなさる。そういう性急で強引なところが、まだ完全に治っていらっしゃいませんね」
「これでも最大限に自制した方だ! ここで『考えます』などと棚上げにされて、何日も生殺しにされる身にもなってみろ!」
「充分にお考えになる時間があったはずの公爵閣下が、何を仰っているのでしょう。重大な契約の申し入れに対して、持ち帰って熟慮するのは実務家として当然の手順です」
「結婚は商取引ではないと言っているだろう!」
小さな部屋に軽快な言い争いが響き渡る。かつてのような冷たい敵意も、過剰な自衛の刺々しさもそこにはない。
互いに頑固で、極端で、放っておけばどこまでも突っ走ってしまう欠点を抱えたまま、それでも相手の言葉に耳を傾け、踏みとどまることができる。
不満そうに腕を組み、視線を逸らしながらも、席を立とうとはしないオズワルド。そんな彼の横顔を見つめながら、エヴリンの胸の奥には温かな確信が満ちていた。
(考える余地があると思っている時点で、もう答えは出ているようなものだけれど……)
それを今すぐ口にしてやらないのが彼女なりの意趣返しであり、対等な関係の証だった。
救済されるだけの存在ではなく一人の自立した人間として。
傲慢な救済者ではなく、隣に立つ不器用な一人の男として。
「ひとまず、林檎パイをいただきましょうか。冷めてしまっては美味しくありませんから」
「そうだな。君が淹れた茶も冷める」
初夏の柔らかな陽光が、窓辺の机と二つの厚手のカップを優しく照らし出していた。
救済を断り、自分の足で歩き出した女と、救うことの傲慢さを知り、隣を歩くことを選んだ男。
終わることのない軽やかな応酬とともに、二人が紡ぐ対等な未来はここから静かに続いていく。




