12 自立の第一歩と、不器用な訪問者
特別聴取の日から五日が過ぎ、王都の空には初夏特有の澄み切った青が広がっていた。
ヴァレンシュタイン公爵邸の東側客室では、開け放たれた窓から心地よい風が吹き込み、薄絹のカーテンを優しく揺らしている。
室内の中央には革製の小ぶりな旅行鞄が一つ、机の上に置かれていた。
鞄の中には着替えの衣服数着と筆記用具、手帳、そして数日前に司法庁の立ち会いのもとで実家から引き渡された、母の形見である黒漆塗りの小さな木箱が収められている。
実家から引き取ったのはそれだけだったが、エヴリンにとってはそれで十分だった。
「計算に間違いはありませんね」
エヴリンは机の上で、最後の一枚の領収証に受領の印を押した。その向かい側には、執事長のハインツが背筋を正して静かに控えている。
「本日正午までの滞在費として、客室利用料および飲食費、計六日分で銀貨九十枚。前回の残額と、昨日納品いたしました羊毛問屋からの伝票照合の手間賃から差し引き、過不足なく清算いたしました」
エヴリンは小さな革袋を卓上に滑らせた。チャリン、と確かな金属音が鳴る。
ハインツは袋を恭しく押しいただき、穏やかな笑みを浮かべて一礼した。
「確かに拝受いたしました、エヴリン様。当邸の長い歴史におきましても、客室の利用料を日割りの計算まできっちり合わせてお納めくださった客人は、後にも先にもエヴリン様だけでございます」
「正規の商取引ですから。不必要な恩義を残して去るわけにはまいりません」
「左様でございますね。手前どもとしても、あのような端正で見事な帳簿の筆跡を拝見できなくなるのは、少々寂しゅうございますが」
ハインツの眼鏡の奥の瞳には温かな敬意が宿っている。
連れてこられた当初は「頑なで強情な令嬢」と見られていた彼女が、自らの知性と手腕だけで公爵家と対等な契約を結び、滞在費を全額自力で賄い、最後には実家からの不当な支配や干渉を退けて堂々と出ていく。
その凛とした自立の足跡に老執事は心から感服していた。
「お世話になりました、ハインツ。あなたの淹れてくださるお茶は、いつも適温で仕事が捗りました」
「光栄でございます。新居での生活が健やかなものとなりますよう、心よりお祈り申し上げます」
エヴリンが鞄を手に立ち上がった、その時だった。
客室の扉が軽くノックされると同時に開き、長身の男が姿を現す。
オズワルドだ。
普段の堅苦しい軍礼服ではなく、上質なチャコールグレーの上着を羽織った軽装だったが、その整った顔立ちには、どこか隠しきれない落ち着かなさが漂っている。
「もう出るのか……」
「はい、公爵閣下。先ほどハインツと滞在費の最終清算を終えたところです」
エヴリンは鞄を持ち直し、平然と一礼した。
「取り決め通り、本日正午をもって退去いたします。これまで場所をお貸しいただき、ありがとうございました」
「うむ……」
オズワルドは腕を組み、視線を部屋の隅へと泳がせる。
以前の彼であれば、「一人暮らしなど危険だ」「中央区の一等地に屋敷を用意した」「護衛の小隊を付けろ」と一方的な救済の山を築いていただろう。
だが、今のオズワルドは喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、わずかに眉を寄せながら自制していた。
「荷物はそれだけか? 家具や日用品は揃っているのか? 当家の物置に使っていない棚や机があるが持っていくか?」
「結構です。部屋には最低限の備え付け家具がありますし、必要なものは仕事の報酬から少しずつ買い足していきます。他家の調度品を持ち込めば部屋の寸法にも合いませんし、余計な借りを作るだけですから」
「相変わらず徹底しているな……」
オズワルドは苦笑混じりに息を吐く。
エヴリンが見つけてきた新居は王都三番街の裏手にある、三階建ての石造りアパートメントの二階だった。
王都書記官詰所や商会街へ徒歩で通える利便性の高い立地でありながら、大通りから一本入った閑静な区画にある。
一階には誠実な老夫婦が営むパン屋が入っており、夜間も人通りが途絶えないため治安上の不安も少ない。
家賃はエヴリンが現在請け負っている書類整理の収入で十分に賄える、身の丈に合った現実的な金額だった。
「せめて馬車で送らせろ。まさかその鞄を提げて、辻馬車を拾うまで歩くつもりではあるまいな」
「それくらいなら、好意として受け取っておきます。移動の利便性を頑なに断るのも、非合理的ですから」
「……素直に頷かれるとかえって調子が狂う」
「あら、文句がおありなら歩きますが?」
「乗れと言っている」
オズワルドは呆れたように首を振り、踵を返して廊下へと歩き出す。
エヴリンはその背中を見つめ、小さく唇の端を綻ばせながら後に続いた。
◇
公爵家の黒塗り馬車は、目抜き通りを抜けて三番街へと滑らかに進んでいった。
車窓の外には、活気に満ちた王都の昼下がりの風景が広がっている。屋台から漂う香ばしい匂い、荷車を引く人々の掛け声、石畳を叩く蹄の音。
向かいの席に座るオズワルドが、ふと思い出したように上着の内ポケットから薄い封筒を取り出す。
「そう言えば、昨日司法庁から報告書の控えが届いた。クロウフォード家とランベール家の件だ」
エヴリンは手帳を開く手を止め、静かに顔を上げる。
「処分が決まったのですね」
「ああ。正式な行政上の措置が通知された」
オズワルドは封筒を机代わりの仕切りに置き、淡々と要点を伝えた。
「クロウフォード伯爵家については、路上での連行未遂への関与、ならびに杜撰な財産管理の責任が公的に記録された。これを受け、監督機関よりエドガー伯爵に対し、一定期間の職務停止と謹慎が命じられている。当主権や家督の扱いについては、親族内および監督機関の間で見直しが進められているところだ」
「そうですか」
エヴリンの声は驚くほど静かだった。嘲笑うでもなく、憐れむでもない。
自らの蒔いた種を、法と制度に従って刈り取らされた結果だと、客観的に受け止めていた。
「ドロテア夫人とコレットはどうなりましたか」
「エドガーの謹慎と目抜き通りでの一件が重なり、当面の間は王都での華やかな社交から距離を置かざるを得なくなったようだ。コレット自身も友人たちとの関係が悪化し、外へ出づらくなっていると聞いている。家の問題が片付くまでは、活動を控えることになるだろう」
「あの街の見栄に縋り付いていたあの子にとっては、居心地の悪い日々が続くでしょうね……」
エヴリンは窓の外へ視線を向けた。
かつて妹が自分を蔑み、嘲笑っていた日々の記憶がかすかに蘇る。だが、もはやその記憶に心を波立たせるような怒りは残っていなかった。
「セドリック様についてはどうなりましたか」
「ランベール子爵家から、正式な返済計画が公証院へ提出された。不正に引き出された四百二十万ゼルについては、本家の監督下で返済手続きが進められている。セドリック本人にも家内での厳しい処分が下され、親族の管理する地方の事業所へ送られ、実務に従事しながら返済に充てる給与を引かれるそうだ」
「セドリック様にとっては、悪くない更生の手続きだと思います」
エヴリンは小さく息を吐いた。
一時の見栄のために他人の財産に手をつけ、窮地に陥れば他人に責任を転嫁していた元婚約者。
彼にとっても安全な社交界の温室から引き離され、汗を流して実務に向き合う経験こそが、唯一の薬になるのかもしれない。
自らの行いに見合った責任を、それぞれの立場で地道に清算していくという現実的な結末。
エヴリンが求めた「必要な境界」は、公の制度を通じて、最も過不足のない形で確定していた。
「私の口座への返還が確認でき次第、受領書を公証院へ送達いたします。これで、すべて片が付きましたね」
「そうだな。君の引いた境界の通りに、収まるべき場所へ収まった」
オズワルドは青灰色の瞳を細め、穏やかに頷いた。
◇
馬車が止まったのは、三番街の並木道から一本折れた明るい路地だった。
一階のパン屋から焼きたての小麦の芳ばしい香りが漂い、二階の窓辺には赤いゼラニウムの花鉢が飾られている。
築年数は経っているが壁の漆喰は手入れが行き届き、清潔感に溢れていた。
御者が鞄を下ろし、エヴリンは石畳へと降り立つ。見上げれば、これから自分の生活が始まる部屋の窓が見える。
誰の命令も受けず、誰の機嫌も窺わない。自分の頭と手足だけで生きていくための、正真正銘、自分だけの居場所だった。
「ここまでで結構です、公爵閣下」
エヴリンは鞄を手に取り、見送りに降りてきたオズワルドに向き直った。
「馬車の手配、ありがとうございました。これで正式にお別れとなりますね」
「お別れか」
オズワルドは眉を微かに動かし、アパートメントの入口を見上げた。
「部屋まで鞄を運ぶくらいは手伝ってもいいが」
「これくらい一人で持てます。それに、公爵閣下がこんな大衆向けの集合住宅に入っていかれれば、住人の方々が肝を冷やします」
「……相変わらず手厳しいな」
オズワルドは肩をすくめ、ポケットに両手を突っ込んだ。
名残惜しそうに視線を彷徨わせるその姿は、王国屈指の威風堂々たる軍司令官とはとても思えないほど、不器用な青年のそれだった。
「エヴリン」
「何でしょうか」
「困ったことがあれば、いつでも言え。無理に一人で背負い込むな」
「閣下の仰る『困ったこと』が、路上での実力行使のような治安上の問題であれば、正式に通報させていただきます。日常の些細な困り事であれば、自分で知恵を絞りますのでご心配なく」
「最後まで一切の隙がないな、君は……」
「隙を見せれば足元をすくわれる環境で生きてまいりましたので。では、ごきげんよう、公爵閣下」
エヴリンは淑女らしく礼を取ると、背筋をぴんと伸ばし、迷いのない足取りで石造りの階段を上がっていく。
オズワルドはその後ろ姿を、微かな苦笑と深い敬意を込めた眼差しで見送っていた。
◇
新居の部屋は想像していた通りに簡素で、そして心地よかった。
南向きの窓からはたっぷりと光が差し込み、磨かれた木の床が温もりを湛えている。部屋の隅には頑丈なベッドと小さな洋服箪笥、そして窓辺には書き物に十分な広さの濃い色の木机が置かれていた。
エヴリンは鞄を開け、手際よく荷物を片付けていく。
母の形見の小箱を箪笥の上に飾り、机の上にはインク壺と筆記用具。革表紙の手帳を整然と並べる。
そして最後に部屋の扉の外側、来客の目に留まりやすい壁面に、木製の小さな看板を取り付けた。
『事務請負・文書照合 エヴリン』
伯爵家の威光を借りず、誰かの後ろ盾に頼ることもない。
ただ一人の独立した実務家として、自分の力で生きていくための看板だった。
「ふう……」
作業を終えたエヴリンは、机の前の椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
静かな部屋。
誰の理不尽な怒号も聞こえない完全な個人の空間。
冷遇に耐え、泥沼の家庭で牙を研ぎ澄ましてきた。傲慢な公爵の過剰な救済を跳ね除けて、自らの足で勝ち取った自由の味だった。
――それから、三日後の午後。
エヴリンは窓辺の机に向かい、王都南区の金物問屋から受注した売買契約書の書式点検に没頭していた。
カリカリと心地よいペンの音が響く。
午前中にパン屋の女将から焼きたての塩パンを買い、淹れたての茶を啜りながら仕事をする。これ以上ないほどに充実した穏やかな日常がそこにあった。
控えめだが、どこか重みのあるノックの音が入口の扉から響く。
「あら、大家さんかしら」
エヴリンはペンを置き、立ち上がって扉へと向かった。
来客の心当たりはなかった。近隣の商会からの連絡であれば、明日の朝一番の約束だったはずだ。
カチャリと鍵を開け、扉を細く引いたエヴリンは――その場に完全に硬直した。
「やあ、エヴリン。息災そうだな」
そこに立っていたのは、仕立ての良すぎる濃紺の上着を着込み、彫刻のように整った顔立ちに涼しい笑みを浮かべた男。オズワルド・ヴァレンシュタイン公爵だった。
「……」
エヴリンは無言のまま、ゆっくりと扉を押し戻そうとする。
「待て! なぜ閉めようとする!」
オズワルドが慌てて革靴の先を隙間に滑り込ませ、必死に扉を押さえた。
「公爵閣下。初日から営業妨害はおやめください。ここは平民向けの集合住宅です。あなたのような高位貴族がふらふらと立ち入る場所ではありません」
「ふらふらと立ち入ったわけではない! 正当な用件があって来たのだ!」
「どのような用件でしょうか。私の自立が不完全だと小言を言いにいらしたのですか? それとも、また別の名ばかりの閑職を紹介しにいらしたのですか?」
「人聞きが悪いことを言うな! これを見ろ!」
オズワルドは懐から一通の封書を取り出し、隙間から差し出してきた。
表には、王都の有力な民間商会である『ベルント織物商会』の印章が押されている。
「これは?」
「当家とも昔から取引のある、ベルント商会の支配人から相談を受けたのだ。過去数年分の仕入帳簿と納品書を突き合わせ、転記ミスや端数の不整合を洗い出せる、口の堅い手堅い実務家を探していると。君が帳簿照合の仕事を請け負っていると知っていたので、紹介状と依頼の概要を預かってきた」
エヴリンは眉をひそめ、封筒を受け取って中の書状にさっと目を通した。
公爵家の職場や治安機関とは何の関係もない、純然たる民間の商取引における帳簿整理だった。
業務内容も、エヴリンが普段こなしている伝票照合や転記確認の延長線上にあるもので、提示されている報酬も相場に見合った極めて妥当な金額だ。
「……仕事の話が一件あるというだけだ」
オズワルドは少し視線を逸らしながら、静かに付け加える。
「条件を見て、興味がなければ断ってくれて構わない。受けるかどうかを決めるのは君自身だ。私はただ、知り合いから頼まれて概要を届けに来ただけだ」
相手に断る余地をきちんと残し、選ぶ権利を委ねる。過剰な救済を押し付けないことを学んだ彼なりの誠実な配慮だった。
エヴリンは書状から顔を上げ、じっとオズワルドを見つめる。
そして、薄く目を細めた。
「公爵閣下」
「何だ」
「この程度の紹介状であれば、公爵家の使者に届けさせれば済んだのではありませんか?」
「っ!」
オズワルドの喉元が一瞬詰まった。青灰色の瞳が泳ぎ、咳払いを一つして視線を明後日の方向へと向ける。
「……いや、その、ついでがあったのだ……」
「何のついででしょうか。公爵家の本邸からも、総監府の執務室からも、この三番街は完全に逆方向ですが」
「近くの……馬具屋に用があったのだ。そのついでに寄っただけだ」
「三番街に高級な馬具屋などございません。あるのは大衆向けの蹄鉄屋だけです」
「エヴリン……」
オズワルドが眉間に深い皺を寄せ、観念したように息を吐いた。
その耳の端が微かに赤らんでいる。
「……様子を見に来たと言ったら、また追い返すつもりか」
不器用すぎるほどに正直な告白に、エヴリンの唇からふっと笑みが零れ落ちる。
傲岸不遜で、こちらの都合も聞かずに馬車へ押し込んできたあの公爵が、わざわざ大衆向けのアパートメントまで足を運び、仕事の紹介を口実にして様子を見に来ているのだ。
「追い返しはいたしません」
エヴリンは扉を大きく開け放ち、呆れたように横へ退いた。
「せっかく持ってきていただいたお仕事の話ですし、条件も極めて魅力的です。お受けするかどうか、詳しいお話を伺いましょう。どうぞ、お入りください」
「うむ」
オズワルドは安堵したように肩の力を抜き、小さな部屋へと踏み込んできた。
狭い部屋に長身の公爵の存在感があまりにも不釣り合いで、エヴリンは思わず苦笑を漏らす。
「お茶くらいなら出せますが、高級な茶葉ではありませんよ」
「君が淹れる茶なら、何でも構わん」
「世辞を仰っても、紹介料はお支払いしませんからね」
「紹介料など求めておらん。さあ、仕事の話をしよう」
西日の差し込む小さな部屋に二人の軽やかな応酬が響き渡る。
勝手に入り込む救済者ではなく、一人の客として訪ねてきた男と、それを受け入れる自立した女。
対等な二人の関係は、ここからまた新しく始まろうとしていた。




