11 共闘のルール「望む時にだけ手を貸す」
王都の中央に構える治安を扱う官庁の建物は、分厚い花崗岩で組まれた堅牢な威容を誇っていた。
天井の高い特別聴取室には、色ガラスの窓から重々しい午後の陽光が差し込み、磨き上げられた長卓の上に冷たい影を落としている。
室内を満たすのは紙をめくる規則正しい音と、記録官が走らせる羽ペンの微かな摩擦音だけだった。
部屋の奥、一段高くなった席には、事実関係の確認を司る首席聴取官と二名の記録官が着席している。長卓を挟んで、二つの陣営が対峙していた。
片側には、擦り切れた藍色のドレスを背筋正しく着こなしたエヴリン。その隣に座るオズワルド・ヴァレンシュタイン公爵。
もう片側には、顔色を土気色に変えたエドガー伯爵と、落ち着かない様子で扇を握りしめるドロテア夫人。
さらに、別室で予備的な確認を受けていたセドリック・ランベールも、離れた席で小さく身を縮こまらせていた。
「では、本日午前に発生した事案について、確認された事実関係を整理いたします」
首席聴取官が低く通る声で手元の羊皮紙の束をめくった。
「王都中央区において、エヴリン・クロウフォード嬢に対する路上での不当な接触および連行未遂が発生。現場で取り押さえられた実行犯二名、ならびに辻馬車の御者は、いずれも『クロウフォード伯爵邸の使用人より前金を受け取り、裏門へ連行するよう指示された』と供述しております。また、押収されたメモに記された搬入口の開門時刻および手順については、当庁の確認により伯爵邸の業務記録や出入り状況と符号することが確かめられました」
「そ、それは……!」
エドガーが耐えかねたように身を乗り出し、掠れた声を上げる。
「使用人が勝手に気を利かせたに過ぎません! 私や妻がそのような乱暴な真似を命じるはずがない! 家出をした娘の身を案じるあまり、使用人が暴走して連れ戻そうとしただけです! 親が娘の安否を心配することの、一体どこに落ち度があるというのですか!」
「言い逃れは見苦しいぞ、エドガー伯爵」
オズワルドが静かに、しかし有無を言わせぬ重みをもって言葉を遮った。
青灰色の瞳には武人としての冷徹な光が宿っている。
「その使用人は先ほど『伯爵夫妻から直々に指示を受け、前金の手配を頼まれた』と供述している。出納記録にも使途のはっきりしない支出が確認された。これだけの事実が揃っていながら、使用人個人の暴走と言い張るのは無理がある」
「う……ぐっ……!」
エドガーは喉を鳴らして言葉を失う。隣のドロテア夫人も、青ざめた唇を震わせながら俯くしかない。
聴取官はエドガーたちから視線を外し、別の案件綴りへと目を向けた。
「続いて王都公証院より当庁へ連絡のあった、預託口座からの金銭引き出しに関する件です。セドリック・ランベール殿」
名を呼ばれたセドリックが、びくりと肩を跳ね上げる。
目の下には濃い隈が張り付き、かつて夜会で見せていた優雅な身なりは跡形もない。
「エヴリン嬢名義の預託口座から引き出された四百二十万ゼルについて、公証院に提出された為替商の決済記録、宝飾店および仕立て屋の受領証、ならびに専門機関による筆跡の照合結果がこちらへ回付されております。セドリック殿、あなたが無断で委任状を用い、決済を通したという点について客観的な記録と齟齬はありませんね」
「あ、あれは……!」
セドリックは必死に視線を彷徨わせ、掠れた声で弁明した。
「将来夫婦になるものと信じていたからこそ、一時的な立て替えとして……! それに代金で購入したドレスや首飾りは、クロウフォード家のコレットが受け取ったものです! 私一人が勝手に使い込んだわけでは!」
「まあ! セドリック様、また私どものせいになさるおつもり!?」
ドロテア夫人が声を荒らげる。
「あなたがコレットに良いところを見せようと贈ってきたものでしょう! 今さら我が家を巻き込まないでくださる!?」
「やめなさい。ここは私的な諍いを演じる場ではありません」
聴取官が淡々と卓上の木槌を鳴らした。
乾いた音が室内に響き、醜い言い争いがぴたりと止まる。
突きつけられた記録と証言の前に、彼らの言い分はことごとく綻びを見せていた。
路上での連行未遂という明白な実力行使の形跡、そして公証院へ持ち込まれた金銭引き出しの証拠。もはや自分たちの都合だけで話を丸め込む余地はない。
「双方の記録および証言は出揃いました」
聴取官は書類を整え、眼鏡の奥からエヴリンとオズワルドへ視線を向けた。
「路上での連行未遂事案、ならびに金銭の不正引き出しに関する申告について、事実確認の記録は以上となります。当方では治安上の問題および実力行使の経緯について、所定の報告書を作成し、関係する審査機関へ送付することになります。その上で、申告人であるエヴリン嬢。あなたご自身として、当事者間に求める具体的な要求や確認事項はございますか」
室内の視線がエヴリンへと集まる。
隣に座るオズワルドが動けば、どうなるか。
彼が治安統括総監としての職権を強く行使し、公爵家の影響力を最大限に注ぎ込めば、クロウフォード伯爵家やセドリックに対して、より苛烈な追及を公的に働きかけることも可能だろう。
エドガーもドロテアも、セドリックでさえも、息を詰まらせるようにしてオズワルドの出方を窺っていた。
だが、オズワルドは口を挟まなかった。
彼はエヴリンを遮ることも、先回りして結論を提示することもしなかった。
ただ静かに横を向き、隣に座るエヴリンへと視線を向ける。その眼差しには、かつてのように「自分がすべてを決めて保護してやる」という独善的な気配はない。
「決めるのは君だ」
オズワルドは低く、落ち着いた声で告げる。
「君が自分のために何を求めたいか、君自身の言葉で話すといい。必要なところだけ私は手を貸す」
その言葉を聞いた瞬間、エヴリンの胸の奥で、張り詰めていた警戒の糸が静かに緩んだ。
相手を押し潰すための権力を振りかざすのではなく、ただ自分の隣に留まり、自らの決定を尊重してくれている。
救う側と救われる側という上下の構図ではなく、一人の独立した人間として、自らの足元を自ら定める機会を委ねてくれたのだ。
エヴリンは深く、静かに息を吸い込む。
(以前の私なら、どうしていただろう……)
彼女は手元の手帳を見つめ、自らに問いかける。
かつての自分であれば、手元にある過去の杜撰な取引メモや請求書の控えをすべてこの場に差し出し、相手が言い逃れできる余地を完全に塞ごうとしただろう。
セドリックに対しても、実家の両親に対しても、二度と立ち上がれないほど決定的な打撃を与えるまで、持てる証拠を際限なく叩きつけていたかもしれない。
効果はある。
相手を完全に沈黙させ、二度と自分を脅かせないようにするための、最も過激で確実な手段だ。
だがそれは、本当に自分が望んでいたことなのだろうか。
カフェの前で見た、人々の引いたような視線が脳裏をかすめる。
相手に悪意があったからといって、手持ちの手段をすべて使い切ることが正しさではない。
できることと、やるべきことの境界。
求めていたのは、復讐の果てに相手の破滅を見届けることではない。
ただ、不当に奪われたものを取り戻し、誰にも人生を侵食されずに自分の足で立っていくための「明確な境界」を引くこと。
エヴリンはすっと背筋を伸ばし、聴取官に向き直った。
その瞳には刺々しい憎悪も、相手をいたぶるような過剰な冷たさもなかった。淡々と自らの権利を見定める、静かな落ち着きがあった。
「聴取官。申告人として、私自身が求める事項を申し上げます」
「伺いましょう」
エヴリンは手帳に一度だけ触れ、淀みのない声で告げた。
「第一に、セドリック・ランベール殿に対して。無断で引き落とされた四百二十万ゼルの元本、ならびに手続きに要した費用についても、認められる範囲での返還を求めます。返還の方法や期日については、公証院の適正な手続きのもと、無理のない正式な返済計画を取り決めていただくことを希望いたします」
セドリックが驚いたように顔を上げた。
即座の一括返済を迫られてその場で破綻することを恐れていた彼にとって、それは逃げ場はないものの、制度に則った極めて妥当な要求だった。
「第二に、エドガー・クロウフォード伯爵、ならびにドロテア夫人に対して」
エヴリンは視線を実家の両親へと向けた。エドガーが身を強張らせる。
「今後、私がクロウフォード伯爵家の監督下に置かれる筋合いはないことを、公的に確認していただきたいと存じます。私の居所、就労、ならびに生活全般について、父親としての権限を根拠とした不当な介入を行わないこと。また、私の合意のない婚姻を勝手に取り決めたり、無理に屋敷へ連れ戻そうとしたりしないことの確約を求めます」
「な……」
「加えて、私が屋敷に残してまいりました実母の形見の小箱、ならびに私個人の手元資金で購入した私物の返還を求めます。……私自身が申告人として求めるのは以上です」
室内に静かな沈黙が降りる。
聴取官がわずかに眉を持ち上げてエヴリンを見つめた。
「エヴリン嬢。あなた個人としての要求は、それだけでよろしいのですね」
「はい」
エヴリンは迷いなく頷く。
「私が求めているのは奪われた財産の回復と、私の生活に対する不当な干渉の停止です。私怨を晴らすために過剰な要求を重ねることは、私の望むところではありません。それ以上の公的な責任や、今回の事案に対する法令上の処分につきましては、当庁および管轄の機関の適正なご判断にお委ねいたします」
自ら復讐者として制裁を上乗せするのではなく、自らの領分を定めた上で、公的な判断は公の制度に委ねる。
感情に任せて最大出力を叩きつけない。
自らの引くべき境界を理性で定めたエヴリンの姿に、オズワルドは静かに息を吐き、口元をわずかに緩めた。
そして、オズワルドが前を向いた。
「申告人本人の意向は今述べられた通りだ。私からも付け加えることはない」
オズワルドはエドガーとセドリックを冷徹に見据える。
「本人が私怨による過剰な制裁を望まなかったとしても、貴殿らが路上で不当な実力行使を企てた事実、そして不当な金銭処理に関与した事実そのものが消えるわけではない。当庁の記録はそのまま正式な報告書として管轄機関へ回される。以後の調査や貴族籍に関する審査については、制度に従って粛々と進められることになるだろう」
エドガーは机に両手をついたまま、重いため息とともに項垂れた。
刑事上・身分上の処分が具体的にどう下されるかは、今後の正式な審理に委ねられる。
しかし、公的記録として残されたこの失態は、クロウフォード伯爵家の信用を著しく傷つけ、取引先や親族との関係において極めて厳しい立場に立たされることは避けられなかった。
セドリックもまた、蒼白な顔で唇を噛み締めていた。
四百二十万ゼルの返還請求が公的な手続きに記録された以上、ランベール子爵家内部での立場がさらに悪くなるのは避けられない。
過剰な私的制裁ではない。しかし自らの行いが招いた結果を、法と秩序に従って等身大に背負わされる。逃げ場のない、自業自得の結末へと事態は動き出した。
「申告人の要求を正式に記録いたしました」
首席聴取官が立ち上がり書類をまとめる。
「提示された返還要求、私物の引き渡し。ならびに不当干渉の禁止に関する確認事項について、所定の手続きを進めます。本日の事実確認を終了いたします」
◇
治安を扱う官庁の重厚な石造りの階段を降りると、西に傾いた陽光が通りを橙色に染め上げていた。王都の夕暮れの風が吹き抜け、並木道の梢をさわさわと揺らしている。
階段の途中でエヴリンは足を止め、深く息を吐き出した。胸の奥に澱のように溜まっていた、長年の張り詰めた緊張がゆっくりと抜けていくようだった。
「終わりましたね……」
「ああ。ひとまずの区切りはついたな」
隣に立つオズワルドが穏やかな声で応じる。
彼はエヴリンの歩調に合わせて足を止め、夕陽を浴びる彼女の横顔を見つめた。
「見事な引き際だった。手持ちの武器をすべて投げつけることなく、必要な境界だけを綺麗に引いてみせたな」
「どこかの公爵閣下が、ブレーキの重要性を口うるさく説いてくださったおかげです」
エヴリンは苦笑混じりに視線を逸らした。
「相手を徹底的に叩き潰すことと、自分の生活を守ることは別だとようやく実感できました」
「口うるさいとは相変わらずだな。私は常に理知的な助言しか口にしていない」
「どの口が仰るのでしょう。初対面で問答無用に馬車へ放り込んできた方が」
「あれは緊急避難措置だと何度言えば分かるのだ」
軽口を交わし合う二人の声には、かつてのような刺々しい警戒は欠片もない。
互いの頑固さを知った上で踏み込みすぎず、しかし背中を預け合える関係がそこにはあった。
「公爵閣下」
エヴリンは向き直り、丁寧に頭を下げる。
「私の言葉を遮らず必要な分だけ力を貸してくださったこと……心から感謝いたします」
「礼には及ばん。君が自らの判断で自らの境界を守ったのだ」
オズワルドは柔らかく目を細め、階段の下へと歩み出した。
「さあ、戻るぞ。屋敷に戻ったら君が探している王都内の賃貸物件の書類、目を通すくらいなら手伝ってもいいが」
「手伝っていただけるのは助かりますが、相応の作業手間賃は後で請求してくださいね」
「……君は本当に最後まで貸し借りに厳しいな」
夕暮れの風の中に、二人の小さな笑い声が溶けていく。
過去の足かせを断ち切ったエヴリンは、いよいよ公爵邸を出て、自らの手で選んだ新しい生活へと歩みを進めようとしていた。




