10 元家族の強襲と、崩壊する見栄
朝の澄んだ光が公爵邸の裏庭を照らし、青々と茂る芝生の上に柔らかな木陰を落とす。
二階の客室の窓辺に立ち、エヴリンは手元に広げた革表紙の手帳に細いペン先で幾つかの時刻と短い走り書きを記していた。
「昨日の夕刻に一度。今朝の朝一番に一度。いずれも同じ型の特徴のない辻馬車。御者台の男は帽子を目深に被り、正門と裏木戸の両方を見通せる並木道の角に不自然な長さで留まっている」
エヴリンは手帳から視線を上げ、レースのカーテンの隙間から路地の向こう側を観察した。
高台の閑静な貴族街に、決まった客の送迎でもない辻馬車が同じ場所で何時間も待機し続けること自体が奇妙だった。
単なる客待ちにしては人通りが少なく、納品業者であれば荷降ろしを終えればすぐに立ち去るはずだ。
彼女は実家にいた頃から家族の機嫌や使用人たちの動き、屋敷を訪れる商人の気配などを敏感に察知しながら暮らしてきた。
周囲の細かな変化に目を配る習慣は、理不尽な環境を生き延びる中で自然と身についたものだった。
「……私の外出を見張っていると考えるのが自然ね」
エヴリンは小さく息を吐く。
公証院へ提出した返還請求の通知は、すでにランベール子爵家へ届いているはず。そして、セドリックとクロウフォード家の間で何らかの連絡が交わされていれば、実家側がエヴリンの身元を抑えようと動く可能性は十分に考えられた。
かつてのエヴリンであれば。この不審な動きに気づいたとしても誰にも告げずに一人で対処しようとしただろう。
外出の経路を急遽変更して裏通りを縫うように歩くか、あるいは護身用の道具を握りしめて自力で切り抜ける。
他人に頼ることは弱みを見せることであり、自分の身は自分だけで守り抜くことこそが唯一の正解だと信じ込んでいたからだ。
エヴリンは手帳を閉じ、胸の前にそっと当てた。
昨夕、庭園のベンチで交わしたオズワルドとの会話が思い出される。
『できることと、やるべきことの境界』
『互いに一度立ち止まる練習が必要ですね』
一人で警戒できるからといって、すべてを一人で抱え込む必要はない。
もし相手が路上で実力行使を企てているのであれば、それは一人の令嬢が個人で背負うべき問題ではなく、治安と安全に関わる事態だ。
「まずは状況を共有しましょう……」
エヴリンは手帳を抱え、迷いのない足取りで客室の扉を開けた。
◇
二階の主書斎では、オズワルドが机に向かって書類に目を通していた。
上着を脱ぎ白いシャツの袖を軽く捲った姿の彼は、控えめなノックの音に顔を上げる。
「エヴリンか。入ってくれ」
エヴリンが室内に入ると、オズワルドは羽ペンを置き椅子の背もたれに体を預けた。
その瞳には以前のような頭ごなしの威圧感はなく、落ち着いた視線が向けられる。
「何かあったのか。午前中は書類の点検の予定だったはずだが」
「作業の前に、閣下にお伝えしておくべき不審な動きがございます」
エヴリンは机の前へ進み出て、開いた手帳をオズワルドの前に置いた。
几帳面な筆跡で記録された時刻と、辻馬車の特徴、停車位置の略図が整然と並んでいる。
「昨日から今朝にかけて、公爵邸の周囲で見慣れない辻馬車が停車を繰り返しております。私の推測ですが、実家あるいはセドリック様に関係する者が、私の外出の機会を窺っている可能性があります」
オズワルドの眉がわずかに寄った。
鋭い警戒の光がその瞳に宿り、机の上の略図を丹念に指先で追う。
「……なるほど。公証院からの通知を受けて、君の身柄を直接抑えようとしているのかもしれんな」
オズワルドは立ち上がりかけた。
以前の彼であれば、この瞬間に「外への外出は一切禁止だ。部屋に戻って鍵をかけろ」と命じ、自らの手勢だけで周囲を封鎖していただろう。
相手の意向を尋ねることもなく、安全という名目で全てを覆い尽くすのが彼のやり口だった。
しかし、オズワルドは踏み出しかけた足を止め、短く息を吸い込む。自らを戒めるように息を吐くと、エヴリンに向き直った。
「以前の私なら君を部屋に留め置き、私の判断だけで兵を動かしていたところだ。だが、昨日の話がある。君はどう考えている? 危険がある以上放置はできんが、君の意見を聞かせてほしい」
頭ごなしに命令を下すのではなく、まずこちらの考えを確認する。その不器用ながらも確実な変化に、エヴリンの胸の奥の強張りがわずかに解けた。
「ありがとうございます、公爵閣下」
エヴリンは頷き、自らの考えを伝える。
「単に屋敷の中に引きこもっているだけでは、相手が本当に私の身柄を狙っているのか、それとも単なる別の警戒なのかが判別できません。また相手が諦めずに周囲を徘徊し続ければ、近隣や出入りする業者にも余計な不安を与えることになります」
「引き摺り出して確認するということか」
「はい。ただし、無謀な危険を冒す気はありません。私は予定通り、書記官詰所へ届ける書類を持って正門から表通りへ向かって歩き出します。もちろん、相手と至近距離で争うつもりはありません。馬車が近づいてきた段階で、通り沿いの建物の軒先など、退路を確保できる場所へ身を寄せます」
エヴリンは手帳の余白を指差した。
「相手が馬車から降りて接触を図ってきた瞬間に、私が手帳を高く掲げます。それを合図に、待機していただいた警備の兵の方々に間へ入っていただき、相手を取り押さえていただきたいのです」
「……危険が伴うことには変わりないぞ」
オズワルドは腕を組み、慎重な面持ちでエヴリンを見つめた。
「相手が腕力に訴えてきた場合、合図を出す前に怪我をする恐れもある」
「ですから、相手が間合いに入る前に合図を出します。それに公爵閣下の部隊が近くに控えてくださるのなら、私が一人で護身用の小刀を握りしめて歩くより遥かに安全です」
エヴリンは率直に認めた。
他人の力をすべて拒絶するのではなく、物理的な危険に対しては対処できる力を持つ者に助力を求める。それは彼女にとって、かつての頑なな自立から一歩踏み出した判断だった。
「これは私が一人で無茶をするためではありません。実力行使の恐れがある相手に対し、正式に対処できるだけの証拠を残し、治安の責任者である閣下の手で安全に処理していただくための相談です」
オズワルドはエヴリンの言葉をじっと咀嚼し、やがて小さく息を吐いて頷いた。
「……分かった。君の案を受け入れよう」
オズワルドは机の上の呼鈴を鳴らし、扉の外に控えていたハインツを呼ぶ。
「ハインツ、街頭巡回を担当している警備兵の班長を呼べ。それから、表通りに目立たぬよう私服の兵を数名配置する。……エヴリン。少しでも相手の動きが不審だと感じたら、合図の前に即座に近くの店へ逃げ込め。無茶な我慢は絶対に禁物だぞ」
「承知いたしました」
互いに自らの役割を弁え、必要な範囲で協力する。かつての衝突とは異なる、落ち着いた連携の空気がそこにあった。
◇
午前十時過ぎ。初夏の陽光が石畳を白く照らし出す中、公爵邸の重厚な鉄門が開かれた。
擦り切れた藍色の古いドレスを纏い、小脇に書類袋を抱えたエヴリンが静かな足取りで並木道へと歩み出る。
背筋を伸ばし、普段通りの速度で歩道を進んだ。
少し離れた後方を目立たぬ平服を着たハインツが、買い物帰りの老紳士を装ってゆっくりと歩いていた。さらに通り沿いの建物の陰や、路地の曲がり角には、私服姿の警備兵たちが気配を潜ませて配置されている。
大通りへと抜ける手前の、見通しの良い交差点に差し掛かった時。
背後から規則正しい蹄の音とともに、一台の辻馬車が速度を上げて近づいてくる。エヴリンが手帳に控えていた、飾りのない簡素な馬車だった。
御者台の男は帽子を目深に被り、通りを歩くエヴリンの背中を捉えるや否や、歩道に寄せるように車体を滑り込ませてきた。
(来たわね……)
エヴリンは動じることなく事前に確認していた通り、右手の老舗仕立て屋の石造りのポーチの前で足を止めた。背後を強固な石壁で塞ぎ、馬車が直接突っ込めない位置を確保する。
車輪が軋む音を立てて、辻馬車が歩道のすぐ脇に急停止した。扉が開き、中から粗野な身なりの男が二人、足早に降りてくる。
「おい、お前がエヴリンだな」
先頭の大柄な男が周囲を警戒しながらも早口で詰め寄ってきた。
「父親のクロウフォード伯爵から頼まれて迎えに来た。話があるそうだ。おとなしく馬車に乗ってもらおうか」
男の腕がエヴリンの肩を掴もうと前へ伸びる。
エヴリンはその手が届くよりも早く、一歩後ろへ下がりながら、抱えていた手帳を頭上高くへと掲げた。
「そこまでです!」
「あ……?」
男が眉をひそめた瞬間、鋭い警笛の音が短く鳴り響く。
路地の物陰から、そして向かいの軒先から、私服姿の警備兵たちが素早い足取りで飛び出してきた。
男たちが慌てて腰の短剣に手を伸ばそうとしたが、兵士たちは即座にその手首を掴んで捻り上げ、武器を抜く隙すら与えずに壁際へと押し当てる。
「動くな! 抵抗をやめろ!」
逃げようとしたもう一人の男も、駆けつけた二人の兵士によって腕を取られ、その場に取り押さえられた。
御者台の男が手綱を引いて馬車を発進させようとしたが、正面から回り込んだ兵士が手綱を強く引き絞り、馬の鼻先を制圧する。
過剰な暴力も派手な立ち回りもない。
事前の配置に基づいた、迅速で的確な身柄の確保だった。
「周囲の安全を確認しろ。通行人を下がらせろ」
落ち着いた声とともに、歩道の向こうからオズワルドが歩み寄る。
上着を羽織っただけの軽装だったが、その佇まいには武人としての確かな重みがあった。彼はまずエヴリンの元へ歩み寄り、その姿に視線を走らせる。
「怪我はないか」
「はい。触れられもしませんでした」
エヴリンは掲げていた手帳を下ろし、深く息を吐いた。
胸の鼓動は早かったが、それは恐怖によるものではない。相手の意図を正確に予測し、他者と連携して安全に危機を退けたことへの静かな安堵だった。
「見事な立ち回りだった。ポーチを背にしたおかげで、相手の動きが大きく限定されていた」
「警備の方々の動きが早かったおかげです。ありがとうございます」
互いに短く言葉を交わす。
隙のない作戦というわけではなかったが、互いに自制し相談し合った結果として、誰も過剰に傷つくことなく事態を収束させることができた。
そこへ、拘束した男たちの所持品を調べていた兵士の一人が、いくつかの品を手に戻ってきた。
「閣下。取り押さえた者たちの所持品から、いくつか気になるものが出てまいりました」
差し出されたのは革の小袋に入った前金の銀貨数枚と、一枚の折りたたまれた紙片。
紙片には歪な筆跡で、クロウフォード伯爵邸の裏門の場所と、搬入口の鍵が開けられる時間帯、それに「長女を乗せたら直接裏庭へ回せ」という簡潔な指示が記されていた。
「……裏門の手配まで書かれているな」
オズワルドが紙片を見つめ、瞳を細める。
「おい、これを誰から受け取った」
兵士に腕を押さえられた大柄な男は、オズワルドの厳しい視線に怯えたように顔を歪めた。
「お、俺たちは頼まれただけだ! 昨日の夜、酒場にクロウフォード家の使用人を名乗る男が来て、前金とこの紙を渡されたんだ! 家出した娘を屋敷に連れ戻すだけの手間賃だと聞かされてたんだよ!」
「クロウフォード家の使用人だな」
「あ、ああ! 仕着せの上着を着てたから間違いねえ! 屋敷の裏口で引き渡せば残りの礼金を払うって言われてたんだ!」
男の供述と紙片に書かれた裏門の配置。
一つの決定的な署名入り書類があるわけではない。しかし、前金の受領と裏門の指示。使用人との接触という複数の状況は、明らかにクロウフォード伯爵家がこの連行に関与していることを強く示唆していた。
「公爵閣下。これで実家側が不当な実力行使を図ろうとしたことについて、正式に調べてもらうだけの材料が揃いましたね」
「ああ」
オズワルドは頷き、紙片を兵士に返す。
「路上での待ち伏せと連行の試み、そして裏門の指示書。これだけの証拠と供述があれば、もはや単なる『家庭内の行き違い』として片付けることはできん。管轄の治安詰所へ身柄を引き渡し、正式な調査と聴取を開始させる」
オズワルドはエヴリンの顔を見据えた。
「クロウフォード伯爵本人や、指示を出した使用人への事情聴取も避けられん。事態は公的な場での事実確認へと進むことになる。いいな」
「はい。望むところです」
エヴリンは迷いなく答えた。
一人で相手を徹底的に叩き潰すのではなく、公の秩序と手続きの場へ相手を引き摺り出す。それは彼女が選び取った新たな戦い方だった。
◇
同じ頃。クロウフォード伯爵邸の居間。
窓から差し込む昼の光の中で、ドロテア夫人はソファーに腰掛け、機嫌よさそうに扇を揺らしていた。
「そろそろ、連れ戻されたエヴリンが裏門に着く頃合いですわね」
対面の机で書類をめくっていたエドガー伯爵は、落ち着かない様子でため息をつく。
「本当に大丈夫なのだろうな。万が一にも公爵家に気づかれれば面倒なことになるぞ」
「何を心配しておいでですの」
ドロテア夫人は冷ややかに笑う。
「父親が家出娘を屋敷に引き取っただけの話ですわ。あの子が戻ってきさえすれば、部屋に鍵をかけて外部との接触を断ち、公証院への請求を取り下げさせれば済むことです。その後は、地方の堅実な家との縁談でも早急にまとめて王都から出してしまえば、我が家の体面も保たれます」
「まあ、あいつさえ大人しくなれば、商会への対応も以前のように戻せるかもしれんがな」
エドガーは自らに言い聞かせるように呟く。
二階の私室に閉じこもったままのコレットの泣き声に苛立ちながらも、彼らはエヴリンという「所有物」を取り戻すことで、足元から崩れかけている生活を強引に元通りにできると、まだ信じ切っていた。




