第八章――魔法灯のない街
カルドランの灯りは、セヴァルが近づいても暗くならなかった。
山門をくぐり、三つ目の角を曲がったところでようやく気づく。
壁の窪みには油皿が並んでいる。太い芯の先で赤い火が揺れ、磨かれた金属板が光を通路へ返していた。天井から下がる灯りも、硝子の中で油を燃やしている。
魔力を使っていない。
セヴァルが立ち止まると、後ろを歩いていた子供が背中へぶつかった。
「どうしたの」
「灯りを見ていた」
「火なら、さっきからある」
「消えない」
子供は壁の油皿を見上げた。
何を不思議がっているのか分からない顔。その額の角は、まだ短い。
灰角族の角は、生まれたときには柔らかな瘤にすぎない。身体が大きくなるにつれて硬く黒くなり、周囲の魔力を吸い始める。
この子は、魔法灯を消したことがない。
羨ましいと思いかけた。角が育てば、いずれ知る。知らずに済む幸運ではなく、まだ知らないだけかもしれなかった。
セヴァルの後ろには、二十二人の灰角族が続く。
セレネア王都を発ってから十日。十日前の円卓で袖を捲り、腕に焼かれた番号を各国の元首へ見せたことが、もっと前の出来事に思えた。
最年長は六十を越え、最年少は母親に抱かれた乳児。黒い角を持つ者もいれば、まだ灰色の角しか生えていない子供もいる。
同じ土地から来た者たちではない。
セレネアの魔導都市を追われた者。
アルヴェルンの魔力炉から逃げた者。
街道脇の宿営地で生まれ、どの国の戸籍にも名を持たない者。
カルドラン王が円卓で口にした約束は、セレネア王都から北へ延びる街道沿いの宿営地を、三日で巡った。
――カルドランの街道は開けておく。
書状も伝信具も必要ない。
灰角族は、魔導都市の外縁にある魔力の薄い道を渡り歩く。街へ入れない者同士が、水場や廃屋、森の切れ目で出会い、どの門が閉じているか、どの関所で腕の登録番号を見せるよう求められるか、どの宿なら油灯を使っているかを伝え合ってきた。
国はなくても、道はつながっている。
王都の会議へ出たセヴァルがカルドランへ向かうと聞き、途中の宿営地から一人、また一人と列へ加わった。
誰も、カルドランに住めると約束されたわけではない。
街道を通れる。
王が口にしたのは、それだけだ。
門の外で立ち止まらずに済む。それだけでも、行き先と呼べた。
「止まるな」
前を歩いていたドワーフの門衛が振り返った。
「後ろがつかえる。灯りなら逃げはせん」
セヴァルは歩き出す。
通路は肩幅より少し広いだけで、角が天井へ触れないよう首を傾けなければ進めない。油火はすぐ横で揺れているのに、誰も消えた灯りを探して振り返らなかった。
カルドランの街は、山の内側へ掘られている。
大きな空洞の中へ建物を並べた街ではない。石の硬さと鉱脈の向きを読み、掘れる場所を掘り、残すべき岩を柱として残す。通路は上下左右へ分かれ、階段と斜路と昇降籠が、深さの異なる街区を結んでいた。
地上の国の者には迷路に見える。
ドワーフにとっては、山の形に逆らわなかった結果らしい。
遠くから槌の音が届く。
三度続き、間を置いて二度。
門衛の一人が間隔を数えた。
「第二炉の交代だ」
誰かが言った。
カルドランでは各工房が交代のたび、決められた調子で大槌を鳴らす。炉の槌、坑道の鐘、昇降籠の鎖音。打ち方を聞き分ければ、曲がりくねった山中でも、どの炉や坑道の近くにいるか分かるという。
灰角族は、音より光の弱まりで場所を覚えることが多い。
魔力の濃い街へ近づけば、額の奥が熱を持つ。結界を越えると筋肉が勝手に強張り、魔法灯の並ぶ大路では、背後から順に灯りが暗くなる。そのたび人々の足が止まり、顔がこちらへ向いた。
だから街では長く立ち止まらない。
眠る場所は都市結界の外。夜は油灯を使い、煮炊きには薪を燃やす。
魔力を吸えば、身体は一時的に強くなる。石を持ち上げ、鉄の鎖を引きちぎり、何日も休まず働くことさえできた。
だが、魔力は食事にはならない。
力を使ったあとは、吸った量に応じて腹が減る。吸いすぎれば角が熱を持ち、ひびが入り、逃がしきれない魔力が肉を内側から焼く。
吸えることと、耐えられることは別だった。
炉の管理者が必要としたのは、いつも前半だけだ。
「セヴァル」
後ろから名を呼ばれた。
振り向くと、痩せた女が片手で壁を支えている。
タヴァ。両腕に、焼き鏝の番号が三つずつある。アルヴェルンの炉を移されるたび、新しい管理番号を押された跡だった。
「少し、休ませて」
「魔力を吸ったか」
「門のところで」
セヴァルは来た道を振り返る。
山門の上には、盟約王の冠印が刻まれていた。カルドランの城門を守る術式でありながら、ドワーフが作ったものではない。先の大戦後、盟約軍が主要都市へ設置した境界術式である。
王が死んでも、残留魔力は石の奥へ残る。二十三人が門を通ったことで、その一部が灰角族の身体へ流れ込んだのだ。
「角を見せろ」
タヴァが頭を下げる。
右の角の根元に、髪より細い亀裂が走っていた。
セヴァルは外套から革帯を出し、根元へきつく巻く。治療ではない。亀裂が広がったとき、欠けた角が周囲へ飛ばないようにするだけの処置。
「歩けるか」
「歩くしかないなら」
門衛が二人のそばへ戻ってきた。
「担架を呼ぶ」
タヴァの肩が強張る。
「触るな」
門衛は足を止めた。
「運ぶだけだ」
「炉へ運ぶ者も、そう言った」
灰角族の何人かがタヴァを囲み、門衛たちの手は腰の槌へ近づいた。
セヴァルは両者の間へ入る。
「担架だけ借りる。運ぶのは俺たちだ」
門衛はひげを撫でた。しばらくタヴァと担架のない通路を見比べ、やがて頷く。
「それで運べるなら、好きにしろ」
一人が走っていった。
残った門衛は、タヴァの腕にある番号を見ないようにしている。
円卓にいた者たちも同じだった。
見なければ、知っていたことを認めずに済む。
ずいぶん礼儀正しい。
担架が届く前に、通路の奥から重い足音が近づいてきた。
カルドラン王だった。
王都の円卓で見た礼装ではない。厚い革衣の上に鉄板を留めた山歩きの姿で、赤褐色のひげを束ねる鉄輪だけは変わらない。
随行する官吏や兵より先に歩き、タヴァの前で止まる。
「門の術式か」
門衛が一礼した。
「おそらくは」
王は頭上を見た。
岩を隔てた向こうにある冠印が見えるはずはない。それでも、そこに敵でもいるような目を向ける。
「消せ」
「盟約軍の法印でございます。構造が――」
「読めんのか」
「読めます。しかし停止すれば、山門の防壁も落ちます」
「なら読める者を全部呼べ。門を守るために、通る者を焼く術式なら作り直す」
王はタヴァへ目を戻した。
「医務所へ運ぶ。魔法は使わん。薬と水と食い物はある」
「代価は」
「治療の代価は要らん。仕事の話なら、治ってから決めろ」
「決めるのは、そちらでしょう」
「カルドランでは、値を決めずに仕事を始める方が恥だ」
王は自分のひげを束ねる鉄輪を一つ持ち上げた。輪には細かな文字が刻まれている。
「これは、わしが王位を継いだときの契約だ。これは南坑道の水を三つの工房へ分ける契約。こっちは妻の一族から借りた酒蔵を返したときのものだ」
「契約を、ひげにつけるのか」
「忘れたと言わんためにな」
タヴァは初めて、王を正面から見た。
「炉へ入れる契約も?」
王の手が鉄輪から離れる。
「その話をするために来た」
医務所で出されたのは、薬より先に食事だった。
黒麦の固いパン。山羊肉を脂で煮たもの。塩を振った茸。湯気の立つ骨の汁。
灰角族の子供たちは、最初こそ周囲を窺っていたが、一人がパンを齧ると、あとは早い。魔力を吸った身体が食べ物を求めていた。
タヴァも寝台へ座ったまま、骨の汁を三杯飲む。
カルドランの医師は角の亀裂へ油を塗り、脈と体温を測った。魔法具は使わず、耳を胸へ当て、砂時計の砂が落ちるのを待つ。
「魔力熱だ」
セヴァルが言うと、医師は頷いた。
「名は知っておる。診たのは初めてだ」
「なら、なぜ分かる」
「症例録を読んだ」
「誰の記録だ」
医師は王を見た。
王が代わりに答える。
「北鉱脈で働かされた灰角族の記録だ」
食べ物を持つ手が止まった。
カルドラン王は扉のそばに立ったまま続ける。
「先の大戦後、北鉱脈の地表と管理権はセレネアへ移された。だが山の内側から続く旧坑道は閉じられず、盟約軍の監督下で我々が掘り続けた。境界を封じる術式の維持には、灰角族が使われた。管理したのはセレネアの法印官だ。掘ったのは我々だ。そして、必要な人員を渡したのも我々だ」
「人員」
タヴァが繰り返した。
「その記録では、そう呼ばれていたのか」
王は首を横に振った。
「吸収材だ」
誰も食事を再開しない。
聞き違えたのかと思った。タヴァも椀を持ったまま、王の次の言葉を待っている。
次の言葉はなかった。
袖の下で、古い番号の傷が痒んだ。とっくに塞がった皮膚だ。痒むはずはない。
アルヴェルンの一工場だけで使う番号ではない。盟約王令の吸収材台帳へ、セヴァルを登録した番号だった。
カルドランは魔力炉を使わない。
だから灰角族も使わなかったことになるらしい。他国の術式へ送り、戻ってこなかった者を自国で数えずに済ませていただけだ。
「街道を開けると言ったとき」
セヴァルは王を見た。
「北鉱脈のことを考えていたか」
「考えていた」
ためらいのない返答だった。
「王が死んだ夜から、坑道の封印が不安定になっておる。残留魔力が漏れ、奥の採掘区へ入れん。灰角族なら抜けると考えた」
「だから道を開けた」
「それだけではない」
「それだけではない、なら含まれてはいる」
「含まれておる」
王は言い逃れをしなかった。
認めれば、それ以上責めにくくなる。そこまで考えているのかもしれない。
疑う方が安全だった。少なくとも、炉では。
廊下から鐘が鳴った。
交代を告げる槌とは違う。短く、途切れず、何度も続く。
医師が立ち上がる。
「坑道事故だ」
直後、煤まみれの伝令が医務所へ飛び込んできた。
「北鉱脈第三坑道、封印壁が再作動! 昇降籠が停止し、下層に十一名取り残されています!」
王の顔から、わずかに血の気が引く。
「蒸気の予備機は」
「動かしましたが、封印壁を越えられません。法印官が近づくほど術式が強くなります」
伝令の目が、医務所にいる灰角族へ向いた。
すぐに逸れる。
王はセヴァルを見なかった。
「救助隊を出す。封印壁の手前まで、削岩機を下ろせ」
「間に合いません」
「間に合わせろ」
「下層の換気が止まっています。四半刻で空気が――」
王の拳が扉の石枠へ当たり、鈍い音を返した。
それでも、灰角族へ命令はしない。
頼め、と言わせたかった。
言わせれば、街道を開けた代価だったと認めさせられる。王が言葉を探している間も、坑道の鐘は途切れない。
黙らせておけば、十一人が死ぬ。
タヴァが空になった椀を寝台脇へ置いた。
「行けば、封印を吸える」
「お前は行くな」
セヴァルが言った。
「角が割れかけている」
「分かっている。だから、どれだけ危ないかも分かる」
王が二人へ向き直った。
「頼む」
それだけだった。
国王の言葉としては、あまりに短かった。
だが王が口にする以上、その一言だけで命令に近い重さを持った。
セヴァルは、医務所にいる者たちを見回す。
灰角族は、一つの国の民ではない。全員を代表する王もいない。
決められるのは、自分が行くかどうかだけだ。
「俺は行く」
角の太い男が食卓から立った。
「私も」
別の女が続き、小柄な男は何も言わず二人の隣へ立つ。
セヴァルを含め、前へ出たのは四人。
王は人数を増やせとも、減らせとも言わなかった。
「戻った者には、言い値を払う」
タヴァが乾いた笑いを漏らした。
「戻らなかった者には?」
王は彼女を見た。
「その者が養っていた全員へ払う」
「契約は先に」
「時間がない」
「時間がないときほど、先に決めろ。私たちは、あとで違う話をされた」
王は伝令へ命じ、金属板と刻字針を持ってこさせた。
救助へ向かう四人の名。
危険の内容。
途中で退く権利。
死亡または後遺障害が生じた場合の補償。
灰角族が吸収した魔力を、国家の所有物とみなさないこと。
王が条項を読み上げ、セヴァルが言葉を直す。タヴァは寝台から不足を指摘した。
「番号を書く欄を消せ」
「名だけでよい」
「帰る場所がない者の補償は」
「本人が指定した者へ」
「指定する者もいなければ」
王は一瞬考えた。
「同道している者全員の食費と宿代へ回す」
契約は、坑道の鐘が鳴り続ける中で作られた。
タヴァの空の椀と、途切れない鐘の音が金属板の両側にある。どちらにも、ゆっくり条件を選べる余裕はない。
それでも、何も決めずに炉へ入れられたときとは違う。
四人は自分の名を、自分の手で金属板へ刻んだ。
北鉱脈までは、蒸気昇降籠を三度乗り継ぐ。
下るほど空気が熱くなり、石炭と鉄、湿った岩の臭いが濃くなった。
最後の籠を降りた先で、ドワーフの救助隊が待つ。全員が腰へ命綱を巻き、背には圧縮空気の筒。
隊長の目が、セヴァルたちの角から腕の番号へ下りる。
それから、名を尋ねた。
「セヴァル」
「オル」
「ナギ」
「ヘルド」
隊長は四つの名を繰り返す。
覚えるためだった。
「わしはドマだ。下にいる十一人は、わしの班だ」
彼は坑道の奥を指した。
「封印壁まで百二十歩。魔力が濃くなれば、法印灯が青くなる」
「その灯りを消せ」
セヴァルが言った。
「暗くなるぞ」
「俺たちが近づけば、どのみち消える。油灯を持て」
救助隊は法印灯を置き、油を満たした坑道灯へ火を入れる。
赤い灯りが岩壁を低く照らした。
封印壁へ近づくにつれ、セヴァルの額が熱を持つ。
最初は、湯気へ顔を近づけた程度。十歩進むごとに熱は骨の奥へ入り、肩と腕の筋肉を硬くしていく。
後ろで、オルが息を吐いた。
「強い」
「吸いきるな。流せ」
四人は足を止めずに歩く。
灰角族は魔力を消すのではない。身体へ取り込み、自分の力へ変える。使わなければ、その力は内側へ溜まり続ける。
セヴァルは壁へ手をつき、歩きながら押した。岩へ力を逃がすための動作だ。
オルとヘルドが救助用の鋼索を引き、ナギは大きな鉄槌で一定の間隔を床へ刻む。
熱。音。運動。
吸った魔力を形のあるものへ変えて捨てても、角の熱は上がっていった。
坑道の曲がり角を越える。
岩と岩の間を、半透明の青白い壁が塞いでいる。表面には盟約王の冠印。その下を文字列が流れていた。
――北鉱脈第三管理区。
――採掘権限、停止。
――封印維持を優先。
王は死んだ。
命令を下す者はいない。
それでも千年にわたって刻まれた命令は、主を失ったあとも忠実に坑道を閉ざしている。
光壁の向こうから弱い槌音が聞こえた。
三度叩き、間を置いて二度。
カルドランの救難信号。
「生きておる」
ドマが言った。
セヴァルは光壁へ近づく。
額の角から黒い光が走り、壁の表面が揺れた。流れていた文字が止まる。
新しい一文が現れた。
――吸収材登録を照合。
続いて、番号が浮かぶ。
セヴァルの腕へ焼き付けられたものと、同じ番号だった。
――排魔経路、接続。
壁は開かない。
青白い光がセヴァルの両手の高さへ集まり、触れるのを待つように二つの輪を作る。
通行口ではなかった。
壁を形作る魔力を、吸収材へ流すための接続部。
胃の中の食事が、冷たい塊になる。
この坑道へ来たことはない。生まれた土地からも遠い。
番号だけが、本人より先にここへ来ていた。
街へ入ることは禁じられ、国を持つことも認められない。それでも、必要な場所で使うためなら、どの国の施設からでも呼び出せる資源として登録されている。
国境を越えられなかったのは、セヴァルの方だった。
「どうした」
ドマが尋ねた。
答えず、光壁へ両手を押し当てる。
魔力が流れ込んだ。
痛みより先に、力。
足元の岩が軋み、指の下で光が薄くなった。オルたちも並び、四人の角へ青白い筋が走る。
ナギが叫びながら鉄槌を床へ振り下ろした。
一度。
二度。
三度。
打つたび、床石へ亀裂が広がる。
ヘルドは鋼索を両腕で引き、留め具を歪ませる。オルの鼻から落ちる血。
セヴァルの右角で、乾いた音がした。
光壁の一部がほどけ、人一人が通れるだけの通路が開く。
「今だ!」
ドマと救助隊が隙間へ入った。
向こう側から咳と叫び声が聞こえる。
取り残された鉱夫が、一人ずつ運び出されてきた。
九人。
十人。
最後の一人は脚を岩に挟まれている。
救助隊が担架を引く間に、光壁が戻り始めた。
「まだだ!」
ドマが叫んだ。
セヴァルは角の亀裂へ手を当てる。
指先が濡れた。
血だった。
逃げてもよい。
契約には、そう刻んだ。
誰も、残れと命じることはできない。
セヴァルは手を離し、もう一度、光壁へ肩を押しつける。
命令ではなく、自分で決めた。
その違いが、痛みを軽くするわけではなかった。
最後の鉱夫が隙間を越える。
四人が手を離すと、光壁は音もなく閉じ、坑道の赤い灯りが大きく揺れた。
ドマが人数を数える。
取り残されていた十一人は、全員いる。
救助隊にも欠けはない。
「戻るぞ」
帰りの昇降籠では、誰も話さなかった。
助けられた鉱夫たちは圧縮空気を分け合い、灰角族の四人は床へ座って、骨が震えるほどの空腹に耐えている。
ドマが自分の食料袋を差し出した。
「干し肉しかない」
セヴァルは受け取った。
「十分だ」
「セヴァル」
ドマは確かめるように名を呼んだ。
「さっき壁に出た番号は、おぬしのものか」
「そうだ」
「あれで、壁が開いたのか」
「違う。あれは鍵じゃない」
セヴァルは干し肉を噛み切った。
「壁の魔力を抜く道具が、所定の場所へ届いたと確かめただけだ。壁を薄くしたのは、俺たちが魔力を吸ったからだ」
「では、あの番号は……」
「俺を通したんじゃない。俺を使ったんだ」
昇降籠の鎖音が、山の奥へ響く。
地上の医務所には、カルドラン王。
十一人の生存を聞いた王は目を閉じる。短い祈りのようにも見えた。
それから、血の滲むセヴァルの角へ目を向ける。
「契約どおり払う」
「その前に、契約を増やす」
セヴァルは言った。
「街道を通るだけでは足りない。冬を越す場所が要る。働かない者にも、門を閉じない保証が要る」
王の後ろで、鉱務官が眉をひそめる。
「王国が、何人来るかも分からぬ者を養うのか」
「養えとは言っていない」
「住めば食う。水も使う。坑道に入らぬなら、何を返す」
タヴァが寝台から身を起こした。
「やはり、炉の代わりに坑道へ入れたいだけではないか」
鉱務官の顔が赤くなるより早く、王が手を上げた。
「一冬分の寝床と食糧を、王庫から出す」
「陛下」
「聞け。坑道の仕事は別の契約にする。危険を先に示し、断っても街道と寝床は失わせん。魔力を扱う作業には、オルディアの検証官を立ち会わせる。吸収量と身体への損傷を記録させる」
セヴァルは王を見た。
「一冬のあとで、また追い出すのか」
「一冬の間に決める。おぬしらがこの国の民になるのか、客として住むのか、別の土地へ行くのか」
「決めるのは誰だ」
「おぬしらと、我々だ」
「王だけではなく?」
「王だけで決めれば、次の王が覆す」
カルドランでは、王の言葉より契約の方が長く生きる。
王は新しい金属板を持ってこさせた。
街道を通る権利。
一冬の滞在。
仕事を断る権利。
番号ではなく、本人の名で契約する権利。
条文が一つ刻まれるたび、鉱務官と工房長たちから異議が上がる。食糧の量。寝床の場所。事故の補償。カルドラン法を破った場合の裁判。
灰角族の側も黙ってはいない。
名前を記録されれば、他国へ渡されるのではないか。
主権印を押した文書も、王が死ねば失効するのではないか。
子供の角が魔力設備を止めたとき、損害を請求されるのか。
カルドランの法印官は、王が死んでも王国の主権印は失われず、契約は次の王をも拘束すると説明した。
話し合いは夜まで続く。
誰も満足しなかった。
だから、契約になった。
最後に、王とセヴァルが金属板の前へ立つ。
セヴァルは刻字針を持った。
署名欄の横には、書記官が慣例で作った小さな空白がある。
登録番号を書く欄だった。
セヴァルは針の背で、その枠を削った。
そこへ、自分の名だけを刻む。
セヴァル。
家名も、国名もない。
それでも番号ではなかった。
カルドラン王が、その隣へ主権印を打つ。
赤い光が金属の文字を走り、すぐに消えた。
金属に残るのは、カルドラン一国の主権印だけ。
盟約王冠を介して六国すべてを縛る力は、もう存在しない。
その契約が届くのは、カルドランの門と役所と裁判所だけ。
小さな力だった。
だが少なくともその夜、カルドランの一枚の金属板の上で、灰角族は資源ではなく、約束を交わす相手として記された。
医務所の外では、油皿の火が揺れている。
セヴァルが近づいても、消えなかった。




