第七章――地図にない国
国家統監が第七機械工廠を出た翌朝、獣人族の土地には、まだ国境標が一本もない。
その空白を、人族の測量官は国有地と記した。
灰狼氏族のバルガが赤い測量杭を見つけたのは、集落へ戻る半日前。
姿を見るより先に、臭いが鼻へ届く。
削ったばかりの木。乾ききっていない赤い塗料。人族の汗。小銃へ塗られた油。
杭は草原を一直線に横切り、東へ続いていた。
人族は直線を好む。
道も、線路も、国境も、定規を当てたように引く。その途中に何があるかは、線を引き終えてから調べに来る。
バルガは最初の杭の前へしゃがんだ。
根元の草に、灰狼氏族が春先に使う水場への獣道が残っている。いまは隠れていても、雨季になれば子供たちが水桶を抱え、何度もここを通る道だ。
さらに東には、乾燥肉を作る風干し場。その先の低い丘には、三代前の死者が眠る。
人族の地図には、どれもない。
水場も、風も、死者も、土地の所有者として署名できないからだった。
バルガは腰の短刀を抜く。
円卓へ入るとき、エルフの衛兵が取り上げようとした刃だ。
氏族の短刀は、戦うためだけのものではない。
肉を切り、革紐を断ち、天幕の杭を削る。誓いを立てるときには掌へ当て、死者を送る日には墓標へ名を刻む。
成人した者は一本の刃を与えられ、折れるまで使う。持ち主が死ねば刃も折り、同じ土へ埋める。
入口へ預けろと言われたとき、刃ではなく、自分の名を置いて部屋へ入れと言われたように聞こえた。
バルガは杭に結ばれた布だけを切る。
アルヴェルンの文字で、番号が書かれている。
東部線第二測区、二百八十一号。
杭は抜かない。抜けば、人族は明日にも同じ場所へ新しい杭を打つ。
何を示す番号なのか。その方を先に確かめる必要がある。
赤い布を懐へ押し込み、草原を走り始めた。
灰狼系の脚は、短い距離なら馬より速い。
長く走るときは速度を落とし、呼吸と足音を一定に保つ。父や母から教わるものではない。年長者の背中を追ううちに、子供は自分の身体に合う歩幅を覚えていく。
日が傾くまで走り続けた。
集落の煙が見える頃、王都から持ち帰った礼装の襟は、汗と砂を吸って固くなっている。
灰狼氏族の集落に、石造りの家はない。
革と織布を重ねた天幕。草を束ねた屋根。半分だけ地面へ埋めた貯蔵庫。車輪を付ければ運べる小屋。
彼らは春と秋に居場所を変える。
当てもなく彷徨っているのではない。同じ水場を使い続けず、狩り場から獣を絶やさず、草が種を落とす前に家畜へ食べ尽くさせないためだ。
四つの季節ごとに使う場所は決まっている。井戸を掘り、木を植え、壊れた小屋を直し、また次の季節まで土地を休ませる。
人族が測量へ来た季節に天幕がなければ、集落は空に見える。
空なら無人地。
無人地なら国有地。
次の季節に戻った者は、自分たちの土地へ不法に入り込んだことになる。
人族の書類の中では、季節は巡らないらしい。
集落の子供たちがバルガの姿を見つけ、一斉に駆けてきた。
誰も名を呼ばない。
風上の子供が耳を上げ、次の子が尾を振り、それが後ろへ伝わっていく。
獣人族は顔より先に臭いで相手を知る。長く離れていても、家族の臭いを間違えることはない。
「王になったか」
最初に声をかけたのは、まだ片方の牙しか生え替わっていない少年だった。
王都へ発つ前、盟約王候補の会議へ行くとバルガが説明したのを覚えていたのだ。
「なっていたら、歩いて帰ってこない」
子供たちが笑う。
「何に乗るんだ」
「王になってから考える」
笑いは、大人たちのところまで届かなかった。
耳を伏せたまま、全員が集落の中央を見ている。
以前は共同の火床だった場所に、人族の掲示板が立っていた。
火床は三歩横へ追いやられ、その跡へ二本脚の板が打ち込まれている。
掲示板には、アルヴェルン運輸省の告示。
――東部線複線化に伴い、本区域を国土防衛法に基づく臨時収用地へ指定する。
――居住者は十日以内に指定区域から退去すること。
――建造物および家畜に対する補償については、登録所有者との協議を行う。
最後の一行へ、目が戻った。
誰か別の者へ出された告示に見える。二度読んでも、登録所有者という文字は消えなかった。
「登録所有者は誰だ」
集まった者の一人が尋ねた。
赤狐系の女、セナ。人族の鉄道工場で働いたことがあり、この集落では最も彼らの法律に詳しい。
「ここにはいない」
「俺たちのことだろう」
「俺たちの名は、土地台帳にない」
岩猪系の老人が鼻を鳴らす。
「なら、書けばよい」
「誰の名を書く」
老人の目が、周囲を一巡した。
冬には灰狼氏族がこの土地を使う。
春には赤狐氏族の交易隊が通り、夏になれば岩猪氏族が東の畑から家畜を連れてくる。雨の多い年には、さらに南の氏族も水場を借りる。
一人の名を書けば、その者が全員の土地を所有する。
全員の名を書いたところで、まだ生まれていない子供と、いま別の季節地にいる者の分は残らない。
紙へ入るには、誰かを紙の外へ出さなければならなかった。
「王都では、どうだった」
セナの問いに、バルガは掲示板の前へ腰を下ろした。
「椅子がなかった」
集まった者たちの耳が、わずかに動く。
「最後まで立っていたのか」
「ドワーフの王が長椅子を運ばせた」
「ドワーフの王が?」
「機械の国の代表は、自分の椅子を灰角族へ渡した」
「エルフは」
「席次がどうこうと言っていた」
小さな笑いが起きた。
牙の見える笑いだった。
「盟約王候補にはなれる」
バルガは続けた。
「だが国家元首ではないから、国の話へ口を出すなと言われた」
岩猪系の老人の拳が、地面を鳴らす。
「国がないから土地を取られ、土地がないから国ではないと言われる。相変わらず見事な輪だ」
「その輪を、どうする」
セナがバルガを見た。
「噛み切るために戻ってきたんだろう」
返事をする前に、バルガは集まった顔を見回した。
人族は彼を、獣人族の代表と呼ぶ。
また、その言葉だ。
灰狼。赤狐。岩猪。草兎。黒豹。
同じ名で括るには、暮らす土地も食べるものも、家族の作り方も違いすぎる。
灰狼氏族は大きな火を囲み、血縁にかかわらず子供を育てる。小さな家族で各地を巡る赤狐氏族は、交易相手まで親族と同じように数え、岩猪氏族には土地を深く掘って季節が変わっても動かない者が多い。
一つの法で束ねられたことはない。
必要もなかった。
狩りでは獲物の臭いを最初に見つけた者が先頭に立つ。移動なら道を知る者へ従い、争いが起きれば双方の最年長者が話す。出産では、経験のある女たちが男を全員追い出す。
役目が終われば、指図する権利もそこで終わる。
生まれてから死ぬまで命令できる王も、離れた土地の暮らしを決める議会も、彼らには要らない。
バルガが王都へ送られたのは、人族とエルフの言葉を話せたからにすぎない。
土地を売る権利も、氏族を戦わせる権利も、誰からも渡されてはいなかった。
それでも外国は、代表者なら決定できるはずだと考える。決定できないと分かれば、今度は代表者ではないと言い出す。
王都で、自分たちの分だけ用意されていなかった椅子が浮かぶ。
翌朝、アルヴェルンの測量隊が集落へ来た。
測量官が六人。鉄道技師が二人。荷馬車が四台。
その後ろには、小銃を背負った兵士が十二人。
戦うには少ない。
話し合いを断らせないためには、十分な数だった。
主任測量官は集落の手前で兵士を止める。
「武器へ手をかけるな。抜刀されても、こちらから構えるな」
人族には届かないはずの距離から、バルガの耳がその声を拾う。
測量官だけが火床まで歩いてきた。
四十歳ほどの男。泥の付いた長靴を履き、武器ではなく測量帳を脇へ抱えている。
戦争を始めに来たわけではないのだろう。
だから話が通じるとは限らない。
「この集落の代表者と話したい」
「何についてだ」
バルガが前へ出ると、測量官は帳面を開いた。
「氏名を」
「バルガ」
測量官のペンは動かない。
名前のあとに、まだ何かが要るらしい。
「家名は」
「ない」
「父称か、登録番号は」
番号。
懐の布が、汗を吸って皮膚へ貼り付いている。
「ない」
測量官はバルガの耳と腰の刃を見比べ、氏名欄へ、バルガとだけ書いた。
余った空欄の方が、名より長い。
「あなたが、ここの代表者で間違いありませんか」
「話を聞く役には選ばれた」
「土地の使用について決定できますか」
「できない」
測量官が顔を上げた。
「では、決定できる方を」
「一人では決められない」
「全員の同意が必要ということですか」
「ここにいない者の同意も要る」
「いつ戻ります」
「秋」
測量官は目を閉じる。帳面の縁を親指が一度、二度と擦った。
秋までの日数を数えているらしい。何度数えても、明日にはならない。
「鉄道工事は明日から始まります」
「秋まで待て」
「待てません」
「線路を北へ曲げろ」
「迂回すれば、完成が四十二日遅れます」
バルガは懐から赤い布を取り出した。
「なぜ三十日で作る」
測量官の答えが、一拍遅れる。
「セレネアとの停戦期間が、三十日だからです」
「お前たちとエルフの停戦のために、俺たちが家を退くのか」
「戦争になれば、この土地も戦場になります」
「戦争を始める国は、いつもそう言う」
測量官の後ろで兵士の一人が動いたが、主任測量官は振り返らない。
「移転費用は政府が負担します。建物、家畜、作物には補償が出る。工事を希望する者は、優先して雇用します」
セナの耳が動いた。
何人かが互いの顔を見る。
金が欲しいわけではない。
だが人族の町で暮らすには、薬にも学校にも金が要る。冬に穀物が足りなければ、やはり金で買うしかない。
人族の国へ組み込まれてから、金を持たずに生きられる場所は、少しずつ狭くなっていた。
「補償を受け取れば、土地を売ったことになるのか」
セナが尋ねた。
「法的には、収用への合意として扱われます」
「土地を売る権利は、私にはない」
「では受け取れません」
「合意しなければ、工事は止まるのか」
測量官は帳面を閉じる。
「止まりません」
「なら、何のために聞く」
「法律が、事前に協議するよう定めているからです」
「同意を得るためではなく?」
「同意を得るよう努めます」
「得られなければ」
「国土防衛法に従って収用します」
聞き違えたところはない。
どんな答えを返しても、測量帳には協議したと一行増える。線路は一寸も動かない。
人族の法律は、彼らと話し合うよう命じていた。
彼らの答えまで聞けとは、どこにも書かなかったらしい。
「明朝、工事隊が入ります」
測量官は閉じた帳面を抱え直した。
「今夜のうちに、子供と家畜を区域外へ移してください」
「丘も削るのか」
バルガが東を指す。
「測量線上の盛土は、平らにします」
「あれは墓だ」
測量官の目が、初めて帳面から離れた。
低い丘には木も石碑もない。
風に倒されないよう、墓標は地面へ埋めてある。誰が眠っているかは、氏族の者が臭いと記憶で受け継いできた。
測量官は丘へ目を向ける。
視線だけが、草と土の上を往復する。
「記録には、埋葬地とありません」
「今、聞いただろう」
もう一度、丘へ目を向けたあと、測量帳に何かを書き加える。
「確認が終わるまで、丘の工事は保留します」
「線路は」
「丘の手前まで進めます」
それが、彼に許された最大の譲歩だった。
測量隊が去ると、集落の者たちは火床を囲んだ。
椅子は置かれない。
座る場所で発言の重さを決めないよう、全員が地面へ腰を下ろす。
話したい者は、自分の短刀を鞘ごと前へ置く。言葉を終えれば刃を引き、次の者が置く。
最初に短刀を出したのは、セナだった。
「私は、補償を受け取ってもいいと思う」
灰狼氏族の何人かが唸る。
セナの尾が膨らんでも、言葉は止まらない。
「土地を捨てたいわけじゃない。けれど子供を人族の学校へ通わせたい。去年、妹が熱を出したとき、薬代を払えず三つの集落から金を借りた。工事を止められないなら、何も受け取らず追い出されるよりましだ」
次に、岩猪系の老人が刃を置く。
「一度受け取れば、次も金で退くと思われる」
「受け取らなくても、退かされる」
「なら戦う」
「十二人の兵士と戦えば、その次は百人来る」
「百人来れば、百人と戦う」
「その間、子供はどこへ置く」
老人の鼻から、荒い息が漏れた。
セナの短刀にも、老人の短刀にも、火床の明かりが同じように映っている。
土地を守ると言えば、そこで暮らす子供を兵士の前へ置く。子供を守ると言えば、土地を渡す。
どちらの刃も、まだ鞘へ戻せない。
バルガは懐の赤い布へ触れた。
二百八十一号。
人族はもう、この土地を一つの番号にしている。
番号なら、誰の名を書くかで迷う必要もない。
その親切さに、牙を立てたくなった。
だが杭を抜いても、明日には別の番号が立つ。
最後に、バルガが短刀を置いた。
「氏族を集める」
火床の周囲から音が消える。
「どの氏族を」
「この土地を使う氏族だけではない。人族の国境に分けられたすべての氏族へ、集まりを呼びかける」
岩猪系の老人が目を細めた。
「何を決める」
「俺たちが国になるかどうかだ」
口にした言葉が、自分のものではないように聞こえた。
王都で見た地図の線が、火床を横切る。
境界線を引く。
誰かを代表者に定める。
離れた氏族へ、同じ法を守らせる。
土地を持たぬ者と、土地を越えて移動する者を分ける。
どれも、外の国が彼らへしてきたことだった。
国がなければ、また土地を取られる。
国を作れば、今度は自分たちが線を引く。
ほかに道がないからだ、と自分へ言えば少しは楽になる。その言い方まで、人族の測量官と同じに思えた。
「国を作れば、今度は私たちが氏族を縛る」
セナが言った。
バルガは、口の中へ残った同じ言葉を噛み潰す。
「作らなければ、外の国が縛る」
短刀の柄へ手を置く。これまでなら、役目が終われば鞘へ戻せた刃だった。
バルガは集まった顔を見回す。
「どちらがましか、俺には分からない。だから全員で決める」
「明日の工事には間に合わん」
「分かっている」
短刀を鞘へ戻す。
「国は明日までに作れない。だが、明日までに消える必要もない」
その夜、草原の各所で呼集の火が焚かれた。
乾いた草を先に燃やし、その上へ生木を重ねる。白い煙が太く立ち上がり、月明かりの下を風に流れていく。
煙を見た隣の集落が、同じ火を焚く。
さらに遠くの丘から、次の煙。
言葉は届かない。
それでも、土地に関わる大きな決定が始まることだけは伝わる。
翌朝、既設の東部線から作業列車の汽笛が聞こえた。
枕木と鋼条を積んだ貨車。
土を削る蒸気掘削機。
工夫たちを乗せた客車。
最後尾には、兵士を運ぶ灰色の車両が連結されている。
バルガは集落の入口に立ち、近づいてくる黒煙を見た。
セレネアとアルヴェルンの停戦は、あと二十二日。
その停戦文書のどこにも、獣人族の名は書かれていなかった。
アルヴェルンの地図にあるのは、今も国有地の色だけだ。
だが地図にない民は、その朝、自分たちの土地がどこまでなのか、そして自分たちが国になるのかを決めるため、各地の氏族を呼び集めた。




