第六章――三十一日目のために
停戦文書に両国の主権印が揃ってから二日と三時間後、アルヴェルンでは夜勤が一つ増えた。
国家統監ハイン・ロートが帰国列車の中で署名した命令は、三通。
国有炭庫の備蓄を放出せよ。
主要工場を三交代勤務へ移行せよ。
東部方面へ向かう鉄道は、軍需輸送を優先せよ。
どの命令にも、戦争という言葉は使われていなかった。
命令書の表題は、すべて同じだった。
――三十日間停戦に伴う国土防衛措置。
停戦に伴う、と書けば、停戦そのものが夜勤と軍需輸送を求めたように読める。
命令書は、命じた者より先に理由を整えている。
国家統監は三枚目の紙から金属の指を離し、懐中時計を開いた。
停戦の残りは、二十七日と二十一時間。
セレネアの王都を出て、すでに二日。
向かいに座る運輸監は、時刻表と動員計画を膝の上へ広げている。
「この速度を保てても、首都への到着は三日後の朝です」
「遅い」
「通常の列車なら六日かかる区間です」
「通常ではないから、特別列車を走らせている」
運輸監は反論せず、次の交換駅で給水時間を四分削れると書き込んだ。
四分。
紙の上では、もう取り戻した時間だった。
列車は夜の平野を西へ走る。
セレネアの王都から西へ延びる線路は、エルフが敷いたものではない。
八十四年前、アルフレッドがセレネアとアルヴェルンの首都を鉄路で結ぶよう命じ、アルヴェルンの国有鉄道局が施工した。
樹冠評議会は、軌条が巨樹の根を傷つけることも、機関車の煤が葉を汚すことも認めなかった。王都駅は巨樹の外縁に置かれ、人族の技師は根を一本避けるたびに線路を曲げた。その数だけ、橋も増えた。
セレネアが差し出したものは、通行を許す土地と条件。
鋼材、枕木、機関車、測量技師、工夫。アルヴェルンが差し出したものを数えるには、それより長い行が必要だった。
人民会議は工費の拠出を三度否決した。三度とも、盟約王令によって覆された。
アルヴェルンの鉄道員は、その路線を今も「献納線」と呼んでいる。
友好の証として贈った線路、という意味ではない。
王へ鉄と労働を献じさせられた線路。その名だけは、両国の友好より正確に残った。
窓の外を、等間隔の電信柱が後ろへ流れる。その向こうで、工場街の煙突が赤く明滅する。
停戦成立を知らせる鐘は、もう鳴り終わっている。
代わりに聞こえてくるのは、夜勤の開始を告げる汽笛だ。
セレネアの王都では、住居を百年かけて育てるという。
アルヴェルンでは、百年残る建物の方が珍しい。
煉瓦の集合住宅は家族が増えれば壁を抜き、工場が拡張されれば一棟ごと取り壊される。古い街路は新しい線路に分断され、線路も十年後には別の場所へ敷き直される。
人族の建物は、住む者と一緒には育たない。
代わりに、住む者が死んでも、次の者が壁を抜き、屋根を継ぎ、使い続けられる。
百年後の完成を待てない者たちは、未完成の街を直しながら暮らしている。
列車が工場街を通過するたび、夜空が炉の色に染まった。
塀沿いの保育棟には、まだ灯りがついている。夜勤へ入る親が子供を預け、朝勤を終えた祖父母が代わりに迎えへ来る。
窓に並ぶ小さな顔が、特別列車の灯りを追った。
三通の命令書に、あの子供たちのことは書かれていない。
親が働く時間も、祖父母が老いる時間も、兄姉が学校へ通う時間も足りないから、保育所と共同食堂と診療所が隙間を埋める。
一つの家族では足りない時間を、街全体で継ぎ合わせる国だった。
その継ぎ目を、今夜は自分がもう一つ増やした。
「国境の死者について、身元の公表許可が下りました」
通信官が差し出した紙片を、国家統監は受け取った。
アルヴェルン人民軍二等兵、ニル・バルト。二十三歳。第七機械工廠旋盤工。予備役動員によって入隊。未婚。両親は死亡。姉一名。
短い経歴だった。
人の一生は、行政書類にすればいつも短い。
「遺族には」
「軍務省が今朝、通知を出しました。年金と弔慰金が支給されます」
「号外より先に届いたのか」
通信官は答えなかった。
国家統監は顔を上げた。
「聞いている」
「号外の方が、四十分早く配布されました」
金属の指が、紙の端を押し潰した。
交換駅では四分を取り戻せる。
この四十分を戻す時刻表はなかった。
「遺族へ通知する前に、国民へ英雄を知らせたわけか」
「新聞局は、氏名を伏せております」
「姉は、弟が東部へ送られたと知っている。年齢と所属工廠を読めば分かる」
通信官は目を伏せた。
列車が分岐器を越え、車体が大きく揺れた。
国家統監は、潰れた紙を折らずに机へ戻した。
三通の命令書と、戦死者一名の経歴。
戦争という文字は、まだどの紙にもない。
「新聞局へ伝えろ。死者を旗にするなら、せめて家族が死を知ってからにしろ」
「掲載を止めますか」
「もう刷ったものは止まらん」
それは新聞の話だった。
すでに刷られた号外。すでに走っている列車。すでに東部へ送った兵。
動き始めたものは、命令一つでは止まらない。
ハインの署名は、いつも動き始める側にあった。
だから止められないのだと考えた。
止めない理由としては、よくできていた。
首都の中央庁舎は、かつて機関車を組み立てていた工場だった。
人民共和国の成立後、王宮は取り壊された。
王宮の石材は学校と公衆浴場へ運ばれ、政府は空いた機関車工場へ入った。
子供が文字を習う壁と、労働者が煤を落とす浴槽に、どの王の部屋だったかを示す印はない。王宮は、役に立つ大きさへ切り分けられた。
議場の天井には、今も荷揚げ用の走行梁が残っている。閣僚たちが座る長机の脚には、古い線路が使われている。
王座はない。
国家統監の椅子も、他の者と同じ高さに置かれている。
椅子の高さを揃えることはできる。そこから出る命令の重さまで同じにする仕組みは、まだ作られていなかった。
彼がセレネアの新王に対して初めて立ち上がったのは、相手が王だったからではない。
自ら高い椅子を捨てたからだ。
アルヴェルンでは、国家統監も選ばれる。
工場区、農耕区、鉄道区、港湾区、学術区、軍務区。それぞれの人民代表が国家統監を選び、任期が終われば別の者へ替える。
少なくとも、法典にはそう書かれている。
非常事態において国家統監が出した命令は、七十二時間以内に人民会議の承認を受けなければ失効する。
ハインが首都へ着いたとき、その七十二時間のうち六十時間が過ぎていた。
人民会議の代表たちは、すでに議場を埋めている。
作業服のままの工場代表。土のついた長靴を履いた農耕区代表。濃紺の制服を着た鉄道員。大学の長衣をまとった学術区代表。軍服姿の者だけが、一つの区画へ固まって座っている。
服装も、年齢も、話し方も揃っていない。共通するのは、全員の手元に時計があることだけだ。
金瞳の長老が一つの議題を三日かけて審議する間に、人族の工場では三度、三交代が終わる。
人族は時間を大切にしているのではない。
時間に追われることへ、慣れすぎていた。
国家統監が入室すると、代表たちは立たなかった。
代わりに、議長が小槌を二度鳴らした。
「国家統監令三件の承認審議を開始する。統監、説明を」
ハインは壇上へ上がった。
「三十日の停戦が成立した」
歓声はなかった。
議場の全員が、その先に別の言葉が続くと知っている。
「停戦期間中、セレネア軍は現陣地を保持する。国外駐屯軍の撤退は約束されていない。アルヴェルン国内での動員と物資輸送は、停戦違反に当たらないことを確認させた」
軍務区から低い拍手が起きた。
工場区の代表は動かなかった。
「つまり、三十日かけて戦争の準備をするということですか」
発言したのは、白髪を短く切った女性だった。左胸に、全国圧延工組合の鉄札を付けている。
「戦争を起こさないための準備だ」
「工場でその二つを見分ける方法はありますか」
ハインは答えなかった。
命令書なら、表題で見分けられる。停戦に伴う国土防衛措置。
工場では、どちらも同じ汽笛で始まる。
女性代表は一枚の集計表を掲げた。
「本日だけで、十三の工場が三交代勤務への移行を命じられました。必要な人員は一万八千人。現在の労働者だけでは足りません。予備役へ送った者を戻すのですか。それとも、老人と子供を作業台へ立たせるのですか」
「徴兵された熟練工の一部を工場へ戻す」
軍務総監が立ち上がった。
「前線の兵が不足します」
「銃を作れる者へ、作った銃を持たせる方が無駄だ」
「兵士は訓練で増やせます。しかし熟練工は、そう簡単には――」
軍務総監は途中で口を閉じた。
熟練工は、そう簡単には増やせない。
言わなかった続きだけが、議場にはよく聞こえた。
議場の一部から笑いが起きた。
ハインは笑わなかった。
「二交代十二時間勤務を、三交代八時間勤務へ改める。夜間保育所を増設し、軍医の三分の一を工場診療所へ戻す。十五歳未満を生産工程へ入れることは禁止する」
「十六歳なら入れると」
女性代表が尋ねた。
「現在の労働法でも、十六歳は働いている」
「平時の軽作業です。砲弾工場ではない」
「分かっている」
「分かっていて、命じるのですか」
国家統監の金属指が、演壇の縁へ触れた。
右手を添えると、二本の金属指だけが木の縁へ硬い音を返した。
圧延機に右手を挟まれたとき、ハインは十七歳だった。
安全覆いは壊れたままだった。生産を止めれば、その日の班員全員の賃金が減らされた。
止めるべきだった。今なら、事故報告書へそう書ける。
あの朝に浮かんだのは安全規則ではなく、賃金を引かれた班員の顔だった。自分なら間に合う。手を入れて、詰まった鋼片を抜くだけだ。
判断したのだと、長いあいだ考えてきた。
愚かだった、と書くよりは都合がよかった。
二本の指を失ったあと、工場は新しい安全覆いを取り付けた。
前日には出せなかった費用が、血の落ちた翌朝には承認された。
「命じる」
ハインは言った。
「ただし十六歳と十七歳は、爆薬、高熱、重量物を扱う工程から外す。違反した工場長は軍法で裁く」
「生産が遅れます」
軍務総監が言った。
「子供の指を砲弾より安く数える国なら、守る価値はない」
今度は工場区から拍手が起きた。
それでも、女性代表は座らなかった。
「最後に一つ。統監は、停戦が終わった翌日に戦争が始まるとお考えですか」
議場が静まった。
ハインは答える前に、懐中時計を見た。
「分からない」
正直な答えだった。
代表たちの時計は進み続けた。分からないという答えでも、今夜から一万八千人の勤務表は変わる。
「だから、停戦が終わった翌日に戦争が始まっても国が残るようにする」
審議は六時間続いた。
六時間後、異論は票の数になった。
工場の三交代化には百八十七名が賛成し、六十二名が反対した。国有炭庫の放出には二百三十一名が賛成し、東部線の軍需優先には百四十六名しか賛成しなかった。
三件とも、可決には足りた。
承認された命令書に、反対票の理由を書く欄はなかった。
最も多くの反対を集めた鉄道命令には、一つの付帯条項があった。
東部線を複線化するため、旧草原居住区を臨時収用する。
「獣人族の集落が三つあります」
運輸監が地図を示した。
「線路を迂回させれば」
「工期が四十二日延びます」
三十日の停戦には間に合わない。
「補償を払え」
ハインは言った。
「土地台帳に所有者が登録されていません」
所有者がいない。
一瞬、そう聞こえた。
違う。台帳にいないだけだ。
「住んでいる者へ払えばいい」
「氏族単位の共有地です。共和国法に氏族は法人として登録されておりません。個人へ分割して払えば、共有地の売却を認めたことになると反発するでしょう」
「では、移転先を用意しろ」
「三十日では不可能です」
できない、がまた一つ増えた。
ハインは地図を見た。
太い赤線は、獣人族の集落を横切ると、旧トーレン関門まで最短距離で届く。
赤線はまっすぐだった。家々を示す小さな記号の方が、あとから線路の上へ散らされたように見える。
円卓で見た狼の男が浮かんだ。
俺たちにも土地を返せ。
声だけが蘇った。
名前は思い出せなかった。
会議が長すぎたからだ。まず、そう片づけた。
土地を返せという声は覚えている。名前まで要るのか。
その考えは、集落を避けない赤線と同じくらい都合がよかった。
「工事を始めろ」
国家統監は命じた。
「補償と移転先の協議は、並行して行う」
「拒否された場合は」
「共和国法に従え」
命令書には、立ち退かせろとは書かれない。
登録されていない土地は国有地。そこへ残れば不法占拠者。
共和国法が、国家統監の代わりに最後まで言ってくれる。
アルヴェルンが獣人族の土地を奪ったのは、一度の戦争ではなかった。
地図を描き、法律を作り、線路を敷くたびに、少しずつ奪ってきた。
その翌日、ハインは第七機械工廠へ向かった。
国境で死んだニル・バルトが、動員前まで働いていた工場だった。
同時に、ハインが二本の指を失った場所でもある。
かつて鉄道車輪を作っていた建屋では、農業用牽引車の部品が並んでいた。
盟約王令が数えたのは、完成した兵器だ。
旋盤の数は数えなかった。昨日まで何を削り、明日から何を削るかも、王令の外に置かれていた。
アルヴェルンは千年かけて、武器以外のあらゆるものを大量に作れる国を築いた。
蒸気機関。
鉱山機械。
農耕車。
鉄道車両。
王が死んだ翌日、それらの図面へ別の用途を示す赤い線が引かれた。
農耕車の車輪は砲車へ。
鉱山機械用の鍛鋼材は砲身へ。
採石用の爆薬は砲弾へ。
前日に地図の上で三つの集落を横切った線も、赤かった。
一つの工場で百年修業した職人がいなくても、アルヴェルンの製品は作れる。
寸法が書かれた図面と、同じ幅を測る物差しと、交換できる部品があればよい。
人は死ぬ。
手は震える。
記憶は薄れる。
そのどれにも頼らず、誰が作っても同じものになる仕組みを選んだ。
人族が長命種へ対抗するために得た最大の力は、優れた一人を育てることではなかった。
誰かが死んでも、次の者が続きを作れる。
ニル・バルトがいなくても、旋盤列を止めずに済む。
工廠長が国家統監を第三旋盤列へ案内する。
機械の前には、一人の女性工。
三十歳ほど。髪を布で覆い、切削油の染みた作業着を着ている。左腕には黒い喪章。
「ミラ・バルトです」
工廠長が小声で告げた。
「ニル・バルト二等兵の姉です」
ミラは旋盤を止めなかった。
回転する鋼材へ刃物台を送り、削り屑の色を見て油量を調整する。
目盛りを確認し、規定の位置まで削り終えてから、ようやく主軸を止めた。
国家元首を待たせたことを、謝ろうとはしなかった。
帰国列車では給水時間の四分を削らせた男が、ここでは主軸の止まるまで待った。
「弟君のことを聞いた」
ハインは言った。
「私より先に、国中が聞いたそうですね」
「すまなかった」
ミラは返事をしなかった。
旋盤から外した部品を、検査台へ置く。
長い円筒形の鋼材だった。
「これは何に使われますか」
彼女が尋ねた。
工廠長が答えようとしたが、ハインは手で止めた。
「野砲の駐退筒だ」
「昨日までは、農耕車の油圧筒でした」
「図面が変わった」
「停戦したからですか」
「停戦したから、作る時間ができた」
ミラは国家統監を見た。
その目に涙はなかった。
「弟は、戦闘にはならないと言われて出ていきました」
「私も、そう報告を受けていた」
口にしてから、報告を受けただけの者の言い方だと思った。
印を押した者の言葉ではなかった。
「では、誰が嘘をついたのですか」
工廠の機械音が、二人の間を埋めた。
誰も戦闘を命じていない。
だから誰も嘘をついていない。そう答えることはできた。
報告書の上では。
「私だ」
ハインは言った。
工廠長が息を呑んだ。
ミラは瞬きもしなかった。
「君の弟を国境へ送る命令に、私が印を押した」
「では、この部品も統監が作るのですか」
「作らせる」
「使うのは」
「兵士だ」
「死ぬのは」
ハインは答えなかった。
ミラは検査具を円筒へ当てた。
規格より、わずかに太かった。
彼女は部品へ赤い印を付け、不合格品の箱へ入れた。
不合格を示す赤印は、前日に見た地図の線より小さかった。
「弟なら、もっと上手に削りました」
それだけ言って、新しい鋼材を旋盤へ取り付けた。
国家統監は工廠を出た。
外は夜だった。
だが煙突の火と街路灯と保育棟の窓で、工場街には暗い場所がほとんどない。
交代の汽笛が鳴った。
門から次の勤務班が入り、一つ前の勤務を終えた者が出ていく。流れはぶつからず、途切れもしなかった。
ハインは懐中時計を開いた。
停戦の残りは、二十四日と一時間。
停戦が終わった翌日に戦争が始まるとは、誰も命じなかった。
ただアルヴェルン全土で、三十一日目に必要になるものだけが、夜通し作られ始めていた。




