第五十四章――持ち場を離れる
交代の兵が来ても、ヴァドは見張り場を離れなかった。
増援が着いた翌朝、西門の階段から赤熊の戦士たちが上がってきた。荷は門外へ置き、槍と盾だけを持っている。最後にザムロが姿を見せ、肩の革紐を幹から外した。
ヴァドは隣を空ける。
ザムロが枝壁へ近づいた。
門楼の脇には、太枝に支えられた板敷きの足場がある。そこから古木の幹を回る通路が延び、左右の見張り場へ続いていた。門外側では、絡み合った枝が腰から胸の高さまで兵の身体を隠している。ヴァドたちの前は視界が開け、西門から草原へ向かう街道を見渡せた。
門前に近いのは、家畜市場の柵だった。
柵の中で家畜が動き、その脇を荷車が通る。市場の出入口を避けた道端には、昨日着いた者たちの荷が寄せられていた。幌の間から煙が上がり、風に押されて草原へ流れていく。
さらに遠くでは、曲がった街道が地面の起伏に沿って見え隠れしていた。
ザムロはしばらく黙って眺めた。
「門から見るより、広いな」
ヴァドは街道の曲がり角を指した。
「あそこへ出てくる荷車を見る。その先は起伏に隠れる」
「人が歩いて来たら?」
「道だけを見るな。草の中もだ」
ザムロは頷き、自分の戦士を隣へ呼んだ。
男は槍を脇に立て、遠くの草原から門前まで目を動かす。市場の柵のところで視線が止まった。
「あの車、ずっと停まってるな」
「昨日、お前たちが連れてきた車だ」
ヴァドが答える。
ザムロが鼻で笑った。
「うちのじゃない。ラズハの方だ」
「ここからは同じに見える」
戦士は荷車をもう一度見た。荷台の脇に立っていた者が布を持ち上げ、中へ潜っていく。
ヴァドは門前へ視線を戻した。
家畜市場へ入る者と、西門へ来る者。荷を売るために停まる車と、ただ休んでいる車。昨日から、人の流れが変わっていた。
自分でも、まだ見慣れていない。
「動かない車があったら、門前の兵へ知らせろ。持ち場を空けて見に行くな」
ザムロは戦士へ顔を向けた。
「聞いたな」
男が頷く。
ヴァドはその返事を確かめてから、次の足場へ向かった。
通路は古木の幹を避けて曲がっていた。
枝が重なるところでは視界が塞がり、少し進むと草原が再び開ける。ケルドは別の赤熊の戦士を連れ、その見え方を一緒に確かめていた。
門の南側へ進むと、樹医用の昇降蔓が見えた。太い枝から垂れ、地面へ続いている。
ヴァドは足を止めた。
「あの蔓から、黒豹が入った」
ザムロが覗き込む。
「ここまで登ったのか」
「ああ」
ヴァドは蔓の根元を見た。
今は誰もいない。近くの草が風に伏せ、また起きる。
あの夜は、暗闇の中で別の隊がここへ取りついていた。ヴァド自身が見たわけではない。戦いが終わってから登った道を聞き、ようやく門が開くまでの動きを知った。
ザムロは地面から蔓を辿り、足場へ目を戻した。
「門ばかり見てちゃ駄目だな」
ヴァドは頷いた。
説明を足そうとしたが、ザムロはすでに自分の戦士を呼んでいた。昇降蔓を指し、門前を見ている者とは別に、ここへ目を配るよう伝えている。
ヴァドは二人が話し終えるまで待った。
門楼へ戻る途中、枝の間から北側の弩塔の崩れた基部が見えた。
土と根に、割れた石が混じっている。かつて門外へ張り出していた弩の姿はない。
ザムロの歩みが遅くなった。
「これも、あのときか」
「穴熊が落とした」
男は崩れた基部を見ていた。
「そうか」
それ以上は尋ねなかった。
ヴァドも、誰が戻らなかったかを話さなかった。
ケルドが連れてきた灰狼兵は、説明の途中で声を切った。
「市場の柵の陰へ入ると、ここからは姿が……」
口を閉じ、鼻から長く息を吐く。
赤熊の戦士は、その間に柵の位置を確かめていた。
「隣からなら見えるか」
灰狼兵が頷く。
「ええ。門前の兵も通ります」
ケルドが男の肩へ手を置いた。
「後は俺が話す。休め」
男は街道を見た。それから、自分の槍へ目を落とす。
「まだ、夜のことを」
「今夜の番には、俺から伝える」
灰狼兵はしばらく立っていたが、やがて足場の奥へ向かった。幹に押し込んでいた袋を引き出し、肩へ掛ける。
ヴァドはその背中を見ていた。
昨日、増援の列が見えたときにも、あの男は同じ場所にいた。荷車が門へ押し寄せる間、市場へ入る者を見つけては、門前の兵へ声を掛けていた。
ケルドが戻ってくる。
「引継ぎは済んだ。俺は残って、持ち場を回る」
ヴァドは枝壁沿いへ顔を向けた。
新参の戦士が、隣の足場へ移っていく。ケルドに教わった位置で足を止め、草原を見た。
ヴァドは階段へ向きかけた。
背後で、槍の柄が枝を叩く。
振り返ると、若い戦士が握る位置を変えていた。身体の前を横切る枝を避け、穂先を持ち上げ直す。
ザムロが男の肩へ触れ、少し立つ場所を空けた。
戦士は半歩寄った。今度は柄が当たらない。
ヴァドは口を閉じたまま、その動きを見た。
ザムロがこちらへ顔を向ける。
「何か抜けてるか」
街道。市場。門前。昇降蔓。
ヴァドは順に目をやった。
「いや」
「なら、飯にしろ。ラズハが鍋を出してる」
ヴァドは返事をせず、盾を取りに行った。
幹に立て掛けた盾の裏には、折り畳んだ布が挟んである。いつか座ろうと思って持ってきて、そのままになっていた。
布を抜き、盾と一緒に抱える。
階段口では、灰狼兵が袋を肩へ掛けて待っていた。ヴァドと目が合うと、道を譲ろうとする。
「先に行け」
男は一礼し、階段を下り始めた。
ヴァドも後に続く。
数段下りたところで、もう一度、見張り場を振り返った。
ザムロは街道へ身体を向けていた。
見張り場から階段を下りると、煮炊きの匂いがした。
市場へ続く道を空けて、荷車が寄せられている。その脇の古木の根元には敷物が広げられ、先に交代した兵が靴を脱いでいた。
ラズハが鍋のそばから顔を上げた。
「食べる?」
灰狼兵が頷く。
ヴァドは見張り場を振り返った。枝の間に赤茶の毛が見える。その隣では、ケルドが街道を指していた。
ラズハが椀を二つ持ってくる。
灰狼兵へ一つを渡し、もう一つをヴァドへ差し出した。
「熱いよ」
ヴァドは盾を根へ立て掛け、椀を受け取った。
粥はまだ湯気を上げている。一口飲み込むと、空いていた腹へ重さが落ちた。もう一口掬う間に、灰狼兵は敷物へ座っていた。
男の足元には、脱ぎかけの靴がある。
踵の布へ、乾いた血がついていた。
ラズハがしゃがむ。
「布が貼りついてるね。水を持ってくるから、そのままにして」
男は踵へ伸ばしていた手を止めた。
「すみません」
「先に食べてな」
女は近くの水桶へ向かった。
ヴァドも木箱へ腰を下ろす。
家畜市場の柵戸が開き、牛を引いた者が出てきた。門へ向かう荷車を待ってから道を渡り、草地へ入る。
そのすぐそばで、子供が二人、空の袋を引っ張り合っていた。大人に呼ばれると片方が手を離し、もう片方が尻餅をつく。
二人は顔を見合わせ、今度は袋を地面へ広げ始めた。
頭上で、足場の板が鳴った。
ヴァドは椀を持ったまま顔を上げる。
見回る兵が、枝壁に沿って歩いていた。
それを確かめてから、残りの粥を食べた。
バルガが西門を出てきたとき、灰狼兵は眠っていた。
踵の布は新しくなっている。靴を枕元へ揃え、袋を抱えて横になっていた。近くで荷車が軋んでも、目を開けなかった。
ヴァドは木箱に座り、盾の革紐を直していた。
折り畳んだ布は、隣へ置いたままだった。
バルガが近づく。
「交代は済んだか」
「ああ。ケルドが残ってる」
バルガは枝壁を見上げた。
ザムロが自分の兵へ何か言い、街道を指している。
「揉めなかったか」
「まだ、揉めるほど任せてない」
ヴァドは革紐を引いた。
穴の縁が裂ける。
「くそ」
指を離し、盾を膝へ伏せた。
バルガが裂け目を見る。
「寝てから直せばいいだろう」
「分かってる」
だが、盾を下ろさなかった。
門前で声がする。
荷車が戻ってきた。御者が手綱を引き、門務の兵へ荷台を示している。
見張り場から呼びかけがあった。
見張りの声に、ヴァドは腰を浮かせた。
門前の兵が荷車を止め、御者に荷台の覆いを開けさせる。見張りは、その間も街道を見ていた。
ヴァドは木箱へ座り直した。
バルガは何も言わなかった。
荷を確かめ終えた車が、西門を通っていく。
続く車も止まり、御者が荷台を示す。その間も、ザムロの兵は市場の外を歩く者と、草原から来る道を見ていた。
ヴァドは盾を地面へ置いた。
隣に置いた布を広げる。折り目から細かな木屑が落ちた。手で払い、荷物のない場所へ敷く。
「何かあれば、起こせ」
「ああ」
バルガが場所を空けた。
ヴァドは横になり、盾を手の届く位置へ引き寄せる。土の凹凸が肩へ当たった。少し身体をずらしたが、今度は腰が落ち着かない。
それでも、目を閉じた。
門上からザムロの声がした。
言葉を聞き取ろうとしたが、続きは葉擦れに混じった。
ヴァドは聞き返さなかった。




