第五十二章――引渡しの条件
「帰還の日程から協議したいと考えています」
ネフティアの外交官は、受け取った診療記録を伏せた。
窓の下で車輪が鳴る。搬送台に横たわる者は左脚を欠いていたが、付き添いの袖を引き、向かいの整備区を指さしていた。そちらへ行きたいらしい。
部品を抱えた四本腕の作業者が身を寄せる。台が通れるだけの隙間を空け、話の続きでも聞くように、運ばれる者へ顔を向けた。
オルディアの中央同期院に設けられた会談室は、その通路に面していた。向かいの整備区からは、金属を打つ音に交じって話し声が届く。
「政府の命令による飛行だったか。先に、お答えください」
ネフティアの外交官は、窓から目を戻した。
長卓の向こうに、頬の痩せたエルフが座っている。髪を耳の後ろへ撫でつけ、襟元まで隙間なく留めていた。書類綴りに載せた指は長く、爪の際まで手入れが行き届いている。
ネフティア側の席は、卓上に設けられていた。
小机と、四枚の羽を逃がす背の低い椅子。机の隅には、先ほど記録官が届けた小さな診療記録が載っている。セレネア側から提出された原本は、仲介官の手元にあった。
「その回答がなければ、日程の話にも入れないと?」
「まず、伺いたいのです」
ネフティアの外交官は、紙の角を揃える。指に残ったインクの染みが、白い余白へ重なった。
「……議題は、事前に取り交わしたはずです。引渡しについて協議する。そのために来ています」
「こちらも同じです」
相手は口を閉じた。
ネフティアの外交官が返答を待っても、書類綴りに載った指は動かない。
長卓の短辺には、オルディアの仲介官がいた。足元を床金具へ固定し、両国のどちらへも身体を向けずにいる。灰色の外装の向こう、壁には接続口が幾列も並んでいた。
記録官も椅子を使っていない。
その筆先だけが、紙の上を動いている。
「分かりました。条件から伺いましょう」
ネフティア側が沈黙を切った。
「何を求めておられますか」
「派遣についての説明です」
「政府の命令ではなかったと答えれば、引き渡していただけますか」
セレネアの外交官の目が細くなる。
「そう回答されるのですね」
「『答えれば』と申し上げました。そこを落とされては、別の発言になります」
「では、回答はまだ頂けていない」
「ええ。引渡しの条件も、まだ伺えていません」
セレネアの外交官は書類綴りを開いた。紙をめくる音が、返答までの間を埋める。
「説明を受けなければ、検討のしようがありません」
「どのような説明を?」
「こちらが納得できる説明をいただきたい」
ネフティアの外交官は、相手の顔を見た。
「……先に、何とお答えすればご納得いただけるのか、伺っても?」
「事実をお答えになればよろしい」
「それでしたら、『納得できる』という条件は外していただけますね」
紙をめくる手が止まる。
「事実かどうかは、こちらでも確かめます」
「もちろんです。こちらにも、確かめたいことがあります」
ネフティアの外交官は診療記録を自分の綴りへ挟んだ。
「四人が駐屯地から遠ざかり始めた後、発砲した。順序に相違はありませんね」
「着地要求を拒否した後です」
「それも記録しましょう。その後、四人は遠ざかった」
「飛び去ろうとしました」
「それを撃った」
「射撃を命じた、と指揮官から報告を受けています」
ネフティア側は相手を見ていた。言い直すのを待ったが、訂正はない。
「攻撃を受ける前に、ですか」
「その時点では、受けていません」
「では――」
「何もしていない者を撃った、と続けるおつもりなら、お待ちいただきたい」
セレネアの外交官は報告を卓へ広げた。
「姿を隠して軍の駐屯地へ接近し、着地を求められても応じなかった。この経緯を抜いて、最初の一発だけを論じることはできません」
「撃ってよい理由になるかは、別の話です」
「ええ。撃たれた側の行動が、すべて許されるかどうかも」
一枚の紙が、仲介官の前へ差し出された。
「砲手が一人、焼死しました」
ネフティアの外交官は、その紙を見た。卓の中央に置かれた文字は、席からでは読み取れない。
「亡くなられた方には――」
言いかけて、相手の顔を見る。
セレネアの外交官は、わずかに顎を引いた。
「悼む言葉を、謝罪として記録させるつもりはありません」
「……哀悼の意を表します」
「本国へ伝えます」
窓の向こうで、金属を打つ音がした。
ネフティアの外交官は、音が止んでから口を開いた。
「責任についての協議には時間がかかるでしょう。その間も、身柄を留め置く必要がありますか」
「返した後、説明を求める相手は貴国政府でよいのですね」
「窓口は設けます」
「政府は関知しない、と後から言われては困る」
「窓口を設けることと、政府が派遣を認めることは別です。そこまでお約束した覚えはありません」
セレネアの外交官は、仲介官が返した死者の記録を綴りへ戻す。
「負傷者は帰る。説明は届くか分からない。それでは、こちらが合意する理由がない」
ネフティアの外交官の背で、羽の先が触れ合った。
「でしたら、要求を紙にしていただけますか。お答えするたびに、その先へ条件を置かれては届きません」
「条件を変えたつもりはありません」
「まだ示されていませんからね」
セレネア側の指が、書類の縁を押さえた。
仲介官が新しい紙を引き寄せる。
「派遣についての回答は、本日は得られていません。その点を記録します」
セレネアの外交官が口を開きかけたところで、仲介官はそちらを向いた。
「別の条件で引渡しに応じる余地はありますか。なければ、ここまでの内容を双方に持ち帰っていただきます」
しばらく、紙を押さえた指だけが動かなかった。
やがて、報告が閉じられた。その下から、折り畳んだ地図が抜かれる。
「あります」
ネフティアの外交官は、重ねていた手を解いた。
「伺いましょう」
地図は、水差しを退けなければ広げきれなかった。
セレネアの外交官が折り目を押し広げる。紙の端は、卓上に設けられたネフティア側の小机の手前まで届いた。
ネフティアの外交官は椅子を降りる。
近くにあるのは河川と林地。リュサを囲む線は、地図の向こう側にあった。
「空中からの調査に、協力していただきたい」
外交官は返事をせず、四枚の羽を開いた。
卓から浮き上がると、リュサと周辺の街道を一望できる。セレネア側の指が、そのうちの一本を辿っていた。
位置を確かめ、小机の傍らへ降りる。
「飛んだ理由にはお答えしていませんが、次に飛ぶ理由をいただけるとは」
「次は、こちらから依頼できます」
「先ほどの飛行にも、そのくらい寛大であってほしかったですね」
「寛大になったのではありません。用件が違います」
セレネアの外交官は、地図の端を押さえた。
「そちらも、返す話をしろとおっしゃった。返すための話をしています。お聞きになりますか」
ネフティアの外交官は羽を畳んだ。
「……伺いましょう。依頼であれば、条件はこちらからも出せますね」
「内容を聞いてからにしてください」
長い指が、リュサの外側をなぞる。
「新たな防御陣地があるか。兵がどの方向へ出ているか。街道に集結や大量の輸送が見られるか。この三点です」
ネフティアの外交官は、紙の縁まで歩み出た。
四人を飛ばした先も、この地域だった。
知りたかったのは、リュサから撤退したセレネア軍の所在と動き。提示された調査は、それと同じではない。それでも、現地を飛べば街道も森も見える。リュサ側の軍備も、自国の警戒に関わる情報になる。
足を止め、顔を上げた。
「こちらには、まだ治療中の者がいます」
「同じ者を出すよう求めてはいません」
「人を替えれば、安全になるのでしょうか」
セレネアの外交官は口を閉じた。
「合意した日時と経路を、我が軍へ通知します」
「通知が届く前に撃たれた場合は?」
「各部隊の受領を確認してから実施する。それでどうです」
「識別方法も決めてください。現場で身元を問われても、今度は着地すると約束するわけにはいきません」
「そこは、事前に詰めます」
ネフティアの外交官は、地図の向こうへ視線を戻した。
「リュサ側からの攻撃については」
「我が国が保証できることではありません」
「でしょうね」
小机へ戻り、椅子に腰を下ろす。
「危険があれば、調査担当者の判断で中止します。確認できなかったものを、確認するまで飛行を続けろとは求めないでいただきたい」
「中止の理由は報告していただきます」
「確認できた範囲と、中止の理由は報告します。必要とされる情報が必ず得られるという約束はできません」
「報告を作り上げろとは頼んでいません」
「では、その点は一致していますね」
仲介官が紙へ書き留める。
「回数を定めてください。期間についても」
「三回」
セレネア側が答えた。
「一回です」
「この範囲を、一度で確認できますか」
「できると申し上げましたか」
セレネアの外交官が、地図から手を離した。
ネフティア側はその動きを見届け、続ける。
「一度調査して、どこまで確認できるか。その報告を受け取る前に、三回分をお求めになっているのです」
「一度で足りなければ、またこの席を設けると?」
「追加の依頼であれば」
「二回。初回の報告に応じて、二度目に確認する範囲を相談する」
返事はなかった。
窓の外で冷却水の流れる音がする。先ほどまで金属音の合間に聞こえていた声は、もうしない。
セレネアの外交官は、返答を催促しなかった。
「二回。それ以上は、別の協議です」
ネフティア側が口を開いた。
「指揮はこちらが保持します。そちらの現場指揮官から、直接命令を受けることもありません」
「求める項目は、事前に提示します」
「今回示された三点の範囲で。攻撃への参加も、攻撃の誘導も含まない」
セレネア側が頷く。
仲介官が、その条件を読み上げて確かめた。
ネフティアの外交官は、筆が止まるのを待つ。
「もう一点。この協力を、過去の派遣への回答として扱わないこと」
「先日の飛行が政府命令によるものだったか。こちらは、今後も説明を求めます」
「説明を求めることには異議ありません。ただし、今後の調査協力に署名しても、先日の飛行を政府が命じたと認めたことにはなりません。その点を明記してください」
セレネアの外交官は、相手を見た。
「承知しました。この合意への署名を、先日の派遣を認めたものとは扱いません」
「その文言であれば、結構です」
「助かります」
ネフティア側は小さく頭を下げた。感謝するには、浅い角度だった。
「本国へ照会します」
「こちらもです」
仲介官は地図の写しを用意するよう、記録官へ告げた。
控室へ戻ると、ネフティアの外交官は机上の小さな椅子へ降りた。
背後の壁には、使われていない接続口が並んでいる。同行の書記が卓上へ降り立ち、抱えていた書類を置いた。
会談用の大きな地図とは別に、ネフティア側が携行できる大きさの写しが用意されていた。
外交官はそれを広げる。
「二回でよろしいのですか」
書記が尋ねた。
「本国が認めれば」
「調査まで引き受けるとなると、委員会が――」
外交官の指が、街道の途中を叩いた。
書記は口を閉じ、線を辿る。やがて、顔を上げた。
「ここを飛べるのですね」
「セレネア軍には、事前に通知が届く」
「こちらの調査にも使えます」
「一部はね」
地図にはリュサの名がある。何度照会しても、知りたい報告は揃わなかった。その空へ、今度はセレネアが飛んでくれと言っている。
「では、なぜ一回と?」
書記が尋ねた。
「三回で結構です、とすぐに答えれば、向こうも考え直したでしょう」
「条件をですか」
「こちらが、何を喜んでいるのかを」
書記はもう一度地図を見た。
外交官は指先のインクを布で拭う。乾いた染みは、擦っても落ちなかった。
「負担がないわけではありません。飛ぶ者には危険がある。得た報告は、セレネアの判断にも使われる。その条件は省かずに送ってください」
「こちらにも利があると、先方は気づいているでしょうか」
「目のある者を飛ばせと頼んでいるんです。指定したものしか見ないとは思っていないでしょう」
外交官は布を置いた。
「知っていても、欲しい報告がある。そこを確かめられたのは、悪くありません」
書記が筆を取る。
「派遣については回答せず、調査協力を条件に引渡しを――」
「まだです」
外交官が止めた。
「引渡しを調査の後に置かれれば、受けられない。そこは、次の席で決めます」
セレネア側の控室では、補佐官が王府への報告を書いていた。
外交官は襟元を一つ緩め、水を飲む。会談室では一度も器に触れなかったせいで、喉が乾いていた。
机の端には、王府からの指示書が開かれている。
身柄を引き渡すのであれば、その対価を明らかにせよ。
補佐官が顔を上げた。
「派遣についての回答は得られず、と記載します」
「そのとおりに」
「二回の調査協力については、合意の見込み」
「本国の判断待ちです」
補佐官は書き直した。筆を置き、地図の写しを指す。
「ここを飛ばせば、こちらの動きも見られます」
「見られるでしょうね」
「それを調べるために飛んでいた可能性もあります。今回の提案は、先方にとっても――」
「利益がある」
外交官は器を置いた。
「だから、条件の話になった」
補佐官は指を地図から離した。
外交官は、王府の指示書の下から軍の照会を抜く。
撤退部隊をどれだけ警戒に残すか。どこまで休養と再編に回せるか。
リュサを取り戻せなかった軍にも、次の配置を決める必要はある。市外の陣地と兵の動きが分からず、決めかねている事項が紙を埋めていた。
「謝罪を持ち帰れば、成果にはなるでしょう。政府が命じたと認めさせても同じです。では、その文書を読んで、軍は何人休ませられますか」
補佐官の視線が照会へ下がる。
「トーヴを問い続けても、今のリュサの配置は分からない。彼が見てきたのは、我が軍の駐屯地です。こちらが欲しい報告になるまで、答えを変えさせるわけにもいかない」
外交官は照会を机へ置いた。
「相手が損をすれば、こちらが得をした気にはなれます。そこが厄介なんです。帰せと言われて帰さなければ、譲らずに済んだ。認めろと言い続ければ、追及をやめずに済んだ。ですが、その間も兵を張りつけておくのは、こちらでしょう」
補佐官は筆を持ち直したが、まだ書かなかった。
「向こうにも得をさせたと、責められるかもしれませんよ」
「得をさせないために何を手放したのかは、聞かれにくいですからね」
外交官は指示書を畳んだ。
「だから、報告には両方書いてください。見られるものと、得られるものを。王府に判断していただきます」
補佐官は頷いた。
「調査の実施後に引き渡す条件を、求めますか」
「求めます」
「先方は拒むでしょう」
「ええ。ですが、いつ何をしていただけるのか。それを決めずに返すわけにはいきません」
外交官は襟元を留め直した。
再開した会談で、記録官は双方の席へ、それぞれの大きさに合わせた文案を置いた。
ネフティアの外交官は途中の一節まで読み、紙から顔を上げる。
「調査の完了まで、引渡しを待つことはできません」
セレネアの外交官は、自分の文案へ目を落とした。
「天候が崩れるたびに、トーヴの帰国も延期される。それでは、本国へ持ち帰れない」
セレネア側の指先が一行を辿り、やがて筆を取る。
「では、先に実施計画を。担当者と期限を明記していただきます」
「その条件であれば」
引渡しを調査後に置く一節が消された。
担当者の選定と指揮はネフティアが担い、条件の変更には双方の合意を要する。調査協力は過去の派遣への回答と扱わず、死傷者への責任についての協議は続ける。
残る条件を双方が確かめ、文案は本国へ送られた。
数日後、同じ卓に署名用の文書が並んだ。
その間にトーヴへの面会が行われ、移送も可能との報告が届いている。横たわった姿勢を保ち、途中で傷の状態を確かめることが条件だった。
引渡しは五日後。二回の調査には、実施期間と報告期限が入っている。窓の向こうでは、整備区の槌音が続いていた。
ネフティアの外交官が、小机の筆を取る。
「その前に、一点」
セレネアの外交官の指が、手元の文書の一行目を押さえていた。
「『本件の解決に向けて』ではなく、『負傷者の引渡しに向けて』。事件全体の解決には、合意していません」
ネフティア側は自分の文面を読み、頷いた。
「異議ありません」
大小の文書に、同じ訂正が加えられた。
双方が各条項を確かめ、記録官が最後に照合する。セレネア側は調査の回数と報告期限へ、ネフティア側は協力を過去の派遣への回答と扱わない一節へ、もう一度目を通した。
署名に際しては、記録官が文書を一通ずつ両国の席へ運んだ。
大きな紙が小机の前に広げられると、ネフティアの外交官は椅子を降り、署名欄の傍らへ歩み寄った。自分の筆で名を記し、退く。
セレネアの署名の隣に、小さな署名が残った。
仲介官は照合を終えた文書を双方へ渡し、引渡しに向けた連絡先を改めて確認した。
ネフティアの外交官は、携行用の一通を地図と重ねて収める。
「担当者には、本日中に連絡します」
「こちらは、引渡しの準備を進めます」
セレネアの外交官が立ち上がり、卓上の相手へ一礼した。
ネフティア側も礼を返す。書類を収めた鞄を身につけ、四枚の羽を開くと、迎えに来た書記とともに戸口へ向かった。
その姿を見送ってから、セレネアの外交官も仲介官へ挨拶し、会談室を出た。
控室で書類を収めながら、補佐官が地図の写しを持ち上げた。
「先方は、案外早く本国の承認を取りつけましたね」
「向こうにも、持ち帰れる成果があったのでしょう」
外交官は書類綴りの留め具を閉じた。
補佐官は、手元の地図へ目を落とす。
「こちらだけが譲歩を引き出した、と書くわけにはいきませんか」
「二回の調査協力を得た。それで十分です」
地図を受け取り、綴りへ収める。
「嫌がらせるために来たのではありません。引き受けさせるために来たのです」
会談室では、記録官が保管用の文書を整えていた。
窓の下を、空の搬送台が通っていく。
仲介官は床の固定金具を外し、扉のそばで待つ連絡担当者へ一通を渡した。
「受渡し地点へ知らせてください。五日後です」
別の封筒には、二回の調査に関する合意が収められている。
一人を帰す日が決まった。
そのために飛ぶ者の名は、これから決まる。




