第五十章――海図の外の国
ネレイアの使節が運んできた海図には、リュサが載っていなかった。
セナは窓際の長机に広げられた紙を見た。陸は端に細く描かれ、その先は余白になっている。海には、大小の島より多くの名前があった。
使節は巻き癖の残る紙を押さえ、同行者から受け取った四つの重りを隅へ置いた。
「こちらが、今回お確かめいただきたい区域です」
指先が、薄い青で塗られた海へ下りた。
都市庁の裏庭では、使節を乗せてきた荷車を御者が切り返していた。車輪が雨水溝の縁を擦る音が、窓から入ってくる。
今朝まで机にあったのは、アルヴェルンへ注文した十二挺の検査日を尋ねる文案と、セレネア側との往来についての書類だった。どちらも片づいていない。セナはそれらを背後の棚へ移し、使節を迎える場所を空けていた。
使節は、エシュカと名乗った。
頬の下に細い光の筋があり、襟元には湿らせた布を沿わせている。同行者が栓付きの壺を椅子の脇へ置く間も、エシュカは海図の端を押さえていた。
オルネは使節の向かいに座り、バルガは入口に近い短辺へ椅子を寄せていた。吊った左腕を机へぶつけないよう、身体を少し斜めにしている。セナはオルネの隣で筆記紙を広げた。
「産卵床ですか」
オルネが青い区域を指した。
「産卵床は、こちらの印です」
エシュカの指が、青の内側に散る小さな丸をたどる。
「囲んである方が、保護水域です」
丸印と線の間には、広い空白があった。
「ずいぶん広い」
バルガが言った。
「水が流れ込む範囲も含めています。卵の上だけを船が避けても、投棄された物は届きますので」
使節は細い矢印をたどった。その始点は、船の通り道と重なっていた。
「この区域内での投棄を禁じ、必要な検査を行う。その権限をネレイアに認めていただきたいのです」
セナは青い線の端を見た。
「検査するのは、通る船ですか」
「船と、その積荷です」
「荷を止めることも?」
「必要があれば」
エシュカは革の書類入れを開いた。
「対象と手順はこちらに。区域全体への立入りを禁じる提案ではありません」
薄い綴りが、海図に重ならないようオルネの前へ置かれた。
オルネは最初の頁を開いた。
「俺たちに船はない」
バルガが言った。
「今、ここへ持ってくる話なのか」
「ほかの船へ輸送を委ねる場合にも関わります。荷の持ち主と船を出す側で、承知している条件が違えば、現地で争いになります」
「俺たちが認めれば、船を出す国も従うのか」
「いいえ。船を出す側とも協議します」
「それは、どこまで進んでいる」
エシュカはバルガへ顔を向けた。
「個別の交渉内容については、ここでは申し上げられません」
バルガはそれ以上聞かず、オルネの手元を見た。
頁をめくる音が続く。
「検査の間に荷物が傷んだ場合は」
オルネが尋ねた。
「品目に応じ、優先して扱う手順を設けています」
「優先することではなく、損失を誰が負うかを聞いています」
エシュカは綴りへ手を伸ばしかけ、止めた。
「責任の所在によります」
「それでは、この文面のまま同意はできません」
使節の後ろで、同行者が書き留めた。
セナも同じ箇所を筆記紙へ写した。積荷を止める判断はネレイアがする。止めた結果については、まだ決まっていない。
「区域を広げる場合も、同じ扱いになりますか」
「今回お示しした区域についてのご提案です」
「では、変更には別の合意が必要だと書いてください」
「ご意見として記録します」
セナは筆を止め、エシュカを見た。
使節は微笑まなかった。承諾したとも、拒んだとも言わず、次の問いを待っている。
オルネが綴りの後ろを開いた。
「合意内容を、他国へ提示する」
その一行を読み上げ、指先で押さえた。
「これは、署名した文書を見せるということですか」
「写しを提示する予定です。区域と保護措置について、理解を得ていることを伝えます」
バルガが右手を海図の縁へ置いた。
「誰に」
「関係する国々へ」
「船を出す国にもか」
「はい」
バルガは海図から手を離した。
「船のない俺たちに、先に返事をさせたいわけだ」
「船を持つ国の回答を待たずに、ご判断いただけると考えています」
「ほかが認めたかどうかは教えない。だが、俺たちが認めたことは、ほかへ教える」
エシュカは答えるまでに一呼吸置いた。
「公表する範囲も含めて、本日ご相談しています」
セナはオルネから綴りを受け取り、最初の頁を開いた。
ネレイア潮環連邦。
その相手として記されているのは、リュサの共同統治を担う代表者、という言葉だった。
セナは綴りをオルネの前へ戻し、そこを指した。
オルネの指が頁の端をなぞった。
「リュサ国共同政府へ直してください」
エシュカは筆を取らなかった。
「その表記は、私の判断では変更できません」
「国としての合意を求めているのではないのですか」
「現に共同統治を担い、合意を履行できる方々にお願いしています」
「ネレイアは、リュサを国家として認めるのですか」
「今回の委任には、国家承認についてお約束する権限は含まれておりません」
バルガは背もたれから身体を起こした。
「それなら、署名はできない」
「国家承認と保護水域についての合意は、別に扱える問題です」
「ネレイアには、そうなのだろう」
エシュカの視線が、バルガからオルネへ移った。
オルネは綴りを閉じた。
「こちらも、同じ回答です」
廊下の足音が扉の前で止まった。入口に控えていた職員が外へ出る。低い声のやり取りが続き、足音が遠ざかった。
エシュカは襟元の布へ指を入れた。
同行者が壺から器へ水を注ぐ。使節は布を浸して首筋へ当てた。
「国家承認についての回答を待つ間にも、保護措置の必要性は変わりません」
オルネは何も言わなかった。
「工場を持つ国は排水の条件を、船を持つ国は航行の条件を先に求めます。こちらが譲らなければ、協議が止まる。その間も、水は産卵床へ流れ込みます」
エシュカは布を器の脇へ置いた。
「すべての争点が解決するまで、保護水域を認めない。その扱いが続けば、ネレイアは他国の合意を得られないまま措置を進めざるを得ません」
「進めるつもりなのか」
バルガが訊いた。
「今後の措置を、私から申し上げることはできません」
「だが、合意があった方が都合はいい」
「そのために伺っています」
使節は目を逸らさなかった。
バルガが右手を差し出すと、オルネは閉じた綴りをその手の届くところへ滑らせた。バルガは引き寄せ、表紙へ指を置いた。
「俺たちは、ここを国と呼んでいる。だが、セレネアは今も自分の土地だと言っている。ネレイアも、国とは認めずに済ませている。その俺たちに、ネレイアが船を止める権限を認めろと来た」
エシュカは黙っていた。
「その文書を、ほかの国との交渉に使うのだろう。なら、俺たちも使う。ネレイアがリュサを国と認めたと、セレネアにも、ほかの国にも示す。そちらが俺たちの返事を見せるのと同じだ」
バルガは綴りをオルネの前へ押し戻した。
「卵が失われる話を聞いても、俺には止められない。だが、リュサの名で何を認めるかは、ここで止められる。俺たちには国と認める返事を渡さず、ネレイアの欲しい返事だけ持って帰る。それは認めない」
セナは、使節の後ろにいる同行者を見た。
筆が動いていた。
エシュカは海図へ目を落としたまま言った。
「国家承認と引き換えなら、この案へそのまま署名されますか」
「いいえ」
オルネが答えた。
「検査で生じた損失も、区域を変更する場合の扱いも詰めます。双方が条件を受け入れたところで、国家承認と保護水域の合意をまとめて成立させたいのです」
「先に国家承認だけを行え、というご要求ではないのですね」
「はい。ただし、保護水域についてだけ合意し、国家承認を後回しにすることも認めません」
エシュカは同行者へ手を差し出した。手元の記録を受け取り、ここまでの記載に目を通す。
セナは自分の筆記紙を裏返した。
「少し、こちらで相談する時間をください」
オルネが言うと、使節は記録を返した。
エシュカたちには、廊下を挟んだ部屋へ移ってもらった。
扉が閉じてから、バルガは吊り布の結び目へ指を差し入れた。首筋に食い込んでいた布を緩め、椅子へ深く座り直す。
「国と認めるだけでは、足りないか」
オルネへの問いだった。
「認めたことを公表できなければ、セレネアとの交渉に使えません」
セナが筆を持った。
「署名したあとで、承認については非公表だったと言われないようにする」
「こちらの合意だけを先に見せられるのも困ります」
オルネは閉じた綴りをセナの前へ押した。
「公表するなら、双方の文書を一緒に。それと、合意する前に、協議へ応じたことを保護措置への賛同として使わせないでください」
セナは書き留めた。
バルガが海図を見た。
「今日、署名を渡さなくても、向こうは交渉を続けると思うか」
「本国に問い合わせるかどうかです。要求を聞いても、そこまでする価値はないと判断するかもしれません」
オルネはそう答えたが、文案へ譲歩は書き足さなかった。
セナは窓の外へ目を向けた。
裏庭の端に、使節の荷車が停めてある。御者は御者台を離れ、車輪の陰に腰を下ろしていた。
「全部断られたら?」
「そのときは、署名しない」
バルガが答えた。
「国と認めさせるために、荷を好きに止められる約束をするつもりはない。条件が合わなければ、今回の話はそれまでだ」
セナは紙へ視線を戻した。
国家承認と、その公表。
保護水域の範囲、検査の条件、荷を留め置いた場合の責任。
それぞれの項目を書き、双方が条件を受け入れた場合に、まとめて合意する旨を添えた。
オルネは書き上がった文案を読み、一か所へ指を置いた。
「ここは、共同政府としての最終決定ではないと明記してください。私たちだけで合意を決められるわけではありません」
セナが直す間、バルガは海図を見ていた。
「持ち帰るときは、ネレイアが何を欲しがったかも伝える。卵の場所だけ見せても、判断はできない」
オルネが頷いた。
戻ってきたエシュカは、文案を最後まで読んだ。
すぐに話し始めず、二度目は指で行をたどった。同行者は椅子の後ろに立ったまま待っている。
「国家承認を含む条件について、本国へ照会します」
使節が言った。
「ただし、回答の時期はお約束できません」
オルネは文案の末尾を指した。
「それまで、こちらが保護水域を認めたとは伝えないでください」
エシュカは顔を上げた。
「協議を行った事実は報告します」
「協議したことは構いません。同意したとは書かないでください」
「その点は承知しました」
セナは回答を書き留めた。
「海図と手順書の写しは置いていけますか。こちらでも、内容を確かめます」
「お渡しします」
同行者が書類入れから写しを出した。セナは受け取り、オルネとの間に置く。エシュカは持ち帰る海図の重りを一つずつ外した。
バルガがその手元を見た。
「署名が得られなかったら、次は別の国へ行くのか」
使節の手が止まった。
「ほかの訪問先については、お答えできません」
「そうか」
バルガは引き留めなかった。
エシュカは海図を巻き終え、同行者へ渡した。だが、椅子からは立たなかった。
「本国からの回答を、当地で待ちたいと考えています。滞在の延長について、ご相談できますか」
オルネは入口の職員を呼び、部屋の空きを確かめるよう頼んだ。
その間に、セナは文案の写しを一通作った。使節が受け取るものと、こちらに残すものを並べ、文面が同じであることを確かめてもらう。
署名を求めて来た使節は、署名のない条件書を受け取った。
エシュカたちが部屋を出ると、バルガは窓越しに荷車を見た。
職員から何かを伝えられた御者が立ち上がり、荷台へ戻していた荷を、また下ろし始めている。
セナは自分たちの条件書と、ネレイアの案を並べた。
元の案にあった、リュサの共同統治を担う代表者、という表記は消さなかった。次に届く文書で、どこが変わるかを確かめるためだった。




