第四章――三通目の報告書
オルディア自律共和国の第三検証官は、旧トーレン関門へ到着して七秒で、現場が保存されていないと判断した。
薬莢がない。
小銃の銃口に、発射後の煤は残っていない。清掃済み。
境界術式の銀線には新しい魔力が流れ、補修用の蔦紋が亀裂の周囲を覆う。
二人の死者が倒れていた位置には、白い石灰の人型。負傷者の血は雨水に薄まり、石畳の目地へ沈んでいる。
三つのレンズが追うのは、残された物より、あるはずの物が抜け落ちた位置だ。
薬莢。煤。破裂時の魔力。倒れた身体。
どれも混乱の中で失われたのではない。両軍が、それぞれ必要な仕事を済ませた結果である。
物は嘘をつかない、と有機種はよく言う。
第三検証官は、その表現を正確だとは考えていなかった。
物は何も語らない。
失われた物は、なおさらだった。
アルヴェルン側には、軍務省書記官と小隊長が立つ。門を挟んだセレネア側には、焼けた頬の守備隊長。声を張らなくても、互いの言葉は届く。
「双方が、調査団の到着前に証拠を変更しています」
第三検証官は、門前の境界線を挟んで向かい合う両軍へ告げた。
軍務省書記官の眉が上がる。
「隠滅したと言いたいのか」
「薬莢は軍用物資だ。敵に拾わせるわけにはいかん」
小隊長の声も続く。
門の向こうから、守備隊長の声が返る。
「術式を放置すれば、再び暴発する危険があった。行ったのは修復だ」
「隠滅という語は使用していません」
第三検証官のレンズが、両陣営へ交互に向く。
使っていない語を、双方が同じように聞き取った。
第三検証官はその事実も記録したが、口にはしなかった。
儀礼用の白い装甲をまとった第一調整官とは異なり、その身体は調査用に組まれていた。細い黒鉄の骨格。傷だらけの灰色装甲。顔の位置には大きさの異なる三つのレンズがあり、焦点を変えるたびに小さな金属音が鳴る。
「では、語を改めます。双方が、それぞれ正当と考える理由に基づき、現場を変更しました」
「長くなっただけですね」
ネフティアの羽化記録官が言った。
彼女は第三検証官の肩ほどの高さを飛び、薄い記録板を胸に抱えていた。片方の羽の先が欠けているため、空中で静止するたびに身体がわずかに左へ傾く。
「消えたものが戻らない点は同じです」
それには、どちらの軍も反論しなかった。
共同調査団は二人だけ。
オルディアが物証を調べ、ネフティアが証言を記録する。セレネアとアルヴェルンからも立会人が一名ずつ付いている。ただし二人とも、調査より互いを監視する方に忙しい。
「どちら側から始める」
アルヴェルンの小隊長が尋ねた。
第三検証官の足が、門前に残る銀線の上へ乗る。
両軍の兵士が一斉に身構える。
盟約王冠から切り離された線に、兵を止める権限はもうない。
それでも、千年かけて覚えた身体の方は、まだ線を境界だと信じている。
「現場側から始めます」
片膝をつき、右手の人差し指を外す。
指の内部から針のような検査具が伸び、亀裂の奥へ差し込まれた。三つのレンズが順に細まり、銀線に残った魔力の層を読み取っていく。
最も表面にあるのは、昨夜流し込まれたセレネアの補修魔力。
その下に、破裂時の乱れた残滓。
さらに奥には、千年間、盟約王冠から供給され続けた命令の痕跡。
最後の層だけが、途中で切れていた。
王が死んだ瞬間だった。
有機種の目には同じ青白い光でも、第三検証官のレンズには時間の順に重なって見える。
分かるのは、何が先に残ったかだけだった。誰が何を恐れ、何だと思って引き金を引いたのかは、どの層にも刻まれていない。
「術式へ攻撃命令が送られた形跡はありません」
第三検証官の中央レンズが細くなる。
アルヴェルンの書記官が記録紙から顔を上げる。
「では、あの光は何だ」
「残留魔力の無指令放出です。盟約王冠からの制御を失った状態で門鎖へ物理的な力が加わり、侵入者排除の術式が不完全に作動しました」
「侵入者排除なら、攻撃ではないか」
「術式は誰かを狙っていません。放出による負傷者も確認されていません」
守備隊長の声が低くなる。
「しかし、先に境界線を越えたのは、人族の工兵だ。そちらの兵が踏み込まなければ、術式は作動しなかった」
「我が国の工兵が、我が国の門へ入っただけだ」
小隊長の返答は早い。
「そこを貴国の境界と認めるかどうかは、調査対象ではありません」
第三検証官が検査具を引き抜く。
羽化記録官の筆記針が記録板を走る。
「つまり、最初に光を放ったのは、死んだ盟約王の術式だったのですね」
「術式に意思はありません」
「意思のないものを最初の攻撃とは呼べない?」
「攻撃という語には、行為者と意図が必要です」
「では、あの場にいた兵士たちは、何に応戦したのでしょう」
第三検証官は答えなかった。
それは物証から測定できる問いではなかった。
証言の聴取は、両軍を別々の建物へ分けて行う。
国境監視所の倉庫で、エド・ハルムは前夜と同じ椅子へ座らされた。
机の向こうにいるのが、軍務省の書記官ではなく人工種とピクシーであること。それだけが違う。
椅子の脚が石床につけた傷まで、昨夜と同じ位置に残っている。
あのときは、自分の言葉が報告書へ整えられていくのを見ていた。今日は何も余計に渡すまいと思ったのに、最初の問いは昨日と同じだった。
壁際には、アルヴェルンの書記官。
「最初に見たものを述べてください」
第三検証官が言った。
「光です」
「光の発生前、セレネア兵が矢を放つところを見ましたか」
「見ていません」
「魔法を使用する動作は」
照準の中で震えていた指が、エドの目の前へ戻る。
「弓に光がありました」
「それは工兵が境界線を越える前からですか」
「はい」
「では、戦闘準備状態であったことは確認できます。攻撃魔法を発動したことは確認できません」
壁際から、アルヴェルンの書記官が割って入る。
「兵士に法印官のような区別を求めるのか。光る弓を向けられれば、攻撃されると思うのが当然だ」
羽化記録官の身体が、空中で書記官へ向き直る。
「いま記録しているのは、当然だと思うことではありません。この兵士が見たことです」
書記官の口が閉じる。
「破裂音のあと、あなたはどうしましたか」
三つのレンズが、エドの手元へ向く。
エドは膝の上で両手を握り込む。
爪の間には、何度洗っても落ちなかった同期兵の血が残っている。
「撃ちました」
「その前に、銃声を聞きましたか」
エドは答えられなかった。
一発目は青い光だった。
そう思っていた。
だが尋ねられているのは、光ではない。
「聞いていません」
「弦音は」
「分かりません」
「矢が飛ぶところは」
「見ていません」
第三検証官の三つのレンズが、同時にエドへ向いた。
「あなたは、確認できた範囲では最初の投射武器を発射した可能性があります」
喉の奥が狭くなった。
可能性があります。
そう言われたはずなのに、エドの中には「最初」だけが残った。
「違う」
声が思ったより小さくなった。
「向こうが先に、魔法を」
「境界術式の放出は確認されています」
「なら、俺は撃ち返した」
「あなたが、そのように認識したことを記録します」
「認識じゃない」
認識という言葉が、丁寧な言い方で間違いだと告げられたように聞こえた。
エドが立ち上がる。
椅子の脚が石床を擦る。
アルヴェルンの書記官が肩へ置いた手を、エドは振り払う。
「俺は戦争を始めていない」
羽化記録官は記録板から目を上げた。
「私たちは、誰が戦争を始めたかとは尋ねていません」
その言葉で、エドの口から次の言葉が消えた。
次に椅子へ座ったのは、セレネアの弓兵。
肩に弾丸の破片が残り、腕を吊っている。
身じろぎするたび、吊った腕の奥で破片が肉に触れる。その痛みがあるかぎり、人族のしたことは攻撃以外の何ものにもなりようがない。
彼は、境界術式が光った瞬間には矢をつがえていたと認めた。
だが、矢を放ったのは、隣にいた弓兵が胸を撃ち抜かれたあとだという。
「人族の兵が先に撃った」
弓兵は同じ言葉を繰り返す。
「フィレンが倒れるのを見た。それから私は放った」
「小銃が発射される前、工兵は何をしていましたか」
羽化記録官の筆記針が止まる。
「警告を無視して門を壊していた」
「あなたはそれを攻撃だと思いましたか」
「思ったのではない。攻撃だ」
「そのように認識したことを記録します」
弓兵の耳へ赤みが差す。
エドを立ち上がらせたのと、同じ言葉。
二人とも、自分が見たものを話しているつもりだった。
二人とも、それを認識と呼ばれた瞬間、自分の側だけが疑われたと思った。
正午前、共同調査団が三通目の報告書を作る。
一、アルヴェルン工兵一名が、旧境界線を越えた。
二、同工兵が門鎖へ物理的な操作を加えた。
三、制御を失っていた境界術式が、残留魔力を無指令放出した。
四、アルヴェルン兵一名が小銃を発射し、セレネア兵一名を死亡させた。
五、セレネア兵が魔法矢を放ち、アルヴェルン兵一名を死亡させた。
最初の銃声と最初の弦音の間隔は、一秒に満たない。
死者は二名。重傷者は両軍合わせて二名。
境界術式の放出そのものによる死傷者は、確認されなかった。
最後に、第三検証官が一文を加える。
――以上は事象の発生順序であり、いずれの事象を最初の攻撃と定義するかについて、本調査団は判断しない。
「その一文を削れ」
セレネアの守備隊長の指が、その一文を叩く。
「最初の攻撃は越境だ。判断できないのではない」
「三番目を『セレネア管理下の軍事術式が作動』と改めてもらう」
アルヴェルンの書記官の指は、三番目へ移る。
「我が兵の発砲は、それに対する防衛行動だ」
第三検証官のレンズが、二人へ交互に向く。
「両方の修正を同時に採用することはできません」
「なら、事実に合う方だけを採用しろ」
二人の声が重なる。
羽化記録官の欠けた羽が、小さく震える。
「あなた方は、事実を確かめたいのではありません」
記録板を抱く腕に、わずかに力が入る。
「それぞれが先に決めた結論を、私たちの印で事実にしたいだけです」
セレネアの守備隊長の署名欄は、空いたまま。
アルヴェルンの小隊長の署名欄も、空いたまま。
三通目の報告書に刻まれたのは、オルディアとネフティア、二つの主権印だけだった。
三通の中で最も多くの事実を記し、最も少ない国にしか認められない報告書となった。
かつてなら、盟約王が結印具を通じて一つの言葉を定めれば、盟約王冠に結ばれた六つの主権印が、それを六国家すべての公式な事実として成立させた。
いま、二つの主権印は、残る四つの国へ何も強制できない。
報告書の写しは、双方の首都と国家元首会議へ送られる。
しかし、それが届くより先に、二通の報告書が街へ出た。
三通目だけが、現場を調べたために遅れた。
アルヴェルンの輪転機が、号外を何万枚も吐き出す。
――セレネア軍、祖国領内で魔法攻撃。人民兵一名死亡。
セレネアでは、樹冠評議会の告示が各都市の伝達樹へ掲げられる。
――アルヴェルン武装部隊、国境施設へ侵入。守備兵一名殉職。
どちらにも嘘は書かれていなかった。
三通目の報告書にあった事実のうち、自国に不要な部分が載っていないだけだった。
午後、アルヴェルン側の線路から軍用列車の汽笛が届く。
歩兵一個中隊と機関銃、工兵資材を積んだ貨車が、監視所の裏へ停まる。
命令書には、停戦の維持および自国部隊の保護のためと記されていた。
ほぼ同じ時刻、門の向こうの森から、セレネアの増援が現れる。
弓兵二個隊と魔導兵、術式を補強する法印官たち。
こちらの命令書にも、停戦の維持および自国部隊の保護のためと記されていた。
両軍は白い石灰線の外側へ陣地を掘り始め、互いの増援を数える。
門の下では、二人の死者がそれぞれの旗に包まれ、反対方向へ運ばれていく。
アルヴェルン人民軍二等兵ニル・バルト。
セレネア守備軍弓兵フィレン。
二人は生前、互いの名を知らなかった。
死後も、相手の国の報告書へ名が載ることはなかった。
その日、旧トーレン関門では、一発の銃声も鳴らなかった。
停戦は守られた。
停戦を守るために、両国は前日より十倍の武器を国境へ向けた。




