第三章――二発目
アルヴェルン人民軍二等兵エド・ハルムは、自分が撃ったのは二発目だと信じていた。
一発目は、青い光だった。
あれを攻撃と呼ぶなら、自分が撃ったのは二発目になる。
ただ光っただけなら、最初に撃ったのは自分だ。
エドはまだ、そのどちらかを選べずにいた。
音がして、光が走ったのか。
光が走って、それから音がしたのか。
何度思い返しても、そこだけが曖昧になる。
確かなのは、次に気づいたときには小銃の銃床が肩へ食い込み、照準の向こうで一人のエルフ兵が倒れていたことだけだ。
銃声は、国家元首たちの会議へ報告が届く三時間前に鳴っていた。
アルヴェルン東部国境、旧トーレン関門。
元々は、人族が築いた石造りの関門だ。
先の大戦でセレネア軍に接収され、門柱に刻まれていたアルヴェルンの国章は削り取られた。その上から蔦を模したエルフ文字と、盟約王の冠印が刻み直されている。
削られた国章の輪郭だけは、石の色の違いとなって残っていた。エドには、古い傷を隠すため、その上から別の傷を刻んだように見えた。
戦争が終わってから、人族はその門を通るたびに、自国の領土でエルフ兵から荷物を調べられてきた。
盟約王が死んでも、門の上にはセレネアの旗が残っていた。
「本日正午をもって武装を解除し、関門をアルヴェルン政府へ返還せよ」
小隊長が通告書を読み上げた。
門を挟んで向かい合う兵士は、双方合わせて五十人にも満たない。
アルヴェルン側は小銃を持った歩兵二十四名と、通信兵、軍務省の書記官、関門設備を確認する工兵三名。
セレネア側は弓兵と魔導兵を合わせて十九名。
数では人族が上回っている。
だが石壁の上から見下ろすエルフ兵の弓は、青白い魔力光をまとっている。
エドの喉が小さく鳴る。
二十四対十九。
訓練では優勢を示す数字だ。今は、十九本の光る矢へ二十四人で向き合っていると教えるだけでしかない。
工場で旋盤を回していた頃、魔法は照明具の内側に収まっていた。
盟約王の死から五日後、予備役動員令が届いた。十三日間の再訓練を終える前に、彼の隊は関門へ送られた。
上官からは、戦闘にならないと聞かされていた。
エルフは命令書を見れば退く。盟約王は死んだ。もう彼らがアルヴェルン領内へ居座る法的根拠はない。
説明は単純だった。
エドは、その単純さを信じた。信じなければ、十三日の訓練だけでここへ来た理由がなくなる。
門の上に立つ兵士たちが、どう考えるかについては聞かされていなかった。
「盟約王権の失効は承知している」
セレネアの守備隊長が答えた。
白髪を後頭部で束ねた、痩せた男。外見だけなら三十歳ほどに見える。だが頬から首へ伸びる古い火傷は、半世紀ほど前、この関門で起きた衝突で負ったものだという。セレネアは「暴動」と呼び、アルヴェルンは「関門奪還蜂起」と呼ぶ事件だ。
「我々も撤収命令を待っている。しかし部隊を解散し、武器を引き渡す命令は受けていない」
「命令を出す盟約王は死んだ」
アルヴェルンの小隊長が言った。
「ならば貴官らは、誰の命令でそこにいる」
守備隊長の表情は変わらなかった。
「昨日までと同じ命令だ」
「昨日までの命令は、今日の占領を正当化しない」
「今日届いた一枚の紙も、我々の武装解除を正当化しない」
両者とも声を荒らげなかった。
壁上の弓兵は弓を下ろさず、アルヴェルン兵も小銃を構えたまま動かない。
エドの右隣で、同期兵の唇だけが動く。
「本当に撃たないよな」
返事はできなかった。
撃たないと答えれば、それが願望であることを認める気がした。
撃つことになるとも言えなかった。そのとき最初に浮かんだのが同期兵ではなく、自分の身体だったことを知られたくなかった。
アルヴェルンの小隊長が懐中時計の蓋を開く。
「正午まで、あと七分だ」
「時間が来ればどうする」
守備隊長が尋ねた。
「門を検分する」
「許可しない」
「我が国の門を調べるのに、貴官の許可は必要ない」
小隊長の合図で、工兵三人が工具箱を持って門へ近づく。
歩調に合わせて揺れる工具箱を、エドは目で追った。
門前の石畳には、細い銀線が半円状に埋め込まれている。盟約軍の施設を守るための境界術式だ。
以前は銀線の上に、王冠をかたどった光が絶えず浮かんでいたという。
今は光の半分が消え、残った線も呼吸するように明滅を繰り返す。
旋盤の回転が止まる直前に点滅する、警告灯。エドには、あれと同じに見えた。
工場なら主電源を落とせばいい。だが門のどこに、そのための取っ手があるのか誰も知らない。
盟約王の死とともに効力を失ったはずだが、完全には消えていない。
誰も、その状態の術式へ触れた経験がなかった。
「境界線を越えれば、侵入と判断する」
壁上から、守備隊長の声。
工兵たちの足が止まる。
アルヴェルンの小隊長の視線が、周囲の兵を一巡する。
ここで退けば、二十四人の兵士全員がそれを見る。関門の向こうに集まり始めた住民も見る。翌朝には、エルフに脅されて自国の門から逃げた将校として、首都まで話が届くだろう。
小隊長の視線が住民の方へ動いたとき、エドには次の命令が分かった。
待て、と言ってほしかった。
「境界線は盟約王令によって引かれたものだ」
小隊長は言った。
「その王は、もういない。進め」
先頭の工兵の靴が、銀線を跨ぐ。
壁上でエルフの弓が一斉に持ち上がり、アルヴェルン兵の小銃もそれを追う。
照準器の向こうに、一人のエルフ兵が入る。
若い。
エドより若く見える。エルフの年齢など外見では分からない。それでも、弓を引く指が震えているのは見える。
照準の中で目が合う。
向こうも怖がっている。
そう気づいた瞬間だけ、胸の奥が少し緩む。
自分と同じように怖がっている者なら、先には撃たない。
なぜそう思えたのかは分からない。
工兵が門の鎖へ工具をかける。
金属同士が擦れる。
銀線の明滅が速くなる。
「下がれ!」
守備隊長の声が壁上から落ちる。
小隊長の命令も重なる。
どちらの言葉も、エドの耳には届かない。
工兵が鎖へ力を込める。
盟約王の冠印に、光が戻る。
一瞬だけ。
青白い光が門全体を走り、王冠の中央から亀裂が広がる。
乾いた破裂音。
弦の音も混じっていた気がする。
いや、それはあとから記憶へ加えたのかもしれない。
エドは引き金を引いた。
反動が肩へ食い込む。
撃とうと決めた覚えはない。人差し指だけが、考えるより先に訓練どおり動く。
照準の中でエルフ兵の胸が跳ね、その身体が壁上から消える。
ほぼ同時に、青い矢がアルヴェルン兵の列へ飛び込む。
矢は、右隣にいた同期兵の喉を貫く。
声もなく、同期兵の膝が折れる。
誰かの銃声に、誰かの矢が返る。
銃声と弦音と魔法の炸裂が重なり、関門の石壁の間で何度も跳ね返る。
気づけば、エドの手は二発目を装填していた。
何を狙ったのか覚えていない。
煙の向こうに白い髪が見えるたび、引き金へ指が沈む。
エルフの矢が石畳へ突き立ち、青い炎を撒き散らす。アルヴェルン兵の弾丸は胸壁を削り、白い破片を飛ばす。
「撃ち方やめ!」
小隊長の声が銃声の間を割る。
「やめろ! 撃つな!」
守備隊長も叫ぶ。
命令が兵士たちへ届くまで、さらに三発の銃声が鳴る。
最初の破裂音から、二十七秒。
石畳にはアルヴェルン兵が二人倒れていた。壁上では一人のエルフ兵が動かず、もう一人が胸壁にもたれて肩を押さえていた。
工兵たちは境界線のこちら側へ這って戻った。
門の前に残ったのは、工具箱だけだった。
両軍は、銃と弓を向け合ったまま動かなくなった。
エドの足元で、同期兵の口だけが開いては閉じる。
喉に刺さった光の矢はすでに消えている。傷口だけが焼け焦げ、血が流れなかった。
血がないせいで、まだ助かるように見えた。
そう思いたがった自分の両手は、傷口へ触れた途端に震え始めた。
小銃を足元へ置き、エドは両手で傷口を押さえる。
「衛生兵!」
返事はなかった。
同期兵の目は、エドへ向いている。
助けを求めているのか、自分を撃った相手を見ようとしているのか分からない。
やがて、その目から力が抜けた。
エドの手の下で、身体が重くなった。
関門の上から、誰かの泣き声が落ちてきた。
エルフの言葉だ。
意味は分からない。
それでも、死んだ兵士の名を呼んでいることだけは分かった。
戦闘から一時間後、エドは国境監視所の倉庫で事情を聞かれた。
机の向こうに小隊長と軍務省の書記官が座っている。
「最初に何を見た」
書記官が尋ねた。
誰を撃ったのかとは聞かれなかった。
そのことに安堵してから、エドは自分が何を恐れていたのかに気づいた。
「光です」
「セレネア兵の魔法か」
エドは答えようとして、止まった。
青い光は、門の冠印から出たように見えた。
だが、その向こうには弓を引いたエルフ兵がいた。
「分かりません」
「では、最初に何を聞いた」
「破裂音です」
「銃声か」
「違うと思います」
「魔法の炸裂音か」
エドは、また止まった。
工場では蒸気管が破裂する音を聞いたことがある。小銃の暴発も、訓練で一度聞いた。
あの音は、どちらとも違った。
「たぶん」
「たぶん、何だ」
「魔法だったと思います」
書記官のペンが動いた。
エドは「思います」と言った。
ペン先は、そこを必要としなかった。
『セレネア軍の魔法攻撃を確認後、我が部隊は応射』
紙には、そう記された。
椅子の脚が石床を擦り、エドは机へ身を乗り出した。
「攻撃だったかは、分かりません」
書記官はペンを止めた。
「君は魔法の光と音を確認した。その直後、味方が死んだ。違うか」
「違いません」
「なら、記録に誤りはない」
嘘は書かれていなかった。
エドが見たものは、すべて記されていた。
エドが分からなかったことだけが、紙の上から消えていた。
同じ頃、門の向こうではセレネアの守備隊長が報告書を作っていた。
『アルヴェルン工兵が警告を無視して境界術式を破壊。直後に小銃による攻撃を受けたため、守備隊は応戦』
こちらにも、嘘は書かれていなかった。
二つの報告書は、それぞれの国へ向けて送られた。
夜になって、国家元首会議から命令が届いた。
――現在地を保持せよ。先に撃つな。共同調査団の到着まで、いかなる挑発にも応じるな。
小隊長は命令書を二度読んだ。
「遅い」
それだけ言って紙を畳んだ。
夜明けには、ネフティアとオルディアの調査員が来るという。
軍曹の命令で、兵士たちは石畳に散らばった薬莢を拾い始めた。
小銃の型式や発砲数を敵に知られないための、通常の処置だった。
エドの指が、石畳の薬莢を一つ拾い上げる。
どれも同じ形をしている。自分の一発目も二発目も、他人の弾も、拾い上げれば区別はつかなかった。
残しておいても証拠にはならない。
そう自分に言い聞かせ、袋へ落とす。
乾いた音が一つ、袋の底から返った。
門の向こうでは、エルフの魔導兵たちが壊れた境界術式を修復している。
再び侵入されないための、当然の処置だった。
エドも小銃を分解し、油を染み込ませた布を銃身へ押し込む。
火薬の煤が布へ移り、内側の施条が黒い光を返す。
油の匂いだけは、旋盤を回していた頃と同じだった。関門へ来てから初めて、手が迷わず動いた。
彼は自分が撃ったのは二発目だったと信じていた。
だが銃身を磨き終えたとき、それを証明できるものは、もう彼の記憶しか残っていなかった。




