第二章――円卓に足りない椅子
椅子は六脚しかなかった。
儀典官ネイセル・ヴァレシオンは、席次表から顔を上げた。
生きた巨木から削り出された円卓を回り、入口から最も遠い王の席まで確かめる。背後の木壁との間には、侍従が盆を持って通れる幅もある。六国家の名は、手元の表と同じ順に並んでいた。
手配に誤りはない。
そのことを確かめても、入口に立つ二人の居場所は増えなかった。
獣人族の使節バルガは、灰色の耳を後ろへ倒している。旅装の肩幅はネイセルの倍近くあり、腰には湾曲した短刀が残っていた。氏族の刃は身体の一部だと言い張り、預かろうとした衛兵三人を退かせたところだ。
隣のセヴァルは何も言わない。灰色の皮膚に、額から後頭部へ伸びる黒い角。その近くで魔法灯が弱まり、扉を押さえる衛兵の顔まで暗くなっている。
ネイセルは濃緑の上衣の袖を引き、控えの間を示した。
「お二方の席は、こちらに用意してあります」
バルガは動かなかった。
「ここから、会議が聞こえるのか」
「本会議へのご入室は、議長がお呼びになってからになります」
「俺たちは、呼ばれるまで外で待つために来たんじゃない」
ネイセルは手を下ろした。招待状には傍聴人と記してある。その一行を読み上げれば済むはずだったが、バルガは円卓から目を離さない。
「盟約王候補となる権利は、国を持たぬ種族にもある」
セヴァルの声は低く、乾いていた。
「先の終戦条項に、そう刻まれているはずだ」
「候補となる資格を否定しているのではありません。本日は国家元首による会議ですので――」
「その元首たちが、王の選び方を決めるんだろう」
バルガが言った。
「俺たちのいないところで」
候補になれることと、国家元首の円卓に座れることは別だ。樹冠評議会の解釈を、そのまま伝えればよかった。
ネイセルが口を開くより先に、廊下から声がした。
「椅子を二つ置くのに、ずいぶん難しい理屈が要るものだな」
衛兵が左右へ退く。
カルドラン山岳王国の国王、ボルグラム・ブレグナールだった。背丈はネイセルの肩にも届かないが、金属板を縫い込んだ礼装の下には厚い胴がある。赤褐色のひげを束ねる鉄輪が、歩くたびに鳴った。
背には幅広の斧。
衛兵は、それを預かろうとしなかった。
片方は礼装で、片方は武器。バルガの短刀を預かるよう指示したのは、ネイセル自身だった。
ボルグラムは円卓を拳で叩き、返ってきた鈍い音に鼻を鳴らした。
「悪くない材だ。だが乾燥が足りん。百年もせずに反るぞ」
「この卓は、完成から三百年になります」
「なら、もう反っておる」
随行員へ顎をしゃくると、廊下から長椅子が運び込まれてくる。ネイセルが行く手へ出たときには、先頭の男が入口を抜けていた。
「お待ちください。席は、こちらで定めております」
「では、二人分を足せ」
「私の判断で増やすことはできません」
「わしが置かせたと言えばよかろう」
長椅子は入口寄りの二席の間へ据えられた。通路が狭まり、盆を抱えた侍従が壁へ身を寄せる。
バルガはもう腰を下ろしていた。セヴァルはその脇に立ち、椅子のない卓の縁を見ている。
ネイセルは二人を立たせる言葉を探した。ボルグラムは金属の酒筒を取り出し、こちらの返事など待たずに飲んでいた。
「灯りを増やせ。そこが暗い」
「灰角族の方の近くでは、魔力を吸われます」
「なら油を燃やせ。火まで身分を選びはせん」
ネイセルは、盆を抱えたままの侍従を呼び止めた。
次に入ってきた男は、長椅子を見るなり足を止めた。
アルヴェルン人民共和国の国家統監、ハイン・ロート。白髪の混じる短い髪と、額の深い皺。濃灰色の官服には勲章がなく、懐中時計を開く右手の人差し指と中指が金属だった。
「開始前に、席次を変えたのか」
「二人分を追加しております」
「椅子なら、すぐに動かせるわけだ」
懐中時計の蓋は開いたままだった。
「会議を開くまでには、十七日かかったが」
先王が死んでから、今日で十七日。その間、儀典局では同じ文案と席次表を何度も回していた。
ネイセルが席へ案内すると、バルガが顔を上げた。ハインはその前を通り過ぎ、一度も振り返らない。長椅子の縁へ置かれた爪が、木に食い込んだ。
入口では、ネレイア潮環連邦の大潮守、サイラ・ネーレスが塩水の霧を浴びていた。首筋の鰓孔が開き、頬からこめかみにかけての青緑の鱗を水滴が伝う。
「この部屋は乾きすぎています」
「加湿具は最大出力にしております」
ネイセルが答えても、サイラは歩き出さなかった。随行員にもう一度首筋を湿らせてもらい、それからハインの前を通る。
「煤の臭いまでしますね」
官服に染みついた煤と機械油の臭いは、ネイセルにも分かった。
ハインは袖を確かめようともせず、椅子へ腰を下ろした。
「ここでも、アルヴェルンの入室を止めますか」
サイラの頬の光が、青から紫へ変わる。
ネイセルは席を示して先へ進んだ。航路制限を巡る両国の抗議書は、すでに儀典局にも届いている。今ここで続きを始められては、次の使節を迎えられない。
上窓から羽音が降ってきた。
ネフティア羽化共和国の羽化議長、フィオナ・リュミエルと護衛たちが円卓の上を旋回する。彼女の名が置かれた椅子は小さな身体には大きすぎ、その前の卓上に、止まり木が取りつけてあった。
フィオナはすぐには降りず、開いた窓と入口を確かめた。透ける四枚の羽をようやく畳んだところへ、ネイセルが挨拶に向かう。
「お待たせいたしました」
「ええ。十七日も」
挨拶を続ける前に言われ、ネイセルは足を止めた。
「卵が産み落とされ、孵化を待つには十分な時間です。今日こそ、話を進めていただきます」
扉の外で、最後の使節の到着が告げられた。
オルディア自律共和国の第一調整官、ケイラムは、入口で正確に一度頭を下げた。白い陶器状の装甲の継ぎ目で黒い金属骨格が動き、胸郭の奥には淡い光が明滅している。
「予定時刻まで、三百二十秒。到着済みの代表の生存を確認しました」
「生存、ですか」
「会議参加に必要な最低条件です」
ネイセルが席へ案内すると、ケイラムは椅子を見たあと、セヴァルへ顔を向けた。
「私の現行身体には、着座による疲労軽減の必要がありません。この椅子を移設します」
「お待ちください。席次は主権印の序列によって――」
「主権印は、椅子を移しても変わりません」
ケイラムは椅子を持ち上げた。ネイセルはぶつからないよう脇へ退き、そのまま通路を空けることになった。
長椅子と隣の席との間を詰め、セヴァルの前へ椅子が置かれる。
「着座を推奨します」
セヴァルは椅子ではなく、ケイラムを見た。
「あんたが立つことになる」
「問題ありません。私は三十一年間、立位姿勢を維持できます」
「その後は」
「右膝関節の交換が必要です」
セヴァルの口元が、わずかに緩んだ。
入口で衛兵の姿勢が変わる。
新王エリオス・アルヴァレインが現れ、ネイセルは席次表を握り直した。六脚を用意したことも、長椅子を入れたのは自分ではないことも、聞かれれば説明できる。
エリオスの淡い紫の瞳は増やされた席で止まったが、何も尋ねなかった。
ボルグラムとサイラが立ち、フィオナは止まり木から浮く。バルガも腰を上げた。セヴァルとケイラムは、まだ立ったままだった。
ハインだけが座っている。
懐中時計を閉じる音がした。
「定刻です」
エリオスは咎めず、円卓を回った。白い髪に縁取られた顔は、列席者の誰より若く見える。細身の身体の後ろを、金瞳の長老たちが続いていた。
王は自分のための椅子を見て、足を止めた。
「円卓に上座は必要ない。他と同じ高さのものに替えよ」
呼ばれた衛兵が、背の高い椅子を運び出す。長老の一人が口を開きかけたが、王は振り向かなかった。
代わりの椅子の脚が床についたところで、ハインが立った。
ネイセルは彼を見た。
それまで座っていたことが侮りなのか、今立ったことが敬意なのか、分からなくなった。
「本日の目的は二つある」
エリオスの着席に合わせ、列席者も座った。セヴァルが譲られた椅子へ腰を下ろすと、ネイセルはその後ろを抜け、入口側の書記席へ下がる。
油灯も届いていた。壁の魔法灯が弱まった場所で、書記官が筆先を灯火へ寄せている。
「各国軍の偶発的衝突を防ぐこと。そして、次代の盟約王を選ぶ手続きを定めることだ」
「その前に、片づけていただくことがある」
ハインが言った。
「セレネア軍を我が国土から撤退させていただく。軍備と工業生産の制限も破棄する。その後なら、王選びに付き合いましょう」
「撤退には安全な経路と時間が要る。その条件も、ここで決めたい」
「十七日待って、まだ条件の相談ですか」
「行き先も通行の保証もないまま兵を動かせば、貴国は侵攻準備と受け取るだろう」
「動かさなければ、我々は占領の継続と受け取る」
ボルグラムが酒筒を卓へ置いた。
「兵を退けば済む話でもない。北鉱脈の国境線を戻してもらうぞ。カルドランが九代にわたって掘ってきた山だ。契約板も坑道も、こちらにある」
「その鉱脈から流れ出した残滓が、我々の海へ来ています」
サイラの腕の模様に光が走った。
「山を誰へ戻すにせよ、汚染は止めていただく。アルヴェルンの工場も同じです」
「ならば、海路を開け」
ハインが即座に返す。
「船を止め、資源を止めておいて、工場だけは改めろと言うのか」
「汚染が続く限り、航路の制限は解けません」
「改善に必要な物まで止めて、どう変えろと?」
「海は貴国の排水路ではありません」
「そして貴国の私道でもない」
サイラが椅子の肘掛けを握った。濡れた指の間から、水が滴る。
エリオスが口を開きかけたところへ、羽音が重なった。
「その話を続けていたら、私たちはいつまで待つのです」
フィオナが止まり木から浮いていた。
「こちらは、国内に外国軍を抱えている」
ハインの返答に、彼女は引かなかった。
「分かっています。ですが、私たちの要求も、次の王を決める前に聞いていただかなければ困ります」
円卓の中央へ進み出た小さな身体へ、各国の顔が向いた。
「私たちの寿命は、およそ五十年です。先の大戦から千年。当時を知る者は、もう一人もいません。それでも、どの国が卵を持ち去り、どの国が幼体へ戦闘魔法を刻んだか。その記録は、二十の寿命を越えて残っています」
羽から落ちた光粉が、書類の上へ散る。フィオナはハインからサイラへ、さらに王の席へと向き直った。
「次の盟約王を選ぶまで待て。その王と相談しろ。そう言われている間にも、子供は生まれます。私たちが求めているのは王の座ではありません。卵も、幼体も、蛹も、軍事資源として扱わない。その約束です」
声が強くなった。
「王を決めてから、その王の考えを聞くのでは遅い。候補になる者には、先に答えていただきたいのです」
エリオスは書記席へ顔を向けた。
「候補者に求める条件として、今の要求を記録せよ」
隣で筆が動き出すのを、ネイセルは見届けた。
「オルディアも、同種の保証を要求します」
ケイラムが続いた。
「人格核を遺物、資源、鹵獲品として扱わないこと。古代施設から発見された休眠核には、領土の所在にかかわらず自己決定権を認めること」
「他国の山から出た核まで、そちらへ持ち帰るつもりか」
ボルグラムが問う。
「発見した国の所有物にせず、本人に帰属を選ばせるという要求です」
「戦争用に造られた核でもか」
「あなた方は、斧を持って生まれた子を斧とは呼ばないでしょう」
ひげの鉄輪を撫でていた手が止まる。
「……なるほど」
ボルグラムは手を離した。だが、要求を受け入れるとは言わなかった。
「俺たちにも土地を返せ」
バルガの声に、ハインが初めて正面から彼を見た。
「あなたは国家元首ではない」
「国がないから、土地の話も聞かないのか。俺たちが暮らしていた土地だぞ」
「氏族同士で殺し合い、統一できなかった責任まで、我々に負わせるのか」
長椅子が鳴った。
バルガが立ち上がると、入口の衛兵が槍へ手をかけた。ハインの言葉には動かなかった手が、低い唸りにはすぐ反応する。
ネイセルが制止しようとした、その前に、セヴァルがバルガの腕を掴んだ。
外套から出た細い腕に筋が浮く。バルガは腕を引きかけ、セヴァルの顔を見て止まった。近くの魔法灯が明滅するなか、油灯の火だけは変わらない。
「俺たちは土地を求めない」
セヴァルは手を離し、自分の袖を捲った。
灰色の前腕に、焼き鏝で押された番号がある。布が傷の上を擦り、指が一度止まった。それでも、もう少し上まで捲る。
「道を塞ぐな。角を理由に町から追い出すな。魔力炉へ入れて、壊れるまで働かせるな。それだけだ」
王の背後で、長老の一人が顔を背けた。
セヴァルは袖を下ろさず、その長老を見続けている。
入殿前に読んだ収容記録にも、番号はあった。ネイセルは数字を覚えていなかった。紙の上では、どれも同じ大きさに並んでいた。
ハインの金属指が卓を一度叩く。
誰も次の要求を口にしない。書記官の筆まで止まっていた。
「カルドランの街道は開けておく」
ボルグラムが言った。
「うちの炉は魔力で燃やしておらん。角を理由に追い出す必要もない」
「今の発言を、カルドラン王国の正式な保証として記録してよいですか」
ケイラムの問いに、王は頷いた。
「文字にしろ。印も打つ」
セヴァルはボルグラムを見てから、ケイラムへ顔を向けた。礼は言わなかった。それでも、袖を下ろす手から力が抜ける。
バルガも長椅子へ座り直した。
ネイセルは、六つの名しかない席次表を脇へ置いた。
窓からの光が卓の片側へ寄った頃、扉が二度叩かれた。
開けると、侍従長の後ろに二人の男が立っていた。セレネアの軍装をまとった伝令と、アルヴェルン使節団の通信官。どちらも息を切らしている。
侍従長から用件を聞き、ネイセルは議場へ向き直った。
「西方駐屯地と、アルヴェルン国境監視所から、至急の報告が届いております」
エリオスは一瞬ハインを見て、それから伝令を招き入れた。ハインも通信官を呼ぶ。
別件であってほしかった。
二人はそれぞれの背後へ回り、声を落として報告を始めた。入口にいるネイセルには内容まで聞こえない。ただ、二言目で王の指が肘掛けへ食い込むのが見えた。
「死者は」
その問いだけが、議場へ通った。
ハインは懐中時計を開いていた。
「発砲は確認したのか」
通信官が頷く。
二人が下がる頃には、誰も会議を続けていなかった。ネイセルは扉を閉めたが、取っ手からすぐには手を離せない。
ボルグラムが酒筒の蓋を閉じた。
「同じ場所か」
王もハインも答えなかった。
「報告の来た二地点は、同じ国境の両側にあります」
ケイラムが言う。
「同一の事件である可能性は、確認する必要があります」
「聞かれてもいないことまで、よく喋る機械だ」
ハインの声に、ケイラムが向き直った。
「私はオルディア自律共和国の国家元首です。その呼称の訂正を要求します」
「呼び方はあとで訂正してください」
フィオナが遮った。
「発砲とは、何です。二つの国へ報告が来て、二人とも黙る。私たちには何も知らせないつもりですか」
「陸上で起きたことなら、我々には関係がないと?」
サイラも王を見ていた。頬の模様が紫に光っている。
エリオスは伝令から受け取った報告を卓へ置いた。
「西方の駐屯地で、我が軍とアルヴェルン軍が交戦したとの報告を受けた。現地からの第一報だ」
「我が国の東部国境でも、貴国の部隊との交戦が報告されている」
ハインが答えた。
「どちらが先に撃った」
バルガの問いに、二人が口を開く。
「確認中だ」
声が重なった。書記官は片方を書きかけ、筆を止める。
ボルグラムが鼻を鳴らした。
「どちらの報告にも、自分が先に撃ったとは書かれておらんのだろう」
誰も否定しなかった。
「双方の一次報告を、この場で封印することを提案します」
ケイラムが円卓へ近づいた。
「受領時刻を付して原文を保存し、複製を配布する。後日の報告と区別するためです」
「部隊配置まで他国へ公開しろと?」
ハインは報告から手を離さない。
「事件に関係のない箇所は秘匿できます。必要なのは、発生時刻、地点、参加部隊、最初の発砲、死傷者数、現地指揮官への命令です」
「最初の発砲が分からんから、こうして止まっておる」
ボルグラムが言った。
「分からないなら、分からないと残せばいい」
フィオナは止まり木へ戻らず、卓の上に留まっていた。
「ネフティアから調査員を出します。空から向かえば、地上の検問で待たされずに済みます」
「オルディアも記録官を派遣します。視覚記録の改変は行いません」
「改変できない、とは言わないのだな」
ハインの問いに、ケイラムは間を置かなかった。
「できることと、行うことは別です。人族も同様でしょう」
扉の外で靴音がした。
報告を持ってきた二人は、まだ廊下で待っている。こちらが言葉を選んでいる間も、国境の兵は次の命令を受け取っていない。
「共同調査団を受け入れる」
エリオスが言った。
「調査まで双方の部隊を現在地に留め、増援も送らない。アルヴェルンにも、同じ対応を求める」
「貴国の軍は、我が国の領内にいる」
ハインの声が低くなった。
「占領している側と、されている側に、同じ条件を課すのですか」
「占領を認めろとは言っていない。今、武装解除のために踏み込めば、現地の兵は抵抗する」
「では、貴国から武器を置くよう命じていただきたい」
「武器を捨てさせたあと、兵の安全をどう保証する」
ハインは答えず、王の前の報告を見た。
「こちらにも、貴国の兵を武装したまま残せない理由がある」
会議の初めには、撤退の条件を決める話だった。今は、武器を持たせておくことも、捨てさせることも、互いに譲れなくなっている。
「夜明けまでだ」
ボルグラムが言った。
「そこまでは双方とも動くな。その間に調査員を向かわせる。占領を認める話も、武器を明け渡す話も、今夜は決めん」
ハインが顔を上げる。
「それまで、この事件をどう扱う」
「ひとまず事故とする。報告が来る前から、攻撃だ侵略だと決めるな」
「死者が出ていてもですか」
サイラが尋ねた。
「死者が出ておれば、なおさらだ。名を付ければ、その名に合わせて次の死者が出る」
エリオスはハインを見た。
「夜明けまで。受け入れる」
ハインはすぐには答えなかった。
サイラと、空中に留まるフィオナ。最後にケイラムへ顔を向ける。胸部の回路は、誰も喋っていない間も明滅していた。
書記官が、返答を書き入れる余白を空ける。
「我が国も受け入れる」
ネイセルは扉を開け、待っていた二人を呼び戻した。
王の前へ紙が置かれる。ハインも通信官から筆を受け取り、それぞれが自軍への命令を書いた。
――現在地を保持せよ。先に撃つな。武装解除には応じるな。
――越境するな。先に撃つな。セレネア軍の増援を許すな。
受け取った命令を確かめ、二人は席の後ろを戻ってくる。長椅子の脇で肩が触れそうになり、片方が先に通るのを、もう片方が待った。
同じ扉から、別々の命令が出ていった。
どちらも停戦のための命令だった。
どちらにも、相手へ譲るとは書かれていなかった。
事件は、夜明けまで「国境における偶発的事故」と呼ばれることになった。
会議は十分後に再開された。
ネイセルは壁際へ戻り、脇へ置いた席次表を開いた。その上に、会議中の控えが重なる。街道の通行保証。候補者へ求める条件。調査団の派遣。
盟約王の選定へ話を戻す者は、いなかった。
ハインは報告を伏せたまま、次の発言を聞いている。エリオスも、伝令が置いていった紙を侍従へ渡そうとしない。
二人とも、一度は閉じた扉へ目を向けた。
次に届く報告も、この会議で出した命令が届く前のものかもしれなかった。




