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第一章――王のいない命令

王が死んでも、国境線は動かなかった。


セレネアへ編入された鉱山がカルドランへ戻ることも、閉鎖されたアルヴェルンの兵器工場に火が入ることもなかった。国外の関門にはエルフ兵が残り、各国の法典には、先王の命令で書き加えられた条文が残っている。


消えたのは、命令に従わせる力だけだった。


樹冠評議会が招集されたのは、先王の弔鐘が鳴り終わるより前だった。


王宮の最上部、巨木の幹が太い枝へ分かれる場所に、評議会堂はある。高窓の外では葉が硝子を擦り、王都の灯りは枝葉に隠れて見えない。エリオス・アルヴァレインは、遠くから届く鐘を聞きながら、軍務卿の広げる符号紙を待っていた。


中央の地図卓を囲むのは、金瞳の長老たち。その外側に紫瞳の評議員が座り、青い瞳の書記官は壁際で記録板を抱えている。


生まれ持った瞳の色が席を決める。父が世界を統べるより前から続く秩序だった。


淡い紫の瞳を持つエリオスには、王座が用意されていた。


そこから地図を見ようとすると、金瞳の長老の肩が北の山地を隠した。王のための席と、地図を見やすい席は、同じではなかった。


父の手を離して、まだ半刻も経っていない。


右の親指に残る冷たさを消したくなくて、エリオスは指を伸ばしたまま肘掛けに置いていた。


「西方駐屯軍への武装解除要求は、夜明けまでです」


軍務卿が符号紙を地図の端へ置く。


「陣地を保持し、先に攻撃するなとの御命令を各地へ伝えております。武装解除にも応じさせません」


「拒否を続ければ、夜明けにはどうなる」


「武力で解除しに来るおそれがあります。ただ、現地政府がどこまで命じているかは、まだ分かりません」


「それを確かめる間も、兵は動かせないのか」


「道の安全が確かめられなければ、陣地を出る方が危険です」


エリオスは、夜明けまでと記された紙を見た。


寝室で命じたのも、動くな、撃つな、武器を渡すなということだけだった。その先を聞きたかったが、軍務卿にも、まだ答えはない。


「駐屯の根拠まで失われたわけではありません」


首席評議員が言った。


「先王陛下が正式に定められた配置です。相手国の都合で退去を迫られる筋合いはない」


法印卿が立ち上がる。年老いた金瞳のエルフは、終戦盟約を刻んだ黒い石板を両手で卓へ下ろした。


「国境や法、駐屯の取り決めは残っています。ただし、それを守らせていた盟約王権は失われました。王令に反すると告げても、相手を止めることはできません」


「王令は有効なのでしょう」


首席評議員の声が硬くなる。


「我々は、そう主張できます。相手国が破棄を告げれば、今度はその是非を争うことになります」


軍務卿が二人を見た。


「その間、兵は双方の命令に従うわけですか。向こうは武装解除、こちらは陣地保持だ」


法印卿は、置いた石板から手を離した。


「どちらの兵も動けます。先王の命令で一方を従わせることは、もうできません」


エリオスは肘掛けの上で親指を曲げた。


父ならば、武器を下ろせと命じることができた。憎まれても、その手から武器を落とさせることが。


自分の命令を受けた兵は、武器を持った相手と向き合い続ける。


「先王陛下は、その力で戦争を終わらせたのです」


首席評議員が言った。


「主要街道を守り、飢饉に備えて穀物を蓄えさせ、奴隷売買を禁じた。陛下の治世に、国家間の戦争は一度も起きていない」


エリオスは、反論せずに聞いていた。


父が何も守らなかったとは思いたくない。死んだ途端に、残したものすべてを誤りと呼ばれたら、自分は聞き続けられるだろうか。


「起こせなかったのです」


声は、長老たちの外側から来た。


紫瞳の若い評議員が立っていた。振り返った顔に囲まれ、一度口を閉じる。それでも座らず、椅子の背へ手を置いた。


「カルドランは、鉱山を失ったことに納得したわけではありません。アルヴェルンも、工場を閉じておきたかったわけではない。今まで従っていたのだから、これからも従うと考えるのは……危険です」


「だからこそ、軍備を戻させてはならん」


軍務卿が言った。


「失った土地を取り戻す力を持てば、使おうとする。工場が動いてからでは遅い」


「どうやって止めるのですか」


軍務卿は若い評議員を見た。


「それを今、決めている」


「止めることだけを考えていては、どの国とも争うことになります」


若い評議員の手が、椅子の背を握り直した。


「彼らが見ているのは、こちらの守った平和だけではありません。奪われた山や、閉じられた工場です。獣人たちには、国境で分けられた草原がある。灰角族には、入ることを許されない町がある」


「何が言いたい」


首席評議員に問われ、若い評議員は壁際を見た。


書記官の筆は止まっていた。次の言葉を待っている。


「先王の死を、解放と受け取る者もいるということです」


エリオスの指が止まった。


父の死を待っていた者たちがいる。


知っていた。それでも、父の手に触れた感覚が残るうちに聞くと、息が詰まった。


首席評議員が椅子を引く。


「陛下の御前で――」


「続けさせろ」


エリオスは、声を出してから若い評議員を見た。


「では、どうする」


「国外駐屯軍の撤収を申し出るべきです。いつまでも残すつもりではないと伝えれば、話し合えるかもしれません」


「申し出るだけでは兵は帰れん」


軍務卿が地図を指した。鉱山、関門、港。白い駒は、一つの街道だけに並んでいるのではない。


「帰る道も、必要な食糧も違う。駐屯地を出た先で関門を閉じられたら、どうする。港へ着いてから船を入れないと言われれば、そこが次の陣地になる」


「今すぐ歩かせろとは言っていません。帰す話さえしなければ、相手は占領を続けると受け取ります」


「ならば、撤収を協議する。その間の安全も求める。帰すとだけ答えて、現地の兵に道を探させるわけにはいかん」


若い評議員は地図へ目を落とした。


エリオスも王座を立った。長老たちの椅子の間を抜けようとすると、軍衣の裾が肘掛けに触れる。誰も道を塞がなかったが、椅子を引く者もいない。


裾を押さえて卓へ近づき、ようやく北鉱脈の金線まで見渡した。


白い駒は、指先でつまめるほど小さい。


それを国境のこちらへ移すだけなら、すぐに終わる。その道を何人が、何日かけて帰るのかは、地図を見ても分からなかった。


「供出が止まる場合にも、備えが必要です」


財務監が帳面を開いた。


「穀物、鉱石、燃料。これまで王令で納めさせていた分が、同じ条件で届くとは限りません。航路を制限されれば、荷を出しても届かない」


「王都の備蓄は」


「倉の現物と入荷予定を分けて、照合させます。今お出しできる数字には、まだ届いていない荷が含まれています」


首席評議員が帳面を覗く。


「まず、従来の供出を続けるよう通達を。こちらから条件を崩す必要はありません」


「断られたら、どうする」


エリオスが尋ねると、首席評議員は顔を上げた。


「違反を申し入れ、履行を求めます」


「それでも出さなければ」


「陛下。我々から、守らなくてよいと告げるのですか」


「そうは言っていない」


声が強くなった。


財務監が帳面を開いたまま動きを止める。エリオスは、首席評議員から目を逸らさなかった。


「父の命令だから、今までどおり入ってくる。そのつもりで兵も倉も動かすなと言っている。通達を出すなら、断られたときの備えも要る」


「先王陛下の定められた秩序です」


「それでも、先王の正しさを世界へ強制する力は、もうない」


言い終えてから、父を責める言葉に聞こえたかもしれないと思った。


違う、と言い直したかった。だが、父の名を出されるたびに黙るわけにもいかなかった。


遠くで鐘が鳴る。


エリオスは地図の端にある符号紙を引き寄せた。夜明けまでという期限は、誰が正しいか決まるのを待ってはくれない。


「寝室で命じた会議の招集を進める。各国の元首を、この王都へ招く」


「盟約王選定だけでは、応じますまい」


軍務卿が言った。


「駐屯軍の処遇と、それまでの暫定秩序も議題にする。国境や軍備制限についても、要求を聞く」


「返還を約束したと受け取られかねません」


首席評議員が遮った。


「聞くことと、受け入れることは違う。その違いが分かる文面にしろ」


法印卿へ向けて言うと、老いたエルフは頷いた。


「軍備制限についても、変更を認めると先に約束するものではないと明記いたします」


「頼む。次の盟約王を選ぶにも、列国の結印が要る。来てもらわなければ始まらない」


軍務卿は符号紙を指した。


「元首が揃うまで、この部隊を待たせられるとは限りません」


「会議とは別に、現地政府へ協議を求めろ。駐屯軍の安全と、撤収の条件について。武装解除要求にも、その旨を答える」


「兵への御命令は」


「今は変えない。先に攻撃せず、陣地を保持する。武器も渡さない」


帰せるように話をすると決め、その間は留まれと命じる。


エリオスは符号紙を軍務卿へ返した。相手は受け取ると、命令の文案を作る書記官を呼んだ。


「獣人族と灰角族にも、代表者の派遣を求める」


その言葉には、首席評議員がすぐに首を横へ振った。


「国家元首会議です。両種族には主権印がありません」


「盟約王候補となる権利はあります」


法印卿が石板を示した。


「終戦盟約に、その制限はございません」


「候補となる権利を否定してはおらん。招くなら、傍聴人として扱えばよい」


エリオスは卓の向こうを見た。


若い評議員は、まだ立っていた。先ほどから何も言わず、王が答えるのを待っている。


「自分たちの扱いを話し合う場で、聞くだけにするのか」


「必要なら議長が発言を認められます。国家元首と同じ資格を与える必要はありません」


「その資格を、我々だけで決めるのか」


「では、誰に決めさせます。招集する我々が決めなければ、招待状も出せません」


エリオスは口を開きかけた。


同じ席へ着かせる、と言えばよかった。


その先を問われたら、どう答える。結印の権限はない。何を決める場に、どの資格で加えるのか。今ここで一つずつ定めれば、長老たちは一つずつ異議を述べるだろう。


軍務卿が書きかけの文案を卓へ置いた。


「現地政府への返答を、先に決めていただきたい。会議の招待だけが届けば、武装解除要求への回答を避けたと取られます」


エリオスは文案を見た。


夜明けまで待っているのは、この議場の者たちではない。父の命令で国外へ出た兵が、自分の返事を待っている。


まず呼ぶ。


会議が始まれば、発言する機会は作れる。


譲る理由は、反論より早く浮かんだ。


「……両種族は、傍聴人として招く」


若い評議員が椅子へ戻った。


エリオスはその顔を見ようとして、地図へ目を落とした。


壁際で筆が動き始める。


外周の席からは、もう声が上がらなかった。




招待状の文案が整うころには、弔鐘はやんでいた。


六国家の元首が集まり、盟約王選定と暫定秩序について協議する。セレネア以外の五国家へ送る文書には、それぞれの元首への呼びかけが記されていた。


獣人族と灰角族へ宛てた二通を、エリオスは最後に読んだ。


代表者の傍聴を認める。


来てほしいと伝えるつもりだった。文面は、来ることを許していた。


筆を持つ手が止まる。


直せばいい。まだ使者には渡していない。


首席評議員は次の文書を手元に揃え、署名を待っている。ここで直せば、さっきの議論をもう一度始めなければならない。


エリオスは筆を下ろした。


署名を終えた二通が取り上げられ、その下から儀典局への指示書が現れる。


――主権印を持つ六国家のため、円卓を用意せよ。


エリオスはその一行を読み、今度は誰の顔も見ずに署名した。

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