第四十八章――戻る者の名
北鉱脈へ戻る者の名簿が、採掘の再開を許されるより先にできていた。
カルドラン王がそれを見たのは、鉱務所の配給庭だった。
岩を削って広げた庭の中央に、荷車を通す道が一本ある。右には支柱用の木材、左には鉄輪と鎖が積まれ、奥の蒸気昇降籠が下層の倉庫とつながっていた。荷車が擦った壁は腰の高さだけ白く、天井の換気口から、炉の煙を含んだ温い風が抜けていた。
名簿は木材の代金表の上に置かれていた。
脇に、リュサの共同政府から届いた通知の写しがある。
「誰が集めた」
王が尋ねると、坑務長は庭の向こうへ目をやった。
柱のそばに、三人のドワーフが待っていた。鉱区を離れて別の仕事をしている坑夫たちの代表だという。一人は革の前掛けを着け、一人は肩に運搬帯を掛けている。最後の一人だけが、古い坑内帽を両手で持っていた。
「私が、戻る意思のある者を確かめました」
坑務長が答えた。
「何の許可を得てだ」
「坑内へは入れておりません。仕事も辞めさせておりません」
「それは聞いておらん」
坑務長は口を閉じた。
王は名簿を持ち上げた。名の隣には、元の担当と現在の勤め先が記されている。排水、支柱、運搬、鉱石の選別。採掘を止めても残さねばならない仕事と、止めたために失われた仕事が、一枚に混じっていた。
「再開が決まったと思わせてはおらんだろうな」
「決まっていないとは、全員に伝えてあります」
「それで、これだけ集まったか」
「だからこそ、今のうちにお確かめいただきたいのです」
坑務長は、隣に置かれていた板を裏返した。
古い坑道図だった。地下を走る線は何度も彫り直され、枝道の先には、掘削を終えた年月と工房の印が残っている。その上を横切る地表の境界だけが、違う色で引かれていた。
「坑道の測り直しと、再開に要る道具の見積もりをお認めください。地表へ出る話ではありません。まず、こちらに残っている図と道具を揃えたいのです」
王は通知の写しへ視線を落とした。
リュサの名は、北鉱脈のどの坑道にも関わっていない。
それでも、ここへ置いた者には理由があった。
「西でセレネアがしくじったからか」
「兵を割かれている間なら、返還の話を進められます」
坑務長の答えより早く、革の前掛けを着けた男が言った。
「陛下。先王が死んでも、山は戻りませんでした。会議を重ねても、採掘を止めただけです。今を逃せば、また同じことになるのではありませんか」
「セレネアの兵が北を離れたという報告はない」
「ですが、リュサへ向かった兵は――」
「西へ出した兵と、北に置いてある兵を、勝手に同じものとして数えるな」
男は唇を引き結んだ。
王は板を台へ戻した。
「リュサから届いたのは、国を作ったという知らせだ。我々に山を返すという知らせではない」
配給庭の奥で、昇降籠が止まった。
鎖がしばらく震え、積荷を待つ者たちが横木を外しに寄っていく。籠から出てきたのは、排水管の継ぎ目に使う部品だった。北鉱脈の札が付いている。
新しい鉱石は運び出せなくても、水は湧く。支柱は腐り、換気の羽根は摩耗する。止めた山を維持するための荷だけが、変わらず下へ送られていた。
坑務長がその荷を見送ってから言った。
「でしたら、返還の交渉だけでも」
「交渉の前に、おぬしが何を準備と呼んでいるかを聞いておる」
王は坑道図の端を押さえた。
「測り直すのは、どこまでだ」
「今も保守に入っている区画と、その先の旧採掘区です」
「後半は認めん」
坑務長の眉が動いた。
「閉じた区画の状態が分からなければ、再開の費用が出せません」
「だからといって、安全維持の名で調査を広げれば、共同記録に何と書かれる」
新規採掘は停止中だった。
排水、支柱交換、換気は続ける。その作業はカルドランだけで決めたものではなく、セレネアとオルディアにも記録が渡る。第一昇降口より内側へ武装者を入れないという約束も残っている。
兵を連れず、槌を振るわなければ何をしてもよいわけではなかった。
「こちらから約束を破れば、向こうは北鉱脈を手放せぬ理由に使う。地表の管理だけでは足りん、地下も見せろと言ってくるぞ」
王は、図の右側へ置きかけた手を引いた。
そこに描かれていない空洞を、自分は知っていた。
共同記録に人格主体はいないと答えたときの、リトの三つのレンズも覚えている。
いま要らぬ調査を招けば、掘る権利だけの話では済まない。
坑務長は王の手元を見たあと、坑道図を畳んだ。
「では、坑内へは入りません。地上の保管品と、こちらにある記録から始めさせてください」
「既存の記録を集めるだけなら、なぜ名簿が要る」
古い坑内帽を持った男が、一歩進み出た。
「道具の使い方を知る者まで、倉庫へしまってはおけませんので」
王は男を見た。
帽子の縁に、灯りを留めていた金具が残っている。革紐だけが新しかった。
「どの坑だ」
「第三坑道で運搬をしておりました。今は下層の倉で荷を積んでおります」
「戻りたいのか」
「はい」
「いつ戻れるか、分からんぞ」
「分かっております」
男は答えたが、帽子を握る指には力が入った。
「ただ、南の仕事を受けるか、返事をせねばなりません。行けば、すぐには戻れません。残るなら、残ると決められる話が要ります」
王は名簿を見直した。
現在の勤め先の横に、出立の予定が小さく書き込まれていた。名を集めたのは、旗の下へ人を並べるためだけではなかった。
散っていく日付を数えていたのだ。
坑務長が王の前へ戻った。
「陛下。私が恐れているのは、山が返らぬことだけではありません」
庭の荷車が動き、二人の話す場所を空けた。坑務長は声を低くしたまま続けた。
「返った日に、掘れる者がおらんことです。支柱をどこへ入れるかは図に残せます。ですが、どの継ぎ目が先に鳴るか、水の濁りが変わったら誰を呼ぶか。そういうことは、一緒に下りた者から次の者へ渡してきました。今は渡す相手がいません。若い者は別の鉱区へ行く。残った者も、いつまでも待ちはしません」
王は黙って聞いていた。
「契約板は残ります。九代掘った証拠も、我々の印も残るでしょう。セレネアに示せば、こちらの主張はできる。ですが、その板を坑口に掲げても、昇降籠は動きません。昔ここを掘った国だと認められることと、明日また掘れることは違います」
坑務長は名簿へ手を置いた。
「私は、ここに名を書いた者へ帰れるとは言っておりません。言えませんでした。その代わり、戻るつもりがあるなら、まだ散らばるなと頼みました。頼んだだけですから、断った者もいます。家族を食わせる仕事があるなら、そちらへ行くと言われました。引き止められませんでした」
声が一度途切れた。
古い帽子の男が目を伏せていた。
「山を返せとお命じになるなら、その日に働く者を、今から残してください。道具を直す仕事でも、図を起こす仕事でもよい。帰れると嘘をつかずに、ここで待てるだけの賃金をください。山だけ取り戻しても、そこへ帰る者まで戻ってくるとは限らんのです」
坑務長は口を閉じた。
王には、その頼みを退ける理由があった。
採掘の再開日は決まっていない。返還の交渉が進む保証もない。使うかどうか分からぬ道具を直し、いつまで必要か分からぬ者へ金を払えば、その分だけ他の仕事が遅れる。
だが、ここに来る前から坑務長は名を集めていた。
許可が下りるまで何も始まらない、と考えていたのは王の側だった。
王は運搬帯の男を呼んだ。
「おぬしは何を出す」
「荷の取りまとめと、倉を。再開が決まれば、木材も押さえられます」
「いくらでだ」
男が口にした額を聞き、王は鉱務官を振り返った。
鉱務官は首を横に振った。
「今月の保守費には入りません。南鉱区へ回す修繕費も、すでに割り当ててあります」
革の前掛けの男が言った。
「先に買っておけば、あとで――」
「売れぬ木材を抱えるのは誰だ」
王の問いに、男は答えなかった。
「再開を見込んで買った、だから掘らせろと言いに来るつもりなら、初めからそう言え」
「そこまでは申しておりません」
「今はな」
王は名簿と見積もりを分けた。
新しい巻揚げ機の購入案を脇へ置き、木材の買い付けも外す。残ったのは、保管してある器具の点検と修理、古い坑道図と採掘記録の照合、その仕事をする者への賃金だった。
「まず、この分だけだ」
坑務長が身を乗り出した。
「王庫から出す。最初の十日分を見積もれ。仕事の出来を見て、その先を決める」
「人員は、こちらの名簿から」
「本人に条件を示して雇え。採掘再開の約束ではない。十日で終わることもある。それを聞いても来る者だ」
古い帽子の男が、顔を上げた。
王は男にも聞こえるように続けた。
「今の勤めを辞めねば来られぬ者は、そのことも書け。人数だけ揃えて、あとから知らん顔をするな」
坑務長は頷いた。
「承知いたしました」
「坑内の作業範囲は変えん。地表管理区にも入らん。足りぬ記録があっても、それを口実に境界を越えるな。必要な確認は、こちらから別に申し入れる」
鉱務官が書記を呼んだ。
書記は机の上の代金表をどけ、条件を書き始めた。木材を引き取りに来た者が、空いた通路を荷車で抜けていく。
王は、まだ机に残っているリュサの通知を取り上げた。
「これを、募集に使うな」
坑務長が手を止めた。
「西で国が一つできた。それで北の山が戻ると触れ回るな。ここで雇う者は、カルドランが決めて雇う」
「では、返還の申し入れは」
「取り下げてはおらん。前の要求と、セレネアの返答を揃えて持ってこい。何を止められているのか、何を向こうが答えずにいるのか、分けて出せ」
革の前掛けの男が、ようやく息を吐いた。
王はそれを見た。
「勝手に再開の日を決めるなよ」
「承知しております、陛下」
男は深く頭を下げた。
その顔は、上げたときにはもう倉庫の方を向いていた。
条件を記した紙が整うまで、王は配給庭に残った。
鉱務官が費用を読み、坑務長が必要な人数を減らした。道具を点検する者と図を読む者を兼ねられないかという問いに、別の工房長が首を振った。古い巻揚げ機を知っている者は、いま別の階層で働いている。呼び戻すなら、その勤め先とも話が要る。
十日と区切った仕事にも、幾つもの仕事がつながっていた。
王は支出の承認へ印を押した。
主権印の光が消えると、書記が紙を二枚に分けた。一枚は鉱務所へ、一枚は王庫へ送られる。
坑務長は、受け取った紙をしばらく両手で持っていた。
「今日から始めます」
「始めろ」
王が配給庭を出るとき、背後で倉庫の鍵が鳴った。
通路へ戻っても、油灯の匂いと荷車の軋みは変わらない。下層へ向かう昇降籠の前には、食料の樽が並んでいた。
王は荷札の列を見て、第三保守班という名を探しかけた。
探すまでもなく、その名で下へ送られる食事を知っている。
先ほど、山へ帰る者を残せと言われた。
山から出たいと言った者には、いまだ扉を閉じている。
王はひげの鉄輪に触れ、すぐに手を下ろした。
配給庭から、蓋を外す槌の音が届いた。
止める理由を考えれば、幾らでもあった。進める理由も同じだけある。今日、自分は進める方へ金を出した。
戻って取り消すことはしなかった。
背後から坑務長が追いついた。
「陛下。一名、南へ行く予定を取りやめると申しております」
古い帽子の男だった。
庭の入口で待ち、王の方を見ていた。
「十日と伝えたか」
「はい。その先は決まっていないと」
王が近づくと、男は帽子を胸へ寄せた。
「それでも残ります」
「南の仕事は、あとから戻れるのか」
「次に空きがあれば、と」
次がいつか、男は言わなかった。
王も尋ねなかった。答えを持っていないことは分かっていた。
「明朝は道具庫へ来い。賃金は、今日決めた条件で出す」
「はい、陛下」
男は頭を下げ、配給庭へ戻っていった。
坑務長が名簿を広げる。
王の目の前で、一人分の出立予定が消された。
北鉱脈の境界は、まだどこも動いていなかった。




