第四十六章――戻らない都市
救援軍は帰っていない。撤収を知らせる報告だけが、王都へ届いた。
新王は、樹冠評議会堂の中央でその写しを読んでいた。受信時刻は昨夜。リュサの成立通知とアルヴェルンの承認通知は、それより先に王府の通信室へ入っている。三つの紙に記された順序を確かめても、軍が引き払った陣地へ命令を届け直すことはできなかった。
議場は、巨木の幹が太い枝へ分かれるところにある。丸い壁の内側へ並ぶ席から中央の地図卓へ通路が延び、高窓の向こうには葉を透かした朝の光が差していた。枝の下を渡る廊下のさらに低いところに、王都の屋根が連なる。
王座へ戻れば、地図は長老たちの肩の向こうになる。新王は卓の縁に留まり、リュサを示す小さな印へ親指を添えた。
「指揮官を呼び戻すべきです」
内周の席から、首席評議員が召還案を押し出す。紙の端が地図へ乗り上げた。
「奪還を命じた軍が、敵の前から退いたのです。陛下の御判断も待たずに。これを、そのままにはできません」
軍務調整官ヴァルド・レディオンは、撤収報告の末尾から目を上げた。短い灰色の髪の下で顎を引き、厚い肩を卓へ向ける。
「指揮官だけを戻すのか。軍もか」
「まず、本人に説明させる」
「その間は誰が命令を出す」
「代わりを立てればよい。任務を果たさなかった者でなければ、軍を動かせぬわけではあるまい」
ヴァルドは返しかけた言葉を飲み込んだ。報告から手を離さず、末尾を指す。
「レイヴェル・セリオルは、領有権を放棄したとは書いていない。国家承認もしていない。部隊を後方へ戻し、王府の回答を求めている」
「だが、門の前にはもう我々の兵がいない!」
上がった声が丸い壁に返り、壁際の書記官が筆を止めた。首席評議員の金の瞳が、新王の指先へ向く。
「国を名乗れば軍が退く。次の都市にも、それを見せるおつもりですか。陛下、次も同じことが起きたら、今度は何と答えるのです」
新王は指を離した。
報告には、旧市側の使節も返還を拒んだとある。獣人の戦士だけを相手にしていたはずの命令が、門を開けない市議会の議長にも向けられていた。
住民まで奪うつもりで軍を送ったわけではない。そう言えば、この部屋では頷く者もいるだろう。だが、救援軍を前にして門を開けなかった者は、ここにはいない。返還を拒んだ一行を読み返すたび、胸の奥に苛立ちが戻った。
「撤収したというだけで、違反と決めないでください」
対外文書担当の評議員リシア・エルネスが、アルヴェルンの通知を卓へ置く。低く束ねた黒髪が肩から外れ、細い眼鏡の奥の金色の瞳が首席評議員を捉えた。
「現地の判断を調べるのが先です」
「調べている間にも、向こうは国を固める」
「では、攻撃したあとはどうなるのです」
彼女は通知の署名より上を指した。
「アルヴェルンは両政府へ回答を求めています。ここで軍を再び前進させれば、外交の返答より先に攻撃を選んだと公表できる。西方の展開を強める理由にも使うでしょう」
「承認した国に、我々の領土を決める権利はない」
「そんな権利はありません。私も、領土を渡せとは言っていません」
返答が重なった。通知を押さえる指先だけが白くなっている。
「リュサを攻めている間に、西で動かれたら。両方に答えを出せますか」
ヴァルドが西方の配置図を開いた。確認できたアルヴェルンの兵は、まだ国境の向こうにいる。越境も、リュサへの派兵も報告されていない。
「向こうの介入を恐れて動かないなら、兵を並べるだけで我々を止められる」
首席評議員の言葉に、ヴァルドは頷いた。
「その危険はある。だから攻撃するなら、西の配置も決める。現地の一千八百へ、門を取れと命じて終わりにはできない」
卓の端で、王府評議員セルディン・アレシオが召還案を脇へ寄せた。後ろへ撫で付けた灰褐色の髪も、濃緑の評議服の襟も崩れていない。
「指揮官の処遇はあとだ。今ここで、軍をどうするか決める」
首席評議員は文案を自分の前へ引き戻したが、しまいはしなかった。
「ならば、奪還準備を命じる。同時に期限を切って返還を求める。待つ間にも城壁は補修され、倉は満たされる。他国の承認が増える前に、こちらの意思を示すべきです」
「期限までに前進できる兵と物資を揃えられるか、先に確かめたい」
「また確認か」
「揃わなければ、期限を破るのはこちらだ」
ヴァルドの指が軍務報を二度叩いた。
「それでも進めと命じるのか」
新王は顔を上げた。ヴァルドは首席評議員を見たまま、返答を待っている。期限を告げれば、守らせる側だけが待てばよいわけではない。新王は王国全体の配置図へ目を移した。
「出せる兵を数えるだけならできる。だが、その兵が守っていた場所へは、誰を置く」
「その順番で考えていただきたい」
内周の反対側で椅子が引かれた。
評議員サイレス・ヴェルニオは、灰金色の髪を耳の後ろへ撫で付けた老年のエルフだった。手首へ寄った濃緑の袖を押し上げ、長い指で綴りを開く。
「リュサへ出す兵の相談を始めると、ほかの都市の守備が、いつも使えるものとして
数えられる。残る側の任務を、先に書いてほしい」
「リュサも、その守るべき都市の一つだ」
「だからといって、ほかを空けてよいのですか」
「独立を見逃せば、そのほかの都市も危うくなる」
サイレスは口を開きかけ、綴りの頁を一枚戻した。
「……兵を置けば防げる反乱と、兵を置いたことが原因になる反乱があります。リュサから届いた訴えと、施設の職員が何を拒んだかも調べるべきです」
「不満を申し立てれば軍を止められる。そう教えるおつもりか」
「では、黙っていればよかったのですか」
綴りを閉じかけた手が止まる。
「反乱の前日まで、問題なしと報告させる。その方が都合はよいでしょう。ですが、それでリュサを守れましたか」
首席評議員の唇が動いた。サイレスは頁へ目を落とす。新王には、今の問いを取り消したいのか、もう一度言うまいとしているのか分からなかった。
地図のリュサには、何度も指が置かれる。その東に連なる都市の印には、まだ誰も触れていない。
「独立を認めるということではないな」
「認めません」
サイレスは新王へ向き直った。
「ですが、すぐに取り戻せるとも約束できません。陛下が後回しにする場所を選ばねばならないなら、リュサだけを例外にはできません」
後回し。その語を聞いたまま、新王は返事ができなかった。地図から指を離した程度で、手放したつもりはなかった。だが、そこにいる者には同じことかもしれない。
「取り戻すために、話す余地もあります」
リシアが成立文書を開いた。
「不参加者の保護と住民の退去、セレネア使節による確認を、向こうは約束しています。その履行を求めるところから始められます」
「あちらの文書を使えば、その政府を相手として認めたことになる。返還はどうなった」
「返還しか話さないのなら、断られたところで終わりです。市の職員も、その後の訴えをどう扱うのか訊いています」
「王府へ戻れば、王府の法で扱う」
「その王府の者が、訴えられているのです」
リシアの手が眼鏡の縁で止まった。
壁際から、市務調整官マレド・フェリオが報告を運んでくる。小柄で少し前屈みの老人は、内周の椅子の間を抜け、リシアの傍らへ立った。地味な上着の擦れた袖が卓の縁に触れる。
「王府へ戻したあと、誰が答えるのか。救援軍指揮官には、裁定まで約束できなかった。その返答が残っています」
「それを条件に、兵を入れないと言うのか」
「門を開けない理由を、お伝えしているのです。門を破っても、この訴えは消えません」
首席評議員は差し出された報告を読んだ。
「訴えを聞くことには反対しない。だが、武装して占拠すれば王府から約束を得られるとすれば、武器を持たずに従った者にはどう説明する」
マレドは紙の角を握ったまま、返事ができなかった。新王も言葉を探した。訴えを聞く。それだけなら今すぐ命じられる。だが、門を破られるまで聞かなかったことへ、何と答えればよいのか。
「リュサだけの特例にしないことです」
サイレスが卓へ寄った。
「ほかの都市の訴えも調べる。軍を呼ぶほどの事態になるまで、待たせない」
「王府の仕事を増やせば、その費用も人員も要る」
「奪還して駐屯するにも要ります」
「それで、奪還をやめるのか」
「すぐには奪還しないと言っているのです。話を変えないでください」
マレドは報告を引き取り、今度はヴァルドへ向けて開いた。
「軍の引継ぎ図では、水路と施療院の職員が残って働くことになっています。このまま使えますか」
ヴァルドがリュサの市街図を広げると、長老たちが卓の周りへ寄り、王座へ戻る道が狭くなった。新王も身を乗り出す。東門から都市庁へ、倉と根路管理所へ、線が引かれている。門を取った兵がその先へ進み、施設を受け取る図だった。
「使えない部分がある」
ヴァルドの指が根路管理所へ止まる。
「向こうは、職員をこちらの引継ぎ要員として数えることを拒んだ。人員の確保を計画へ戻す必要がある」
「門は取れるのか」
新王が訊くと、ヴァルドは顔を上げた。
「破るための装備はあります。兵を再び寄せることもできます。ただし、門を破ったところで都市全体が降るとは申せません」
「降伏を待たず、要所を押さえる」
首席評議員が東門を指した。
「根路と倉を取れば、抵抗は続けられまい」
「壊してはなりません」
マレドが身を乗り出す。
「水路を止めれば、住民の水も止まります。取り戻したあと、何を飲ませるのです」
「分かっている。施設は保全せよと命じる」
「命じれば、壊さずに取れるのか」
思ったより強い声が出た。首席評議員が顔を上げ、新王は卓の縁を握った。
「……方法を訊いている」
声を落とし、市街図へ目を戻す。枝弩も破門樹も門の外に置かれ、そこから先には進路の線が続いている。その線を引いた者も、職員が引継ぎを拒むことは考えただろうか。
ヴァルドは図を引き寄せた。
「取り戻す施設を定め、そこへの攻撃を避けて進む。内部の抵抗と、職員が協力しない場合を含め、現地に計画を組み直させます」
「その条件で、試した記録はありますか」
サイレスの問いに、ヴァルドは手を止めた。
「演習と装備試験の記録を出させる。今ここで、結果を保証することはできない」
「兵器が足りぬと?」
「門を破る装備はあると言った」
ヴァルドは首席評議員へ顔を向けた。
「その先だ。住民も施設も残せという命令を、現地がどう実行するかを確かめる」
新王の手元で、成立文書の写しが市街図へ重なっていた。署名の列が、根路管理所へ続く線を隠している。新王は写しを持ち上げ、卓の空いたところへ置いた。
「軍を戻し、期限を告げる意味は分かる」
首席評議員がこちらを向いた。
「私もリュサを取り戻したい。そのために軍を送った」
返還を拒んだ文面が目に入る。自分の命令より、獣人たちとの約束を選んだ者がいる。何を間違えたのかと考えるより、なぜ従わないのかという言葉が先に浮かぶ。新王は口を閉じた。
「待てば、取り戻せなくなるかもしれない。その責任も、私にある」
三つの報告を、もう一度読む時間が欲しかった。まだ確かめていないことは幾つもある。どれかを理由にすれば、決断を待ってもらえる気がした。
高窓の外で、枝を渡る荷車の車輪が鳴った。窓枠に遮られ、積荷は見えない。下の廊下を二人の職員が通り過ぎる間も、卓を囲む者は誰も口を開かなかった。
「今は再攻撃を命じない」
新王はヴァルドを見た。
「救援軍は後方集結地で、部隊と兵器を保全する。こちらからは攻撃せず、現地との連絡を続ける。任務を変えるときは、王府から改めて命じる」
「奪還命令は」
「取り消さない。ただし、それを根拠に前進してはならない。今回の指示を優先すると、明記せよ」
ヴァルドは命令案の欄を確かめ、筆を取った。
「指揮官も、今は呼び戻さない。報告を揃えて撤収の判断を検討する。説明を求めることと、処罰は分ける」
首席評議員が召還案を閉じる。押しつけた掌の下で紙が折れた。新王はその手から目を離し、リシアへ向き直った。
「交渉を始める。退去を望む住民を出すこと。不参加者を保護し、使節に確認させること。その約束を守るのか、返答を求めよ。こちらも使節を送る準備を進める。独立も帰属変更も認めない。その立場は返書に残せ」
「返還の要求は、どのように記しますか」
リシアが問い、首席評議員も新王を見た。
「返還は求める。だが、応じなければ何も話さない、という条件にはしない」
「交渉を長引かせられたら、どうなさる」
首席評議員へすぐには答えず、新王はリシアを見た。
「返答の有無だけでなく、履行を確かめます。退去したい者が出られるか。使節が確認できるか。話が続いているというだけでは、交渉を続ける根拠にできません」
「拒否や妨害があれば、改めてここで判断する」
新王は続いてサイレスへ向いた。
「ほかの都市の守備任務を明らかにし、そのうえで奪還へ回せる兵を調べる。施設の引継ぎ、装備の試験、住民の訴えも併せて確かめよ。軍務と市務で、ともに計画を見直すように」
「調べるだけでは、配置は変わりません」
「分かっている」
返してから、新王は息を継いだ。
「今はまだ決められない。調査の結果を見てからだ」
喉が乾いていた。サイレスに言い返しても、守備へ回せる兵は増えない。老評議員は綴りを閉じず、次に確認する頁へ細い紙を挟んだ。
セルディンが決定事項を確認する間に、椅子へ戻る者と卓に残る者が分かれた。リシアはマレドから施設報告を受け取り、ヴァルドは軍務案を書き進める。首席評議員の前には、閉じた召還案が残っていた。
新王は王座へ戻らなかった。
儀典官ネイセル・ヴァレシオンが起草した返書を、その場で受け取る。濃緑の上衣の襟を崩さないネイセルは、受信した成立文書を隣へ並べた。宛先は、リュサ市務局となっている。
「宛先は、市務局のままでよいのか」
ネイセルは本文へ目を移した。筆先を置き直した小さな墨の点が、宛名の脇に残る。
返答を求めるのは、退去の手順だけではない。都市を他国への攻撃に使わせないという約束も、不参加者を保護する責任も、使節に何を見せるかも含まれている。
「市務局の権限では、すべてには答えられません」
「では、誰へ」
「共同成立文書に名を置いた者へ。委ねられた範囲で回答し、別の担当者の返答が要る場合は、その相手を示すよう求めます」
新王は署名の列を読んだ。知らない名がある。オルネの名も、バルガの名もあった。一人の元首の名を探して、そこでやめた。
「では、その者たちに宛ててくれ」
「向こうは、この返書を国として扱われた証拠にします」
首席評議員は成立文書を見ていた。
「不承認の立場は残します」
リシアの返答は速かったが、彼はそちらを向かなかった。新王も、書き直される宛先から目を離せずにいた。
こちらが認める者だけを呼べば、返事をする権限のない者が来るかもしれない。誰が来るかを任せれば、その相手と話した記録が残る。
ネイセルから筆を受け取り、新王は名を置いた。
首席評議員が立ち上がり、召還案を持つ。
「待っている間に取り戻せなくなったら、どうなさるのです。私は、この決定には賛同できません」
「では、軍を出せなくなったときはどうするのです」
サイレスも椅子を離れた。
「取り戻しに行く王国も、残さねばなりません」
二人は別の通路から扉へ向かった。先に出る者へ道を譲ることはあっても、話しかけはしない。
新王は署名した返書をネイセルへ渡した。卓にはリュサの市街図と、王国全体の配置図が残っている。どちらから手を離せばよいのか、まだ分からなかった。
「軍への命令を先に送ってくれ」
ネイセルが一礼し、ヴァルドの案を受け取る。返書の宛先には、書き直す前のリュサ市務局が細い線で残っていた。新王はその上へ手を置きかけ、隣の成立文書へ目を戻した。
次に届く返事には、向こうが選んだ肩書と名が記される。




