第四十五章――リュサの旗
今日の日没で、十日停戦は終わる。
幕舎の入口で、伝令が靴についた泥を落とした。中央の支柱を挟んで地図卓と通信官の席が置かれ、卓の端には王府からの奪還命令が広がっている。都市から届いた返答の束が、その隣にあった。
セレネア救援軍指揮官レイヴェル・セリオルが顔を上げた。銀灰色の髪を後ろで結び、細い耳の下まで襟を留めたエルフだった。
「西方の続報です」
伝令が差し出した紙を、副官が受け取る。封を確かめ、レイヴェルの前へ置いた。
アルヴェルンの兵員と工兵は、旧トーレン方面への移動を続けていた。確認できた列は国境の内側に留まり、越境の報はない。鉄路と門の警戒を固めている。リュサ攻略への関与を否定する公表も、取り消されてはいなかった。
レイヴェルは地図の西端を指で押さえた。工兵まで出した軍が、国境を見るだけで帰るだろうか。だが、獣人へ兵を送ったという報告は、まだ一通もない。
「王府には?」
「同じ報を送ってあります」
幕舎の奥では、通信官が受信控えを綴じていた。王府の返答と各国の公表を、別の束に分けて副官へ渡している。
「続けて調べさせろ。こちらが門へ入った、という噂を向こうがどう使うかもだ」
副官が頷いた。
「都市側の使節は三人。バルガ、オルネ、それにセナです」
「市議会の議長も出るのか」
「旧市側の委任を持つ、と」
レイヴェルは停戦中の返答の束を閉じた。
解放された王府の監察役からも話は聞いた。彼らを人質として返還条件にすることは、都市側は選ばなかった。拘束と市務の扱いを、こちらに読ませる形で残している。
それで都市を渡さずに済むと思っているなら、違う。
レイヴェルは立ち上がった。腰の剣を確かめ、卓の奪還命令を副官へ預ける。
「隊列はそのまま。私が戻るまで、兵器を線の外へ出すな」
幕舎を出ると、一千八百の兵が陣地に並んでいた。杭の内側を根盾の列が塞ぎ、その後ろに弓隊、土槽を載せた台車と枝弩が続く。東門は、盾の肩越しに見えた。
レイヴェルが列の前へ進むと、最前列の兵が顎を引く。握りを締めた手に応じて盾の縁から枝が伸び、隣の盾との隙間を埋めた。下端の細根も絡み合い、列の中央を一本の根が貫いている。法印官が一本の根へ手を添え、盾の縁を確かめていた。
弓隊では、生木の弓身に葉脈状の光が走っていた。矢はまだ番えていない。法印官が射手の手首に巻いた蔓を緩め、指を開かせる。レイヴェルはその手を見てから、兵器の方へ目を移した。
人の胴より太い破門樹が、土槽の台車に寝かせてある。門を打つ瘤だけが黒く硬い。水を注いでいた兵が柄杓を下げると、槽の根が一度うねった。術者の掌が幹を押さえ、揺れが止まる。車の脇には水と樹脂の桶が揃っていた。
さらに後ろの枝弩は、二股の枝を台座から左右へ伸ばしている。法印の紐は緩く、長い木矢は別の架台に置かれたままだ。台座を据える兵と、生木の水分を確かめる兵が、その傍らで待っていた。
湿った土と樹脂の匂いが、盾の列まで来る。水袋を持ち直す音がしても、車輪は動かなかった。
これだけ揃えて、門を破れないとは思わない。だが、焼けた都市を王府へ返して、任務を果たしたと言えるか。
レイヴェルは陣地の端で足を止めた。副官と記録役、二人の従者が追いつくと、背後へ手を上げた。旗が揃い、兵はその場に留まる。
少数の足音だけが、杭の外へ出た。
東門の門楼からは、根盾が一枚の壁に見えた。盾の後ろで枝が揺れ、台車に載せた樹の太さまで分かる。あの瘤が戸へ当たったら、と考えかけ、セナは窓から離れた。
石段を下りると、バルガが門内で腰の帯を締めていた。右手だけで引くため、結び目がわずかに傾く。左腕は吊り布の中にあり、上着の肩には包帯が厚く盛り上がっている。
「出よう」
隣でオルネが紙の角を揃え、革の包みの留め紐を結んだ。
門務の兵が戸を開くと、内側に残るディルハが、三人が通るだけの幅を確かめた。門から出ると、背後で戸が戻る。閉まりきる前に、ヴァドが門楼の下からバルガへ顎を上げた。バルガも一度だけ頷く。
三人は、城壁と軍の間を歩いた。氏族の戦士は壁上に残っている。向こうの盾も前へは出ない。どちらの弓にも、矢は番えられていなかった。風が草を倒すと、両側の旗が同じ方へ傾く。
東門から延びる道の脇に、低い卓と折り畳みの椅子が置かれていた。三人が門を背に席を取ると、卓の向こうから軍の指揮官が近づいてくる。肩に重ねた薄い木片が、歩くたびに擦れ合った。
セナは説明用の紙を卓へ載せ、石で角を押さえた。オルネの革包みは、まだ閉じている。
「セレネア救援軍指揮官、レイヴェル・セリオルだ」
オルネが先に名乗った。バルガが続き、セナは記録と、委任された議題の説明を担うと伝えた。
レイヴェルは、三人の後ろの門を見た。
「今日の日没で停戦は満ちる。都市の返還と武装解除について、回答を聞く」
「門と倉を、そちらの軍へ渡すことには応じません」
セナが答えた。
「では、何を話しに出てきた」
「返したあと、ここで暮らす人たちをどう扱うのか。それを聞かずに、門は渡せません」
「セレネアの都市だ。王府へ戻す。曖昧なのは、そちらが何を代表しているかだろう」
レイヴェルはオルネへ顔を向けた。
「市議会の議長が、武装した氏族の要求を取り次ぐのか」
「私たちの返答を持ってきました」
オルネは留め紐を解いた。
「返還を望む者もいます。私に委ねていない者もいます。それを消して、旧市が一つの返事をしたとは言いません。ただ、あなたが救うと言っている者の中に、軍へ市を渡すことを望まない者がいます」
「占領下で集めた返事を、そのまま信じろと?」
「何を疑っておられるのです。答えられることは、私が答えます」
オルネが卓の向こうを見た。
「そのうえで、こちらにも答えてください。いま受け付けている訴えは、誰へ渡せばいいのですか。王府の者が持ち出した財産も、調べてもらえますか」
「正当な訴えなら、王府の手続きへ戻せる」
「戻して、誰の答えを待つのです」
レイヴェルの指が、開かれた綴りの端で止まった。
「その裁定まで、私が約束する権限はない」
「私にも、全員の返還を約束する権限はありません」
相手の記録役の筆が止まった。セナはレイヴェルを見たが、彼の声は変わらない。
「市の訴えを扱う者は残してよい。記録も引き継ぐ。だが、武装集団が門を押さえている状態を、王府は認めない」
「残してよい、ですか」
オルネの指が紙の縁へ触れた。
「水を動かし、食糧を配り、壊された家の話を聞いてきた者を、あなたが残すと決める。そこから始めるなら、私はその返還に名を置きません」
「氏族に従う方を選ぶと?」
「氏族だけにも決めさせません。だから、ここへ来ました」
風が紙を押し上げた。セナは石を置き直した。
レイヴェルが、今度はバルガを見た。
「お前は、門を取った兵をすべて従わせられるか」
「俺が指揮する兵と、返答を俺に預けた者までだ。すべてとは言わん」
「従わない氏族が市外へ出て、こちらを襲えば。お前の兵ではないと答えるのか」
バルガの右手が、帯の結び目から離れた。
「見つけたら止める。こちらの兵なら、俺が止める。だが、見てもいない者まで俺の兵だとは言えん。返還を断ることを、市外へ攻める命令にはしない」
レイヴェルは背後の盾の列へ目をやった。
「門を破らずに終わらせたい。そちらにも、それが分からないはずはない」
セナの耳が、その言葉に動いた。破らない、とは言っていなかった。
「武装解除のあと、氏族の兵をどうしますか」
「武器を集め、審査する。帰郷を認める者と、責任を問う者を分ける」
「誰の命令で戦ったかだけで、責任を決めるのですか」
「本人の行為は確認する」
「なら、その前にこの記録を読んでください。返した監察役と、今も調べている者の記録は分けてあります」
「区別していることは、解放された監察役から聞いた」
レイヴェルが言った。
「だが、それを理由にセレネアの軍は入れないと言うなら、話は別だ」
セナは口を閉じた。レイヴェルは綴りを受け取らず、記録役へ手を向けた。
記録役が市街図を広げた。門、倉、根路管理所、施療院。返還すれば軍が最初に受け取る場所が、線で繋がれていた。
セナは根路管理所の印に指を置いた。
「ここの人たちを、軍の引継ぎ要員として数えないでください。今日の日没より先の勤務は、本人に確かめています」
「水を止めるつもりか」
「違います。交代も仕事の条件も、まだ決まっていません。軍へ渡す人員として、先にこの図へ入れないでください」
オルネが引継ぎの範囲を示した。レイヴェルは倉への出入りを問い、バルガは武器を置く場所と、配給の護衛を分けて答える。帰還した者が持ち帰った武器のことも、外へ出る住民のことも訊かれた。
市街図の脇へ、引継ぎの紙と返答の綴りが重なった。バルガは水筒を受け取って飲んだが、左肩を支える布の下には汗が滲んでいた。セナが空いた場所へ石をずらすと、朝より短くなった椅子の影が目に入る。
レイヴェルは図を畳んだ。
「市務の継続と、住民の退去については書ける。だが、門を渡さないという回答は変わっていない」
「変わりません」
セナが答えると、彼は椅子から立ち上がった。
「それ以上、ここで聞けることがあるか」
バルガの右手が、卓の端を掴んだ。
向こうの従者が包みを閉じかけた。セナも腰を浮かせ、オルネの革包みに目を向ける。まだ出していない綴りがある。
「待ってください。こちらの返答は――」
レイヴェルの視線が、セナを越えた。門の向こうで、濃い青が上がっていた。
都市庁の屋根を越え、空の旗竿に布が伸びていく。途中で一度、竿へ巻きついた。風を受けるとほどけ、太い白い横帯が、青い布の端から端まで現れた。
氏族の旗にはない形だった。
レイヴェルは包みを閉じる従者を止めた。
「あれは何だ」
バルガが椅子を押し、立った。
「リュサ国の旗だ」
卓の両側で、筆が止まった。
「国?」
「今朝、都市庁で成立を確かめた。氏族の連中だけで名乗った国じゃない」
オルネが、革の包みから別の綴りを出した。
氏族、旧市、根路区、未所属の居住者、市務施設。それぞれの返答を預かった者の名が、同じ文の下に置かれていた。セナは綴りを開き、共同の成立文書と、対外回答を委ねた範囲を卓へ並べる。
レイヴェルは立ったまま読み、バルガへ顔を向けた。
「お前が王になるのか」
「ならん。俺一人の返事で、この国を動かすために作ったんじゃない」
「では、この紙で何が決まった」
「共同で政府を作ると決めました。市の仕事も、受け付けた訴えも、担当者が代わったからと途切れさせないために」
オルネは綴りを開いたまま答えた。
「全員の賛成とは書いていません。反対した者の水も食糧も、国へ名を置かなかったからと取り上げることはしません。その者の訴えも残します」
「王府は、その独立を認めない」
「その返答は、セレネアの返答として受け取ります」
セナが言った。
「六国への成立通知は、すでに送りました。セレネアにも、です」
レイヴェルの淡い緑の目が、綴りから上がった。
「都市の通信樹で、王府の名を使ったか」
「使っていません。外部線を開くときは、双方が文面を確認しました。二つの封止環も、送信の記録もあります。都市印は発信元を示すためです。王府の命令を偽ってはいません」
セナは送信控えの時刻を指した。今朝、三人が門を出るより前に記された数字だった。
「思いついたのは今日ではあるまい。なぜ、今朝まで待った」
レイヴェルが訊いた。
「建国の話は、前からありました。ただ、王府へ戻せば元の暮らしに戻れると考える者も、多かったのです」
オルネが答えた。
「その者たちが、考えを変えたと?」
「軍が来てからです」
オルネは、レイヴェルの背後へ目を向けた。根盾の列の向こうに、破門樹を載せた台車が見えていた。
「門を渡したあと、自分たちも獣人の仲間として裁かれるのではないか。そう訊かれることが増えました」
「住民を一括りに裁くとは言っていない」
「では、獣人の兵へ食糧を渡した者は。彼らと門を守った者は。私のように、一緒に市を動かした者は」
「本人の行為による」
「その答えを聞いて、安心して門を開けられるでしょうか」
レイヴェルはオルネを見た。オルネも目を逸らさなかった。
風に押され、成立文書の端が浮いた。オルネは手で押さえた。
「王府へ戻すより、自分たちの政府を持とうという者が増えました。全員ではありません。返還を望む者も、まだいます」
指の下で、紙の端が折れた。オルネはそれを伸ばして続けた。
「加わる者の返答と、政府へ何を委ねるかを確かめていたのです。最後の照合が済んだのが、今朝でした」
レイヴェルは、文書に並ぶ名へ目を落とした。それから、背後の陣地を見た。
門を渡させるために並べた兵器は、今も同じ場所にあった。
彼はセナへ視線を戻した。
「外国には、前から知らせていたのか」
「セレネアを除く五国には。建国を検討していることと、政府の構成案を伝えていました」
「我々には伏せていたわけだ」
セナは頷き、五国へ送った資料の受領符を卓へ置いた。
「正式な成立通知は、今朝、六国すべてに送りました。セレネアにも、私たちが門を出る前に」
レイヴェルはそれを読んでから、旗を見た。
「通知を送れば、国として扱われると思っているのか」
「通知だけでは、相手の返事まで決まりません」
「ならば、こちらの要求も変わらない」
彼が成立文書を卓へ戻したとき、東門の戸が開いた。
門から一人、走ってくる。武器は持たず、胸の前で通信樹の控え板を抱えていた。壁上の兵が姿を見送り、こちら側の従者が半歩前へ出る。
オルネが手を上げた。
「通信室の者です」
走ってきた職員は卓の手前で止まり、息を継いだ。
「アルヴェルンから、正式な返書が」
セナは板を受け取った。両方の立会人が記した名と、受信時刻を確かめる。その下に、アルヴェルンの主権印の照合結果があった。
本文へ目を移すと、読み終える前に指が板の縁を強く掴んでいた。
「読んでください」
オルネが静かに言った。
セナは板を卓へ置いた。
「アルヴェルン政府は、共同成立文書に示された政府を有するリュサ国を、独立国家として承認する」
レイヴェルの従者が、立ち位置を戻した。
セナは先を読んだ。
「対外交渉を開始する。周辺領域への権利の拡張は、この承認の対象としない。リュサ政府の、外国軍を受け入れず、他国への攻撃に都市を使わせないという表明を受領した」
返書には、王府と残る四国へも同じ決定を通知した、とあった。セレネアとリュサの間の帰属問題について、両政府の回答を求める。リュサ攻略には関与していないという立場も、維持されていた。
署名は、国家統監ハイン・ロート。
「こちらの印だけで認めろとは言いません」
セナは控え板を向こうへ押した。
「そちらの受信と照合してください」
レイヴェルは副官を見た。
副官が軍へ向かい、途中から駆けた。卓に残った者は誰も続かなかった。
セナは板から手を離した。縁を握っていた跡が指先に残っている。資料を受け取ったという返事はあった。それだけで、今日この返書が来るとは言えなかった。
椅子へ座り直すと、レイヴェルも腰を下ろした。二人の間に置かれた板へ、誰も手を伸ばさない。
副官が戻ったとき、手には軍の受信控えがあった。
「対外公表と一致します。主権印、統監の署名、照合済みです。王府への通知も確認しました」
レイヴェルは二枚を並べて読んだ。セナの持ってきたものと、行が揃っている。
「これを得るまで、私をここへ留めたのか」
セナは頷いた。
「返事が来る前に、門へ向かわれるわけにはいきませんでした」
「来なければ?」
「返還には応じない。その返事を持って、戻ることになったと思います」
レイヴェルがバルガを見る。
「門を破られると分かっていても?」
「それでも、俺の一存で門を渡すことはできん」
バルガは成立文書に右手を置いた。
「俺たちが国だと言っても、そっちが認めんことは分かっていた。それでも、ここに名を置いた連中と、一緒に立つと決めた」
レイヴェルは視線を返書へ戻した。
「アルヴェルンが、善意でお前たちを認めたとは思わないことだ」
「思っていません」
セナが答えた。
「兵をここへ送らずに、セレネアへ答えを求められる。それは、あちらの得になるんでしょう」
「利用される」
「だから、あちらの軍を入れないと、六国へ書きました。アルヴェルンにだけ違う約束はしていません」
レイヴェルが、その箇所を開かせた。
外国の軍の駐留を認めず、リュサを他国への攻撃の拠点にしない。住民が退去することを妨げない。王府からの訴えも、送り主だけを理由に捨てない。バルガとオルネが、共同通知の範囲で署名していた。その約束に加わる委任が、後ろの綴りへ続いている。
「この通りに守るか」
「守ります。そちらの国から、確かめるための使節を受け入れることも、文面にあります」
オルネが答えた。
「軍を入れることとは、分けてあります」
レイヴェルはしばらく黙っていた。二枚の返書を揃え、記録役の前へ置く。背後の盾の列を見てから、もう一度オルネへ目を戻した。
「こちらが退いても、王府は独立を認めたことにはならない」
「はい」
「奪還命令も、私が消せるものではない」
「それも、承知しています」
レイヴェルは副官へ向き直った。
「王府へ送れ。アルヴェルンの国家承認を確認した。市の共同政府は、外国軍の受入れと、市外への攻撃を拒むと回答した。住民の退去と、セレネアの使節による確認も拒んでいない」
副官が筆を取った。
「王府が答える前に、我々が攻撃で返事をするわけにはいかん。西方の軍へ、口実まで渡す気はない」
彼は、オルネの前の文案へ手を置いた。
「救うはずの住民の代表を、門の中へ追い返して攻める理由も、今の回答では立たない」
副官が顔を上げた。
「八百歩線は?」
「解く。軍を後方の集結地へ戻す。兵器もすべてだ」
セナは彼を見たまま、息を吸った。
「あの陣地を、空けるんですか」
「ここで構えたままにすれば、外交の返事より先に、どちらかの兵が戦を始める。戻すと言った」
レイヴェルはセナの目を見た。
「こちらの撤収を追わせるな。都市の兵を市外へ進めないこと。使節の往来は、改めて双方で確かめる。この件を、セレネアが降伏したと触れ回ることも認めない」
バルガが答えた。
「追わん。兵にも命じる。退く軍へ勝ち名乗りを上げるために、ここへ来たんじゃない」
「今の回答と、共同通知にある約束を記す」
セナは紙を引き寄せた。
「こちらも、そちらの領有の主張が取り下げられたとは書きません。リュサ政府と、セレネアの使節の間で話を続ける、と書きます」
レイヴェルはその文を読み、名を置いた。バルガが続き、オルネが署名する。セナは照合を終え、同じ文面の控えを分けた。筆をしまうとき、ようやく肩が下がった。
レイヴェルは席を立った。
「旗を立てるより、立てたあとを守る方が長い」
バルガも立つ。
「そっちは、俺たちでやる」
指揮官は返事をせず、従者を連れて軍へ戻った。
門へ戻る途中で、セナは後ろを振り返った。盾の列はまだ動かなかった。レイヴェルが陣地へ入り、副官が隊長たちを呼んでいる。その脇を伝令が駆けた。
バルガの歩幅が小さくなった。上着の肩を見たセナに気づき、右手を軽く上げる。
「戻ってから診てもらう」
「今、止まってもいいよ」
「門まで行く」
オルネが右側へ寄り、歩幅を合わせた。
東門が開くと、ディルハは三人の顔を見てから軍の方を見た。セナは署名のある控えを渡す。
「軍は引く。八百歩線も解くって」
ディルハは最初の行を読み、次の行でもう一度目を止めた。
「兵器もですか」
「全部」
「門は、まだ開け広げないでください。最後の列まで、私の方で見ます」
そう言って門楼へ向かった。途中で兵を呼び、短く指示を出す。セナは、その声が少し速くなっているのを聞いた。
ヴァドが門楼から降りてきた。バルガの右手にある文書を見たが、受け取る前に外を指した。
「本当に、あれが退くのか」
「退く。こっちから追うな。門の兵を止めておけ」
ヴァドは一度、バルガの顔を見た。
「追わせん」
文書を受け取り、階段を上がっていった。
最初に動いたのは、兵器の脇の兵だった。
枝弩の法印官が、紐を台座から外した。二股の枝がゆっくり緩み、弓身を畳む縄が掛けられる。長い木矢は束ねられ、別の荷車へ運ばれた。
破門樹の根元では、水桶を台車へ積み直していた。術者が幹に触れ、低く寝かせた枝を固定する。水桶を載せる兵が二人、車の左右についた。門へ向いていた瘤が、車と一緒に東へ回った。
盾の下の根がほどけた。隣へ渡っていた根が一本ずつ戻り、兵は握りを持ち直した。縁を塞いでいた枝が樹皮へ沿い、一枚ずつの盾になる。列の端から隊が分かれ、兵器の通る道を空けた。
セナは門楼へ上がり、窓から身を寄せて見た。
朝、こちらへ向いていたものが、次々に背を向けている。弓隊の矢筒が遠ざかり、法印官の杖が列の中へ入った。兵は急いで逃げる様子もなく、号令ごとに間隔を揃えて進んだ。
旗も動いた。最後尾の歩兵は、荷車が陣地を離れるまで残った。杭を抜き、炊事の火を消し、空いた地面を確かめてから列へ入る。
一千八百の軍が離れるには、長い時間がかかった。荷車の車輪が溝へ落ちると、後方の列まで止まる。兵が押して道へ戻し、前が動けば残る兵も続いた。止まるたび、ヴァドの指が胸壁を強く押さえた。
午後には、八百歩先の盾も荷車もなくなっていた。草地に残る轍が、引き払った陣地を横切っている。
最後の旗が、東の道の起伏へ沈んでいく。
ヴァドが胸壁から手を離した。太い指を開くと、掌に石の粉がついている。
「行ったな」
セナは頷いた。喉が詰まり、同じ言葉をすぐには返せなかった。
門楼から見える都市庁には、青い旗が上がっていた。白い帯が風を受けて広がる。
「戻ろう」
バルガが言った。
広場へ入ると、都市庁の前に人が集まっていた。東門からの報を聞き返す者も、屋根の旗を見たまま動かない者もいる。配給の荷車は人垣を避けて通り、大角牛の兵が、袋を受け取る側へ声を掛けた。
セナたちを見つけ、穀倉のエリネ・サルミスが道を空けた。灰褐色の髪を耳へ掛け直し、抱えていた照合控えを胸へ寄せる。
「帰ってきた」
その声で、奥にいた者も顔を上げる。
オルネが成立文書と返書の控えを、都市庁の机へ置いた。旧市の職員が受け取り、閲覧用の板へ留める。オルネは自分へ向けられた問いに答えながら、その脇に立った。
バルガは戸口で足を止めた。
岩猪の戦士が二人、ヴァドの後ろにいた。ケルドは灰狼の兵を門の交代へ戻し、そのあとから来る。大角牛の代表は、配給の便が着いたのを確かめてから、広場を横切った。
国を作ると返した者も、まだ返していない者も、そこにいた。
西門側の女が、巡回の票をセナへ渡した。
「東へ回した者を、今夜は戻せる?」
「門の交代を確かめてから。ずっと立っていた人は、先に休ませたい」
「こっちでも引き受ける。帰ったら、根路の戸口へ伝えて」
女は旗を一度見上げた。成立文書に名を置くとは言わず、自分の持ち場へ戻った。
セナが票をしまう間に、根路管理所から戻ったフィレネが杖を手元へ引いて階段に座った。隣の職員が水筒を差し出すと、受け取り、ゆっくり飲んだ。
都市庁の階段で、二人の女が縫い針を布へ戻していた。片方の膝には、旗に使ったものと同じ濃青の端切れがある。
「間に合ったね」
セナが言うと、女は屋根を見た。
「端の縫い目は、あとで直す。上げる前に、そこまで待たせられなかった」
もう一人は、針を包む手を止めた。
「向こうの軍にも見えた?」
「見えた」
「そう」
女はそれだけ言い、針を包んだ。
肉屋のガドが、広場の隅から手を上げた。旗竿に使った綱の残りを抱えている。呼ばれたセナが近づくと、綱を足元へ置き、東門の方を指した。
「本当に、軍はいなくなったんだな」
「陣地は空いた。最後の列まで、門で見てる」
ガドは顎を撫でた。昔殴られたところを、指が一度なぞる。
「なら、今日は外を見に行ってもいいか」
「門の人に訊いて。兵器を動かした跡もあるから、道は確かめてもらって」
「分かった」
彼は綱を持ち上げ、店の方へ歩いていった。
バルガは階段の下に腰を下ろしていた。施療院の者が吊り布の結び目を緩めている。バルガは顔をしかめたが、今度は肩を引かなかった。セナはその横に座った。
「国になったね」
思っていたより小さな声になった。セナは膝へ置いた手を開いた。まだ、返書を掴んでいた指が強張っている。
バルガは右手を膝へ置いた。
「俺だけじゃ、ならなかった」
セナは広場を見た。紙を読む者がいる。読み終えても頷かない者がいる。倉へ袋を返す者がいて、施療院へ持っていく分を荷台から降ろす者がいる。
「うん」
バルガの視線が都市庁の戸口へ向いた。返書の掲示の奥には、訴えの記録も、白鹿の事件を記した綴りも置かれている。
施療院の者が包帯を押さえ、結び直した。
「今日は、もう腕を使わないでください」
「右腕は空いてる」
「肩が動きます」
言い返しかけたバルガが、口を閉じた。セナは少し笑い、笑ったあとで、目の奥が熱くなった。
顔を上げると、涙を拭く前に風が頬を冷やした。屋根の上の青い布が開き、白い帯がまっすぐに伸びる。
バルガが立ち上がろうとすると、施療院の者が袖を引いた。彼は座ったまま、旗を見た。ヴァドも、ケルドも、紙から顔を上げたオルネも、同じ方を向いていた。
配給を待つ子供が、大人の袖を引いた。
「あれ、誰の旗?」
訊かれた者は一度、隣の獣人の兵を見た。その兵も、子供へ目を戻した。
セナは階段から答えた。
「この町の旗だよ」
子供は袖を離し、もう一度、上を見た。
その頭の向こうで布が竿へ寄り、白い帯が皺の間へ隠れる。次の風で濃青の旗が開くと、太い横帯が端から端まで伸びた。
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