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第四十四章――帰る者、残る者

荷車の上で、岩羊の氏族旗が巻かれていた。


朝の光が主根広場の石畳を斜めに照らしている。岩羊の戦士は竿に沿って布を巻き終えると、荷台の端へ横たえ、転がらないよう寝具の下へ差し込んだ。空いた場所へ鍋が載せられる。縁が荷板に当たり、乾いた音がした。


旗竿を抜いた石畳の穴には、砂が半ば崩れ込んでいた。その脇を配給待ちの列が曲がっている。


セナは足を止めた。


倉へ行く荷車なら、行き先札を確かめるだけでよかった。この車には鍋と寝具が積まれ、その間で子供が膝を抱えている。足元には、口を縛った小さな荷袋まで置かれていた。


「草原へ戻る」


セナが尋ねる前に、岩羊のトゥラが言った。帰る一団の連絡役を務める女だった。荷紐の結び目から手を離すと、後ろへ曲がる角の下で、灰褐色の頬の毛が朝日に光った。


トゥラはセナの顔を見たまま、継ぎのある仕事着の懐から、鍵を包んだ布を出した。


「水路の戸口の鍵。見回りに出ていた者も、この荷車で帰る。明日の人数には入れないでくれ」


セナは巡回票を開いた。明日の水路巡回にも、トゥラたちの名がある。配給護衛の票を重ね、時刻を見比べた。同じ名が続いている。どこかから抜けば、そこが空いた。


「今日で外れる?」


「この車が出たら」


荷台の老人が杖を抱え直し、鍋に肘をぶつけた。トゥラはすぐに振り向いて、その腕を支えた。寝具を腰の後ろへ押し込み、身体が落ち着いたのを確かめてから手を緩める。


「家族は連れ出せた。草原にも、子供と家畜を残してる」


そこで一度、言葉が途切れた。


「……もう帰りたい」


後ろの車から、男が声を掛けた。


「弟も乗せた。こっちは出せるぞ」


荷紐を締めていた若い岩羊の戦士は、結び目を見たまま言った。


「門の外の軍と、もう一度やるとは言ってない」


明日の水路が、と口にしかけて、セナはやめた。


トゥラは老人の肘を支えたまま、もう片方の手で鍵を差し出している。帰られては困る。その思いが先に立ち、今の「帰りたい」に、まだ何も返していなかった。


セナは巡回票の端を押さえた。


「帰ることは記録する。代わりの人は、こちらで探す」


それから、差し出された布へ目を向ける。


「出る前に、その人へ戸口で鍵を渡してもらえる? 巡回の道も、一緒に歩いてほしい。鍵だけ受け取っても、どこを見ればいいか分からないから」


「そこまではやる」


トゥラは老人から手を離した。荷紐をもう一度引き、セナに向き直る。


「都市庁にも言っておく。明日から水路の見回りには出ない。黙って持ち場を捨てたことにはされたくない」




会議室の窓は広場へ開いていた。荷車の軋む音が入り、窓際に積まれた紙の端が風に浮く。


岩猪のヴァドは長机を挟んでバルガの向かいに座り、トゥラたちの名を読んでいた。読み終えると、明日の水路巡回の票を扉の方へ突き出した。


「門の外に一千八百いる。その前で兵を減らすのか」


トゥラは扉に近いところに立っていた。勧められた椅子には座らず、鍵の布を両手で持っている。


「減る。分かってる」


「生きてる奴だけ荷を積めば、それで終わりか! 死んだ連中に、何て言う」


ヴァドの太い首が前へ出た。


トゥラの顎が上がった。言い返しかけた唇が、いったん強く結ばれる。布の中で鍵が擦れた。


「死んだ者の家族は、誰が見に戻る。残れと言うなら、そっちも引き受けるのか」


ヴァドは口を開いたまま、次の言葉を出さなかった。突き出した紙が、ゆっくり手元へ戻る。


バルガの隣にいる大角牛の代表が、朝の配給と夜の巡回の票を並べた。主根広場の協議でも、壊した扉の代金を気にしていた男だった。


「代わりに水路へ出す兵は、配給の荷車にもつけなきゃならん。同じ者を朝も夜も立たせて、いつ寝かせる」


大きな掌で二枚を押さえ、机の中央へ向ける。目の下が落ちくぼんでいた。


誰もすぐには票へ手を伸ばさなかった。


「なら、いつ帰れる。停戦が切れたらか。次の話が決まったらか」


トゥラは窓の下の車輪の音へ顔を向けた。


「ここで待てば、向こうの家を誰かが見てくれるのか」


バルガも窓の下を見た。トゥラの仲間が、荷車の脇で待っている。一人が荷台へ手を伸ばし、老人の肩へ布を掛けていた。


もう帰るつもりで、荷を積んで来た。こちらが困ることも、分かっている。それでも、帰ると決めたのだ。


水路へ東門の予備を回せば、救援軍が動いたときに備える兵が減る。だから残れと言えば、草原にいる家族のことまで引き受けられるのか。


窓から目を戻すと、ヴァドが返事を待っていた。


「せめて停戦が切れるまでは待たせろ。門の配置も、倉の量も知ってる。途中で王府の兵に捕まれば、黙っていられるとは限らん」


トゥラの眉間に皺が寄った。


「兵に話すために帰るんじゃない」


「そうだろうよ」


ヴァドは、今度は声を抑えた。


「だが、残る者が受ける危険は消えない」


書記の白紙を引き寄せ、バルガの前へ置く。


「帰還を待たせると書け。明日の水路番だけでも残せ」


バルガは巡回票を見た。トゥラたちの名は、まだ消されていない。そこへ線を引かなければ、少なくとも紙の上では持ち場が埋まる。


今日くらい従えと言えばいい。


残る者だけが、なぜ頭を下げなければならない。門の前で死ぬかもしれないのは、こちらも同じだ。


右手が白紙の縁へ触れた。


白鹿の焼けた角輪が、目の前に浮かんだ。


あのときも、こちらには止めたい理由があった。その理由を、自分に逆らう者を押さえつけてよい理由にした。


バルガは白紙から手を離した。


「帰るのを止める命令に、俺の名は書かない」


ヴァドの顔が硬くなった。


「指揮を預かっただろう」


「町へ進む指揮だ。ここに残れと命じるところまでは、預かってない」


「じゃあ、帰る者が出るたび、残った者へ頭を下げて回るのか」


バルガはすぐには答えられなかった。


大角牛の代表は二枚の票を押さえたままだった。机の向こうでは、ケルドもこちらを見ている。帰る者を止めないと言っただけでは、この二人に、足りない人数を何とかしろと渡すことになる。


「頭を下げて、それで終わりにはしたくない」


バルガは、白紙の脇に重なった票を見た。


「あの会談で、俺たちには椅子がなかった」


「今、その話か」


ヴァドの眉が寄った。


「今の話だ」


バルガは低い声のまま続けた。


「後には席もできた。だが、俺が欲しかったのは椅子じゃない。俺たちの暮らしを決める話に、俺たち自身の答えを持って座りたかったんだ」


右手を机につき、立ち上がった。吊り布に引かれて左肩の奥が痛む。歯を合わせ、息を整えた。


トゥラは座らずに待っている。その目には、まだ警戒があった。今から残れと言い直すのだと思われたくはなかった。


「俺は、町を取れば変わると思っていた。門の兵を退かせ、こちらの言葉を聞かせれば、今度こそ俺たちが決められると思った」


「取っただろうが。門も、都市庁も、倉の鍵も」


ヴァドが遮った。バルガはその顔を見たまま続けた。


「取った。だが、鍵を握ってからも、同じ頼みを繰り返してる。


水路の見張りが足りなければ、誰かの氏族へ頼む。そいつらが帰れば、また別の誰かへ。次の者がいなければ、水を動かす技師がいても、その仕事を守れない。


いつまで、それを続ける。俺たちの子供にも、困るたび旗を集め、刃を持って話を聞かせろと言うのか。


俺は、そんなものを残すために、ここへ来たんじゃない」


大角牛の代表の掌が、票から離れた。ヴァドは突き出しかけた顎を引いたが、白紙を手元へは戻さなかった。


「子供が仕事を探すとき、氏族の戦士を後ろに立たせなくてもいいようにしたい。家を追われた者が、有力な誰かの親類でなくても、訴えを聞いてもらえるようにしたい。


俺がいる間だけ話が通って、死んだら、残された者がまた一から頼んで回る。そんなままには、したくない。


そのための国が欲しい。


灰狼に生まれたから灰狼へ頼め、大角牛なら大角牛へ聞け。それで守れる者はいる。だが、どの氏族にも頼れない者はどうする。ここで生まれ、ここで働き、俺たちと一緒に腹を空かせているのに、背負う旗がないだけで、また後回しにするのか。


俺はそいつにも、ここは自分の町だと言わせたい。獣人が作る国で、獣人でない者を追い出して、それで俺たちの扱いが変わったと胸を張れるか」


開いた扉の向こうで、旧市の職員が足を緩めた。


バルガと目が合うと、職員は持っていた紙を胸へ寄せ、廊下の先へ歩いていった。


足を止めて、続きを聞いてもらえるかと思った。今の言葉だけで、少しは信じてもらえるのではないかと。その期待に気づき、バルガは机についた指を曲げた。


「国を作れば、誰かが代わりに働いてくれるわけじゃない。今より面倒なことを引き受ける。嫌いな相手の話も聞く。身内が他人の家を壊したなら、身内だからで済ませない。


外の王に従いたくないと言うなら、俺たちの中でも、力のある奴の一言で全部を決めるな」


息を継いだ。


「俺は、それをやった」


口の中が乾いていた。


トゥラが鍵を握り直した。バルガはその手に目を止め、一度言葉を切った。


「国を作るために、反対した者を殺した。その俺が、国を欲しいと言っている。聞きたくない者もいるだろう。


国を作ったからといって、俺のしたことが消えるわけじゃない。俺が命じたことも、誰が死んだかも、記録に残せ。


そのうえで、町を取って終わりにはしたくない。俺がいなくなったあとも、ここで暮らす者が頼れる仕組みを残したい」


灰狼のケルドは、口元の白い毛の下で唇を結んでいた。両手は膝に置かれたままだった。風で水路の票がめくれても、いつものように揃えようとはしなかった。


「帰る者には、帰って守らなければならないものがある。残る俺たちはどうする。次に誰かが俺たちの暮らしを決めに来たとき、また刃を抜くところから始めるのか。


俺はもう、子供たちにそれしか渡せないのは嫌だ。お前たちと、国を作りたい」


言い終えても、バルガはしばらく立っていた。


広場で子供を呼ぶ声がした。トゥラの顔が一瞬、窓へ向いた。


バルガは口を開きかけ、それ以上は言わなかった。誰かが賛成するまで立っていれば、返事を迫ることになる。


机から右手を離し、椅子へ戻った。


ヴァドは白紙を手元へ引いた。その顔から怒りは消えていなかった。


「灰狼だけで決めるなよ」


「決めん」


「お前が腹を立てても、反対した奴の名を消すな」


「俺は消さない。消せという決定にも名を置かん。そう言ったことも残せ」


ヴァドは白紙を巡回票の下へ差し込んだ。バルガへ書けと迫っていた紙は、机の上から見えなくなった。


「俺は国を作る方へ回る。持ち場へ戻って話す。反対の返事も持ってくるぞ」


バルガは頷いた。喉の奥に力が入り、短い返事さえ、すぐには出なかった。


ケルドが机へ手を戻した。


「俺も、その国を作る。だが、俺たちが抜けたあとまで続ける仕事なら、今いる連中だけで背負えるふりをするな。次の者へ何を渡すか、そこまで話そう」


ケルドは水路の票を中央へ寄せた。バルガも椅子を寄せ、その時刻が読める位置へ身体を向けた。


大角牛の代表が拳を掌へ一度打った。


「壊した扉の代金も、次へ残るんだな」


「残る」


「なら、勝ったから払わんと言う奴の国にはするな。そっちなら、作る話に加わる」


西門側の女は、編んだ淡い灰色の髪を肩から払った。セナが国作りへの返答を書き留めた紙を回すと、受け取らず、次へ渡すよう手で示した。


「私たちは、まだ決めない」


ヴァドが顔を向けた。


女は自分の前にある水路票を持ち上げた。


「これは続ける。ここに残って、見ている。今日の話を聞いたからといって、国作りに加わる者の中へ、私たちの名を入れるな」


「入れない」


セナが答えた。


ヴァドは女の顔を見てから、巡回票へ目を落とした。女は水路票を机に戻した。


トゥラは最後まで立っていた。バルガと目が合うと、鍵を包んだ布を持ち直す。


「うちは帰る。今の話を聞いても、それは変わらない」


バルガは水路の票へ目を落とした。


この女が残ると言えば、その名を消さずに済む。そう思う自分は、まだいた。


「分かった。水路の引継ぎだけ、出る前に頼む」


トゥラは息を吸いかけた口を閉じた。続く言葉がないのを確かめるように、バルガを見た。


「渡してから出る」


扉へ向かう前に、大角牛の代表へ振り返った。


「鍵だけ置いては行かない。誰か、戸口まで一緒に来てくれ」


代表は扉の脇で待つ自分の兵を呼び、巡回票を渡した。


「一緒に行って、戸口を確かめろ」


トゥラはその兵を待ち、先に廊下へ出た。セナも記録をまとめて後に続く。


ヴァドは見送らず、明日の欄を見ていた。




トゥラは大角牛の兵と巡回の道を歩いた。曲がり角ごとに足を止め、どこを通るか、どの戸口を確かめるかを伝えていく。


水路のそばでは、流れる水の音に声が紛れた。兵が聞き返すと、トゥラは来た道を指して、もう一度説明した。


最後に鍵を渡し、兵が自分で戸を開け閉めするのを見届けた。


セナは引継ぎを記録してから、トゥラと広場へ戻った。


日なたの石は朝より温かくなっていた。荷車の陰で待っていた子供が、トゥラを見つけて駆け寄る。女はその肩を抱き、荷台へ上げた。


「もう出る。荷紐には触るなよ」


鍋の脇に座り直したのを確かめ、寝具を背へ寄せてやる。


旗は竿に巻かれたままだった。家畜の引き縄を握る男が、荷車の先を確かめている。


同行する女が一人、まだ戻っていなかった。施療院に残る、負傷した家族へ別れを告げに行っていた。


トゥラはそちらへ続く道を見たが、誰かを呼びにやろうとはしなかった。引き手も車の脇で待っていた。


セナが帰還記録を見せると、トゥラは広場の入口から目を戻した。


共同作業から外れる日、返した鍵、引き継いだ道、同行者。町に残る負傷者は、同行者とは別に記してある。


人数を確かめていた指が、自分の返答を記したところで止まった。


国家建設への参加は引き受けない。


トゥラはしばらくその行を見ていたが、消してくれとは言わなかった。紙を下へたどり、引継ぎの欄へ名を書いた。


最後の女が戻ってきた。手には何も持っていなかった。荷台へ上がり、空けられた場所に座ってからも、しばらく施療院の方を向いていた。


トゥラが荷紐を締めた。引き手が家畜の首筋を撫で、列が西門へ動き始める。


セナは記録を抱えて、その脇についた。


会議を終えて都市庁から出てきたバルガとヴァドも、荷車の列に追いついた。二人は言葉を交わさず、少し後ろを歩いていた。


西門へ向かう狭い道で、交代の灰狼兵と行き合った。先頭の車に気づいた兵が足を止め、連れも振り返る。傾いた二本の槍の柄が、荷車の進路へ張り出した。


引き手の足が止まった。


兵は荷台に積まれた旗竿を見てから、後ろにいるバルガへ顔を向けた。引き手も待っている。誰も、先に動こうとしなかった。


荷台の子供が、寝具の後ろへ身を引いた。


バルガの裂けた右耳が動いた。


「荷車を先に通せ」


自分の兵へ告げた。


二人が道の端へ寄って槍を立て直すと、荷車の通れる幅が空いた。引き手はバルガを見ずに歩き出した。車輪が石の継ぎ目を越え、荷台の鍋が小さく鳴った。


ヴァドも道の端へ避けていた。旗を載せた車が過ぎても、手を上げなかった。


トゥラは一度そちらを向き、唇を動かしかけた。だが声にはならず、車はそのまま進んだ。荷台の姿が門の陰へ入っていく。


列の後ろが西門を抜けてから、セナは通過時刻を書いた。


その下へ、帰還を拘束で妨げず、と添える。


「それも残すのか」


バルガが訊いた。


「仕事を外れたことだけ書けば、逃げたみたいになる。帰ると言って、引き継いで、出た。止めずに通したことも、残しておく」


筆をしまう頃には、車輪の音も聞こえなくなっていた。


ヴァドが夜の番表を開いた。


「前半は、こっちから出す」


バルガが隣へ立った。


「後半は灰狼から。門の予備を回す」


「薄くなるぞ」


「薄くなる」


バルガは表に目を落とした。帰らせたことと、空いた持ち場をどうするかは、どちらも自分たちの仕事として残っていた。


都市庁へ戻ると、大角牛の代表が朝の水路と配給の時刻を見比べていた。セナが夜の交代を伝え、その横へ新しい票を置く。


「水路を先に回る。荷車はそのあとだ。昼の分が遅れると、施療院が困る」


代表が時刻を指で追った。


西門側の女が、配給護衛の票を引いた。


「水路の途中までなら、私たちの巡回で引き受ける。そちらの兵は倉へ戻せる」


根路管理所へ変更を伝える役も引き受け、セナに時刻を確かめる。


新しく入れた名の横には、東門の予備から移したことを示す印が付いた。


呼ばれてきた灰狼の兵は、今夜は東門ではなく水路へ回ると聞いて、バルガを見た。


「今夜もですか」


「後半を頼む。前半は寝てくれ」


兵は返事をする前に、水筒を揺すった。水の音はしなかった。


「先に、水だけ足してくる」


ヴァドはその兵の顔を見た。何か言いかけたが、口を閉じて番表を畳んだ。自分の持ち場へ人を呼びに行く。


窓の下では、朝に旗が立っていた場所を、配給の荷車が通っていた。車輪が過ぎたあとも、石畳の穴はそのまま見えていた。




その後も、帰る者は出た。


旗が減るにつれ、残った兵の名が別の時刻にも書かれるようになった。夜の巡回から戻った兵が、配給の荷車の脇で朝の交代を待つ。腰を下ろすと目が閉じ、呼ばれて初めて立ち上がった。


旧市務の技師は水を回し、倉の職員は袋を量った。荷を積み終えても、脇につく兵が揃わず、車を出せないことがあった。


都市庁では、ケルドが書記へ用紙を返した。


「その兵は昨夜、水路へ出た。休む時間まで、ここで埋めるな」


書記の指が止まった。


窓の下では、灰狼の兵が壁へ頭を預けて眠っている。両足を伸ばし、片手だけは膝の上の荷を押さえていた。


書記は次の交代欄からその名を消した。空いたところを見つめてから、用紙を差し出す。


ケルドはようやく受け取った。


大角牛の代表は配給の便をまとめ直した。ヴァドは持ち場から、国作りの話へ加わる返答を運んできた。保留もあった。紙を渡すときには顔をしかめたが、返事を書き換えろとは言わなかった。


荷の遅れた日には、ヴァド自身が倉へ行った。戻ったときには上着に穀粉がつき、声も嗄れていた。受け取った番表の空欄へ、自分の名を書く。


「待ってる方は、次の便なんぞ知らん。今日の分が来ないとしか思わん」


セナは警護の時刻を確かめた。その時間を引き受ければ、ヴァド自身が持ち場から外れる。


「そっちの交代は?」


「戻って頼む」


ヴァドは書いた名を消さなかった。


その夕方、オルネが都市庁へ来た。


市議会で回した文案には、書き足した行と、返答を預けた者の名がある。何度も開いて読まれたのか、紙の折り目が白く擦れていた。


「市務を続けるという返事とは、分けてあります」


オルネは顔を上げ、バルガへ紙を差し出した。


「国を作る話に加わります。私自身と、ここに名を置いた者の返答です。旧市の全員が望んだとは言わないでください」


バルガは受け取る前に訊いた。


「王府が戻るのを待つのではなく、か」


「待って、誰に市を返すのですか」


オルネの指が、紙の端を押さえた。


「王府の者が来れば、市の記録も、倉の鍵も渡せと言われるでしょう。市に暮らす者の返答を聞かずに決められてきたことも、それで済まされてしまう」


机に並ぶ氏族側の票へ、目を向ける。


「あなたたちだけに決めさせるつもりもありません。私たちも、ここで決める側へ入ります」


「俺たちに従うためじゃない、と」


「そうです。壊した家の訴えは残します。戻りたい者を止めないことも。この文案を一緒に引き受けるなら、私は隣に立ちます」


バルガは紙を受け取り、氏族側の返答と並べた。


セナは二つの綴りを開き、誰が、どこまでの判断を委ねているのかを読み比べた。同じ言葉でも、引き受けている範囲が違う箇所があった。そのまま一つにまとめず、印をつけたところについて、翌日、もう一度返答を求めた。


その夜から、通信樹の部屋にも遅くまで灯りが残った。


外部線を開くたび、双方の立会人が文面を読み、二つの封止環を同時に外した。技師は送信時刻を記し、返ってきた受領符を控えに移す。立会人が署名を終えると、環は元の位置へ戻された。


廊下の灯りが落ちたあとも、扉の下からは細く光が漏れていた。


セナが控えを受け取ったとき、技師は濡らした布を、熱のこもった受信板の裏へ当てていた。机の端には、冷めた飲み物が置かれたままだった。


「次も、ここの立会いは省かないでくれ」


「省かない。文面が変わるなら、先に双方の立会人へ渡す」


技師は頷き、布を裏返した。


扉を閉じると、廊下の先の荷寄せ場には、翌朝の配給を待つ空の荷車が並んでいた。セナは壁際へ突き出した引き手を避け、まだ返答の来ていない部屋へ向かった。


十日停戦の終わりが迫ったころ、西門からアルヴェルンの公表文が届いた。


市外から来た商人が持ち込んだ、国境警戒通告の写しだった。門から通信樹の市内線で一報が届き、紙は後から運ばれてきた。記された発表日は、受け取った日より前だった。


旧トーレン方面へ部隊を動かす。目的は国境警戒。リュサ攻略への関与を否定する。


添えられた断片的な報告には、兵員と工兵が東へ向かったという目撃があった。到着した場所も、人数も、報告ごとに食い違っていた。


バルガは写しを読み、東門の番表へ置きかけて手を止めた。


「セレネアは、西も空にできんかもしれん」


セナは東門の番表を見た。


水路へ回した兵を戻せる知らせなら、と一瞬思った。だが、紙に書かれているのは、遠い場所で別の軍が動いたということだけだった。


「そうかもしれない。でも、私たちへの援軍じゃないよ」


通告を受取記録と合わせる。


「東門の外の兵が減ったという報告もない」


バルガの右手が、予備から水路へ回した名の上で止まった。


「なら、向こうが減る当てで、こっちの配置は変えん」




停戦最後の日を迎える明け方、セナは都市庁で勤務表を開いた。


窓はまだ暗い。灯りの下では、何度も訂正した時刻と、その脇へ小さく書き足した名が重なって見えた。


旧市務職員の引受けは今日の日没までだ。今夜の欄を埋めるには、また本人に聞かなければならない。


国作りに加わるという返答の綴りも、帰還記録も机にある。


国作りには加わらず、今朝も水路へ出る者がいる。加わると答えていても、今夜の仕事までは引き受けていない者もいる。セナは返答の綴りを脇へ寄せ、勤務表をもう一度確かめた。


今日の番を引き受けた者へ渡す控えを作る。


トゥラの名の横には、鍵を受け取った兵の名が記されていた。帰った日も、引き継いだ時刻も、そのまま残っている。


セナは一枚を書き終え、インクが乾くのを待って次へ重ねた。




八百歩線に並ぶ灯りが、東門の物見窓から見えていた。


約一千八百の救援軍は、まだそこにいる。灯の前を交代の兵が横切り、荷車が陣地の内側へ入った。工具の音が途切れ、別の場所でまた鳴る。


攻撃が始まるという報告は来ていない。それでも、外から大きな物音がするたび、門内の誰かが顔を上げた。


夜の湿気が石壁に残っていた。


水路から戻った灰狼兵が、引継ぎのために足を止めている。靴の縁には泥がこびりつき、足を動かすと、乾いた塊が石床へ落ちた。


兵は次の者へ灯具を渡し、壁際へ座った。バルガは左肩をかばいながら、その脇を通った。座った兵が立とうとするのを、右手で制した。


ヴァドが持ち場の確認を届けに来た。太い眉の下に眠気が残り、紙を差し出す手にも、いつもの勢いはない。


「出せる者は、この紙の分だ」


バルガは受け取った。


帰った者の名はない。門に置いていた予備の一部も、別の持ち場へ移っている。紙の上の人数を数え直しても、増えはしなかった。


「それで立つ」


ヴァドは八百歩先の灯りを見ていた。空が明るくなれば、今は影にしか見えない兵の姿も、はっきり見えてくる。


「あの話、今日になって引っ込めるなよ」


バルガはその横顔を見た。


会議室で帰る者を止めろと言った男が、足りない番へ自分の名を書き、反対の返事も持ち帰ってきた。目の下には、あの日より深く疲れが出ている。


「引っ込めん」


ヴァドはもう一度、紙の人数を見た。それ以上は言わず、門楼の方へ向き直った。


空が白み始めた。


門楼へ上がる前に、バルガは一度だけ、広場へ続く道を振り返った。旗を片づけた跡のそばには荷車の轍が重なり、残る氏族旗が朝の風を受けている。都市庁の旗竿は空のままだった。


通りの向こうから、今日の配給荷車が来た。


大角牛の兵が脇を歩き、その後ろを西門側の巡回が持ち場へ曲がった。車輪が石の段差を越えると、荷台の袋へ二人が同時に手を伸ばした。一人が押さえ、もう一人が紐を引き直す。車は止まらずに進んだ。


バルガは右手を門の戸に置いた。夜の冷たさが掌に残った。


肩はまだ痛む。門の外には昨日と同じ灯がある。こちらに並ぶ兵は、トゥラたちの荷車を通す前より少ない。


背後で、配給荷車の軋む音が続いていた。


ヴァドが門楼へ続く階段に足を掛けた。


バルガは戸から手を離し、その隣へ並んだ。

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