第四十二章――三十四の旗
都市庁の受付には、その朝、署名のない紙が三枚戻ってきた。
水路の夜間巡回。翌朝の配給荷車の警護。東門から求められた、翌日以降の連絡先。
人も、荷車も、施設もある。ただ、その仕事を明日も引き受ける者の名が、どの紙にもなかった。
セナは三枚を横に並べた。窓の外では空の都市庁旗竿が風に鳴り、その向こうに三十四氏族の旗が見える。広場を横切る配給列は、朝から途切れていなかった。
オルネが、翌日の欄へ目を止めた。
「今日の分は動いています。明日は、また頼み直しますか」
「頼む前に、三十四氏族へ確かめたい」
セナは三枚を重ねなかった。
「この戦いで何を得たのか。何を失って、それでも何を引き受けるのか」
三枚を持って、広場へ出た。
三十四氏族の代表が主根広場へ揃ったのは、昼の鐘より前だった。
広場の端には三十四本の旗が立ち、風が来るたび、違う色と紋が別々に膨らんだ。都市庁正面の旗竿だけは空いている。欠けた石畳の脇を配給列が通り、血の染みが残る包帯を巻いた兵が、壁際で荷車へ道を譲っていた。
都市庁へ進んだ二十氏族と、各持ち場に残った十四氏族は、広場でも一つの塊にならなかった。バルガは灰狼の旗の前に立ち、吊った左腕を身体の横へ寄せている。
岩猪の代表が旗柄を握り、都市庁を見上げた。
「水路の番を決める前に、はっきりさせろ。俺たちは何を得た」
「リュサだ」
別の代表が答えた。
「門も、都市庁も取った」
西門側の代表は、旗の陰に置かれた椅子から動かなかった。
「門を取っても、東の軍は消えていない。八百歩先に一千八百がいる」
「それでも、ここに住む仲間を、以前の決まりへ黙って戻されずに済む」
大角牛の代表は、配給列を横切る荷車へ目を向けた。
「家族を連れ出せた者もいる。それは得たものだ」
岩猪の代表は身を乗り出した。
「十日の時間も取った。王府の軍は、もう俺たちを無視して門を通れない」
「十日だけだ」
灰狼の代表はバルガから少し離れた所で、セナから受け取った水路の依頼書を折らずに持っていた。
「国を得たわけでも、土地の持ち主になったわけでもない」
「私たちは、ここにいた獣人を連れ出せればよかった」
西門側の代表が言う。
「門を開け、家族の無事を確かめた。そこまでなら目的は果たした」
「戻れば、また同じだろうが!」
岩猪の代表の手が旗柄を軋ませた。
「仲間がどの区画に住めるか、誰の仕事に就けるか、また王府に決めさせるのか。そのために死んだわけじゃない」
「新しい国に決めさせるために死んだのでもない」
別の氏族代表が、岩猪の代表から視線を外さずに言った。
「旗を替えた先で、また誰かの下へ入れと言うなら、私は署名しない」
遠くで鐘が一度鳴った。草原へ戻すはずだった負傷者を、まだ施療院へ残している氏族もある。
大角牛の代表が、拳を掌へ打ちつけた。
「昨日までは、戦士を連れ戻せば済んだ。今は壊れた扉の代金までこっちへ来る」
「嫌なら払わないのか」
岩猪の代表が割り込む。
「払う。だから腹が立つ。勝って町へ入ったら、水も食料も、壊れた店も、全部こっちへ回ってきた」
灰狼の代表が水路の依頼書を掲げた。
「戦う前、水が止まれば市の役人の責任だった。今は、この紙が俺たちへ回ってくる。失ったのは、関係ないと言える立場だ」
旗布の鳴る音だけが残った。
バルガは配給列へ目を向けた。氏族旗の下にも、旗を持たない住民の列が続いている。
「取ったのは、鍵と持ち場だ」
声は低かった。
「中にいる者まで戦利品にしたわけじゃない。だが鍵を持ったまま、水も食料も知らんとは言えない」
岩猪の代表が依頼書を奪うように受け取った。
「なら、命じる者を一人置け。紙が戻るたび三十四氏族を呼ぶのか」
視線がバルガへ集まった。
「俺を見るな」
「都市庁まで二十氏族を動かした」
「二十だけだ」
バルガは広場の石の縁へ右手を置いた。
「停戦でも、同じ署名をしたわけじゃない。俺の名一つで三十四を動かせば、嘘になる」
「では、二十氏族だけでも」
「戦場で預かった指揮だ。町を動かす権限まで預かった覚えはない」
西門側の代表が立ち上がり、旗柄へ手を掛けた。
「国を作り、頭を決める会議なら、私たちの名は外せ」
「帰ると決めたのか」
岩猪の代表が振り返る。
「今は決めていない。残ることと国へ入ることを、同じ紙にするな」
代表は広場を出かけた。だが、水路の依頼書が岩猪の手にあるのを見て足を止める。
「国を作る話なら降りる。水の話なら残る。あの持ち場には、うちの兵もいる」
セナは口を挟まず、二つの返答を分けて書いた。
午後、氏族側の代表に加え、旧市側と十二根路区の代表、施設の実務責任者が都市庁の会議室へ入った。
岩猪の代表が水路の依頼書を長机へ置いた。セナは残る二枚をその横へ並べ、仕事ごとの用紙を広げた。窓に近い席では、施設側が運用の記録を開いている。
旧市書記が便宜上置いた仮表題には、共同統治、とある。
大角牛の代表が、その文字を指で叩いた。
「誰が誰を統治する」
セナは二本の線で仮表題を消した。総責任者の欄は空けたまま、仕事、期間、連絡先、できないことを記す。
「市務施設の運用と住民対応なら、旧市側で続けられます」
オルネが施設の記録を手元へ寄せる間に、西門側の代表が水路の用紙を引いた。
「巡回の護衛は持ち場から出せる。流す水まで、こちらに決めろとは言うな」
セナは施設側が示した運用記録を、護衛とは別の行に添えた。施療院の紙も、運用と護衛・立入りを分ける。根路区は記録と住民への連絡、水路へ手を出せる範囲に名を置いた。
次の用紙を、大角牛の代表が大きな掌で押さえた。
「配給の荷車には、こちらから兵を出す。その時間だけだ。倉の食料まで、こちらの物になったとは書くな」
オルネは搬出の記録を示した。量、行き先、配給先は三者で残し、住民分と野営地分を分ける。期限には、十日停戦の満了まで、と記した。
セナが荷車の警護時間を書き終えると、次の用紙を引き寄せた。
氏族兵、元市民兵、根路側の住民記録役。その三つの欄へ、一人ずつ名を入れる。下には、場所と時刻、何が起きたかを残す欄があった。
岩猪の代表が、その紙へ指を置いた。
「引き離して、書き残す。それで終わりか」
セナの筆が止まった。
オルネが隣の申立ての紙を引き寄せた。旧市書記と根路区の記録役が受け、補償は当事者が合意した分だけ記す。未裁定のものは、そのまま残した。
岩猪の代表は指をどけなかった。
門務の用紙が回ると、ディルハは東門の連絡簿と並べた。
「門務と旧衛戍側の停戦実務は、私が引き受けます」
氏族の持ち場と市務施設の連絡先は、別の行へ入った。バルガは持ち場の用紙から、灰狼の分だけを手元へ寄せた。持ち場と、停戦文で連絡役を担う範囲に名を書いた。
岩猪の代表が、分かれた用紙を見下ろした。
「これでは政府ではない」
午後の鐘が二つ鳴った。
セナは、空いたままの総責任者欄を消した。どの責任欄にも名を置かず、最後の起草欄に旧市書記と並んで署名する。
岩猪の代表が、朝に戻ってきた三枚を見た。
「これで明日、動くのか」
「引き受けた仕事までは」
セナは乾きかけた文字を見直した。
日が落ちる前、担当と期間、連絡先の入った三枚の紙が、都市庁の受付から別々の宛先へ出ていった。
夕風の中でも、旗は三十四本のままだった。都市庁の旗竿には、何も上がらない。
会議が終わったあと、旧市書記が一冊の名簿をセナの前へ置いた。
水路技師、通信官、門務職員、穀倉職員、施療院職員、清掃担当。
昨日まで、セレネアの市務に属していた者たちの名だった。
「仕事の分け方は決まりました」
旧市書記が言った。
「明日、その仕事をする者を、誰の職員として扱いますか」
セナは名簿を開いた。
所属を記す欄は、まだ一つも埋まっていなかった。




