第四十章――内乱という言葉
十日停戦が始まって数日後。昼前の光が王都の評議室の窓から差し、長机の中央に並ぶ三つの封袋を照らしていた。この日の議事を進める評議員セルディンが机の端に座り、軍務担当官と対外担当の評議員は向かい合う。市務担当官の前には現地報告、ネイセルの前には王府通達の草案が置かれ、壁際の書記席には紙と筆記具が揃えられていた。広げられたリュサの地図の上には、まだ何も置かれていない。
最初の封袋から出た軍務報は薄く、折り目に手垢が残っていた。都市庁が落ちた直後に書かれ、城内に入った者たちは獣人軍と記されている。
二つ目は、綴じ方の異なる書類を重ねた厚い束だった。十六氏族の停戦実務合意、四氏族の戦闘停止確認、十四氏族の持ち場別確認、市務施設の運用書。署名欄の形も長さも揃わず、一つの政府も、三十四氏族すべてを代表する一人の名も書かれていない。
最後の封袋には、十日停戦が始まったあとに救援軍が作った報告の写しが入っていた。紙は二つ目の束より新しく、樹冠監察隊員六人の受け取り、水路と施療院の稼働、東門で続ける実務連絡が同じ書式に収められている。その相手は、リュサ側停戦連絡者と記されていた。
三つの書類は、作られた日も、王都へ着いた日も違った。同じ街を指しながら、紙の揃い方も、相手の呼び方も一致していなかった。
ネイセル・ヴァレシオンは王府通達の草案を机に置いたまま、引かれた赤線を目で追った。右手の筆はまだ紙に触れていない。
表題には、リュサ内乱への対処、とある。
本文では内乱が消え、暴徒による騒乱へ変わっていた。その下の現地軍宛て命令案には、交渉相手という語が残っている。
「暴徒では済まない」
軍務担当官ヴァルド・レディオンが、最初の報告書を指で叩いた。短い灰色の髪の壮年の男で、濃色の詰襟は広い肩に張っている。
「都市庁を取り、門を守り、こちらと十日の停止を結んでいる。暴徒で済むなら、救援軍は何と交渉した」
対外担当の評議員リシア・エルネスが、草案に残る獣人軍の語を指先で押さえた。中年に見える痩身の女性は黒髪を後ろで束ね、淡い上衣の袖口を整えてから、細い眼鏡越しにその語を見た。
「獣人軍と書けば、国外から来た正規軍と読まれます。新国家の軍と受け取る国も出るでしょう」
「実際に武装している」
「武装していることと、国の軍であることは別です。『国の軍』と書けば、国外では承認の言葉として残ります」
ヴァルドは返しかけたが、指を軍務報から離し、机の中央にある停戦文書へ目を移した。氏族名の並びに国号はない。バルガの名も、三十四氏族すべてを代表する欄には置かれていなかった。
セルディンがネイセルを見る。
「儀典局なら、どう直す」
「国家を示す語は外せます」
ネイセルは草案を持ち上げず、交渉相手の語の横へ筆先を置いた。
「ですが、相手まで消せば、現地命令が成立しません。誰に停戦を守らせ、誰から負傷者を受け取るのか、命令を読む側が判断できなくなります」
「相手は現地軍が把握している」
「その現地軍が、呼び方を決めてほしいと報告しています」
市務担当官マレド・フェリオが、最後の封袋から抜いた報告の写しを開いた。白髪の小柄な老人は、地味な上着の擦れた袖口も気にせず、六人の帰還記録と施設名が見える向きでヴァルドの前へ滑らせた。
「六人を受け取れたのは、門と施療院が記録を揃えたからです。その職員まで暴徒として扱えと命じれば、次の移送が止まります」
「市務の者まで敵兵に数えろとは言っていない」
「草案には区別がありません」
ヴァルドは報告の写しを引き寄せた。六人の名の横には、帰還時刻だけが記されている。リュサ側が記した拘束理由を救援軍は認めていない。それでも、引き渡しが行われたこと自体は否定できなかった。
リシアの視線が、内乱という表題で止まった。余白には、国、軍、承認の三語が小さく書き留められている。
「国内の出来事として扱うことには異論がありません。ただ、旧市職員まで反乱側と書けば、国外には都市ぐるみの反乱と読まれます。こちらへ戻ろうとする者の立場も、その文書で塞ぎます」
「では、武装した氏族だけを指せばいい」
「どの氏族です」
ネイセルが訊いた。
ヴァルドは軍務報の端を揃えた。返事は短かった。
「報告にある氏族だ」
「報告は一枚ではありません。十六氏族の停戦実務合意と、四氏族の戦闘停止確認と、十四氏族の持ち場別確認は、同じ責任を負っていない。三十四氏族すべてへ一人で命じられる者もいません」
バルガから、それを最初に突きつけられたのはネイセルだった。今度は答えを返せたが、答えたところで相手が一つになるわけではなかった。
「名前を並べれば、通達ではなく名簿になる」
セルディンが言った。
「一つにまとめる言葉が要る」
しばらく、壁際の書記席から聞こえる筆の音だけが続いた。
ネイセルは暴徒を一本線で消した。赤線の上で筆を一度止め、その上へ、国内武装勢力、と書く。
「国とは書きません。軍とも書かない。武装して都市を占拠している事実だけを置きます」
ヴァルドが文面を読んだ。
「国内武装勢力によるリュサ占拠」
「国家承認にはなりません」
リシアは、その語から表題へ指を移した。
「騒乱よりは実態に近い。ただし、この語を使うなら、現地命令では武装勢力と市務の担当者を分けてください」
一つ目の文言は決まった。
そのため、二つ目の草案が書けなくなった。
現地軍宛て命令案は、占拠勢力との交渉を禁じる一文から始まっていた。国家として認めないことを徹底するために入れられた文言だった。ヴァルドは一文の横へ指を置き、次に並ぶ移送と施設保全の項目を見比べている。
「これでは、次の移送が止まります」
マレドが報告を命令案の隣へ押し出した。
東門、水路、施療院の記載を指すにつれ、言葉が早くなる。
「住民の退去時刻も、負傷者の受け渡しも、東門で話を合わせなければ決められません。水路と施療院の報告まで、どこからが交渉かと門の兵に選ばせるのですか」
「連絡と承認は別です」
ネイセルは言った。
「別だと書けば済むのか」
ヴァルドが命令案を二度叩いた。問いは短くなった。
「紙の上では済みます。現地で済むかは、私には決められません」
ネイセルは交渉禁止の一文を残し、その前に国家または政府としての、と加えた。続く行には、現行停戦の履行、住民の退去、負傷者の移送、市務施設の保全に必要な実務連絡を妨げない、と置く。書き終えると、宛先と署名欄へ目を移した。
リシアが、領土変更の語を確かめてから、その文の末尾へ書き足した。
「実務連絡は、国家、政府、領土変更の承認を意味しない」
ヴァルドはすぐには頷かなかった。
「向こうは、これを交渉相手と認めた証拠にする」
「すでに交渉相手です」
マレドが返した。
「だから六人が戻った。認めたくないことと、起きなかったことにするのは別でしょう」
ヴァルドの指が、六人の帰還時刻の上で止まった。
「奪還命令は消さない」
「消しません」
リシアが答えた。
「停戦を守ることと、命令を撤回することも別です」
その区別を王都で書くあいだ、東門の外では一千八百人が八百歩線に残っている。命令の一語を誤れば、現地が何を続け、何を止めるのかが変わる。
午後の鐘が窓の外で鳴ったとき、セルディンは二つの草案を重ねなかった。ヴァルドの前には命令案、マレドの前には帰還と施設の記録が開いたままだった。
公式定義と現地命令は、別の紙のまま残された。
公開範囲を決める前に、樹冠監察隊の連絡書記が黒い封筒を持って入室した。
壁際の筆が止まった。セルディンは開かれた草案から視線を上げ、机の端を示した。黒い封筒は、公開用の二枚から離して置かれた。原本は監察隊側に残され、封筒から出されたのは現地協力者の報告の抄写だった。
「現地協力者エネは退避済みです」
「得ていた情報は」
セルディンが訊いた。
「本人が接触した協力者の一部、会合に使われた場所、西門周辺の動き、合図と連絡役の一部です。氏族全体の指揮や攻城計画を把握していたわけではありません」
ヴァルドは抄写へ手を伸ばさずに訊いた。
「国内武装勢力という定義の根拠に使えるか」
「使えません。占拠した者たちの所属を示す資料ではありません」
リシアが、公開用の草案を伏せてから、抄写の末尾を見た。
「ソルネとは、徴税吏のソルネですか」
連絡書記は一度だけ頷いた。
エネの報告は短かった。
ソルネは彼女の素性に疑いを持ち、正体へ近づいていた。放置すれば、自分だけでなく、渡した情報や接触先まで辿られる可能性があるとエネは判断した。
そのため、自分でソルネを殺し、獣人による報復に見えるよう偽装した。
「殺害を命じたのか」
ヴァルドが訊いた。
「王府も監察隊も命じていません。エネ自身の判断です」
「リュサ側への通知は」
マレドが訊いた。
「情報源を明かさずに断定できる材料がありません」
セルディンは抄写を閉じ、黒い封筒の上へ戻した。
「公式定義とは分ける。通知については別に検討する」
リュサ側へ出す文書には、エネの名もソルネ殺害の真相も加えられなかった。
日が傾くころ、長机を照らす光は窓際まで退き、王府通達の表題から内乱という語は消えていた。
残ったのは、国内武装勢力によるリュサ占拠、という一行だった。
本文には、獣人側を独立国家とも外国軍とも扱わないこと、リュサの帰属に変更を認めないこと、奪還命令を撤回しないことが記された。
現地軍宛ての命令には、現行の十日停戦を維持することが残った。軍事、市務、人道上の実務に限って、停戦文書へ名を置いた連絡者および関係する市務施設との連絡を続ける。ただし、その連絡を国家、政府、領土変更の承認とは扱わない。
「宛先はどうする」
セルディンが訊いた。
ネイセルは現地命令の宛先欄を見た。空欄の下には、昼から引き直した赤線が重なっている。
新国家政府宛てとは書けない。三十四氏族代表宛てとも書けない。誰も、その全体を代表する権限を示していなかった。
「救援軍指揮部宛てです」
「相手側への写しは」
「現行停戦文書に名を置いた連絡者へ。市務の件は、関係施設の担当者へ回すよう付記します。代表者とは書きません」
ヴァルドが最後に確認した。
「相手の権限まで、こちらが保証するのか」
「保証はしません。誰が何を返答したかは、現地で個別に記録させます」
「不便な命令だ」
「相手が一つでない以上、便利に書けば嘘になります」
ネイセルはそれ以上続けなかった。
評議で文面が承認されると、壁際の王府書記が二通を清書した。ヴァルドは奪還命令の存続を確認して執行欄へ名を置き、リシアは国、軍、領土の語を追ってから、国家承認を否定する文言を確認した。マレドは、東門、水路、施療院の記載と、実務連絡を妨げない一文が残っていることを確かめた。ネイセルは最後に宛先と署名欄を見直し、筆を置いた。
黒い封筒だけは、王府の発送箱へ入らなかった。
一通の通達は、リュサに国家も政府も認めないと定めた。
もう一通の命令は、その同じ都市で門を開き、負傷者を移し、水路と施療院を動かしている者から、必要な返答を受け取れと救援軍へ命じた。
二通とも、同じ王府印で封じられた。
奪還命令は残った。十日停戦も残った。
セレネアは相手を国と認めず、その相手との連絡を続けることを決めた。
夜、新王の執務室には、机上の灯りだけが残っていた。昼の評議を終えた二通の控えが、王府印を横に並べて机へ届けられている。
一通には、国内武装勢力によるリュサ占拠。もう一通には、その相手との実務連絡を継続せよとある。国家とは認めない。奪還命令は残す。十日停戦も守る。
新王は一通ずつ手に取り、左と右へ並べた。灯りを受けた淡い紫色の瞳が、二通を行き来する。紙を動かす音のあと、部屋はまた静かになった。
父なら、こんな書き分けを必要としただろうか。
アルフレッドに盟約王としての強制力が残っていれば、救援軍にも獣人諸氏族にも、一つの命令で戦闘を止めさせられたかもしれない。王府が文言を分け、承認の有無を一つずつ確かめる必要もなかった。
そこで、新王の指が、二通の間で止まった。
自分はいま、その力を便利だと思った。
父を本来の寿命を越えてなお七百年、玉座へつなぎ、六国の服従を千年にまで延ばした力を、一瞬でも欲しいと思った。
新王は紙の端から手を離した。
新王は二通を重ねなかった。矛盾したまま、机の上へ並べておいた。
簡単だったことが、正しかったとは限らない。




