第三十七章――十日の停戦
夜明け前、東門の外で赤い測量杭が打たれた。
八百歩先の曲がり、その東側だった。古木の根に沿って街道が折れており、門楼から人影は見えても、矢を正面から通せる幅は限られる。セレネア救援軍の工兵は、杭と杭のあいだへ麻縄を渡し、濡れた地面へ白い石灰を落としていった。
門楼の衛戍兵が弓を持ち直した。
隣に立つ灰狼の弓兵も、同じ動きをする。
二人の矢先が、同時に街道へ向いた。
「壕を掘る気か」
灰狼が言った。
衛戍兵は答えなかった。救援軍の工兵が何を命じられたか、門の内側にいる自分が知るはずはない。ただ、あの杭が陣幕の外周より一列前にあることは見えた。
地上では門務班長が白布を掲げ、門外へ出た。工兵側でも一人が測量棒へ白布を結び、作業線を離れる。二人は避難民の待避地より東、互いの声が届くところまで進んだ。
門務班長は赤杭を見てから、工兵へ視線を戻した。
「……あれは、何の杭だ」
「測量だ」
「壕になるのか」
工兵はすぐには答えなかった。
「今は測っているだけだ」
門務班長の手が、白布の柄を握り直した。
「掘るなら、先に門へ知らせろ」
「知らせる」
「どこまで測る」
「八百歩線の東側までだ」
門務班長は一度だけ頷いた。それでも白布は下ろさなかった。
二日前、この街道を塞いでいたのは戦列ではなく、東へ逃れる住民と負傷者を載せた荷車だった。ここでは、まだ殺し合っていない。門務班長は、ここまで戦場にしたくなかった。
門務班長は杭の位置を通行簿の余白へ写させた。測量の目的までは書かなかった。見た事実と、工兵がそう答えたことだけを分けて残す。
東門の鐘が三度鳴った。
陥落後、二度目の朝だった。
現行の停戦が切れるのは、明日の日没である。
救援軍の返答は、朝の配給が始まる前に来た。
白旗を持つ通信兵の後ろに、救援軍副官と軍務書記が続いていた。二人とも剣は門外の預かり台へ置き、副官だけが封蝋を三つ重ねた文書筒を抱えている。
東門詰所には、昨夜の返書へ名を置いた者が集められた。
バルガは壁際に立った。左肩の包帯が軍衣を押し上げ、腕を下げたままでも傷が脈打っている。オルネ・レヴィアは市の樹根印を膝の前へ置き、ディルハは包帯で固めた肩を庇って椅子へ浅く座った。
セナは署名者ではない。旧市書記二人と根路区の記録役に挟まれ、受領文の写しを取るためにいた。
夜のあいだに、二刻だけ眠らされた。寝台へ横になった覚えはあるが、眠った実感はない。指先にはまだ前日の墨が残り、目を閉じると名簿の横線が浮かんだ。
救援軍副官は文書筒を開き、最初の一枚を机へ置いた。
夜半、救援軍の軍用通信へ届いた王府再承認の写しだった。送信時刻、受信者、照合に使った符丁が欄外へ並び、ディルハは正本を見せるよう求めた。軍務書記が差し出した通信簿と突き合わせ、右手で紙を戻す。
「符丁は王府軍のものです。再承認は本物と判断します」
ディルハが確かめられるのは、命令の真偽までだった。承認内容を変える権限はない。
「王府は、奪還命令を撤回しません」
バルガの尾が一度、強く揺れた。
副官はそちらを見たが、声を変えなかった。
「ただし、非戦闘員の退去、負傷者の移送、市務施設の保全に必要な期間として、作戦開始を十日間延期することを認めました。現行停戦が満了する明日の日没から、十日後の日没までです」
「十日待つだけで、リュサを諦める気はない。そういうことか」
バルガが問う。
「都市の帰属について、我が軍の立場は変わりません」
「なら、こっちも変えない」
副官の眉がわずかに動いた。
オルネが樹根印へ手を置く。
「条件を先に聞きましょう。帰属の話を始めれば、今日一日で終わりません」
「同意します」
副官は次の紙を開いた。
「第一に、受領、協議、署名、履行のいずれも、リュサ臨時会議を政府または都市の正統な代表として承認する行為とはしない」
旧市書記の筆が止まった。
セナは、書記の紙ではなく原文を見た。
「続きはありますか」
「承認に関する条項は、以上です」
セナの筆先が、文末の空白を叩いた。
「では、片側しか書かれていません。セレネアが臨時会議を認めないことは書いてある。でも、こちらがセレネアの都市帰属を認めないことは書かれていません」
副官は返事をせず、ディルハを見た。同じ軍服を着る者へ、説明を求める視線だった。
ディルハは椅子の背へ体重を預け直す。左肩の帯が擦れ、息が一度だけ浅くなった。
「そのままでは署名されません」
「司令――」
「私は、もうこの市の司令ではない」
ディルハは遮った。
「現地停戦の証人として言っています。片方だけに政治的な含みを飲ませれば、軍事条件までまとまらない」
副官は呼び方を訂正しなかった。ただ、軍務書記へ原文の余白を示す。
「対句にする案は持ち帰れます。受け入れるとは約束しません」
「持ち帰る前に、残りを聞く」
バルガが言った。
肩を壁から離しただけで、包帯の下が熱を持った。顔には出さず、右手を机の縁へ置く。
副官は条件を読み進めた。
東門外八百歩の軍線を動かさないこと。市内の武装勢力を東門から前進させないこと。新たな射撃設備を築かないこと。旧衛戍兵を救援軍側の後方へ移すこと。拘束中の樹冠監察隊員六人を解放すること。水路、穀倉、施療院、通信樹へセレネア側の監督者を入れること。
読み終わる前に、バルガが鼻から息を吐いた。
「停戦じゃない。門を開けて、中を渡せと言っている」
「奪還軍が、占拠された都市を十日放置する条件です」
「占拠と言うな」
「では、何と」
バルガは答えなかった。
解放したと言えば、窓を閉ざすエルフや人族の顔が浮かぶ。取ったと言えば、ここで生まれたガドたちまで戦果に数えることになる。国名さえまだ書かなかった者が、都市を一語で言い切ることはできない。
「その呼び方まで、今日この場では決められません。少なくとも、私の判断では書けない」
代わりにセナが言った。
副官が目を向ける。
「署名欄に、あなたの名はありません」
「起草と記録だけ。交渉権限はない」
セナは副官の視線を受けたまま、原文を自分の側へ引いた。
「だから、決められないことを決まったようには書かない」
セナは原文の三か所へ短い線を引いた。
「この三つは、一つの返事にできない」
最初の線は、旧衛戍兵の移送だった。
副官がディルハへ顔を向ける。
「旧指揮官としても、決められませんか」
「私が引き受けられるのは、旧衛戍兵の名簿と、彼らが担う市内の停戦実務までです」
ディルハは左肩を動かさず、原文を右手で押し返した。
「救援軍へ編入させる権限も、全員を後方へ移す権限もありません」
セナの指が、二本目の線へ移る。
「監察隊六人の期限は明日の日没。停戦を延ばしただけでは、拘束まで十日に伸びない」
「即時解放を拒む、と」
「決まっていないことを、拒否とも承諾とも書かない」
三本目の線には、オルネが樹根印を置いた。
「水路と穀倉へ軍人を入れれば、職員が仕事を止めます。監督の方法は別に決めましょう」
副官は三本の線を見比べた。
「条件を分ければ、受け入れられると?」
「できることまで、一緒に捨てたくない」
セナはそれだけ答えた。
副官は初めて、原文から目を上げた。
「市内の全武装勢力を止められる者は、誰です」
答えは出なかった。
バルガが指揮を預かったのは、都市庁へ進んだ二十氏族である。停戦本文へ署名したのは、そのうち十六氏族だけだった。残る四氏族は戦闘停止には従ったが、政治的な文書へ名を置いていない。
さらに十四氏族は、西門、穀倉、水路、通信樹など、それぞれの持ち場で射撃停止と民間人保護だけを認めていた。都市の帰属も、拘束者の扱いも、バルガへ預けてはいない。
「誰もいない」
バルガが言った。
軍務書記の筆が止まる。
「それでは、我が軍は誰の約束を信じればいい」
「一人を信じるな」
「バルガ」
オルネが低く制した。
「間違ってない」
バルガは机の文書を指で押した。
「俺の名一つで三十四氏族が止まると書けば、嘘になる。印を破ったとき、誰へ責任を問うか分かるよう、一つずつ名を置かせろ」
「三十四氏族と、旧守備隊と、市務職員。それぞれに名を求めるのですか」
「別だから揉めている。別のまま書け」
副官はバルガを見たまま、文書筒の蓋を取った。
「このままでは、協議を続ける意味がありません。責任を負える相手がいない以上、延期条件も結べない」
軍務書記が筆を置き、王府の原案と通信簿を重ね始めた。紙の角が揃えられ、封蝋の写しまで文書筒へ戻されていく。副官の椅子が床を擦った。
「待ってください」
オルネの声が、そこで初めて強くなった。
副官は立ち上がったまま振り返る。席へ戻る気配はなかった。
「明日の日没までは、現行停戦がある」
「あります。だから、今日ここで撃ちはしない」
副官は閉じた文書筒を脇へ抱えた。
「正午までに、実際の責任範囲を示してください。示せなければ、十日間の作戦延期は行いません。都市内の武装を誰も止められないなら、我が軍が十日待つ理由もない」
オルネが口を開きかけたときには、副官はもう扉へ向かっていた。
白旗の一行が詰所を出ると、誰もすぐには口を開かなかった。
机には、副官が持ち帰った原案の跡だけが四角く空いていた。外では門務兵が通行札を読み上げ、石畳を荷車の車輪が軋ませている。その先、八百歩の曲がりには一千八百人の軍がいた。
旧市書記が残した写しをめくる音が、やけに近く聞こえた。
セナはその写しの上へ、新しい紙を置いた。
「一枚にしない」
灰狼の代表が聞き返した。
「何をだ」
「約束する側」
セナは紙を四つに区切った。
「救援軍の命令。十六氏族の合意。残る四氏族の戦闘停止と、十四氏族の持ち場別確認。市の仕事。全部、同じ権限じゃない」
「紙を四枚にしたら、軍が一つになるのか」
「ならない。ならないまま撃たせないために分ける」
ディルハが机へ右手をついた。
「伝令を出します。旧衛戍側は私が確認する」
「氏族へは俺が行く」
バルガが壁から離れる。
傷が引きつき、左の膝がわずかに曲がった。セナが見たが、手を貸そうとはしなかった。貸せば、バルガはそれを断るために余計な力を使う。
「行く必要はない。印を持って来させて」
「顔を見ずに十日を預ける連中じゃない」
「その肩で三十四氏族を回る気?」
「俺が話すのは二十氏族だ」
「二十でも多い」
バルガは言い返しかけ、包帯の下で走った痛みに口を閉じた。
オルネが扉の外へ評議会衛兵を呼ぶ。
「氏族側の伝令を六人。根路区から道を知る者を付けます。印だけでなく、誰が何の権限で押したかを書かせる」
「十四氏族にもだ」
バルガが言った。
「俺の命令だとは書くな。撃たないと決めるのは、そいつらだ」
正午が近づいても、六人の伝令は戻り切らなかった。
北枝道から戻った者は、二つの崩れた街路防壁を越え、衣の裾を瓦礫に裂かれていた。南水路へ向かった伝令は、水門の迂回路で脚を泥に取られ、根路区の案内役とともに全身を汚して戻った。西門からは、代表が負傷者移送へ出ているため副代表を探している、という伝言だけが先に届いた。
通信樹は市民向けの放送を再開していたが、損傷した枝路では返答が途切れる。それに、声だけの同意では、誰がどの権限で答えたのか記録に残らない。十日の戦闘停止を氏族の名で引き受けるなら、印のある紙を持ち帰らせる必要があった。
返書が集まり始めたのは、正午の鐘が鳴る少し前だった。
十六氏族は、昨夜の返書と同じ範囲で十日延長へ署名すると答えた。
バルガが戦場指揮を預かった残る四氏族は、射撃停止を十日維持することには同意したが、都市の帰属や市務の条項には名を置かなかった。四つの印は、戦闘停止確認書へだけ押された。
ほかの十四氏族からは、さらに異なる返事が来た。
西門の四氏族は、門を攻撃されない限り射ない。穀倉の三氏族は、配給を止められない限り武器を使わない。水路と通信樹に残る氏族は、設備へ軍が入らないことを条件にした。どの紙にも、都市を誰のものとするかは書かれていない。
二氏族だけは、最初の伝令へ印を渡さなかった。
「十日も、東の軍を待たせる理由がない」
岩猪の副代表はそう言い、紙を返した。
もう一氏族は、救援軍が八百歩で土を測っていることを挙げた。
「向こうは戦う準備をしている。こっちだけ止まれという紙には押さない」
バルガは二枚の返書を読み、左肩の包帯を右手で押さえた。痛みを止めるためではない。指が勝手に紙を握り潰さないようにするためだった。
「俺が話す」
セナの視線が、左肩の包帯へ落ちた。
「その肩で行くの?」
「行く。紙だけじゃ、あの二氏族は止まらない」
バルガは東門詰所を出た。石段の三段目で肩が引きつり、一度だけ足を止める。後ろから来た灰狼の伝令は見ないふりをして、中央大路を戻る歩調を落とした。
二氏族の者は、主根広場の北端にいた。二日前の血を砂で覆い、その上へ天幕を張っている。濡れた毛皮と煮た根菜の匂いに、まだ鉄臭さが混じっていた。
岩猪の副代表は、バルガの包帯を見ても立たなかった。
「王府軍を十日置けば、十一日目には増えている」
「今の一千八百なら勝てるのか」
「増えるのを待つよりはましだ」
「騎兵もいる。こっちは負傷者の移送さえ終わってない」
「それでも門は取った」
「門を取る戦と、野営陣地へ打って出る戦は違う」
バルガは天幕の支柱へ右手を置いた。
「今度は水路も穀倉も住民も背中に置く。勝っても、そのどれかが止まれば都市は数日で腐る」
「必要なら――」
岩猪はそこで言葉を切った。
バルガの目が細くなったからだ。
「その言葉を使うなら、何人を死なせる必要があるか、先に数えろ」
「白鹿を殺したお前が言うのか」
「そうだ」
バルガは視線を外さなかった。
「四十三人を数えずに殺した俺が言っている」
バルガはそれ以上、白鹿の名を使わなかった。言い訳も、正しさも続けない。岩猪も謝らなかった。
主根広場の音が遠のいたわけではない。担架を運ぶ掛け声も、壊れた石を荷車へ落とす音も続いている。それでも、天幕の下にいた者たちは口を挟まなかった。
バルガは右手を支柱から離し、折らないように戦闘停止確認書を広げた。
「都市を渡す紙じゃない。国を諦める紙でもない。十日、東へ撃たない。それだけを自分の名で書け」
「十日のあいだに、向こうが壕を掘ったら」
「こっちも門を直す。前へは出ない」
「十日後は」
「その日までに決める」
「誰が」
バルガはすぐに答えなかった。
自分だと言えば早い。攻城の最中なら、その答えで二十氏族を動かせた。だが、戦場で預かった声を、都市の未来まで使い切るわけにはいかない。
「まだ決まっていない」
岩猪の副代表は舌打ちした。
「そんな紙で軍を止めるのか」
「止める。止めている間に、決める者を決める」
二つの印が加わったとき、正午から半刻が過ぎていた。
東門詰所では、条件を一つずつ切り分ける作業が続いていた。
バルガが戻ると、救援軍副官はすでに詰所で待っていた。三十二氏族の返書は正午前に届いていたため、半刻の遅れを門務簿へ記させたうえで協議を打ち切らずにいた。
机の上へ積まれた紙のうち、最上段の一枚を取り上げる。その下にも別の表題があると知って、副官は眉を寄せた。
「我が軍は、四つの文書を相手にするのですか」
セナは四枚を一枚ずつずらし、表題が見えるよう机へ並べた。
「四つです。あなた方の作戦延期命令。十六氏族の合意。四氏族の戦闘停止確認と、十四氏族の持ち場別確認。市務施設の運用書。発効する時刻だけを揃えます」
「紙を分けただけで、すべての隊が止まるとは思えません」
「一枚にまとめても、命令できる者は増えない」
セナは四氏族と十四氏族の確認書を、指の腹で押し出した。
「少なくとも、どの責任者が、どの隊を止めるかは残ります。破られたときも、発生地点と条項から確認できる」
「矢が一本飛んできたあとで、どの氏族か調べろと?」
「我が軍の兵に刺さってから、印の形を確かめるのですか」
「兵に刺さるまで待てとは言っていません」
ディルハが左肩を庇い、短く区切った。
「迫る集団と門への射撃には、即時に応戦する。単発なら白旗を出す。市内の複数の持ち場で射撃地点を確認し、記録と証拠を門で照合する。貴軍の調査兵は市内へ入れない」
「市内側の確認だけを、我が軍に信じろと?」
副官の声から、公式の平板さが消えた。
「誰が、その記録役を動かすのです」
「それぞれの持ち場の責任者です。私は門での照合だけを引き受ける」
ディルハは短く言い切った。
副官は指で机を二度叩き、軍務書記へ合図した。
「単発の違反確認に限る。集団の前進、門への射撃、八百歩線への侵入は即時の防御対象とする」
「それでいい」
バルガが答える。
セナは四枚目の紙を持ち上げ、地図の待避地を指した。
「“八百歩線への侵入”では広すぎる。避難民も、水汲みも、負傷者移送もここを通る」
副官は地図へ目を落とした。
東門、門外の待避地、古木の根が作る最初の曲がり、八百歩の軍線。朝の測量と門務簿を照らして確かめた数字が、それぞれ書かれている。
「武装集団の前進、または明確な攻撃動作に直します。荷車は先に止めて検査する」
セナはようやく頷き、旧市書記へ文面を回した。
一般住民の退去は、東門と西側地区の指定路で続けることになった。東門では避難民の待避地と軍用路を綱で分け、門務兵と氏族側の記録役が通行札を照合する。市へ戻ろうとする者も門前で名を受け付けるが、元の家へ入れるか、土地を誰が所有するかは、この停戦条件では決めない。帰還者の名簿だけを先に作り、住居の扱いは臨時会議へ回す。
次に揉めたのは、共同待機区画だった。
現行停戦では、市外離脱を選んだ旧衛戍兵は武器を門内へ預け、東門外の共同待機区画へ移っている。出入口では、二十氏族側の兵と、市内で門務を続ける旧衛戍兵が同数で名簿と出入りを確認していた。市内に残って停戦実務へ就くか、区画で待つかは本人が選んだが、後者には停戦中、救援軍の作戦兵力へ戻らないという条件が付いていた。
十日延長すれば、その者たちの移動と職務をさらに十日間制限することになる。
「旧衛戍兵は、我が軍の後方へ移してください」
副官の言葉へ、バルガが顎を上げた。
「受け取ったその日に、あんたらの隊へ戻す気か」
「彼らはセレネア兵です。帰還そのものを、あなた方に禁じる権限はない」
「十日待てと言うなら、その十日は剣を返すな」
ディルハの右手が机の端を掴んだ。
「負傷者まで、このまま十日置く気か」
バルガの耳がわずかに伏せる。
「戦列へ戻すわけにはいかない」
「戻さなければいい。門外へ置き続ける必要はない」
「なら、どうする」
「分ける」
ディルハは地図の東へ指を滑らせた。
「負傷者を動かせるかは医師が決める。移送する者は、救援軍の陣を通して東の後方宿営地へ送る。武器は返さず、十日間は作戦兵力へ加えない」
副官が眉を寄せた。
「後方へ送る護送を、我が軍へ求めるのですか」
「貴軍の兵です。私に命じる権限はありません。提案しています」
ディルハは、副官の次の問いを待たなかった。
「市内へ残る者は、武装解除のまま指定営舎と詰所へ戻す。門務、遺体収容、負傷者搬送に限り、部隊としては動かさない」
市民兵はすでに戦闘員としての扱いを外れ、住民へ戻っている。今回の名簿へ加える理由はなかった。
ディルハはそこで言葉を切った。元部下を一括して後方へ送る話でも、戦列へ戻す話でもない。敗れた兵自身に、十日をどこで待つか選ばせる話だった。
共同待機区画にいる旧衛戍兵には、選択をもう一度確認することになった。市内へ戻り、武装解除下で停戦実務に就くか。武器を持たずに東の後方宿営地へ移り、十日間は救援軍へ加わらないか。
救援軍副官は、後方移送者を一千八百人の作戦兵力へ数えないことを文書で約束した。名簿は門務兵、旧衛戍側記録役、救援軍軍務係の三者で照合する。誤記があれば訂正履歴を残し、名簿に載せず部隊へ戻した者が出た場合だけを停戦違反とした。
「負傷者は、その名簿どおりには動かせない」
中央施療院から来た医師が、書記の手元を見て言った。
交渉のために呼ばれたのではない。移送可能な患者を確かめるため、担架班とともに門へ来ていた。袖には乾いた血と薬液の染みが重なっている。
医師の背後、開け放した詰所の戸口で、移送を待つ旧衛戍兵の担架が持ち替えられた。固定した脚がわずかに揺れ、それだけで兵の喉から声が漏れた。包帯の端へ、新しい赤が滲んでいく。
書記の前には、旧衛戍兵の移送名簿が所属隊ごとにまとめられていた。
「兵の移送です。名簿は必要でしょう」
副官が言った。
「名簿の順で傷は軽くならない。所属に関係なく、動かせる者を動かす。動かせない者は施療院へ残す」
「軍が移送を求めても、医師が止めるのですか」
「生きた兵を求めるなら、医師に決めさせろ。戸口の兵でさえ、担架を持ち替えただけで傷が開いた。八百歩は運べない」
医師の声は低かった。
「移送の判断は医師がする。それが飲めないなら、患者は一人も門へ運ばない」
副官は医師ではなく、ディルハを見た。
「軍の判断ではありません」
ディルハが言った。
「だから、私も変えられません」
移送名簿は所属別の一括処理をやめた。医師が患者ごとに移送可否を記し、意思を確認できる者には行き先を聞く。東へ移された者は十日のあいだ戦闘任務へ戻さず、施療院へ残る者の名と状態は双方の医療記録へ写す。それだけを手順として残した。
その次に、樹冠監察隊六人の名が出た。
「王府直属官です。六人の即時解放を求めます」
セナの筆が止まった。六人の記録票を机へ並べ、旧衛戍兵の移送名簿とは離して置く。
「この六人は、旧衛戍の移送名簿には載せない。都市庁の四人は武器を向けて抵抗した。施療院の二人は、武装解除と停止命令を拒んだ。王府直属だから拘束したんじゃない」
「その行為を調べる権限を、王府は認めません」
「王府の異議も残す。でも、拘束した時刻も消さない」
セナは明日の日没と書かれた欄へ筆先を置いた。
「期限は明日の日没。十日停戦になっても延ばさない。その先まで拘束する理由がなければ、続けられない」
「誰が判断するのです」
「それも、まだ決まってない」
セナの言葉を引き取るように、オルネが樹根印を引き寄せた。
「だから最終処分は空欄です。現地で拘束を続けられるかは明日までに見直す。正式に誰が裁くかは、この紙では決めません」
「王府側の異議も記録します。六人には医師を会わせ、本人が望めば家族と王府へ無事を知らせる文を書かせる。拘束理由と時刻の写しも渡す」
副官は六人の即時解放要求を取り下げなかった。リュサ側も拘束継続を確約しなかった。双方の主張を並べ、医師の立ち会いと連絡文の受け渡しだけが合意事項になった。
午後、水路と穀倉の条項を詰めるため、フィレネ・アルネスが東門へ来た。
九本の古木を五百年以上診てきた根路技師は、杖で敷居を叩き、詰所へ入るなり救援軍副官を見た。
「軍人を根路へ入れる話なら、帰らしてもらう」
「設備が破壊されていないか、確認が必要です」
「我が軍は、市民への給水が武装勢力に止められないことを確認したい」
「なら、水が出とるか市民に聞け。根路へ兵を下ろすな」
フィレネは椅子を断り、机に広げた配水図へ杖を置いた。
「根路管理所におる技師は、陥落前からの市職員も、氏族から来た者もおる。軍服を着た監督者を一人入れれば、半分が仕事をやめる。止まるのは水だ」
「では、こちらは渡された数字を信じるしかない」
「軍人を入れることだけが確かめ方ではない」
フィレネは副官の問いをそこで切った。
「三つの手で同じ数字を書く」
フィレネは配水図の余白へ、三点を打った。
「旧市の技師、氏族側の立会人、根路区の記録役。開閉量も故障も、市内では三つの手で同じ数字を書く」
杖の先が、配水図と副官の文書のあいだへ線を引いた。
「門へ出すのは、水が出とるか、止まったか、兵が根路管理所を取ったか。それだけだ。軍人は根路へ下ろさん」
穀倉も同じ方式になった。
旧市の倉庫係、氏族側の立会人、根路区の会計役が、朝夕の入出庫を三部へ写す。三部は市内に残し、門へ出す報告には、市民配給を実施したか、停止したか、穀倉の閉鎖や武装勢力による接収、重大な妨害があったかだけを記す。在庫総量、消費量、残存日数は含めない。
「十日分あるのですか」
副官が聞いた。
穀倉係はすぐに答えなかった。
机へ置いた集計札を伏せる。
「市民配給は、いまも続いています。在庫量は答えられません」
「在庫を明かさず、十日間の配給を維持できると言うのですか」
副官の声には、問いより疑いが強く混じった。
「維持できるとは保証しない」
セナは集計札を旧市書記へ渡し、停戦文の該当箇所を指で押さえた。
「市民配給を武装勢力が止めないこと。止まった場合は、時刻と理由を門へ知らせること。ここで約束できるのは、それだけです」
「残存日数も、日ごとの消費量も出さない、と」
「停戦文へ書く話ではありません」
副官は納得した顔をしなかった。それでも、配給の継続と停止を確認することと、都市の備蓄を調べることは同じではなかった。
十日停戦の文書には、水と食糧の供給が続いているか、武装勢力による接収や重大な妨害があったかだけを報告事項とした。施設内の三者原簿は市内に残す。職員を旧セレネアの市職員だったという理由だけで拘束せず、暴力や停戦違反があれば別に扱う。その範囲で止めた。
都市が十日を持つかどうかは、停戦文の署名だけでは決まらない。
最後まで残ったのは、工事の条項だった。
「東門、防壁、通信樹で、新たな防御工事を禁じます」
救援軍副官が原案を読み上げる。
「通信樹の枝路を直せない」
オルネが言った。
「軍事利用される設備です」
「水門の連絡にも、施療院の呼び出しにも使います」
「門まで触るなと言うのか」
バルガが窓の外を顎で示した。
東門では、門務兵と木工職人が蝶番へ補強板を当てていた。攻城戦のあいだ何度も開閉され、人と荷車が殺到した門である。十日使い続けるなら、金具の緩みくらいは直さなければならない。
それまで禁じるなら、修理の制限ではない。門を弱いままにしておけと言っているのと同じだった。
副官は答えず、軍務書記から朝の測量図を受け取った。
セナが図面の赤い杭を指す。
「八百歩先の赤杭は、現在陣地の外に見えます」
「街道の折れに沿わせた防護線です。合意が成立すれば、そこまで掘ります」
バルガの右手が机を叩いた。
硯の水面が揺れ、セナは書きかけの紙を手のひらで押さえた。
「こっちの門は直すな。向こうは壕を掘る。よく言えるな」
「我が軍は、命令を撤回していません。八百歩の位置から攻撃しないためにも、防護は必要です」
「こっちも同じだ」
「都市防壁と野営陣地を同じには扱えません」
「矢が刺されば同じだ」
副官の言葉が終わり切る前に、バルガの声が重なった。詰所の空気が張り、外で鳴っていた蝶番の槌音まで一度遠くなる。
ディルハはすぐには口を挟まなかった。包帯で固めた左肩を動かさず、東門と赤杭の位置を見比べる。片方だけへ工事を禁じれば、十日後に戦う位置が一方的に決まる。
「線を増やさない」
短い声が、二人を止めた。
副官が顔を向ける。
「市内は、既存施設の安全と市務復旧に必要な修理だけ。壁を高くせず、射台を増やさず、重装備を東門へ移さない」
右手の指先が、地図上の赤杭で止まった。
「救援軍も、八百歩線より前へ杭も壕も出さない。現在陣地を守る工事は認めるが、騎兵と攻城具は曲がりの西へ進めない。補給車は八百歩線の東で荷を下ろす」
「双方の不利を、そのまま十日固定する案ですか」
副官の指が赤杭の上に残った。
「そうです」
ディルハは答えた。
「ここで有利を取りに出れば、停戦の線ではなく次の戦線になる」
セナが門外の待避地を筆先で囲んだ。
「斥候までここへ入れたら、通行路と軍線が重なる」
副官は、白旗の連絡と合意した通行路の警戒を除き、救援軍の斥候を待避地へ入れないと書かせた。
副官は測量図を見た。
「相互に工事記録を出すなら、持ち帰れます」
「また持ち帰るのか」
バルガが低く唸る。
「私には、王府の再承認条件を書き換える権限はありません」
「俺にも三十四氏族を書き換える権限はない」
「ですから、持ち帰ります」
バルガは不満を隠さず、副官も条件を公平とは呼ばなかった。それでも、今いる線より前へ出ないという同じ制限だけは、互いに相手へ求められた。
夕刻、東門と八百歩線のあいだを白旗が四度往復した。工事条項、旧衛戍兵の名簿様式、監察隊六人へ医師を会わせる時刻と連絡文の受取人。その修正を運んだ四度目に、救援軍指揮官の署名が戻った。
書類は、朝にセナが分けた四つのままだった。
救援軍の作戦延期命令は、奪還命令を残したまま、現行停戦の満了時から十日後の日没まで攻撃を始めないとした。八百歩線を前へ出ず、後方へ移した旧衛戍兵も期間中の作戦兵力へ加えない。
十六氏族は停戦実務合意へ署名した。残る四氏族は戦闘停止確認書だけに印を置き、十四氏族は持ち場ごとの射撃停止と民間人保護、略奪・報復・私刑の禁止だけを別紙で引き受けた。いずれも、バルガが三十四氏族をまとめて命じた形にはしなかった。
旧衛戍側の措置にはディルハが証人として名を置き、市務施設の運用書にはオルネと各施設の実務責任者が署名した。根路区の記録役は照合者に留まり、セナの名も旧市書記二人と並ぶ起草欄にしかなかった。
問題の条項は、最初と最後へ同じ大きさの文字で入れられた。
本書の受領、協議、署名および履行は、セレネア王国がリュサ臨時会議、獣人諸氏族の国家性、または都市代表権を承認することを意味しない。
同時に、本書の受領、協議、署名および履行は、リュサ側署名者がセレネア王国による都市帰属の主張を承認することを意味しない。
「互いに、相手を認めないと認める紙か」
バルガが言った。
救援軍副官は、門外へ持ち帰る正本を布袋へ収めかけた。
「互いに、十日は撃たないと認める紙です」
「十日後は」
「その前に、次の文書を作ってください」
「作れなければ」
副官は答えなかった。
答えは、八百歩先に一千八百人分並んでいる。
ディルハは、救援軍命令の「明日の日没」と氏族側確認書の「現行停戦満了時」を、同じ鐘の回数と門務簿の時刻へ揃えさせた。呼び方の違いを、発効日の違いとして使わせないためだった。
セナは自分の写しを見直し、二行目で同じ日付を一度書き損じているのに気づいた。墨を削ろうとして、手が止まる。
消せば、最初から間違えなかったように見える。
横線を一本引き、正しい時刻を書き、その脇へ訂正者として名を置いた。旧市書記が黙って確認印を押す。
「寝ろ」
バルガが言った。
「あなたも」
「俺は字を間違えてない」
「読んでないからでしょ」
バルガは返さず、氏族側の連絡欄へ筆を置いた。
進撃二十氏族戦場指揮責任者。
そう書きかけて、止める。
「十日になったら、この名は違う」
セナが顔を上げた。
「戦場指揮だ。都市庁を取るまでの戦場を動かすために預かった。十日も政治へ持ち込まない」
灰狼の代表が眉を寄せた。
「では、誰が氏族側をまとめる」
「まとめない。十六は自分で署名した。四つは自分で止める。十四も持ち場ごとに名を置いた」
「何か起きたら、お前を呼ぶ」
「連絡は受ける」
バルガは肩書きを書き直した。
二十氏族・停戦連絡責任者。
「命令するとは書かない」
バルガは署名者ではなく、連絡先として名を置いた。氏族間の上下が消えたわけではない。それでも、戦場で預かった権限を十日間の政治権力へ変えることだけは避けた。
救援軍副官は、書き直した肩書きを見た。
「交渉相手が、また一人減りました」
「一人にするから間違える」
バルガは連絡欄に名を置き、筆を戻した。
「次の交渉には、必要な奴を全員呼べ」
軍務書記が、そこで初めて肩から力を抜いた。旧市書記は筆を置き、固まった指を一本ずつ開く。セナも椅子の背へ深く体重を預け、差し出された水を二口だけ飲んだ。
副官は修正済みの正本を布袋へ収め、口を結んだ。誰も握手を求めず、勝ったとも言わなかった。それでも、明日の日没の先に十日が置かれたことだけは、もう書き間違いではなかった。
十日延長の成立は、通信樹から一つの停戦としては放送されなかった。
当直通信官は、軍務書記と旧市書記が照合した短い文だけを読んだ。
セレネア救援軍は、現行停戦満了後も十日間、攻撃を開始しない。
市内の各武装隊は、それぞれの責任者を通じ、同じ期間の射撃停止を確認した。
これは、リュサの帰属、国家承認、降伏を決める合意ではない。
東門の通行は、門務簿と白布の誘導に従う。武器を持つ者は、許可された持ち場を離れない。違反を見た者は、各持ち場の停戦責任者か根路区の記録所へ知らせる。どの組織にも、都市全体の拘束権が生まれたとは読まなかった。
水と食糧の配給、施療院の治療、通信樹の市民放送は続く。
放送のあと、歓声は上がらなかった。
上層区では、現行停戦のあと十日でまた攻撃されるのかと窓辺で問う者がいた。根路では、十日も配給が持つのかと袋の底を見た。氏族の宿営地では、延長期間に救援軍がどれだけ増えるかを数え始めた。
中央施療院では、移送できる旧衛戍兵へ患者札が結ばれた。熱のある者、傷口が開いた者、骨を固定したばかりの者は残す。担架で門まで運べても、さらに八百歩を越えられない者もいた。
ゼグは奥の処置室から動かなかった。
脇腹の槍傷には厚く包帯が巻かれている。深く息を吸うたび傷の奥が引きつり、身体がわずかに強張った。包帯を替えるときだけは、黒豹の指が寝台の縁を掴み、爪が木へ食い込んだ。
「停戦が、十日延びるそうです」
黒豹の若い戦士が告げた。
ゼグはすぐには返さなかった。薬で乾いた唇を舐め、入口の方を見る。
「誰が決めた」
「十六氏族が署名しました。ほかの氏族も、それぞれ戦闘を止めると」
「あいつの命令か」
「違います。バルガは連絡を回しただけです」
若い戦士は言い直した。
「各氏族が、自分で止めると」
ゼグの右手から、少しだけ力が抜けた。
「なら、俺の許可はいらん」
「黒豹の代表は署名しました」
「俺じゃない」
息が途切れた。医師が振り返ると、ゼグは話すのをやめた。
自分がいない場所で黒豹の名が動いたことへの怒りか、自分がもう起き上がれないことへの苛立ちか、若い戦士には分からなかった。ただ、ゼグは起き上がろうとはしなかった。できないことを、ようやく身体が認めさせていた。
東門外の共同待機区画では、旧衛戍兵へ二つの札が配られた。
青札は市内へ戻り、武装解除のまま指定営舎か停戦実務へ入る者。白札は東の後方宿営地へ移り、十日間、救援軍の作戦兵力へ加わらない者。
「味方へ戻るのに、なぜ名を書かれる」
一人が札を地面へ落とした。
門務班長は拾わなかった。
「名を書かずに東へ出れば、救援軍へ戻した兵だと疑われる」
「王府軍だぞ。戻って何が悪い」
「悪いとは言っていない。戻って作戦兵力へ加われば、停戦違反になると言っている」
兵は八百歩先の緑銀旗を見た。あそこまで行けば味方がいる。だが、味方へ戻るために十日戦わないと誓わなければならない。
ディルハは綱の外に立っていた。
軍装は攻城の日から替えておらず、左肩を包帯で固めている。兵たちは、以前なら一声で道を空けた。いまも空けたが、敬礼する者と顔を背ける者に分かれた。
「司令は、どちらへ」
誰かが問う。
「私は市内に残る」
「王府軍へ戻らないんですか」
「いま戻れば、ここに残る兵の記録と停戦実務を放り出すことになる」
「獣人側に残る、と」
「違う」
ディルハの声が硬くなる。
「リュサに残る。十日間、旧衛戍の名簿と停戦実務を引き受ける」
「そのあと、私たちはどうなる」
ディルハは答えるまでに間を置いた。
「分からない」
兵の顔が歪んだ。
「また、それですか」
「分からないことを、分かったとは言えない」
ディルハは地面の札を右手で拾い、泥を払った。
「少なくとも、私の記録には逃亡とは書かない。武器を置いたのが私の命令だったことも、ここで待った時刻も、私の名で残す」
兵は札を受け取らなかった。
その隣から、別の兵が青札を取る。
「門務へ戻ります」
「剣はないぞ」
「持っていても、結局リュサは守れませんでした」
自嘲ではなかった。疲れきった声だった。
一人が動くと、列も少しずつ分かれ始めた。
誰も勝者の列へ入ったようには見えなかった。
日没前、都市庁の掲示板へ十日延長の写しが貼られた。
旗竿は空のままだった。
オルネは、市務施設の共同記録を始める通知札を、各施設の実務責任者と連名で部署へ送った。都市の帰属を決めたとは書かず、水路、穀倉、施療院、通信樹の四つで、明朝から三者の数字を揃えることだけを告げた。
セナは、現時点で確実に確認できた食糧だけでは十日に届かないことを、門外へ出さない市内用の別紙へ写した。
不足が何日分になるかも、まだ算出できない。商家や工房の在庫を調べれば、所有者の同意と補償が要る。配給を落とせば、負傷者と子供が先に弱る。市内にある分だけで足りなければ、その先をどうするかも決めなければならない。
セナはそのどれも、停戦文の余白へ書き足さなかった。
筆を置こうとして、指から落とした。
床へ転がる前に、隣の根路区記録役が拾う。
セナは言い訳せず、穀倉の別紙へ「明朝、臨時会議へ」とだけ書き、旧市書記へ渡した。
東門では、門務兵と根路技師が閉門枝の受け部を点検していた。門扉を抱く枝の一本には戦闘中の負荷でずれが出ており、木工職人が当て板を入れて位置を戻している。
防壁を高くする工事ではない。十日間、門をこれまで通り開閉できる状態へ保つための補修だった。
槌が鉄板を打つたび、門扉の古い木が低く震えた。
八百歩先では、救援軍工兵が朝の赤杭に沿って鍬を入れた。
壕は東門へ近づかない。古木の曲がりより東で止まり、土は救援軍側へ積まれる。騎兵はそのさらに後ろ、補給車は街道の広がる場所へ列を分けた。
街道の奥では、魔法弓隊の測距係が射界杭を一本ずつ打っていた。射手は八百歩線の東に留まり、魔法弓を下ろしたまま、矢束の封も切っていない。それでも、命令が変わればすぐ隊列を組める間隔で配置されていた。
リュサの門楼からも、その動きは見えた。
「停戦したんじゃないのか」
若い灰狼が呟く。
隣の衛戍兵は、蝶番へ鉄板を打ちつける槌の音を聞いた。
「こっちも門を補強している」
「同じか」
「同じだと言えば、向こうは否定する」
「お前はどう思う」
衛戍兵は答えなかった。
返事を待つあいだにも、八百歩先で射界杭が一つ増えた。門の内側では木工職人が新しい釘を受け取り、同じ蝶番へ槌を振り下ろす。魔法弓は伏せられたまま、門楼の弓にも矢はつがえられていない。それでも双方の手だけは止まらなかった。
若い灰狼も、それ以上は聞かなかった。二人は並んで、街道の土煙と、少しずつ長くなる測量縄を見ていた。
救援軍の命令書には、防護工事と記されている。東門の修理簿には、市務安全工事とあった。どちらも、相手へ攻め込むための工事ではないと書かれていた。
現行停戦の満了後に続く、十日間の停戦は成立した。
リュサ臨時会議は政府として承認されず、セレネアの都市帰属も認められなかった。誰の国かは決まらず、八百歩の距離も縮まらない。
東門の内側で槌が鳴り、外側で鍬が土へ入った。
奪還作戦は、現行停戦の先へさらに十日延ばされた。
対峙は、終わらなかった。




