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第三十六章――国になる前の朝

陥落の翌朝、リュサでは鐘が鳴らなかった。


通信樹の鐘そのものは残っている。鐘楼を取った崖鷲族が、再び奪われても地上から鳴らされないよう綱を切ったのだ。昨夜までは、それでよかった。


朝になると、店を開ける時刻を誰も決められない。根路の水門を交代させ、施療院が薬を配り、穀倉が一日分の配給を始める時刻。死者を埋めるため、遺族を集める時刻まで失われていた。


リュサでは長いあいだ、鐘の数で一日を分けていた。


鐘を止めた者たちは、都市の時間まで取ったつもりはなかった。


「鳴らせばいい」


バルガは言った。


「誰が、何の合図で鳴らすの」


セナが問う。


二人は都市庁の階段に座っていた。昨夜、セレネアの緑銀旗が下ろされた旗竿には何も上がっていない。三十四の氏族旗は主根広場の端で朝露に濡れ、バルガの左肩には、それより白い包帯が幾重にも巻かれていた。腕を膝へ置くだけで、抜かれた矢の跡が脈打つ。


「朝の合図だ」


「セレネアの決まりなら、日の出後一刻」


「もう日は出ている」


「だから、今は何刻なの」


バルガは東を見た。東門の向こう八百歩には、セレネア救援軍の天幕が並び、その槍先だけが朝日を受けている。


「今だ」


「『今』じゃ、当番表にも配給札にも書けない」


セナは膝の上の紙へ目を戻した。昨夜から一睡もせず、死者名簿に続いて残留住民名簿を作っている。旧市の戸籍書記二人と穀倉の会計係が、東門、西門、施療院の名簿を分けて読み、セナは食い違った名だけを別紙へ移していた。それでも、東門から出た者は三千七百余り、西門からは二百余り、市内に残っていると確認できた者が一万八千三百余り。足せば攻撃前の人口を越える。


外から入った獣人族の戦士と家族が混ざり、西門と施療院の二つの名簿へ同じ者が載っている。氏族で呼ばれる名と市の労働札に記された名が違う者や、親がつけた名を役所に認められず、セレネア語の名で登録された者もいた。セナは一度消した名へ、もう一度重複の印をつけた。隣の戸籍書記が黙って紙を戻す。目を閉じれば同じ線を二度数えそうで、閉じなくても文字の端が滲んだ。


「このままだと、何人にパンを配ればいいか決まらない」


「昨日は配っただろ」


「だから困ってる。同じ人が二度並んでる」


「記録が重なってるのか」


「それも分からない。二度受け取ったのか、名前だけ重なったのか。だから今は、まだ一度も受け取ってない人を先に拾ってる」


都市を攻めた軍なら、戦える者を数えれば人数になる。都市を取ったあとに必要なのは、戦える者ではなく、そこで暮らす者の数だった。どこに住み、誰と暮らし、何を食べ、どの薬が必要かまで知らなければ、数えたことにはならない。


根路管理所、施療院、穀倉へ走らせていた使いが戻った。水門を替えたい時刻、薬を出したい時刻、配給を始めたい時刻。三人の指は、同じ紙の少しずつ違う場所を押さえた。


セナは三つを朝の一刻へ収め、余白に線を三本引く。


「鐘は三度。停戦中だけの仮の合図にする」


「一度目で水門の交代。二度目で施療院の薬配り。三度目で配給開始」


使いたちは自分の線を確かめ、順に頷いた。


店を開ける時刻と、遺族を集める時刻は、まだ余白に残った。


「市の決まりと同じか」


「違う。今まで朝は五度だった」


「なぜ三度だ」


「一度、二度、三度なら、聞き違えにくいから」


それ以上の理由はなかった。バルガが崖鷲へ使者を出し、切った綱を結ばせると、滑った結び目のせいで最初の一打は弱く、二打目だけが長く響いた。三打目で、市民が窓を開ける。


セレネアの鐘ではない。獣人族の勝利を告げる鐘でもない。水と薬とパンの時刻を知らせるためだけの鐘だった。


それは、陥落後初めて、市民の一日の時刻をそろえた朝の合図になった。


鐘が鳴ると、都市庁前へ三つの列ができた。食糧配給札を求める者、行方不明者を探す者、そして家を返せと求める者の列だった。


西門から入った戦士の一部は、持ち主が東門から逃げた家や、扉が壊れた家、一階が戦闘で使えず二階だけ残った家で夜を越した。昨夜は負傷者を雨風から守るため、セナも黙認していた。朝になれば持ち主が戻るかもしれない。それでも、ほかに屋根がなかった。


「出ていけ」


上層区のエルフが、自宅の玄関で岩猪の家族へ言った。


中にいるのは戦士だけではない。母親と三人の子供、それに北枝道で脚を折った父親がいた。添え木を巻いた脚が狭い寝台からはみ出し、戸口の声が大きくなるたび、末の子がその下へ潜り込もうとする。


「ここは私の家だ」


エルフの男は、戸口から退かなかった。


岩猪の母親が寝台の夫を振り返る。


「昨夜は、誰もいなかった」


「避難していただけだ」


「こっちだって避難してきた」


男の眉が寄った。


「どこからだ」


母親は一瞬、子供たちへ目をやった。


「……家があった場所から」


「だから、ここに入ったのか」


「ほかに屋根がなかった」


男は奥の寝台を見た。添え木を巻いた脚と、その下へ隠れる子供が見える。


それでも、戸口からは動かなかった。


「だからって、ここがあんたたちの家になるわけじゃない」


二人とも自分の家を求め、家は一つしかない。氏族の戦士が集まり始めると、昨日武器を置いた元市民兵も棒と工具を手に集まった。セナが着いたときには、玄関を挟んで二十人が向き合っていた。


「登記札はある?」


セナが問う。


エルフの男は樹皮札を出した。


リュサ市の住居印がある。


「私のものだ」


「納付印を見せて」


「登記札に納付印がある」


セナは同行してきた旧市の住居台帳係へ札を渡した。係は携えた台帳と印影を照合し、攻撃前までこの家へ住んでいた名が一致すると告げる。


セナは札を住居台帳係へ返した。


「この登記を、今ここで無効にはしない。攻撃前の居住記録を、停戦が終わるまで動かさない扱いにできる?」


係は台帳の災害時欄を開き、エルフの男と岩猪の母親を交互に見た。


「所有を決める権限はありません。ただ、攻撃前の居住者を一時的に戻し、期限と異議を併記することならできます」


「なら、岩猪側の異議も消さないで。土地と建物の持ち主を最後に決めるのは、この場じゃない」


岩猪側から怒声が上がった。


「セレネアの札を認めるのか!」


「昨日までの札を全部捨てたら、穀倉も施療院も、誰が使っていたか分からなくなる」


「俺たちから奪った土地の上に建てた家だ」


岩猪の戦士が言った。


「なら、この人の家を今ここで奪うの?」


「セレネアの民だ」


「リュサの住民」


「同じだ」


「同じにしたら、昨日決めた報復禁止は何だったの」


戦士は答えなかった。


登記札を停戦中の基準にすると決まった瞬間、セナには岩猪側の怒声より、昨夜下ろした緑銀旗の方が気になった。旧市の札を使わなければ住居を戻せず、使えば昨日までの支配を自分の手で押し直すことになる。


それでも、岩猪の家族を路上へ出すだけでは終わらせなかった。旧衛戍隊の営舎係が口を開く。


「上層区詰所の一階なら、災害時の避難室として開けられる。市有の建物で、寝台も五つ残っている。武器庫と二階は封じる」


根路区の世話役も、脚を折った父親を見てから言った。


「藁布団と飲み水は、こちらで出す」


岩猪の母親はすぐには答えなかった。寝台の下へ隠れた末の子を抱き上げ、上層区詰所まで父親を運ぶ担架があるかを確かめる。営舎係が二人出すと答えると、ようやく顎を引いた。


住居台帳係は旧市の災害時使用札を引き出した。


負傷者一人、家族四人。現行停戦が終わる明後日の日没まで。武器庫と二階へは入らない。詰所を出す責任者、寝具を用意する者、札を記録する者の名を、それぞれ別の欄へ書く。停戦が延びれば、家族の同意を聞いてから更新する。


「誰が市の名で、この札を出すんだ」


岩猪の母親が札を見て問うた。


セナは札を見た。発行者はまだ空欄だったが、その下には営舎係、根路区の世話役、住居台帳係の三つの名が並んでいる。


「まだ、一人を市の代わりにはできない。詰所を出す人、寝床を用意する人、記録を残す人。この三人の名で、明後日の日没まで使う」


セナは証人欄へ自分の名を足した。誰か一人の判断を、市の決定に見せないためだった。


午前の鐘から半刻後、東門へ白旗の使者が来た。セレネア救援軍の若い通信兵で、武器は持たず、胸へ封書を吊っている。門の片側には獣人の弓兵、反対側には停戦条件に従って通行整理へ残ったセレネア衛戍兵。使者は二つの列を見比べ、どちらへ封書を渡すべきか迷った。


「宛名は」


東門番をしていた灰狼が問う。


使者は封書を読んだ。


「リュサ市残存行政機関、ならびに市内武装獣人集団」


灰狼の耳が後ろへ倒れた。


「集団だと」


「封書の記載です」


「三十四氏族だ」


「その名称は、我が軍で承認されていません」


「承認しなければ、いないことになるのか」


「私は文書を届けるだけです」


使者は同じ言葉を繰り返した。刃を向けられても答えを変えない訓練は受けている。承認されていない相手の、どこを見て話せばよいかまでは教わっていなかった。


そこへディルハが来た。肩の傷を包帯で固め、軍装は昨夜のままだった。


「封書は私が預かる」


「司令」


使者の肩から目に見えて力が抜けた。自分の国家の階級が通じる相手を、ようやく見つけたのだ。


「衛戍隊は武器を置いた。私はもう、市の指揮官ではない。都市を代表して受け取ることもできない」


安堵が消え、通信兵の指が胸の封書を掴んだ。


「では、どなたへ」


「それを今から決める。門前へ置いていくよりはましだ」


封書は都市庁へ運ばれた。内容は降伏勧告だった。三日間の現地停戦は履行する。ただし、権限ある者からの返答は明日の日没までに求める。武装獣人集団は、明後日の日没に停戦が終わるまでに、全武器と占拠施設を引き渡すこと。指揮に関与した者はセレネア軍の保護拘束下へ入り、市民の生命と財産は王府法に基づいて保護する。市外から侵入した者の安全な退去は個別審査のうえ認め、従わなければ停戦終了と同時に奪還作戦を再開する――文面はそう続いていた。


若い通信兵は受領札を受け取ると、東門詰所の白旗使者用待機室で次の鐘まで待った。返書はすぐには出ないと分かり、いったん八百歩先の陣へ戻る。夕刻に別の白旗使者を寄越すと門務簿へ残した。


最後には、返答者の官職、国家名、権限根拠、印章を記す欄がある。四つとも、獣人側にはなかった。


「バルガでいい」


灰狼の代表が言った。


「戦場指揮官だ」


「停戦文には署名できる。でも、都市を渡すかまでバルガ一人では決められない」


セナは、返答者の欄を空けたまま答えた。


「取ったのは俺たちだ」


「『俺たち』って誰?」


「ここに残った三十四氏族だ」


「最初は三十六。二氏族はもう離れた。残り三十四、そのうち停戦文に名を置けたのは十六」


「署名のない連中も戦った」


「分かってる。だから、戦ったことと、都市を決める権利は分けてる」


灰狼の代表が机へ爪を立てた。


「帰った二つは数えるな」


「数えてない。だから三十四」


降伏を断る前に、誰が断るのかを決めなければならなかった。


会議へ入る者を数えると、六十一人になった。三十四氏族から一人ずつ、残っている都市評議員七人、根路十二地区から一人ずつ。施療院、穀倉、根路管理所、通信樹から各一人。都市生まれの獣人たちに、とりあえず話を持ち帰る連絡役として押し出されたガド。そこへバルガ、旧衛戍隊の調整役として来たディルハ、記録を担うセナが加わる。


都市庁の会議室には、もともと椅子が十九脚しかなかった。執務室や倉庫から二十九脚を集めても四十八脚で、残る十三人は壁際に立った。これ以上入れれば、椅子より先に部屋が足りなくなる。


七人の旧市評議員のうち二人が議事を書き、根路区代表の二人が発言者と賛否を数えることになった。セナはすべてを書き取るのではなく、食い違った数字と、決め切れず残った箇所だけを一枚へ集める。それでも最初の議題を書いたところで、筆先が紙を外れた。隣の書記が黙って紙を押し戻した。


脇腹を刺されたゼグは施療院から動けず、黒豹は別の代表を出している。戦いを始めた者が全員そろわないまま、戦いの後を決める会議が始まった。


「氏族だけで決める」


岩猪の代表が言った。


「都市を取ったのは、氏族軍だ」


「門を内から開けた者は、どこへ入る」


犬系獣人のガドが問うた。肉屋の前掛けをつけたままである。攻撃の夜にはナシャを庇って気を失い、その後は負傷者へ肉と骨汁を運んでいた。リュサで生まれ、親の氏族を知らない。


「獣人なら、近い氏族の後ろに座れ」


岩猪の代表が言った。


「犬は犬で一つか」


「何が違う」


「牧羊犬も猟犬も愛玩犬も、セレネアは全部まとめて『犬』で数えた。あんたまで同じにするのか」


会議室の獣人たちがざわめいた。


都市に住む者には、氏族の暮らしを捨てた者も、追放された者も、両親が違う氏族の者もいる。氏族名を知らずに育った者まで、セレネアの登録では獣人の一語にまとめられていた。いま獣人の国を作るために、同じまとめ方が持ち出されようとしている。


「では人口で決めるか」


都市評議長オルネ・レヴィアが言った。


「攻撃前のリュサ人口は二万一千四百。市外から来た武装獣人は、その一割にも満たない」


「数で決めれば、俺たちの国をエルフが支配する」


「ここは昨日までセレネアの都市だった」


「その昨日を終わらせた」


「住んでいた人間まで消えたことにするのか!」


机が叩かれ、氏族代表と評議員が立ち上がった。もっとも、椅子が足りず最初から立っていた者も多い。怒った者と、ただ座れなかった者の区別さえつかなかった。


バルガは壁際にいた。上座へ座るよう勧められたが、左肩を庇うように壁へもたれたまま断っている。戦場指揮を預かったことと、都市の上へ座ることは違う。何より、座ればそこが自分の席として記録される気がした。


「静かにしろ」


声を上げても、静かにならない。


戦場なら号笛一つで七百人が動いたのに、会議では六十一人を止めることもできない。


ディルハが右手で軍装の襟から西部衛戍隊の金属章を外し、机へ置いた。剣は昨夜、部下の武器とともに主根広場へ預けてある。


小さくとも、硬い音は部屋の奥まで届いた。


「東には一千八百の軍がいる」


会議室が静かになった。


「停戦は明後日の日没までだ」


ディルハは机の金属章から手を離した。外した章より、包帯で固めた左肩の方が重そうに下がっている。


「向こうが返事を待つのは明日まで。名乗る者がいなければ、残る一日は交渉もできずに潰れる」


「脅すのか」


岩猪の代表が言った。


「事実だ」


「お前はどちら側だ」


「リュサを壊さない側だ」


「そんな側はない」


「昨日、作った」


ディルハは停戦文を示した。獣人とセレネアの署名が同じ紙にあるが、一方を正当と認めた文書ではない。双方が、これ以上壊さないと決めただけの紙だった。


「国家を宣言する」


崖鷲族のサルカが言った。


左前腕は厚い包帯ごと胸へ固定されていた。通信樹で槍に裂かれた傷は深く、指を握ろうとするたび固定帯の内側で筋が痙攣する。弓は持てず、背後の崖鷲が預かっている。それでも氏族の返答をほかの者へ預けず、自分で会議へ持ってきた。


「国があれば、向こうも国へ返事をする」


セナは降伏勧告の国家名欄へ筆先を置いた。


「名前は」


「獣人自由国」


筆が止まった。


「……自由国」


「何だ」


サルカの声に、傷の痛みとは別の棘が混じる。


「ガドは、どの席に座るの」


サルカは壁際の犬系獣人へ目を向けた。


「獣人だ」


「氏族に入ってない」


セナは根路区の人族、旧市評議員へ順に目を向けた。


「ガドだけじゃない。ここで生まれた人族も、昨日、自分の家へ戻ったエルフもいる」


「住民として守る」


「守る側と、決める側を分けるの?」


「獣人が自分で決める国だ」


サルカの背の羽が大きく開き、椅子の背を擦った。左手まで反射的に動き、固定帯の内側で前腕が痙攣する。息を詰めたのは一瞬だけだった。


「私たちは国を持てず、他国の席の後ろで待たされた」


サルカは痙攣する左手を右手で押さえ込んだ。


「その下から出るために戦った。今度も許しを請えと言うのか」


「言ってない」


セナの返事は短かった。筆を持つ指だけが、白くなるほど軸を締めた。


「私たちが椅子を取り返して、ガドたちを後ろへ立たせるのかって聞いてる」


「獣人が決める国が一つくらいあってもいい」


「でも、ここに住む人を決める側から外したら、同じことになる」


「言葉を弄ぶな」


セナは封書の宛名を指で叩いた。


「向こうは名前を潰して、私たちを『武装獣人集団』にした」


セナの指が、今度は会議室の壁際を示す。


「私たちも、ガドも人族もエルフも『住民』で済ませるの?」


「三十四氏族連合でいい」


灰狼の代表が言った。


「国家名ではなく、署名者の名だ」


「都市生まれは、また入らない」


ガドが言った。


「氏族に加われ」


「どこへ」


「灰狼でも、赤狐でも」


「俺は犬だ」


「犬の氏族を作れ」


「国へ入るため、今日から血筋を作れと?」


ガドの尾が一度、床を打った。


「俺はここで四十二年、肉を切ってきた。門外から来た者より先にリュサに税を払い、先にリュサの牢へ入り、先にリュサの子を育てた。それでも、どの火の後ろに座るか決めなければ、発言できないのか」


誰もすぐには答えられなかった。


「リュサ共和国」


根路地区の人族代表が言った。日雇い荷役人たちに、その場で背中を押されて出てきた男だった。


「種族名を入れなければいい」


氏族側から反対の声が上がる。


「セレネアがつけた都市名だ」


「違う。セレネアが今の綴りへ変えただけだ」


フィレネ・アルネスが杖を持ち上げた。


根路管理所の代表として来ていた。九本の古木を五百年以上診てきた彼女にとって、古い呼び名は歴史書の飾りではなく、制御図や修繕記録に残る仕事の言葉だった。


「ここは、壁が育つ前からリュサに近い音で呼ばれていた」


「本当の名へ戻せ」


「どれが本当だ」


フィレネは氏族代表を見回した。


「灰狼は冬の集い場、岩猪は浅根原と呼んどった。ほかの氏族も別の名を使っとる。千年前から一つの名だったわけではない」


「では、セレネア名を使えと」


「今ここに住んどる者が、呼ばれて振り返る名を使えと言っとる」


フィレネの杖先が、修繕図の欄外に残る古名を二つ叩いた。氏族代表の誰も、自分たちの呼び名だけを消せとは言えなかった。


議論が止まったのは、答えが出たからではない。都市庁の外で悲鳴が上がったからだった。


主根広場の北路に、エルフの男が倒れていた。頭を石で割られ、胸には古い徴税吏の木札が置かれている。そばの扉へ、血で文字が書かれていた。


返礼。


男はソルネ・ヴェルシア。西根路の労働税を二百年以上取り立て、納付できない獣人の工具を没収し、冬に門外へ出したこともある。恨む者が多すぎて、かえって犯人を一人に絞れなかった。


「自業自得だ」


群衆の中で声がした。


誰が言ったか分からない。


「裁判を受けていない」


ディルハが言った。


「俺たちは裁判を受けられたか」


別の声が返る。


「受けられなかったから、殺していいのか」


「いいとは言ってない。仕方ないと言ってる」


バルガは遺体の前へしゃがんだ。左肩の傷が引きつり、木札を拾う右手まで止まりかける。札にあるのは徴税吏の名と職位だけで、罪状も、誰が裁いたかもなかった。


「返礼ではない」


バルガは群衆へ言った。


「殺人だ」


獣人側から不満の声が上がった。


「白鹿を殺したお前が言うのか!」


声は、よく通った。


広場が静かになる。


バルガは立ち上がらなかった。立てば傷に響くからではない。殺された男より高い場所から、この話をしたくなかった。


「そうだ」


声の方を探さずに答えた。


「俺が言う。夜のうちに罪を決め、朝までに全員殺した俺が、同じだと言っている」


「同じではない。こいつはやった」


「白鹿のときも、俺たちは『あいつらは裏切った』と決めた」


「徴税記録がある」


「なら記録を出し、生きた本人に答えさせればよかった」


「セレネアの裁判でか」


「違う裁判を作るために、都市を取ったんじゃないのか」


バルガは木札をセナへ渡した。セナは徴税記録を証拠袋へ分け、木札だけを戸籍書記へ回す。


「名簿へ入れろ」


「市民の死者でいい?」


「そうだ」


「敵だった」


岩猪の戦士が言う。


「昨日、武器を持っていたか」


「持っていない」


「なら市民だ」


単純な線だった。男がしたことを許す線ではなく、武器を持たない者を、勝手に戦場へ戻さないための線だった。


遺体を運ぼうとしたとき、南路から別の知らせが来た。


赤狐の女が一人、消えた。名はエネ。西門の灯りを三度消す合図に加わり、昨夜、住んでいた部屋へ戻ったところを近所の者が見ている。朝には扉が開き、床に樹皮縄だけが残されていた。樹冠監察隊が拘束に使う縄だった。


「監察隊だ」


赤狐の代表が、縄を見た途端に言った。


「まだ断定できない」


ディルハは膝をつき、縄の結び目へ触れずに目を近づけた。


「縄だけでは決められない。盗まれたかもしれない。誰かがここへ置いた可能性もある」


結び方は監察隊式に見えた。だが、縄が使われた時刻も、持ち込んだ者も分からない。確かなのは、監察隊の拘束具を扱える者が市内にいることだけだった。


「仲間が消えたのに、まだ庇うのか」


「庇っていない。間違った相手を縛れば、本物が逃げる」


昨夜ディルハが拘束できた監察隊員は、全員ではない。確認されていた二十四人のうち、一人は根路管理所で死亡し、六人が都市庁と施療院で捕らえられた。残る十七人は所在不明だった。東へ退いたと考えられていたが、東門の通過記録とは照合できていない。市内に残った者がいる可能性もある。それ以上は、まだ証拠がなかった。


エルフへの報復と、協力した獣人への狩りが、同じ朝に始まった。勝った側と負けた側から、別々の名をつけた暴力が伸びていた。


「兵を出す」


バルガが言った。


「どの兵を、誰の命令で出す」


オルネが問う。


バルガはすぐには答えなかった。氏族兵だけを上層区へ入れれば、捜索を名目に家へ踏み込む者が出る。元市民兵だけなら、獣人の家を監察隊へ教えた者が混じるかもしれない。


「一方だけでは捜索させられない」


ディルハが先に言った。


「案は一つだ。氏族兵、元市民兵、根路の住民を一人ずつ、三人で組ませる」


「お前が命じるのか」


岩猪の代表が遮った。


「旧衛戍と元市民兵までだ。氏族と根路には命じられない」


バルガが傷のある左肩を壁から離した。包帯の下が引きつり、眉間へ皺が寄る。


「昨日、俺に戦場指揮を預けた二十氏族へ、人を出せるか聞く。出す氏族だけ名を置け。俺は連絡を取る」


十二根路区の代表たちは、互いの顔を見た。最初に手を上げたのは、南根路の荷役人だった。


「住民の記録役は、各区から出す。兵の手下にはしない。家へ入る理由も、出た時刻も書かせる」


「元市民兵へ剣を返すのか」


氏族側から声が飛ぶ。


「返さない」


ディルハは答えた。


「三人とも棍棒と笛だけだ。剣も槍も弓も持たせない」


「氏族兵まで剣を外すのか」


「昨日まで敵だった者と組ませるなら、同じ規則にする」


バルガが先に剣帯を外し、机へ置いた。


「市中番に出る者は外せ。持ったまま監視し合えば、先に抜いた方が勝つ」


家屋へ入るには三人全員の立ち会いを要し、名と理由を戸口へ残す。危険があれば踏み込まず、二度長く笛を吹いて近くの市中番と双方の停戦連絡役を呼ぶ。その規則は、ディルハの命令ではなく、三者が人を出す条件として書かれた。


応援に集まる市中番も、持てるのは棍棒と笛だけだった。剣や弓を持つ者が立て籠もった場合は退き、氏族側と旧衛戍隊側の停戦連絡役へ同時に知らせる。どちらか一方の判断で、主根広場に集積した武器を持ち出すことは禁じた。


旧市の書記が、試行の条件を三枚へ写した。バルガは、昨日自分へ指揮を預けた二十氏族の代表へ一枚を回す。棍棒と笛だけを持ち、夜の鐘で試行を終える。その条件で人を出す氏族だけが名を置いた。ディルハは元市民兵のまとめ役へ一枚を渡し、十二根路区の代表は、住民記録役を出せる区だけが名を置く。


「正式な組織ではない」


オルネが念を押した。


「夜の鐘まで。それで一度止める」


バルガも、それ以上は求めなかった。採決とは呼ばない。氏族側、旧市側、根路区側が、それぞれ自分の出す者について了承しただけだった。続けるかは、規則を作ってから決める。


誰も相手を信用していなかった。だから、信用の代わりに三人が互いを記録する形だけが通った。


最初の市中番は三十組。氏族兵三十人、元市民兵三十人、根路の住民三十人が、三人一組で白い布を左腕へ巻き、棍棒と笛だけを持つ。氏族旗も緑銀章もつけない。


派出連絡の欄には、氏族兵側の連絡調整役としてバルガ、元市民兵側の参加調整役としてディルハ、住民記録役側には十二根路区代表の連名が置かれた。その上に、三者試行、夜の鐘までと旧市の書記が記す。誰か一人の命令で作られた市中番ではなかった。


三十組は、殺人犯とエネを探しに散った。


一組目は出発から百歩で言い争った。獣人兵が近道として家の庭を通ろうとし、元市民兵が止め、住民役の人族が二人の名を札へ書いた。


最初に記録された違反は、殺人ではなく、近道だった。


会議は再開された。国名を決める前に、市中番の権限、旧セレネア法をどこまで残すか、氏族法を都市で適用するか、捕らえた監察隊と報復殺人を誰が裁くか、裁判官と牢を誰に預けるかを決めなければならなくなった。


「昨日の酒屋の二人から始めればいい」


ガドが言った。


上層区の酒屋へ入り、樽を割った大角牛の戦士二人は、西門の柱に繋がれている。戻ってきた店主はエルフの老女で、都市庁へ呼ばれ、二人をどう罰してほしいか問われた。


「二度と店へ来ないでほしい」


セナは返事をせず、望みとして記録した。


「望みは書いた。処分は会議で決める。先に被害の額を出して」


「酒一樽と扉だろう」


大角牛の代表が苛立った声を上げる。


「樽の中身で値が違う」


オルネが旧市場の会計係を呼ばせた。会計係は前年の価格表を開き、老女へ酒の産地と仕入れ年を尋ねる。


「帳簿は店だよ。扉を壊されて、まだ中へ入れない」


「なら、市中番と一緒に取りに行く。扉は木工職人に見せる」


「牛を二頭出す」


大角牛の代表が遮った。


会計係は価格表から顔を上げる。


「生きた牛は、重さと年齢を見なければ値が出ません。酒と扉の代価に足りるかも、余るかも分からない」


老女が鼻で息を吐いた。


「牛を店先へ繋がれても、酒は戻らないよ」


会議室が静かになった。リュサで使われているのはセレネア貨と、各国で通用する盟約貨だが、氏族の多くは貨幣をほとんど持たず、毛皮、家畜、塩、労働で取引してきた。都市を取ったからといって、金庫の金を勝手に使えば略奪になる。


「二頭は担保にする」


大角牛の代表は、今度は会計係を見て言った。


「市場の値で換えて、足りなければ追加する。余ったら氏族へ戻せ」


「市が買い取るなら、食肉の配給先と支払う金を先に決める必要があります」


会計係はオルネへ向き直った。返事を求められたのは、セナではなかった。


「穀倉会計と施療院に数字を出させる。決めるのは、そのあとだ」


オルネが答えた。


「昨日までの政府は、少なくとも樽の値段を知っていた」


老女はしばらく黙っていた。怒りより、疲れの方が顔に濃く残っている。昨日まで客の顔と樽の残りを覚えていれば済んだ者に、今日は新しい国の罰まで決めろと言っている。


「殺せとは言わない。働かせたいとも思わない。この町から出ていってほしい」


それは被害者の望みだった。認めれば氏族の者を追放することになり、認めなければ被害者へ、同じ町で加害者と暮らせと命じることになる。


「二人はどうする」


ガドが西門の方角へ顎を向けた。


「殴られた黒豹もいる。今すぐ放せとは言えない」


バルガが言う。


「だからといって、期限なしにはできない」


ディルハの声は低かった。地下に拘束されていた十三人を思い出したのか、包帯を巻いた肩がわずかに強張る。


セナは裁定欄へ筆を置いたが、書かなかった。


「私は『決まるまで』とは書かない。夜の鐘まで。それ以上縛るなら、会議でもう一度決めて」


「日が沈んでも決まらなければ」


老女はセナではなく、バルガとオルネを見比べた。


「そのときは縄を外し、武器のない別々の宿営区画へ移す。逃げたら俺が負う」


バルガが言った。


オルネはすぐには頷かなかった。


「市側の見張りも置く。氏族だけには預けん」


老女は首を振った。


「それを、裁判なしの拘束と呼ぶんじゃないのかい」


セナの筆先が裁定欄から外れ、紙の端へ黒い点を落とした。樹冠監察隊も、逃亡を防ぐという理由で期限を書かなかった。


旧市書記が、会議の決定として「夜の鐘までの共同拘束」と書く。氏族側の責任者にバルガ、旧市側にオルネが名を置き、セナは異議欄へ老女の言葉をそのまま残した。処罰はまだ空欄だった。


国を作る話は、樽一つの値段を決められないところまで下りてきた。


午後、旧市書記の一人が暫定規則の草案を書き、セナは横から題名を三度消した。もう一人の書記は修正箇所を清書し、根路区の記録役が、誰の発言で変わったかを欄外へ残す。


獣人国家暫定令。国民の範囲を決めていないため、消した。


リュサ占領統治令。占領と書けば住民と土地を戦利品にするため、それも消した。


リュサ市継続規則。


オルネが反対した。


「市の規則は評議会が出す」


「評議会だけじゃ、西門へ届かない」


「氏族だけでも上層区へ届かない」


最後に、リュサ臨時共同規則と書いた。誰と誰が共同なのか、題名には入れない。これは国の法でも、リュサの帰属を決める宣言でもない。停戦中に水、食料、治療、通信と治安を止めないため、その場にいる三群が共同で使う規則だった。


第一項。


停戦期間中、水路、穀倉、施療院、通信樹を破壊してはならない。


第二項。


リュサに現に居住する者は、種族、氏族、旧国籍を理由に、配給、治療、保護、裁定から除外されない。


「国民とは書かないのか」


ガドが問う。


「まだ国がない」


「できたら書き換えるのか。また後回しにして」


セナは反論しかけて、三度目の鐘から数字が増え続ける配給簿を見た。


「今『国民』と書けば、パンを渡す前に国名で止まる。配給は止められない」


第三項。


この規則による市務管理が続くあいだ、攻撃開始前の住居、店舗、工房の占有を、最長三十日間は変更しない。停戦が終了するか、市の管理主体が変わった場合は、その時点で改めて審議する。


「三十日?」


土地を求めてきた氏族が一斉に声を上げた。


「俺たちは家を返せと言って戦った!」


「リュサの家を?」


「この土地全部だ」


椅子の脚が床を擦り、岩猪側で何人も立ち上がった。


「誰から、どこまで取り返すの」


「セレネア人からだ」


セナは住居台帳の端に並ぶ名を指で追った。


「ガドの店は。人族の荷役人の部屋は。フィレネの家は」


「協力者は別だ」


「誰が協力者と決める」


議論はまた止まった。それでもセナは第三項を消さなかった。


「三十日は上限。停戦が延びて、今の市務が続いた場合だけ」


セナは第三項の脇へ、明後日の日没と書き込んだ。


「いま約束できるのはここまで。それでも、この時刻までは追い出さない」


「三十日待って、セレネア軍が戻ったらどうする」


「戻らせないのは軍の仕事。家を奪うのは軍の仕事じゃない」


バルガが言った。


氏族側の声が少し下がった。戦場指揮官の言葉にはまだ力があり、その力を法の代わりに使っていることを、バルガは喜ばなかった。左肩の痛みより、誰も反論しなくなった沈黙の方が重かった。


第四項。


武器を持つ者は、家屋への立ち入り、徴発、拘束を単独で行ってはならない。


第五項。


報復、私刑、種族を理由とする追放を禁じる。


第六項。


氏族兵、元市民兵、根路住民の記録役からなる三人一組の市中番を設ける。市中番は剣、槍、弓を持たず、棍棒と笛のみを携行する。家屋への立ち入りは三人全員の立ち会いを要し、氏名、理由、入退去時刻を戸口へ残す。


第七項。


規則の変更には、氏族代表、旧市評議員、十二根路区代表の三群のうち、二群以上の同意を要する。


各群の意思は、その場に出席した者の過半で定める。


「俺をここへ呼んでおいて、票はないのか」


ガドの声が低くなった。


ガドは四施設の代表を顎で示した。


「施療院も、穀倉も、水路も通信樹も、決めるときは外か」


セナはすぐには答えなかった。眠っていない目で、三本に分けた票の欄を見る。氏族を外せば戦士が従わず、旧評議員を外せば市務が動かない。根路区を外せば、どちらにも席のない住民が消える。三本へ分けた時点で、その間にいる者をまた落としていた。筆先が、空いた四本目の欄を作りかけて止まる。


「今の案じゃ、ない」


「なら俺たちは証人か。決めたあとで聞かされるための」


「違う――と言いたい。でも今のままなら、そうなる」


セナは旧市書記へ紙を押した。


「そのまま書いて」


セナは空欄を指で押さえた。


「ガドと四施設は、人を外す変更か、水や薬を止める変更なら、採決をやり直せと求められる」


書記の筆が止まった。


「俺一人が言えば止まるのか。それなら票より強い」


ガドが先に矛盾を突いた。


セナは書きかけの四本目の欄を見た。ひとりを代表にしないための仕組みで、そのひとりへ拒否権を渡しかけていた。


「一人では止めない。五人のうち、違う立場の二人が同じ箇所へ異議を出したら、そこだけ採決をやり直す。水や治療は止めない」


書記が規則文へ直して、第七項の下へ注記を足した。


都市居住獣人の連絡役と、施療院、穀倉、根路管理所、通信樹の実務代表は、住民の排除または各施設の運用不能を理由として再審議を求められる。この五者のうち異なる二者が同じ変更箇所へ異議を出した場合、その箇所だけを三群の再採決まで保留する。ただし、給水、治療、配給、通信の継続に必要な処置は止めない。


「それでも票じゃない」


「分かってる。でも、あなた一人へ票を渡せば、選んでいない七百人以上まで背負わせる」


セナはガドから四施設の代表へ視線を移した。


「二人が同じ箇所へ異議を出せば、無視して進められない。今日はそこまで」


ガドは納得しなかった。それでも、連絡役の名で七百人以上を代表したことにされるよりはましだと、紙から目を逸らした。


「数が違いすぎる」


オルネが言った。


氏族代表は三十四、評議員は七、根路区は十二だった。


「今日は人数じゃなく、三つの側から一票ずつ出す」


セナは筆先で三本の欄を順になぞった。


「七人の評議員と、三十四氏族が同じ一票か」


オルネの声には、旧評議会の席を軽くされた苛立ちがにじんだ。


「三十四氏族に一票しかない、とも言える」


バルガが壁際から返した。


「頭数だけで決めれば、氏族は話し合う前に負ける」


「二群が組めば、残りを消せる」


ガドが三本の線の一本を爪で弾いた。


根路区の記録役は、賛否の数を書いた札を伏せる。


「三群全部の賛成が要るなら、一群が拒むだけで明日の水もパンも止まる」


「どちらにしても、落ちる人がいる」


セナが言いかけたとき、指から筆が滑り、卓の下へ落ちた。拾ったガドが、すぐには返さない。


「間違うと分かってて書くのか」


「書かなくても、誰かが勝手に決める」


セナは手を伸ばした。


「だから期限を書く。間違えたら、消せるように」


ガドは筆を返した。


セナは草案の冒頭へ戻り、暫定の二文字を二重線で囲んだ。第一項には停戦期間中。第三項には市務管理が続く限り、最長三十日。末尾には、停戦または管理主体が変われば直ちに、どちらも変わらなくても三十日以内に全項を再審議すると書き足した。


「次の会議へ出す根路区代表と、氏族に属さない都市居住者の連絡役は、どう選ぶ」


根路の人族が問う。


「今日は、各区と集まりが押し出した人」


セナは仮と書かれた名札を裏返した。


「停戦が延びたら、その翌日から七日以内に、それぞれの居住者が選び直す」


「氏族代表もか」


「氏族は氏族の中で決める。都市の票で替えさせない」


バルガが答えた。


オルネは机上の七人分の名札を指でそろえた。


「旧評議員は、評議会を復活させたことにはしない。市務記録を引き継ぐ間だけ、この席に残る」


「施療院と穀倉、根路管理所、通信樹は、各施設が実務を知る者を出す。それは住民代表ではない」


施療院の代表が続けた。


「獣人以外も投票できるのか」


「居住者なら」


「未登録者は。俺の店に、労働札さえない者が六人いる」


ガドは問うだけでなく、セナの紙へ六つの名を置いた。


戸籍書記が古い登録規則を繰り、該当する条文の横へ爪を置く。


「居住を二人が証明できれば、仮名簿に入れられる」


「証明する二人が、東へ逃げたら?」


反対側から声が飛ぶ。


「住居と仕事場を確かめる。市中番の三人が別々に名を残す」


根路区の記録役が答え、すぐに顔をしかめた。三人が間違えれば、誤りも三つの名で残る。


「家が焼けた者は」


「避難所の受入簿も照合に回す」


施療院の代表が言った。家を焼かれた者には、住所そのものが居住の証明にならないと思い出したようだった。


「名前を変えた者は」


セナは返事をせず、同じ質問の下へ二本目の線を引いた。


「セナ」


ガドに呼ばれ、顔を上げる。


「何?」


「名前を変えた者は」


「……両方書く。今の名を先に」


戸籍書記が回答を引き取り、旧名、現名、証明者、避難所名簿の四欄を作った。セナは次の質問へ移ろうとしたが、最初の一語を聞き損ね、もう一度言わせた。


問いは終わらず、答えの多くはその場で作られた。セナの紙は継ぎ足され、最初の一枚より注記の方が長くなった。


日が傾いたころ、市中番の一組が戻った。


消えたエネは見つからなかった。代わりに、南根路の空き染物工房から、血のついた樹冠監察隊の外套が二着と、地下へ続く排水口が見つかった。誰の血かは分からない。市内で外套を捨てた者がいる疑いは強まっても、エネが生きている証拠にはならなかった。


ソルネを殺した凶器も見つかった。主根広場の舗装石で、誰でも持てる。血のついた手袋の燃え残りは共同避難所の炉から出たが、市中番は容疑者を連れてこなかった。


氏族側はやる気がないと元市民兵を責め、元市民兵は氏族兵が犯人を庇ったと疑った。住民役は、二人が言い争った時刻と場所をすべて記録していた。


「何の役に立つ」


氏族兵が問う。


「次に誰かが消えたとき、あなたたちがどこにいたか分かる」


「俺たちを疑ってるのか」


「全員を疑ってる。あなたも、この人も」


市中番の仕事は、犯人を見つける前に、仲間を疑うことから始まった。


日没前、旧市場の会計係が酒屋の仕入れ帳を持ち帰った。割られた樽の産地と年、残っていた量を前日までの市場価格へ当て、樽本体の値も分けて書く。扉は木工職人が金具と板材、工賃を見積もった。


大角牛氏族が出した家畜二頭には、別の市場係が年齢と体重を見て値をつけた。穀倉会計と施療院は、二頭を配給と傷病食に使い切れると書面で返す。そこまで揃って、オルネは旧市の配給会計による買い取りを提案した。


大角牛の代表が、支払い方へ同意の爪印を置いた。家畜二頭の査定額から、酒と樽、扉の修繕費を店主へ支払う。残額は大角牛氏族へ返し、足りなければ氏族が追加する。二人の戦士が氏族へ何を返すかは、市ではなく大角牛の代表が決める。


「市の金庫で、氏族の弁償を肩代わりするのではないな」


オルネは、会計係の計算を指で押さえた。


「食肉を必要な量だけ公の配給で買う。店主が受けた被害は、氏族の取り分から払わせる」


会計係が答えた。セナは二つの帳簿の金額を読み比べ、一度、酒樽の桁を間違えた。隣の書記が数字に線を引く。セナは無言で書き直し、「店主の被害」と「公の食肉購入」を別の欄へ分けた。


三群は会計係の査定とオルネの支出案を承認した。酒屋の老女は金額を二度読み、扉の修繕費が含まれていることを確かめてから、紙へ印を押した。


補償は決まったが、二人をどう罰すかは決まらない。ひとまず、現行停戦が終わる明後日の日没まで、逃亡と報復を防ぐための暫定拘束とする案が出た。続けるには、二人の言い分を聞き、停戦延長後の会議が改めて承認しなければならない。拘束開始から七日を越える処分は、裁判を担う仕組みができるまで決めない。


釈放後の接触禁止についても、店主の安全と二人の居所を確かめてから、停戦終了までの条件として別に審議する。罰とともに書き込んではいない。


二人の戦士は柱から外され、市の牢へ移された。牢番には元セレネア衛兵と大角牛氏族から一人ずつを置く。互いが、相手の勝手を防ぐためだった。


暫定規則がまとまったとき、外は暗くなっていた。


残る問題は、誰の名で出すかだった。


窓の外では、夜番へ交代する水路係が笛を鳴らし、施療院へ薬箱を運ぶ車輪が石畳を擦っていた。会議室だけが、朝から同じ四つの名の周りを回っている。


「獣人自由国」


サルカは譲らなかった。


「三十四氏族連合」


灰狼の代表も譲らない。


「リュサ市評議会」


オルネは、占領前の名を残そうとした。


「リュサ共和国」


根路代表は、まだ国になっていない名を書きたがった。


ガドは、どれにも賛成しなかった。


「その名で、俺がどこへ入るか分からない」


バルガは壁際から、空の旗竿を見た。名前を決めれば救援軍へ返事ができ、旗を上げれば都市を取ったと世界へ示せる。戦士たちはその瞬間を待ち、九十四人の死が何のためだったか言える言葉を求めていた。


だからこそ、急げば危うい。死者のためという理由は、生者を黙らせるのに強すぎる。肩の包帯の下で傷が熱を持つたび、昨日の命令へ皆が従った感触まで戻ってきた。


「国名は書かない」


バルガが言った。


反発が一斉に上がった。


「向こうは、交渉相手がいないと言うぞ」


「いる」


バルガは国家名の空欄へ右手を置いた。


「何という名だ」


「リュサ臨時会議」


「国ではないだろう」


「まだな」


「では、何のために都市を取った!」


岩猪の代表が机を叩いた。


「国を作るためだ!」


「誰を入れる国か決まっていない」


「獣人だ!」


「では、ここに残る一万八千を越える者は何だ」


「住民だ」


ガドが鼻で笑った。


「国民ではなく?」


「言葉が違うだけだ」


「俺たちは、その違いで椅子を与えられなかった」


バルガの声は大きくなかった。


王都の円卓で、国家を持たないという理由で長椅子へ追いやられた。いま「住民」で済ませば、ガドや根路の人族を、あの長椅子へ座らせる側に回る。


「国はいずれ名乗る」


バルガは続けた。


「だが今日ではない。誰を入れるか決めてからだ」


「明日までに、返答者の名を出せと言われている」


灰狼の代表が降伏勧告を指で弾いた。


「だから今日は、臨時会議で止める」


「認めなかったら」


「戦う」


バルガが言い切ると、左肩の包帯の下で傷が脈打った。顔には出さず、壁へ体重を預け直す。


「国でもないもののために?」


「ここにいる者のためにだ」


戦場指揮官の答えであって、政治家の答えではない。だが、その場で政治家を名乗る者は一人もいなかった。


暫定規則の発行者欄へ、リュサ臨時会議と書かれた。


印章がない。オルネは市の樹根印を出した。


「市務の継続に限る」


「氏族側の印も要る」


セナが言った。


三十四氏族を一つにする印はなく、それぞれの印を押せば、紙が印だけで埋まる。西門から、門を内側から開けたときに折れた留め木の一片が運ばれた。ガドは樫材を肉切り包丁で平らにし、周囲を削って三本の線だけを浮かせた。氏族、旧市評議会、根路区。三つの線が中央で交わるだけの印だった。都市居住獣人を示す線はない。選ばれてもいない七百人以上の線を、自分の判断で刻むこともできなかった。


国章でも王印でもない。停戦中、三つの側が同じ紙を使うという印にすぎなかった。どの群が賛成したかを示すのは、印ではない。議事録に氏族代表、旧市評議員、十二根路区の賛成、反対、棄権を別々に残し、開票を確かめた者が各群から一人ずつ副署した。


「門を壊した木を、都市の印にするのか」


オルネが言った。


「門を開けた木だ」


ガドが答えた。


同じ出来事だった。どちらから見るかで、動詞だけが変わった。


暫定規則には、樹根印と臨時印が並んだ。その下に議事録番号、各群の採決結果、三人の副署がある。印は決定を見分ける目印で、それ自体が権限ではない。


救援軍への返書にも、同じ二つの印と議事録番号を付けた。


返答者の官職は空欄。国家名も空欄。権限根拠には、停戦期間中のリュサ臨時共同規則と、返書の発出を決めた第一回会議の議事録番号を書いた。


文面は降伏勧告を拒否し、停戦を十日間延長するよう求めた。


負傷者の交換、希望者の退去、市内武装の段階的整理、水路と穀倉の共同監視。その間に、リュサの政治的地位について交渉する。


セレネアの主権を認めるとも、獣人国家の独立とも書かなかった。両方が、自分の主張を取り下げずに読める文にした。


バルガは進撃二十氏族の戦場指揮責任者として、オルネは市務継続責任者として署名した。十二根路区は、開票を担当した代表の一人を副署に立てる。ディルハの名は、旧衛戍隊調整役ではなく、現地停戦の証人欄に置かれた。


末尾に、起草は旧市書記二名とセナ、記録照合は根路区記録役とある。それは署名欄ではなかった。


ガドは署名欄の前で筆を止めた。


「俺は、何と書けばいい」


「都市居住獣人代表では?」


誰かが言った。


ガドは顔を上げた。


「誰が俺を代表にした」


返事が少し遅れた。


「……ここにいる者たちだ。二十七人が、あんたを連絡役に押した」


ガドは眉を寄せた。


「ここにいない連中まで、俺が勝手に代表していいのか」


誰も答えなかった。


しばらく署名欄を見たあと、ガドは「代表」の二文字を避けて書いた。


都市居住獣人・暫定連絡係。


その下へ、自分の名を置く。


二十七人に押し出されたことと、全ての者の意思を預かったことは同じではない。


選ばれていない者の声まで、自分のものにはしなかった。


日没後、朝とは別の白旗通信兵が東門詰所の白旗使者用待機室へ入った。門務兵は交代者の名を救援軍側の通知と照合し、オルネが返書を渡す。セナは受領時刻と使者の名を記録するため、一歩後ろに立った。


使者は発行者名を読んだ。


「リュサ臨時会議」


「そうです」


オルネが答えた。


「我が軍は、その機関を承認していません」


「承認いただかなくても、返事はお読みいただけます」


「受領は、承認を意味しません」


「こちらも、あなた方の主権を認めたとは書いていません」


使者は封書を胸へ入れた。


「返答は明朝になります」


ディルハが使者の横から問うた。


「それまで、現地停戦は続くと考えてよいか」


「続きます」


「返書とは別に照合を求める。赤狐のエネが連れ去られ、監察隊の外套が市内で見つかった」


使者の目が封書から上がる。


「救援軍側へ移った監察隊員の名簿を回してほしい」


「別件です」


「リュサでは同じ件として記録する」


「持ち帰ります」


使者は東門を出た。門外では、セレネア兵が封書を三重の布袋へ入れる。敵の魔法がついていないか調べるためで、紙が司令天幕へ届くまで、さらに半刻を要した。


リュサの中では、暫定規則が通信樹から読み上げられた。


ハルネがセレネア語で読み、ガドが氏族共通語で繰り返す。


第二項まで聞いたところで、上層区のエルフは窓を閉めた。旧国籍を理由に配給から外さない、という言葉を信用しなかった。第三項まで聞いた氏族の戦士は怒って宿営地へ戻り、市務管理が続く限り土地を最長三十日動かさないことを、戦果の否定だと受け取った。停戦か管理主体が変われば再審議するという後半までは聞かなかった。根路の未登録労働者は、二人の証明で名簿へ入れるという注記を何度も聞き直した。


施療院では、医師が第一項だけを書き写して壁へ貼った。水路、穀倉、施療院、通信樹を破壊してはならない。ほかの政治は、患者を治してから読むことにした。


西門の柱から移された二人の戦士は、牢の中で規則を聞き、自分たちを明後日の日没まで拘束すると決めた手続きが、どの項にも書かれていないと騒いだ。


セナは裁定書の時刻を見た。先に人を縛る期限を決め、そのあとで縛る手続きを書こうとしている。順序が逆だった。いま規則を足しても、先に出した裁定が自動的に正しくなるわけではない。


セナは「理由、開始、終了、通知」と四語だけ別紙へ書き、旧市書記へ渡した。書記が第八項の文案に直し、根路区の記録役が、まだ都市庁に残っていた三群へ回す。旧市評議員と根路区代表が先に過半へ届き、氏族代表がまだ数え終える前に、二群の同意が成立する。第七項が、初めて使われた。


拘束、捜索、裁定は、対象者の名、理由、開始時刻、期限を記録し、本人または家族へ知らせる。


「これで、さっきの拘束が正しかったことにはしない」


旧市書記が、二人の戦士へ渡す紙にも同じ言葉を写した。セナは署名せず、その下へ二人の異議を書き足した。


「二人の異議はそのまま残す。この規則でもう一度、会議に決めてもらう」


セナは拘束期限の欄へ明後日の日没と写した。


「続けられるとしても、ここまで。その先は、また理由が要る」


三群は、逃亡を防ぐための暫定拘束だけを改めて承認した。樽を割った罪への最終処分は、空欄のまま残された。規則を後から書いたことで、先の判断まで正当化したことにはしなかった。


第八項だけが、通信樹から追加で読まれた。


最初に見直されたのは、都市庁東側の控室にいる十三人だった。


旧市書記が拘束者名簿を会議へ運んだ。十三人それぞれの名、健康状態、市側へ移した時刻はある。王府側の拘束理由は、全員同じ「保安拘束」の四文字だけで、誰が何をしたのかは一件も書かれていなかった。


「私が昨夜、市の拘束へ移した」


ディルハは包帯で固めた左肩を押さえず、十三人の欄を見た。


「地下なら煙で死ぬ。広場なら戦闘に巻き込む。止めたのは、そのためだ」


一度、息を継いだ。左肩を固めた帯が、浅い呼吸にも軋む。


「戦闘は終わった。今も縛る理由はない」


「王府は、保安拘束者だと主張している」


オルネが名簿の備考欄を指した。


「主張は消さない。だが、理由のない拘束まで引き継ぐとは決めていない」


セナは十三人分の理由欄を順に確かめた。空欄を埋める言葉は出てこない。


「市側の拘束開始と終了、昨夜の命令理由は残す。王府の主張も異議欄へ」


十三人分の理由欄は、すべて空いたままだった。


「そのうえで、拘束を続ける理由がないことを会議で決めて」


三群はいずれも、十三人の拘束解除に同意した。昨夜の拘束まで正しかったと認めたのではない。今から先も縛る根拠がないと確認しただけだった。


控室では、十三人の手から縄が外された。扉内側の評議会衛兵と旧衛戍兵は持ち場を解かれ、外側の二人だけが、出る者を止めるためではなく、報復に来る者を入れないために残る。家へ戻れない者は控室を保護宿舎として使えた。家族へ知らせたい者は行き先を連絡簿へ書き、根路区の使いが、届け先の分かる家族へ知らせに走った。


十三人の名は拘束者名簿から消さず、終了時刻を記した。消せば、誰がいつまで鍵をかけていたのかまで消えるからだった。


一方、監察隊六人には、個別の理由があった。都市庁の四人は武器を向けて抵抗した行為、中央施療院の二人は武装解除と停止命令を拒んだ行為を、それぞれ開始時刻とともに記す。罪名も最終処分も決めず、現場の行為を調べるための一時拘束として、期限だけを置いた。


ラディルたち樹冠監察隊にも同じ紙が渡されたが、ラディルは受け取らなかった。


「反乱集団の規則に従う義務はない」


牢番は紙を格子へ結んだ。


「異議は記録する。紙はここへ置く。読まなくても、渡した時刻は残す」


牢番が決められるのは、異議の紙を受け取った時刻までだった。大角牛の二人と監察隊六人の見直し期限は、現地停戦が終わる明後日の日没とされ、その時刻が会議の記録に残った。その期限を越えて拘束を続けるか、誰が裁くかは決めない。


夜の鐘が三度鳴った。


朝と同じ数だった。一度目で水門が交代し、二度目で施療院が夜番へ替わり、三度目で配給所が閉じた。


店はまだ、ほとんど開かなかった。行方不明のエネは見つからず、ソルネを殺した者も、国名も、救援軍が停戦を延ばすかも分からない。


都市庁の旗竿は、二日目の夜も空だった。


だが、その下の掲示板には一枚の紙が貼られていた。リュサ臨時共同規則。発行者、リュサ臨時会議。国家名の欄は空白だった。


空白の上に、一行だけがあった。


ここに住む者を、種族を理由に市外へ追放しない。


国になる前のリュサが最初に引いた線は、都市の外ではなかった。


誰を外へ追い出してはならないか。


その線を、自分たちの内側へ引いた。

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