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第三十五章――リュサ陥落

都市庁の大扉は、内側から閉じられていた。


ディルハは剣の柄で三度叩いた。


「西部衛戍長、ディルハ・セレド。開けろ」


返事はない。背後の主根広場では次の衝突が始まり、盾のぶつかる音と号笛、崖鷲の声が重なった。都市庁の壁へ矢が雨のように当たる。連れてきた十二人は、扉の両側へ盾を立てた。


ディルハは一歩下がり、扉脇を這う細い根の樹皮へ剣先を差し入れた。外から来た者には飾りにしか見えない。薄皮を剥ぐと、内側の溝に小さな鍵穴と、衛戍隊の非常開閉索が現れる。位置を知るのは衛戍隊の上級指揮官だけで、索も鍵を外さなければ動かない。ディルハは腰から非常開放用の鍵を外し、留めを解いてから索を引いた。扉の内側で、横木が持ち上がる。


内側の扉番が火災や内乱で動けなくなったとき、外の衛戍隊が救援に入るための仕組みだった。都市庁を建てた者も、王府の者が内側から閉じ、衛戍長が開けることまでは考えていなかった。


扉を開けると、評議会衛兵が二人、槍を向けた。穂先はディルハの胸を捉えたものの、二人とも踏み込んではこない。


「槍を下ろせ。オルネ評議長の封書だ」


「庁内封鎖も評議長命令です」


年長の衛兵が言った。声だけは張っていたが、槍を握る指が小刻みに震えている。


ディルハは封書を胸の高さまで上げた。


「なら、自分で読め。評議長は評議室か」


「はい。ですが、地下は――」


言葉が切れ、二人の視線が地下階段へ滑った。


「監察隊に止められたな」


若い方が唇を噛んだ。


「剣まで抜かれました。市の衛兵へです」


二人は槍を下げた。


ディルハは四人を大扉へ残し、八人と地下へ向かった。


地下階段には煙が満ちている。紙と封蝋を焼く臭いだった。一つ目の部屋では王府協力者の名簿が燃え、二つ目では通信認証の照合簿が火鉢へ落とされている。市の徴税台帳と根路居住者台帳を収めた書庫は、評議会の封印を残したまま閉じていた。


三つ目の扉の前に、監察兵が二人立っている。


「扉を開けろ。認証晶を取り戻す」


「保安記録の処分中です。ラディル上席監察官の許可なく、ここから先へは通せません」


「本人に命じる。退け」


「セレド司令。いま従うべきは、失われる守備区の命令ではありません」


言い終えるより先に、二人は剣を抜いた。


ディルハも剣先を上げる。


狭い階段で、三人の刃が触れた。


「上では、お前たちが守るはずの都市が落ちかけている」


ディルハが言った。


「だからこそ、敵へ渡せない記録を焼いています」


「住民を煙の中へ置いたままか」


監察兵の顎がわずかに強張った。それでも道は空けない。


「退きません」


先に動いたのは監察兵だった。切っ先は喉ではなく、ディルハの剣を狙う。味方を殺さず拘束するとき、衛戍隊でも使う型だった。


剣を退けば、自国の兵へ刃を向けずに済む。その考えが手を鈍らせかけたところへ、上で盾が割れる音が響いた。


ディルハは刃を外して相手の手首へ柄を打ち、剣を落とさせた。二人目の肩へ体当たりして壁へぶつけ、膝で腹を押さえる。一人目が短杖を抜く。先端へ光が集まるより早く、ディルハは床の剣を蹴り飛ばした。柄が足首を打ち、短杖から散った火花が石段を焦がす。


「殺すな!」


後ろの衛戍兵へ叫んだ。


監察兵二人が押さえられ、ディルハは鍵を奪って三つ目の扉を開けた。


拘束された十三人が壁際に並ばされていた。全員の手が後ろへ縛られ、目隠しをされている。煙を吸って咳き込む者はいた。それでも十三人全員に意識があり、呼びかけへ反応した。


その前にラディルが立ち、脇には監察兵が一人残っていた。


片手に短杖。


もう片方に認証晶の箱。


「火を止めろ。十三人は地上へ移し、医師を入れる」


ディルハが命じた。


「私の部下へ命令する前に、その剣を置きなさい」


ラディルは火鉢から目を上げなかった。


「焼いたものを答えろ」


「王府の協力者名簿、通信の認証列、取り調べの経路です。奪われれば、東側に残した協力者まで辿られる」


「市の徴税台帳と居住者台帳まで焼いたのか」


「王府の管轄外です。手はつけていません」


「そこだけは法律を守るか」


ディルハは壁際の十三人を見た。咳を堪えようとして、肩を震わせている者がいる。


「この者たちは救援軍が入るまで隔離します」


「煙を吸わせたままか。医師を入れろ」


「あなたに保安拘束を解く権限はない」


「ここは私の守備区だ。生かして引き渡す責任も私にある」


ラディルはようやくディルハを見た。


「もう失われる守備区に、ですか」


地上で鐘が鳴った。


一度。


二度。


三度目は途中で止まった。


鐘楼へ崖鷲が入ったのだと分かった。


「それで、認証晶も焼くつもりか」


「王府の名を、占領者に使わせるわけにはいきません」


ラディルは認証晶の箱を開け、晶石を石の閲覧台へ置いた。短杖の先へ、白い光が集まり始める。


「杖を下ろせ。その晶は通信樹の幹心室へ戻す」


「敵へ渡す、と」


「救援隊へ前進停止を求める。東門の退去列を踏み潰させる気か」


「奪還軍を止める必要はありません」


「市民が射線にいる」


「敵と住民を分けられなかった。だから、この都市は落ちるのです」


「違う。分けなかったのは王府だ」


ラディルの眉が初めて動いた。


「現地の情で、王府の方針を曲げるおつもりですか」


「現地を見ずに決めた方針で、市民を射たせはしない。杖を下ろせ」


ラディルが短杖を上げた。


ディルハも剣を上げる。


「最後の警告です。武器を置きなさい、セレド司令」


「それは私の台詞だ、ラディル」


短杖が光り、ディルハは横へ踏んだ。魔法弾が左肩を掠め、軍装と皮膚を焼いて背後の扉へ当たる。焼けた布と肉の臭いが立ち、腕から指先まで感覚が途切れた。それでも踏み込みは止めない。振り抜いた剣をラディルが箱で受け、金属箱が床へ落ちる。認証晶は閲覧台から転がり、燃える台帳の手前で止まった。


別の監察兵が短杖を向け、衛戍兵がその腕へ組みついた。狭い文書庫で、同じ旗をつけた兵同士が殴り合った。


ラディルが認証晶を拾おうと伸ばした右手を、ディルハの剣が貫いた。切っ先が掌を抜け、樹皮床へ浅く食い込む。晶石が指先から落ちた。ラディルの喉から空気が漏れ、膝が閲覧台へ当たる。


「貴様――王府命令に、刃を」


「拘束しろ。右手は止血しろ。死なせるな」


ディルハが命じた。


衛戍兵は動かなかった。上席監察官を縛り、王府の権威へ縄をかける。それは獣人へ降伏するより、彼らには理解しにくい命令だった。


「聞こえなかったか。拘束しろ!」


二度目で動いた。


ディルハが剣を引き抜く。衛戍兵は血の流れる右手へ布を巻き、傷ついた腕を胸へ吊った。左手首だけを背後へ回し、腰帯へ結ぶ。


彼は抵抗しなかった。


ディルハは認証晶を拾い、空の金属箱を衛戍兵へ持たせた。晶石だけは自分の内衣へ入れる。


「都市を失った責任を、私に移せると思うな」


痛みで掠れた声にも、侮蔑だけは残っていた。


「移さない。責任は私が負う」


ディルハは痺れた左腕を胸へ寄せた。


「だが、住める都市は残す。十三人の目隠しを外せ。手は前で縛り直し、評議会衛兵へ渡せ。東側の控室へ移し、衛生係をつけろ。窓には近づけるな」


十三人は解放されるのではなく、王府監察隊から市の拘束へ移された。評議会衛兵二人が一階東側の控室へ連れ、庁内の衛生係が煙を吸った者の喉と呼吸を確かめる。扉の内側と外側へ、それぞれ評議会衛兵一人、衛戍兵一人を置いた。計四人が二人ずつで扉を挟み、戦闘中の主根広場へ出すことはしなかった。


主根広場では、最後の盾列が崩れていた。都市庁へ回した十二人の穴を埋める予備兵は、もう残っていない。


北枝道を抜けた岩猪が広場の側面へ入った。


南からは、濡れた沼獺と穴熊が上がる。


同じころ、中央大路後方、突破のため崩した街路防壁の陰では、ゼグが膝をついていた。黒豹の前列はすでに主根広場へ入り、彼だけが後方へ取り残されている。


脇腹には折れた槍が残っている。黒豹二人が運ぼうとした。


「触るな。槍が動く」


ゼグは片手で二人を退け、立とうとした。身体を起こした拍子に折れた柄が脇腹の中でずれ、息が喉で止まる。左脚へ力が入らず、爪が血の混じる土を掻いた。


「広場へは入りました。都市庁前が、まだ残っています」


部下は先に報告した。ゼグが次に何を聞くか、分かっていた。


「なら、寝かせるな。前へ――」


最後の一語は息になった。それでも地面へ爪を立てて一歩進み、二歩目で地面へついた左腕から力が抜けた。肘が崩れ、肩から地面へ落ちる。


黒豹たちは今度は命令を聞かず、後列から二人を呼んで彼を担架へ乗せた。


折れた槍は抜かず、柄の周囲へ厚布を詰め、腹ごと帯で固定する。ゼグが動くたび布の端へ血が広がり、担架を持つ四人ぶん、前線の黒豹が減った。


「下ろせ。殺すぞ」


「担架の上から、何で殺すんです」


部下の一人が答えた。


ゼグは牙を見せた。


笑ったのか、痛みに顔を歪めたのか分からなかった。次の呼吸は浅く、担架が揺れるたびに途切れた。


担架は主根広場へ進まず、中央大路後方の搬送路から中央施療院へ下げられた。


バルガが盟約王碑へ下がる途中、都市庁上階から落ちた矢が左肩へ刺さった。穂先は背へ抜けていない。反射的に矢柄を掴んだが、僅かに引いただけで血が胸まで広がった。バルガは手を離し、矢を残したまま碑の前まで歩いた。


目の前には、槍を持つ手を震わせた若いエルフの市民兵が立っている。


北枝道の防壁が破れたあと、近くの家へ伏せていた住民が東門を目指し、広場の東端を横切り始めていた。その中に、市民兵へ連れ出された長男を捜す母親と、幼い息子がいた。


「槍を下ろせ。そこを退け」


バルガが言った。


「退いたら、家を取られる」


「東門は開いてる。家族を連れて出るなら、道は塞がない」


「逃げろと言うのか。俺の家だ」


若者は槍の石突きを根へ押しつけた。震えを止めようとしているのだと、余計に分かった。


「なら武器を置いて残れ。槍を持つなら兵として止める」


「お前たちを信じろと」


「信じなくていい。俺も、お前の槍は信じない」


バルガは短刀を下ろさず答えた。左肩の矢柄が、呼吸のたびに小さく震えている。


若者は槍を下ろさなかった。


バルガも短刀を構えた。


幼い息子が母親の手を振り切り、二人の間へ走り込んだ。母親が後ろから追いつき、子の身体を抱いた。


「もういい」


母親は言った。


「でも」


「家だけ残して、あんたが死んでどうする」


若者の槍先が下がった。


完全には離さない。


バルガも刃を下げた。


「弟を連れて東へ出ろ」


若者は母と弟を見た。それから、家の扉へ視線を戻す。


「逃げない。武器を置いて、ここに残る」


槍が石畳へ落ちた。その音を聞き、隣の市民兵が剣を置く。もう一人、さらに五人と続いた。


衛戍兵は置かなかった。


彼らは列を縮め、都市庁の階段前へ集まった。


副官が指揮を執っている。


「ディルハは都市庁か」


バルガが問う。


「司令の所在を、敵へ答えると思うか」


「もう門も三本の道も破られてる。隠して何が延びる」


副官の頬が引きつった。


「降伏を勧めに来たなら、私が断る」


「お前にじゃない。救援の前衛は避難列で止まってる。だが、道が空けば来る。来るまでに、あと何人死なせる」


副官の視線が、バルガの左肩に刺さった矢へ落ちた。


「その問いを、そちらだけが口にするな」


副官の言うとおりだった。獣人側も限界に近い。前線へ出た七百のうち百五十以上が倒れ、西門から新しい兵を呼べば穀倉か水路が空く。一千八百の救援が東門へ入れば挟まれる。都市庁の階段を取っても、都市を保持できる保証はなかった。


バルガは号笛を持ち上げた。


突撃を命じれば、階段は取れるかもしれない。


その後ろにいるのは、疲れた兵と、評議員と、拘束された住民だった。


ここで進めば、階段の上で死ぬ。止まれば、東から来る救援に挟まれる。


必要が、また一つの答えへ押そうとした。


号笛を吹く前に、都市庁の扉が開いた。


ディルハが出てきた。


肩から血を流し、右手に剣を持っている。認証晶は左胸の内衣越しに青く灯っていた。


後ろには同行した衛戍兵と、縄をかけられたラディル、三人の監察兵が続いた。十三人は評議会衛兵の管理下で、都市庁東側の控室に残してある。


セレネア兵が振り返った。


敵より、監察官へ縄がかかっていることに驚いた。


「司令!」


副官が階段を駆け上がり、ディルハの肩から流れる血と、縄をかけられたラディルを交互に見た。問いを飲み込み、戦況だけを告げる。


「東半分の線はまだ持ちます。救援前衛は東門から四百歩。避難民を道から分けるまで、少なくとも半刻です」


「半刻か」


ディルハの声に安堵はなかった。


ディルハは広場を見た。


死体が重なり、九本の古木の根へ血が流れ込んでいる。獣人側にもセレネア側にも、立っている者の方が少ない列があった。


半刻なら持つかもしれない。救援が入れば、押し返せる見込みもある。


だが、そのあと都市は残るのか。東門から一千八百人がなだれ込み、三百近い魔法弓が主根広場で射撃を始めれば、都市庁も通信樹も焼ける。退く獣人族が根路管理所を壊せば水が止まり、穀倉へ火が入れば七日分が灰になる。敵を追い出しても、住民が戻る場所がなくなる。


「号笛を貸せ」


ディルハは副官から受け取った。


長く一度、短く二度。戦闘停止の信号だった。


階段前のセレネア兵が、武器を上げたまま止まる。獣人族は罠を疑い、すぐには応じない。


バルガは短刀を鞘へ押し込み、右腕を高く上げた。左肩の矢傷が引きつれ、呼吸が一度止まる。それでも腕は下ろさなかった。


灰狼が止まり、大角牛が止まり、黒豹が遅れて刃を下げる。北枝道でも、広場から戻った伝令を見て戦闘が途切れ始めた。


バルガが直接止められるのは、都市庁への進撃を選び、現場指揮を預けた二十氏族までだった。西門、穀倉、根路西口、通信樹、負傷者の移送路に残る十四氏族へは、白布を持たせた伝令を別々に走らせる。各拠点の責任者が返したのは、三日停戦への政治的な同意ではない。攻撃を受けない限り射撃を再開せず、武器を持たない者へ攻撃せず、略奪、報復、私刑を許さない。そこまでを、それぞれの持ち場で守るという返答だった。


南水路までは鐘の音も号笛も届かない。伝令が濡れた街路を回っているあいだも剣戟が続き、六番中継室に残った当直通信官の一人が同じ号笛を放送へ乗せて、ようやく水路の兵が互いから離れた。もう一人は制御卓の端で、各中継室から返る戦闘停止の応答を一つずつ記録した。


中央施療院へは、主根広場の副官から停止札が届いた。移送班の護衛として残り、患者二人の隔離を続けようとした監察兵二人に、施療院警備の衛戍班長が剣を置くよう命じた。二人はラディルの命令が取り消されていないと拒んだが、患者を移すことも剣を抜くことも許されず、警備室で一時的に身柄を押さえられた。


都市全体の戦闘音が、一方角ずつ小さくなっていく。静かになると負傷者の声が聞こえた。それまでも上げていた声が、武器の音に消されていただけだった。


灰狼の救護役がバルガの左肩へ手を伸ばした。矢は抜かず、邪魔になる柄だけを切り、傷の周囲へ布を巻く。右腕を上げたときに肩口が引かれ、止まりかけていた血がまた滲んでいた。それでも左手の指先は動いた。


ディルハは階段を降りた。


バルガも碑の前から歩いた。


二人の間には、剣を振れば届く距離が残った。


「西部衛戍長、ディルハ・セレド。衛戍隊と市民兵へ、戦闘停止を命じられる」


彼女は名乗った。左腕を動かさないよう脇へ寄せているが、指先からはまだ血の気が戻らない。


「灰狼バルガ。都市庁へ進んだ二十氏族の戦場指揮を預かってる」


バルガは先に釘を刺した。


「都市の代表でも、三十四氏族すべての代表でもない」


ディルハは一度だけ目を閉じた。都市を明け渡す権限はバルガにもなく、国を代表して降伏を受ける者もいない。だが今決めるのは国の帰属ではなく、この広場の矢を三日止めることだ。資格のある者を待てば、その前に半刻が過ぎる。


「それでいい。三日、矢を止めるための現地停戦を求める」


「条件を聞く」


「市民兵は武器を主根広場へ置けば、その時点で戦闘員から外し、民間人として扱う。武器を隠すか戦闘を続ける者だけは、引き続き戦闘員と見なす」


ディルハは、槍と剣を積み始めた市民兵を見た。


「衛戍隊は戦列を解き、部隊としての戦闘行動を停止する。個人武器、重装備、魔法具は広場へ集める。東門の通行整理、負傷者の搬送、消火、武器庫の封印に必要な者だけは、武装解除下で職務を続ける。ほかの衛戍兵は指定した営舎と詰所へ待機させる。捕虜にはしない」


「武器を持った見張りは」


「東門と門外の共同待機区画に限る。進撃二十氏族側とセレネア衛戍隊側から同数を出し、個人武器だけを持たせる。一方だけで名簿も出入りも変えさせない」


「市民兵まで、その区画へ入れる気か」


「入れない。武器の預かりだけ記録し、残るか退去するかは本人に選ばせる。家屋と財産を保護し、どちらへ協力した者にも報復しない。救護、消火、倒壊家屋からの救出を除き、所有者の許可なく家屋、店舗、工房へ入ることも禁じる」


バルガは、縄をかけられたラディルへ顎を向けた。


「監察隊まで、衛戍兵と同じ待機区画へ入れる気か」


「違う。いまは現地で身柄を押さえ、地下で起きたことを記録する。証言と焼け残りも保全する。誰が正式に調べ、裁くかは、まだ決められない」


「市はまだあると言うのか」


「ある」


ディルハの声が強くなった。その瞬間、焼けた左肩が痙攣し、語尾だけが僅かに揺れる。


「軍が武器を置いても、市まで消えはしない」


バルガは後ろのセナを呼んだ。


彼女は戦場の端で、すでに紙を持っていた。


「食糧、水路、施療院の共同運用は続ける」


セナは紙を膝へ当てたまま、ディルハを見た。


「共同運用を続けることと、市職員や技師を、これまで市に勤めていたという理由だけで拘束しないこと。その二つを条件に入れて」


「入れる。これは都市の帰属を決める降伏ではない。三日間の現地停戦だ。東門外の救援軍へも、三日間の攻撃停止を要請する」


「三日で停戦の延長を決められなければ、戦いが戻る」


バルガは確認するように言った。


「戻る」


「こちらからも条件がある。三日の間、市内から離脱して門外の共同待機区画へ移った衛戍兵を、救援軍へ戻さない。救援軍は東門から千歩下げる。都市庁の武器庫を開け、弓、短杖、予備剣まで残る兵器は主根広場へ運ぶ。認証晶は双方一人ずつ立ち会って管理する」


「市外離脱を選んだ衛戍兵は、東門外の避難民待避地から南へ分け、共同待機区画へ移す。門務簿へ氏名、所属、負傷の有無を記し、武器は門内へ残す。区画の出入口には進撃二十氏族側とセレネア衛戍隊側から同数の監視を置き、三日のあいだ救援軍の宿営地へ入れない。治療が必要な者を動かすときも、両側一人ずつ立ち会わせる」


バルガは東門の方角を見た。条件を書くだけで兵を留められるとは思っていなかった。


「名簿に載せず、救援軍へ戻した兵が一人でもいれば停戦違反だ」


「こちらだけでなく、救援軍にも同じ名簿を渡す」


「千歩は私には約束できない。要求は救援隊へ伝える。私からも、避難列へ射線が届かない距離まで下がるよう求める」


「なら、千歩を要求したと伝えろ。まず前進停止の返答を取れ」


ディルハは一度だけ頷いた。


「認証晶の所有は譲れない」


「所有の話じゃない。三日の間、どちらも勝手に使えなくする」


「晶を通信樹へ残せば、王府の名で命令を出せる」


「王府名の命令を勝手に出さないと書け」


「その紙を信じろと」


バルガは、盟約王碑の周りを見た。若い市民兵が武器を置いた場所に、槍と剣が重なっている。


「あいつにも、俺を信じなくていいと言った」


矢の刺さった左肩を庇いながら、バルガは指先で停戦文を示した。


「紙は信じるためじゃない。破ったとき、誰のところへ話をつけに行けばいいか分かるよう名を書く」


セナが停戦文を書いた。


紙は一枚では足りず、都市庁の議事用紙を三枚繋いだ。


まずディルハが、続いてバルガが署名した。


その名で戦闘停止を命じられるのは、都市庁への進撃を選び、バルガへ現場指揮を預けた二十氏族だけだった。


セナは、そのうち広場へ代表を出せた十六氏族の名も集めた。残る四氏族には、バルガが戦闘停止を維持するよう伝えた。三日停戦への正式な署名は、代表が到着するまで空欄とした。


バルガの指揮下にない十四氏族からは、各拠点の責任者が別紙で返答した。攻撃を受けない限り三日間は射撃を再開しない。民間人へ攻撃せず、救護、消火、倒壊家屋からの救出を除いて所有者の許可なく家屋へ入らず、略奪、報復、私刑を許さない。ただし、都市の帰属、衛戍隊の武装解除、共同待機区画、身柄拘束などを含む停戦文へ、氏族として署名したことにはしない。


所属する者が最低条件を破ったときは、その拠点の責任者が武器を預かり、身柄を押さえる。バルガや他氏族に、十四氏族の者を独自に裁く権限を与えたわけではない。別紙は、それぞれの持ち場で戦闘を止め、民間人を守る約束として綴じられた。


三十四氏族すべてが同じ権限、同じ理由で停戦したわけではない。それでも、いま刃を向け合う各隊へ矢を止めさせ、民間人保護の最低条件を伝えるには足りた。


都市評議長オルネは、停戦本文への署名を最後まで拒んだ。


「評議会は採決していない。軍人二人と十六氏族の名で、市を渡したことにはできん」


「都市を渡す条文はありません」


ディルハが言った。


「武器を置き、市務を残すための停戦です」


「言葉を分ければ、占領が消えるのか」


「消えません」


即答され、オルネの頬が強張った。


「救援は目の前だ。あと半刻守れば――」


「見えています。だから止めました」


ディルハは、血の染みた左袖を右手で押さえた。


「救援軍が主根広場へ射込めば、取り戻す都市まで焼けます」


オルネは主根広場を見た。


自分が議事室で分けていた数字が、死体になって並んでいる。


「私が署名すれば、王府は占領を認めたと読む」


「署名しなくても、占領は消えません」


「なら、私の名で何を残せる」


「明日も市が水を流し、負傷者を治す責任です」


オルネは長い間、紙を見た。


最後に、都市の降伏ではなく、市務継続の保証欄へだけ署名した。市を明け渡したのではないと言える場所だけは、彼も手放さなかった。


認証晶は、灰狼の伝令と衛戍兵一人ずつに挟まれ、通信樹の幹心室へ運ばれた。戦闘前に北根路の修理班へ回されていた幹心室付きの通信技師が呼び戻され、欠けた接触板を替えてから晶石を制御函へ戻す。外部発信路に青い光が通ると、六番中継室の二人はそのまま市内放送と各枝の応答確認へ残った。


制御函の左右には封止環が一つずつ掛けられた。灰狼の立会人と衛戍隊の立会人が、それぞれ片方を管理する。認証を伴う外部発信は、二人が文面を確認し、同時に封止環を外さなければ開けない。操作の時刻と内容は技師が記録し、立会人二人が署名する。発信が終われば再び封じる。三日のあいだ、幹心室には双方一人ずつが残ることになった。


通信樹から、ディルハの声が東門外へ送られた。


「リュサ衛戍隊は現地停戦に入った。救援隊へ前進停止を要請する。市内に非戦闘員多数。攻撃を始めれば主根施設と穀倉に重大な被害が出る」


救援隊の指揮官は、最初、その通信を偽造だと退けた。


だが認証は本物だった。次には、ディルハが捕虜として強制されていると疑う。彼女は王府軍だけが知る符丁を二つ入れた。強制なし。現地判断。続けて、三日の停戦を求めた。


救援軍が受けていたのは、王府からの正式なリュサ奪還命令だった。西部衛戍長のディルハが指揮できるのは市内の衛戍隊であり、王府直属の救援軍ではない。認証された声であっても、発令元の王府が奪還命令を取り消さない限り、ディルハの前進停止要請は軍令にはならない。


「認証と符丁は確認した。しかし、セレド司令に当軍の前進を止める指揮権はない」


救援軍指揮官の返答が、通信樹を通して戻った。


ディルハは左肩を右手で押さえた。声を張るたび、焼けた皮膚の下で筋肉が痙攣する。


「承知している。だから現地指揮官として要請する。東門内外に市民がいる。射撃線を確認するまで、攻撃開始を見合わせてほしい」


ディルハは続けて、獣人側が東門から千歩の後退を要求していると伝えた。


「千歩は受けられない。東門から五百歩までなら、本隊を下げる」


「距離を決める権限も、私にはない。ただし避難列へ射線が届く位置では、市内の停戦を保てない。現場を確認したうえで決めてほしい」


指揮官は奪還命令を破棄しなかった。ただし前衛には射撃を禁じ、東門の状況を目視できる位置まで進んでから、攻撃の可否を決めるよう命じた。


東門前まで来ると、道を埋める住民が見えた。門楼の両側にはセレネア兵と獣人の弓兵が分かれて立ち、どちらも救援軍へ射てる位置にいる。門内には負傷者を運ぶ列、その背後には主根広場。魔法弓を一斉に使えば、敵へ届く前に自国の住民へ当たる。


緑銀旗へ弓を向けていることに気づき、門楼の若い衛戍兵が弦から指を離した。


「本当に、あれへ射つんですか」


門務班長も、すぐには答えなかった。通信樹から届いたディルハの命令札を握り直し、そこに書かれた文言を一字ずつ復唱する。


「先に射るな。救援軍が門内か避難列へ攻撃した場合に限り、市民を守るため防御射撃。王府軍を敵と呼ぶな――司令の命令は、それだけだ」


兵は弓を下ろしきらなかった。だが矢先だけは緑銀旗から逸らした。自国の軍と向き合っている事実は、誰の号令でも消えなかった。


救援隊は四百歩まで進んでいた前衛を退かせた。白布を持つ工兵と東門の門務兵が街道を歩測し、本隊を置ける場所を確かめる。五百歩では門楼からの射線が通り、避難民の列と前衛の間も狭すぎた。千歩まで下がれば、補給車列が雨で柔らかくなった細道へ押し戻され、展開できない。


八百歩の地点では、古木の根に沿って曲がる街道が東門からの直接射線を切り、魔法弓の有効射程も外れる。曲がりの東側は荷車を転回させられる幅があり、騎兵、工兵、補給車を分けて待機させられた。工兵の歩測札がそこへ打たれ、救援軍指揮官は本隊を八百歩で止めた。


獣人側が求めた千歩ではなく、セレネア側が主張した五百歩でもない。八百歩は、獣人側には千歩まで下がっていない近すぎる距離であり、セレネア側には五百歩を越えて退いた下がりすぎの距離だった。


奪還命令そのものは失効していない。それでも、住民を挟んだまま攻撃すれば奪還対象まで壊すという前衛の報告は、救援軍指揮官が戦術判断で攻撃開始を繰り下げる根拠になった。王府軍の戦務規程は、非戦闘員を射線から除くために必要な場合、現地指揮官が作戦開始時刻を変更することを認めている。ただし延期は直ちに王府へ報告し、三日を超えて続ける場合は再承認を得なければならない。命令を撤回する権限ではなく、奪還作戦の開始時刻を遅らせる一般的な裁量だった。


指揮官は東門前の状況、ディルハの要請、停戦条件の写しを急報にまとめ、王府へ同時に送らせた。王府の返信が間に合わなくても、現地裁量で三日までは射撃を待てる。それが、この指揮官が受けられる停止期間の上限だった。


「本隊は八百歩で止める。三日間、こちらから攻撃しない。ただし奪還命令は保持する。市内から射撃があれば、停戦は破棄する」


「記録した。市内各隊の射撃停止も、別紙で確認している」


ディルハは安堵を口にしなかった。王府命令は残り、三日後に同じ軍が進んでくる可能性も残った。


互いに不満を残したその場所から、停戦は始まる。


東門外へ記録役を出す前に、白布を掲げた門務兵が八百歩先の救援軍へ共同待機区画の位置と作業時刻を伝えた。了承の返答を受けてから、獣人側の記録役は白布を肩へ結び、セレネアの門務兵一人と並んで門を出る。二人が進めるのは、避難民の待避地の南側を綱で分けた区画までだった。


そこで市外離脱を選んだ衛戍兵を一人ずつ名簿へ記し、武器を門内の預かり台へ置かせる。兵たちが移る先は、救援軍の宿営地へ向かう道ではなく、共同監視の置かれた待機区画だった。門務兵は、自由退去ではなく三日間の待機であることを、名を書く前に一人ずつ告げた。


名簿の写しは白布の伝令で八百歩先の救援軍へ渡された。救援軍指揮官も、記載された兵を三日間は部隊へ編入せず、治療が必要な者は患者札で別に管理すると返した。


都市庁の旗竿だけは、停戦文とは別に扱いを決めた。


「旗まで下ろせと言うのか」


オルネは市務継続の保証欄へ署名したあとも、緑銀旗を見上げていた。


「三日だけです。都市庁は、どちらの支配旗も掲げない停戦実務区画として使う。そのあいだは氏族旗も上げさせません」


ディルハは答え、バルガを見る。


「進撃二十氏族には、俺から上げさせない。ほかの氏族へは、別紙の射撃停止と一緒に伝える」


「旗の帰属を決める権限は、私にもバルガにもありません。下ろすなら、都市庁を預かる評議会の決定が要ります」


オルネは黙った。緑銀旗を残せば、獣人側には王府軍の拠点と見なされる。獣人の旗へ替えれば、市を譲った印になる。どちらも選ばないための三日間だった。


「帰属の変更ではないと、条文へ書け」


オルネは、都市庁に残る評議員七人を一階の記録室へ集めた。


「非常時の施設管理に限れば、庁内に残る評議員の過半で決められる。都市の帰属を決める採決ではない」


問うたのは、三日の間、都市庁から緑銀旗を下ろし、代わる支配旗を掲げず、市務と停戦実務に使うという施設管理の措置だった。


五人が賛成し、一人が反対、一人が棄権した。反対した評議員は、王府から旗を捨てたと見られると声を荒らげた。オルネは議決を繰り返さず、反対理由も議事紙へ残させた。


セナが、三日の停戦中はどちらの支配旗も都市庁へ掲げず、旗の撤去は市の帰属変更を意味しないと決議文へ書き加えた。オルネは評議長として議決を証す署名をし、バルガとディルハが立会人として名を置いた。


日が沈む前、オルネの指示を受けた評議会衛兵が都市庁の緑銀旗を下ろした。旗は折り畳まれ、封をした議事室の箱へ収められる。評議会衛兵と灰狼の立会人が、箱の封印を確かめた。


代わりに三十四の氏族旗を掲げようとする者がいた。


セナが止めた。


「上げないで」


旗索へ伸びた手が止まった。


「都市庁は取った。敵の旗も下りた」


「停戦中は、どちらの旗も都市庁へ上げないと書いた」


「なら、取った三十四氏族の旗を上げる」


「十六氏族が署名したのは、三日の停戦だけ。この都市を自分たちの国にするとは、一氏族も署名してない」


セナは紙を持つ指へ力を込めた。紙の端には、誰のものか分からない血が乾ききらずに残っている。


「三十四の旗を上げれば、ここに残った全氏族が都市の帰属を決めたように見える。誰も、そこまで決めてない」


「何を上げろと言うんだ」


「何も。少なくとも三日は空ける。その先は、そのとき決める」


氏族旗は主根広場の端へ並べる。都市庁の旗竿だけが、空のまま残った。


戦闘停止から一刻もせず、最初の違反が起きた。


大角牛の戦士二人が、店主の避難した上層区の酒屋へ入った。救護でも消火でもなく、開いた扉の奥で樽を一つ割って酒を飲んだ。停戦条件の「緊急対応を除き、所有者の許可なく家屋や店舗へ入らない」と「財産を奪わない」の両方に反している。


二人は、バルガが戦場指揮を預かる進撃隊の戦士だった。ゼグのいない黒豹隊が、都市の警備隊としてではなく、同じ進撃隊の規律を守らせるために取り押さえた。一人は抵抗して黒豹を殴り、三人がかりで縄をかけられる。


酒の流れた道に、市民が集まった。


「処刑しろ」


セレネアの男が叫んだ。


「酒一樽で、首まで取るのか」


獣人の女が言い返した。


「一樽で済ませれば、次は家族を奪う」


「誰にも手は出してない」


「家へ入った。もう始めてる」


停戦後、最初の争いは領土ではなく、割られた酒樽をどう償わせるかだった。だが代価を決めるには、略奪を誰が裁き、どこまで処罰するかも決めなければならない。


報告を受けたバルガは、二人を睨んだ。身体の向きを変えただけで左肩の矢傷が引きつり、息を詰めながら右手で西門を示す。


「二人を西門詰所の柱へ繋げ。殴るな。店主と氏族代表がそろうまで拘束する。割った樽と扉も記録しろ」


「処分はどうする」


セナが問うと、バルガは集まった市民を見た。処刑を求めた男も、庇った女も、まだ互いを睨んでいる。


「今ここで決めれば、どちらかの腹いせになる。処分欄は空けておけ」


セナが記録へ書いたのも、進撃隊の責任者が自軍の二人を一時的に押さえ、氏族代表と店主の確認を待つところまでだった。酒と扉の代価を労働で返すか、氏族の備蓄から先に補償するかは、処分案として書き添える。誰が正式に裁くかは、まだ決まっていない。


処刑ではなく、無罪でもない。処分欄だけは空白のまま残った。


誰も納得はしない。


それでも次に通りかかった者は、開いた家の前で足を止める。


夜までに、西門攻撃の開始から戦闘停止までの死傷者が数え直された。獣人族は確認死者九十四人、行方不明六人、重傷百六十三人。セレネアの軍人は確認死者六十二人、行方不明八人。


主根広場で武器を置いた者は三百十二人。そのうち二百四十六人が市外離脱を希望した。希望者には、市民兵と衛戍兵の双方が含まれていた。


市民兵は、残留か退去かにかかわらず、武器の預かりを記録した時点で戦闘員としての扱いから外された。東へ出る者は住民の退去列へ加わった。衛戍兵のうち市外離脱を選んだ者だけが東門外の共同待機区画へ移り、市内に残る者は武装解除下で指定営舎と詰所へ待機するか、停戦実務に必要な職務へ戻った。市民の死者は二十一人、負傷者は百人を越え、まだ数え終わっていない。


市民死者二十一人は、西門攻撃以降、路上、家屋、退去列から運ばれた者を合わせた数だった。


都市庁地下の十三人は全員の生存が確認され、死傷者名簿とは別の拘束者名簿へ載せられた。


監察隊で身柄を押さえられたのは六人だった。都市庁では、武器を向けて抵抗したラディルと監察兵三人。中央施療院では、移送中止後も患者の隔離を続け、武装解除と停止命令を拒んだ監察兵二人。監察隊という身分だけで捕らえたのではなく、それぞれ現場で取った行為を理由とする一時拘束として記録された。


ラディルは、十三人を王府保安拘束者と書くよう求めた。貫かれた右手は厚布で吊られ、話すたびに額へ脂汗が浮いた。


セナは、市拘束、裁判未了と記した。


「王府の保安拘束を、市の拘束へ書き換える権限が、お前にあるのか」


セナは拘束者名簿の管理欄を指先で押さえた。


「いま十三人を預かり、鍵を持っているのは評議会衛兵です。私は現在の拘束主体を書いています」


「王府の記録を消すつもりか」


「消しません。王府保安拘束との主張は、あなたの異議として備考へ残します」


ラディルは吊られた右手をわずかに動かし、痛みに眉を寄せた。


「あの者たちは罪人だ」


セナはそこで初めて筆を止めた。


「それを決める裁判は、まだしていません。だから『裁判未了』と書きます」


死者を並べる場所が足りず、穀倉前と主根広場と中央施療院の中庭へ分けた。氏族ごとにも国家ごとにも、完全には分けられない。身元の分からない者がいて、鎧を脱がされ、氏族印や隊章を失えば、身体だけではどの隊にいたのか判断できない者もいた。


セナは不明と書いた。


敵の数へ回すことはしなかった。


根路管理所では、フィレネとモグルが配水を戻していた。


戦闘中に南水路を開いたため、上層区の水圧が落ちている。東門の避難所には人が増え、必要な水は普段の三倍。西門側の兵も血と泥を洗う以上、すべてへ流すには足りなかった。


「都市庁は避難所ほど人数がいない。最低量だけ残して、その分を東門へ回す」


モグルが言った。


「地下から出した十三人と衛生係もおる。怪我人も残っとるぞ」


「飲ませる分は残す。評議員の手洗いまで回す水はない」


「お前、取った途端に上へ冷たいな」


「昨日まで、向こうが下へやってたことだ」


「だから真似するのか」


モグルは制御輪へ掛けた手を止めた。爪の間に入り込んだ泥が、水で黒く浮いている。


フィレネは隣の輪を一目盛りだけ戻し、都市庁へ最低量を残した。


「取った側は、前より上手くやると思われとる」


「俺はそんな約束してない」


「言わんでも、門を越えた者は皆そう見られる」


モグルは水圧表を見た。


「面倒だな、都市ってのは」


「だから今まで、上の連中に任せすぎた」


二人が弁を回しているあいだにも、夜は深くなるばかりだった。


同じころ、中央施療院ではナシャが左腕を吊ったまま起き上がっていた。医師に止められても右手で包帯を運び、リイも小さな水杯を運ぶ。並ぶ寝台にいるのは、獣人、エルフ、人族の区別なく、いま治療を要する者だった。


負傷したゼグは入口脇の緊急処置区画へ置かれた。脇腹に残る槍柄は二本の添え木で挟まれ、胴へ巻いた帯で動かないよう固定されている。厚布が傷の周囲を押さえ、衛生係が滲む血の量と呼吸の浅さを数えていた。槍を抜くには処置台と医師二人が要る。ゼグの札は、次に台へ運ぶ重傷者の列へ置かれている。


黒豹の部下が奥の寝台を空けろと要求したが、医師は首を振った。


「寝台は空いた順です。処置は傷の重い者からします。その黒豹は最優先に入れました。いま奥へ動かせば、槍がずれます」


「こいつは黒豹の隊長だ。入口の風で冷やす気か」


「ここでは、脇腹に穴が開いた患者です。だから先に止血し、呼吸を見ています。氏族も階級も処置の順には入れません」


ゼグはその声で意識を戻した。瞼を開けるだけで脇腹が締まり、息が二度、浅く途切れる。


「騒ぐな。俺はここでいい」


黒豹の部下が振り向いた。


ゼグは、翼の付け根を射抜かれた若い崖鷲が横たわる隣の寝台を顎で示した。


「あの翼のを奥へやれ。翼を風に当てるな。身体が冷える」


医師は一瞬だけ彼を見て、看護師へ指示する。若い崖鷲の寝台は壁際へ移され、翼へ乾いた布が掛けられた。ゼグは衛生係が傷を押さえる緊急処置区画に残る。帯の下へ血が滲むたび布が替えられ、脇腹が内側から引きつるたび、牙の間から短い息が漏れた。


主根広場では、バルガが焼けた角輪を盟約王碑の前へ置いた。


ミサラの氏族がここへ来なかった理由を、バルガは知っていた。


四十三人全員を、白鹿の夜に自分たちが殺した。その旗が、この軍へ加わることはない。


彼らが都市の陥落を望んだかどうか、知る術もなかった。


勝利を報告する相手は残っていない。


許しを求める相手も、自分たちが残さなかった。


ただ、空けていた場所を最後まで空けておくため、角輪を置いた。


ロウが隣に立った。


「都市庁の旗は下りた」


ロウは空の旗竿を見上げた。


「なのに、勝った顔をしてる奴がいない。俺たちは勝ったんだよな」


「東には救援軍がいる。三日後は分からない」


「三日後じゃない。今日の話をしてる」


バルガは広場を見た。


配給の列。


遺体の列。


武器を置く列。


東門から出る列。


勝者の列は、どこにもなかった。


「今日、リュサは落ちた」


バルガは言った。


ロウは笑おうとした。


主根広場の遺体を見て、やめた。


「明日は何をする」


「まず水を流す。死者を埋めて、パンを配る」


「国は」


「それが済んでからだ」


夜の終わり、通信樹から最後の放送が流れた。


六番中継室で各枝の応答を記録していた、もう一人の当直通信官がセレネア語で読み、セナが氏族共通語で繰り返す。認証晶を復旧した幹心室付き通信技師は制御区画に残り、灰狼と衛戍隊の立会人とともに外部発信路を再び封じていた。


東門外の救援軍は、三日間、攻撃を停止する。


リュサ衛戍隊とバルガ指揮下の進撃隊は現地停戦に入った。ほかの氏族も、各持ち場での射撃停止と民間人の保護を確認している。


住民は家に留まるか、指定路から退去できる。


水と食糧の配給は継続する。


負傷者は所属を問わず中央施療院へ。


救護、消火、倒壊家屋からの救出を除き、所有者の許可のない家屋への立ち入りを禁じる。略奪、報復、私刑も認めない。


違反を見た者は、最寄りの停戦責任者へ通報する。所属隊のある者は、その隊の責任者が武器を預かり、身柄を確保する。


放送の終わりに、誰がどの部分を引き受けるかを読む必要があった。


セナは紙を見た。


バルガ指揮下の進撃隊、灰狼バルガ。


リュサ衛戍隊、西部衛戍長ディルハ・セレド。


西門暫定配給連絡、赤狐セナ。


市務継続、都市評議長オルネ・レヴィア。


どれも、都市全体を代表してはいない。


セナは全て読んだ。


一つの名へまとめなかった。


三十四氏族すべてが、一つの停戦文へ署名したわけではない。署名のない氏族についても、各持ち場での射撃停止と民間人保護を確認している。


市民へ告げた氏族間の説明は、そこまでだった。署名を待つ四氏族と、射撃停止だけを了承した十四氏族の内訳は、放送で読み上げず、停戦文の別紙と各拠点への掲示に残した。


夜明けになっても、三十四の氏族旗は都市庁へ上がらない。セレネアの旗も戻らず、空の旗竿へ朝日だけが当たる。


西門には水杯を持つ列ができ、穀倉では今日の一人分を示す黒線が引き直される。施療院では新しい死者の名を記し、東門の外では救援軍が弓を下ろさず待っていた。


世界へは、リュサ陥落の報が走った。


だが都市の中では、いつ陥落したのかさえ一致しなかった。


門が破られたときだと言う者がいた。


水を共同で動かしたときだと言う者がいた。


穀倉へ二つの印が押されたときだと言う者がいた。


守備隊が武器を置いたときだと言う者もいた。


リュサは陥落した。


誰の国になったのかは、まだ決まっていなかった。

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