第三十四章――最後の防衛線
通信樹の冠枝で夜を越した崖鷲が、夜明け前の東の森に百を越える火を数えた。火は動かない。救援軍が夜営している。
総数一千八百、うち騎兵二百。昨夜、東門の荷役票から写され、そのまま西側へ回ってきた。
冠枝から確かめられたのは、三百近い青い弓灯と、火の外縁へ繋がれた馬、それに森道へ長く並ぶ荷車までだった。槍を持つ影と工具を担ぐ影は、枝越しの暗がりでは見分けられない。
夜営地は東門から半日圏の街道沿いにある。日が昇れば、救援軍は進軍を再開する。
報告を受けたとき、バルガは穀倉の床で眠っていた。空になった豆袋を二枚重ね、外套を被っただけで、一刻しか眠れていない。
一千八百。その数で目を開けたはずなのに、最初に分かったのは頬へ食い込んだ袋の縫い目だった。
「撤くなら今だ」
草羊氏族の代表が言った。
「西門、穀物、水路、通信樹。取れるだけ取った。救援と挟まれれば、帰れなくなる」
セナは代表の腰に結ばれた空の荷袋へ目をやった。
「持って帰れるものを言って。門も水路も通信樹も運べない。穀物を持ち出せば、ただの略奪になる」
「勝ったという事実だ」
「リュサの半分を四日足らず占拠した。それを、勝ったと報告するの?」
「セレネアの都市へ入った氏族は、今までいない」
「その報告のために、ここへ残る獣人を見捨てるの」
セナの帳面には、ナシャを含む市内協力者の名がある。草羊の代表は、その頁を見なかった。都市生まれの獣人は氏族の火に数えられておらず、戦いが終われば内応者として残される。
「全員連れていく」
「七百人以上。老人と負傷者もいる。どの氏族の冬営地へ入れるの」
「置いていくよりましだ」
セナの指が、帳面の七百という数字を押さえた。
「まし、で終わらせないで。誰の食糧で冬を越させるの」
答えはなかった。草原に町はない。氏族ごとの冬営地はあっても、西門へ入った労働者と家族七百人を養える場所など、誰も差し出せなかった。
「進む」
ゼグが言った。
「都市庁を取る。東門を閉め、救援が来る前に守備隊を降伏させる」
「東門は閉めない」
バルガが答えた。
「東門を開ければ、救援軍も入る」
「来る前に住民を出す」
「守備兵も逃げるぞ」
「武器を置いた者は、市民と同じ列へ入れる」
ゼグは低く唸った。
「都市を取るのに、逃げ道を残すのか」
バルガの裂けた右耳が、穀倉の外で途切れず続く住民の足音へ向いた。
「逃げたい住民まで背中へ回して、何を守る」
「守備隊が降伏しなければ」
「戦う。だが、武器を捨てて走る背は追わない」
「市民に紛れた兵は、そのまま救援へ合流するぞ」
「武器を持って門を出る者だけ止める」
「服の下に短刀一本あれば、どうする」
「……逃げる連中を、一人ずつ裸にする気か」
「必要なら」
バルガの目が細くなった。
「その言葉は嫌いだ」
「また白鹿の話か」
ゼグの声が一段低くなる。
「何でもあの夜と比べるな。今は一千八百が来る。迷えば、こちらの子供が親を失う」
「忘れていない。だから、同じことはさせない」
「分かっていない。今度は、止まった代価を味方に払わせる。必要なことをしないのは、優しさじゃない。臆病だ」
その代価を味方に払わせる臆病。その言葉だけは、すぐに撥ね返せなかった。
白鹿の夜にも、「必要だ」と何度も言った。それ以来、その言葉を聞くたび足が止まる。止まる自分だけは、あの夜とは違うのだと思いたかった。だが今度は、止まることで誰かを死なせるかもしれない。
嫌な言い訳だった。
「東門は開けさせる」
バルガは繰り返した。
「都市庁へ向かう北枝道と南水路を押さえる。東門へ逃げる住民と、こちらの攻撃隊を同じ道へ入れない」
ゼグが何か言おうとした。
「閉じ込めれば、二万が敵になる」
セナが先に言った。
「出られると分かれば、戦わない者が増える。救援軍の道も、避難民で埋まる」
ゼグが彼女を見た。
「それを狙うのか」
「両方」
セナは否定しなかった。否定すれば、住民を救うためだけに考えた策だと自分へ言い聞かせられる。配給表に残った日数が、それを許さなかった。
「住民を逃がす。救援を遅らせる。一つの行為が二つの役に立つなら、使う」
「善人のふりをした策だな」
「善人じゃない。配る人数が減れば助かるとも思ってる」
西へ出る住民が増えれば食糧は長く持ち、東へ出れば救援路が詰まる。
セナは配給表の残り日数を消さないまま、その上へ二本の退去路を引いた。人を生かす線と、こちらを有利にする線は、紙の上でぴたりと重なっていた。
その日の氏族会議は、撤退を主張する九氏族、進撃を主張する二十氏族、保留七氏族に割れた。
もともと多数決を採ると決めたことはない。九氏族は二十氏族の命令に従う義務を認めず、二十氏族は九氏族が勝利だけ持ち帰ることを許さなかった。
争いは一刻続いた。
最後に、撤退を主張した九氏族のうち四つが、門外の家族を守るため西門へ残ると決めた。三つは負傷者の移送を担う。残る二つは旗を下ろし、戦いをやめて街道を西へ戻った。
保留した七氏族は、すでに確保した場所から動かない。都市庁へ兵を出すのは、進撃を選んだ二十氏族だけ。その二十氏族が、都市庁を押さえるか撤退を命じるまでの現場指揮をバルガへ預けた。都市を取ったあとの統治まで、委ねたわけではない。
誰も背中を射なかった。
三十六あった旗は、いま三十四。門楼には三十四の布と、旗ではない一つの焼けた角輪が残った。
軍は小さくなった。その代わり、残った者が何を選んだのかは、前より明確だった。
都市庁では、救援の接近を知った評議員たちが、勝ったあとの話を始めていた。
議題は、内応者の裁判、被害補償のための氏族財産没収、西根路の再登録、獣人労働者の門外移送、非常税。
まだ通信樹も穀倉も奪われているのに、奪い返したあとの議題が並んでいた。
都市評議長オルネは議事槌を握ったまま、次の議題を読ませた。
奪還後の項目で机を埋めているあいだだけは、まだ救援を待つ側ではなく、都市を治める側でいられた。
「内応容疑者の身柄と記録は、王府が引き取ります」
ラディルが言った。
「その者たちは市の住民です。王府の荷として運ばせはしません」
オルネの親指が、議事槌の柄を強く押した。
「西門は内側から開いた。根路と通信樹にも協力者がいた。市の名簿だけで調べた結果を、王府は採用しません」
「だからこそ、市で裁きます」
ラディルは議事槌ではなく、その脇に積まれた内応者名簿へ目を落とした。声は丁寧なまま、名簿から手も離さない。
「市が市の内応者を調べ、自分で正しかったと書く。王府にその紙を信じろと?」
「取り調べのあとに争ってください。評議会の異議は、そのとき記録します」
オルネは議事槌を握り直した。
「救援が着くまで、その住民たちをどこへ連れ去るつもりです」
「東門内の仮収容区です。市街を奪われても、対象者をまとめて確保できる」
「名簿には負傷者もいる」
「移送の可否は、監察隊付きの衛生吏が判断します」
ラディルは認証晶の箱を卓へ置いた。
「評議会が何を決めても、王府通信と保安命令の認証晶は私が持っています」
書記のペンが止まり、評議会衛兵の視線が金属箱へ集まる。救援の受け入れ命令には、奪還後の権限分担について何も書かれていない。その空白を、ラディルは王府側に読むつもりだった。
「移送を認めません」
オルネが言った。
「許可を求めていません」
「市庁内で勝手はさせない」
ラディルが合図した。
扉脇の監察兵が動き、評議会の衛兵も槍へ手をかける。
オルネは片手を上げた。衛兵は穂先を下げなかったが、それ以上は出ない。都市庁の中で先に血を流せば、どちらが反逆者なのかまで王府に決められる。
監察隊の移送班は評議会の結論を待たず、覆い付きの患者搬送車二台で中央施療院へ向かった。護衛六人。監察隊付きの衛生吏が一人。荷台には吊り担架と副木、拘束用の革帯が積まれている。
施療院の医師は、移送命令書を一目見て返した。
「主根通りへ出せば、東門へ着く前に死ぬ患者が出ます」
「救援戦闘に備え、保安対象者を東へ移す命令だ」
監察兵が言った。
医師は監察兵の手から名簿を抜き取った。
「この車へ、誰を載せるつもりです」
「指定者だけだ」
名簿には八人いた。全員が獣人か、獣人と同じ工房で働く者で、その中にナシャの名もある。
医師の指が、ナシャの名の上で止まった。
「避難ではない。患者を名簿で選んで連行するのですね」
「保安上の分離だ」
監察隊の衛生吏が診療札をめくり、ナシャの脈と吊られた左腕を確かめた。
「寝かせて固定すれば運べます」
「根路橋は閉鎖中です。主根通りでは、午後にも戦闘が始まる」
医師は搬送車の方角を顎で示した。
「傷口ではなく、道で死なせます」
監察兵は命令書の下段へ指を置いた。
「移送不能時は、現地保全措置へ切り替える。」
「患者を物のように『保全』するのですか」
「対象者をほかの患者から分離し、接触と通信を断つ」
衛生吏が診療札を閉じた。医師は命令書から目を上げない。
奥の寝台で、ナシャはリイを背へ隠した。左腕は吊られている。右手だけで窓を押し開けたが、ここは二階だった。飛び降りれば、傷のない方の腕まで折れる。
「母ちゃん」
ナシャは振り返らなかった。
「声を出すな」
「西門へ行くの」
「行けるなら、とっくに行ってる。今は伏せてな」
ナシャは窓の下を見た。
路地には誰もいない。戦闘が近づき、住民は避難していた。
監察兵が二枚目の名簿を開く。先頭にはフィレネ・アルネス。敵対勢力への設備供与、戦時命令妨害、利敵技術指導。
「フィレネまで連れていくつもりですか。今は根路管理所にいる」
医師が言った。
「この八人を隔離したら、根路管理所へ向かう」
施療院にいた市民兵が二人、廊下へ出た。
一人は上層区の仕立屋。
もう一人は根路の水運びだった。
昨日まで互いの名も知らなかった。
「ここを戦場にするな」
仕立屋が言った。
「戦時保安令下では、都市全域が戦場だ」
「なら、寝台の患者まで兵に数える気か」
監察兵は答えず、剣を半分抜いた。
水運びが背後の担架係へ目をやる。少年は薬品庫の戸を開け、その奥から裏警備室へ通じる階段へ消えた。
医師は手術室の扉を閉めた。胸を縫ったばかりのセレネア衛戍兵が、扉の向こうで浅い息を繰り返している。動かせば縫合が裂ける。廊下へ出したのは患者ではなく、血のついた空の手術台だった。医師は車輪へ足を掛け、横向きに固定する。
「患者の間で剣を抜くなら、まず私を退けてください」
監察兵の手が止まった。
膠着は、施療院の裏警備室から衛戍兵の班長が来るまで続いた。戦闘が近づいてから、ここには八人の警備班が置かれている。
「施療院の警備と、戦闘区域を横切る移送は衛戍隊が預かっている」
班長は言った。
「移送を中止しろ」
「上席監察官の命令だ。衛戍隊に止める権限はない」
「セレド司令から、患者を主根通りへ出す許可は受けていない」
「保安対象者の移送だ。軍の配置とは違う」
「違わない。主根通りは、もう射線だ」
「王府と一地方指揮官、どちらが上か分かるだろう」
「身柄を指定するのはそちらの権限だ。だが、その身柄を射線へ通すかは、現場を預かるこちらが決める」
班長は命令書へ指を置いた。
「移送路の指定がない。司令部から通行命令を取ってこい」
監察兵は剣を納めた。命令書の余白へ班長の名と拒否理由を書かせ、衛生吏も搬送札を畳む。患者搬送車は空のまま都市庁へ戻っていった。
だが都市庁地下には、攻撃前に拘束された十三人が残っている。移送班が説明したのは、接触と通信を断つところまでだった。戦線が都市庁へ届いたとき、その先に何をするのかは命令書にない。
班長はその空白ごと、伝令へ持たせてディルハへ送った。
正午、通信樹からセナの声が流れた。
西側地区から西門へ抜ける細い荷役道には、戦闘線と交わらない範囲だけ白布が結ばれていた。西門側の氏族には、その道へ武器を入れないよう先に伝えてある。
セナは退去路図の北小門へ二本線を引いた。岩猪が北枝道を攻撃に使う以上、同じ枝道へ住民を向かわせることはできない。読み上げ票には、東門と西門側の荷役道だけを残した。
「リュサ住民へ。東門を戦時退去路として開放するよう、セレネア守備隊へ求めます。西門側の戦闘員には、退去する者の財産を奪わせず、武器を持たない者へ攻撃させません。留まる者への報復も禁じます。西側地区にいる住民は、白布で示した退去路を通って西門からも出られます。北枝道と南水路は戦闘区域です。退去に使わず、戦闘中の街路を横切らないでください」
都市中で同じ言葉が三度繰り返された。
四度目を前に、制御卓のセレネア通信官が読み上げ票を裏返した。裏には、彼女自身の字で一行だけ書かれている。六番枝の東窓から見えた行軍の土煙と、木々の間を進む緑銀旗のことだった。
灰狼の見張りが遮断レバーへ手を伸ばしたときには、最初の一文が枝葉へ入っていた。
「市民へ告ぐ。東の森に王府軍旗。救援軍が接近している。東門へ押し寄せず――」
見張りがレバーを引く。
声はそこで切れたが、救援という言葉はもう都市へ降りていた。
灰狼の見張りは通信官の手首を掴み、制御卓から引き離そうとした。
「勝手に軍の位置を流したな。卓を離れろ」
「救援が来ているのに、黙っていろと?」
通信官は椅子の脚を床へ噛ませ、空いた手で調律環を押さえた。掴まれた手首が白くなる。それでも視線は逸らさない。
「ここは私の都市です。あなた方の退去放送だけ読んで、助けが来たことは隠せというの」
見張りの爪が深く食い込んだ。
「その一言で市民が東門へ殺到したら、誰が潰される」
「離して」
セナの声は低かった。見張りが振り向いても、通信官の手首は放さない。
「その腕を壊したら、市内への放送まで止まる」
「また勝手に流すぞ」
「分かってる。だから卓からは外さない。読み上げ票は一人で裏返させないし、遮断レバーにも見張りを置く」
通信官が唇を噛んだ。謝る気配はなかった。
「もう一人の当直だけでは、六番枝の調律と市内各枝への中継を同時に保てません」
「だから、あなたに残ってもらう」
セナは見張りの指を一本ずつ手首から外した。
「次に勝手に流すなら、東門の列を見てからにして。あそこで誰か潰れたら、救援を知らせた意味までなくなる」
通信官は赤くなった手首を胸へ引いた。返事の代わりに調律環を回し、切れた回線の安定を確かめる。灰狼はその横を離れず、裏返された読み上げ票を取り上げた。
救援軍が来るという噂は、一千八百人分の糧食、二百騎分の飼料、宿営準備を記した東門の作業票や荷役人の口から、すでに西側まで広がっていた。だが、市民全体へ向けた公の放送で告げられたのは、これが初めてだった。都市のあちこちで窓が開き、人々は東の空を見る。そこに見えるのは通信樹と、遠い森の上へ昇る煙だけだった。
救援が来る。その言葉に安心した者もいれば、今のうちに逃げなければ門が閉じると考えた者もいた。
西門へ向かう細い流れもできた。だが門楼に並ぶ氏族旗と、その下で武器を持つ獣人族を見て、足を止める者がいた。西門地区に家や家族を残す者だけが、その横を抜けていった。
都市の鐘が鳴った。避難鐘ではなく、市民兵召集の七打だった。
上層区の成人へ、武器を持って都市庁前へ集まるよう命令が出た。
新たに集まったのは百九十人で、命令を受けた数の半分にも届かない。来なかった者の多くは家族を連れて東門へ向かっていたが、家族を捜す者、負傷して動けない者、命令を聞かぬまま家へ残る者もいた。西側の退去路へ向かった者や、家並みの間にほかの抜け道を探す者まで含めれば、召集簿だけで所在を追うことはできなかった。
東門の詰所には、二枚の閉門札が届いていた。一枚は都市評議会、もう一枚は王府監察隊。どちらも、救援軍が入るまで門を開けるなと記してある。
攻城が始まってから、市内の防衛指揮はディルハへ集約されていた。門の開閉と戦時退去路の指定は、西部衛戍長である彼女の現場指揮権に属する。二枚の閉門札は正式な政治命令だった。それでも戦闘中の開閉を最終決定する権限はディルハにあり、逆らうなら、その理由と責任を記録へ残せばよい。
ディルハは二枚とも破らず、記録係へ渡した。
「評議会と監察隊、両方の命令です」
門務兵が言う。
「受け取った。二枚とも保管しろ」
「では、門は閉じたままに」
「開く」
門務兵がディルハを見た。
「閉門命令に反することも書け。戦時退去路として東門を開く。命令者、ディルハ・セレド」
筆が動くあいだに、門兵へ条件を告げる。
歩ける者を先に出す。荷は一人で持てる分まで。荷車は負傷者、病人、歩けない老人を運ぶものに限る。武器は門内で預けさせ、東街道の排水溝側を避難列に使い、中央は伝令と救援軍のために空ける。
門の外、最初の曲がりより手前に、荷下ろし用に広くなった旧荷置場がある。そこを待避地にし、門からは百人ずつ出す。前の百人が待避地へ入るまで、次の百人は門内に留める。待避地から先は、門務兵が街道の空きを見て順に流すことにした。
住民を通す前に、衛戍隊の騎馬伝令を二人出す。ディルハは二人を地図台の前へ呼び、東門から最初の曲がりまでを指でなぞった。
古木の根が路面へ張り出し、反対側には深い排水溝がある。荷車一台が通れば、騎兵は並べない。補給車が一台でも溝へ落ちれば、後続まで止まる。ディルハは、それを承知していた。
「避難民はすでに数百、なお増えている。総数は不明。全員が東街道を使い、負傷者を載せた荷車も出ると伝えろ。工兵を前へ回し、騎兵と補給車を狭窄部の手前で分けるよう救援軍へ求めろ。二人とも同じ内容を届けろ。一人が止まっても、もう一人は進め」
騎馬伝令は復唱し、門が開くより先に駆け出した。
「開けろ」
「敵の放送に従ったと、記録されます」
副官の声には、責める響きより焦りがあった。門の外ではなく、内側へ伸びる家族の列を見ている。
「住民を戦線から出すと記録しろ。敵のためではない」
「司令、この人数を出せば、伝令が着いても救援路は詰まります。あの曲がりは荷車一台で塞がる」
「分かっている」
「分かっていて開けるんですか」
ディルハはすぐには答えなかった。泣く子を抱えた女の後ろで、杖をつく老人が列の進みを待っている。さらにその後ろでは、市民兵の召集鐘を聞いた男が、家族と広場の方角を見比べていた。
「閉じれば、この者たちを確実に戦線へ残す。私は、そちらを選ばない」
ディルハは記録係が書き終えた二枚へ隊印を押した。
「救援が遅れれば、その責任も書け。私の判断だ」
門柱の葉脈状の法印が緑へ灯り、噛み合っていた生枝がゆっくりほどけた。完全に開くまでの間にも、内側の列は伸び続ける。
家具を積み、使用人を歩かせる上層区の馬車が、最初の列へ入ろうとした。門兵は内側の広場で止める。商人の荷車も同じ場所へ回され、その横を根路から歩いてきた家族が通った。
根路の者が持つ荷物は背負えるだけなのに、上層の馬車には箱が六つも積まれていた。
根路の住民が怒鳴った。
門兵は馬車から箱を降ろさせた。
「これは評議員家の公文書です」
御者が言う。
箱を開けると、中身は銀食器だった。
門兵は銀食器へ顎をしゃくった。
「置け」
「損害の責任を取れますか」
「取れない」
「なら命令するな」
「取れないから、全員同じにする」
銀食器は番号札を付け、門詰所の倉庫へ入れられた。扉へ門務印を掛け、受領票だけが御者へ渡る。
門外へ出る列は、百人ごとに切られても長かった。東街道の大半は、住民を排水溝側へ寄せれば、中央に荷車一台分の幅を残せる。門兵が張った綱に沿って人が進み、その脇を伝令馬が一頭ずつ抜けた。
最初の百人が待避地から先の街道へ送り出され、空いた待避地へ二組目が収まるまで見届けると、ディルハは門から待避地までの通行手順を門務班長へ預け、副官と主根広場の臨時指揮所へ戻った。東門には専任の伝令を置き、百人を出すごとに通行札を広場へ送らせる。
待避地と最初の曲がりの間は、徒歩の列なら排水溝側へ寄せ、中央を空けて進められる。だが曲がりでは古木の根が道へ張り出し、反対側に深い排水溝がある。そこだけは道幅そのものが荷車一台分しかない。
門務班長が百人を待避地から街道へ出せば、空いた待避地へ次の百人を門から入れる。門前の圧迫は防げても、荷車の遅い組が曲がりで止まれば、後の組はそこへ追いつく。
救援軍の斥候は、先に着いた二人の騎馬伝令から、避難民が数百人規模でなお増加中であること、正確な総数は不明であること、負傷者用の荷車も東街道へ出ることを聞いていた。本隊は工兵を前へ出し、騎兵と補給車の間隔を開けて進んだ。
それでも、伝令が門を出たあとも避難列は膨らみ続けていた。待避地から街道へ送り出された先発の百人に、次の百人、その次の百人が曲がり手前で追いつく。待避地から畑の脇道へ迂回しようとし、前夜の雨で荷車の車輪が泥へ沈んだため街道へ戻った家族も、列の脇へ合流した。斥候が実際に見たのは、報告時より長くなった列と、狭窄部へ入った患者用荷車だった。
先頭の斥候が一騎を本隊へ返し、残る者は馬を降りて住民を排水溝側へ寄せる。後から来た工兵は、街道脇の畑へ歩兵を通すため、根柵を外し始めた。
荷車の片輪が、避けようのない窪みから排水溝へ落ちた。人は古木の根を跨げても、騎兵と補給車はその脇を通れない。工兵が車軸へ綱を掛け、斥候が後続へ停止旗を振る。その横では軽装兵が畑へ入り、別の進入路を探し始めていた。
救援軍は止まったままではなかった。それでも、騎兵を降ろし、工兵を前へ出し、補給車を組み直すたび、行軍の速さは失われていく。
東街道を見張っていた崖鷲の伝令が通信樹へ戻り、救援軍の先頭が交通整理を始めたと告げた。
セナは配給表に引いた二本の線を見た。住民を逃がすための線と、救援を遅らせるための線は、路上でも同じ場所を通っていた。
ほぼ同じころ、東門の専任伝令が五枚目の通行札を持って主根広場へ戻った。札にあるのは門を出た人数だけだが、伝令は狭窄部まで走り、救援軍の斥候が下馬して列を寄せ、工兵が溝へ落ちた荷車を引き上げているのを見ていた。
ディルハは報告を復唱させ、通行札の裏へ時刻と目視地点を書かせた。これで、救援軍が工兵を前へ出したことは、通信樹の放送ではなく東門の伝令網からも確認できた。
施療院から出た伝令も、戦闘前の混雑で足止めされていた。報告がディルハへ届いたのは午後になってからである。
ディルハは命令書の裏へ、患者の移送を中止すること、医師を都市庁地下へ立ち会わせ、拘束者十三人全員が生存しているか確認させることを書いた。現場で止まっていた移送を正式に中止し、まだ実施されていない十三人の生存確認をラディルへ要求した。
返書を待つあいだに、獣人族は最後の前進を始めた。北枝道へ岩猪百五十、南水路へ沼獺と穴熊百二十、中央大路へ黒豹、灰狼、大角牛の四百。飛行できる崖鷲二十四人は通信樹から出て、三道を見下ろす都市庁上階の射窓を抑える。三道と上空へ出た戦闘員は六百九十四人。伝令、救護、工兵を合わせ、攻撃へ出た者は七百を少し越えた。
残る者は西門、根路西口、穀倉、通信樹を守り、中央施療院へ続く避難路を確保する。
都市を取るほど、前へ出せる兵は減る。西門、根路西口、穀倉、通信樹。押さえた場所は、そのまま兵を置いていく場所になる。どちらの支配とも決められない中央施療院にも、戦闘を近づけないための道を残さなければならなかった。
北枝道と南水路の先頭から、中央大路のバルガたちは見えない。号笛も古木と建物に遮られる。三隊が共有できたのは攻撃開始の時刻だけで、各隊が動き始めれば、伝令が戻るころには防壁一つ分の戦況が古くなる。
ディルハは防衛線を、都市庁前の円形広場一つへ縮めた。九本の古木から根が集まるため、主根広場とも呼ばれる場所である。北、南、西の三道がここで交わり、背後には都市庁、東には退去路がある。
集められたのは衛戍兵二百四十一、市民兵二百八十三、都市庁衛兵六十。樹冠監察隊は防衛戦力に数えなかった。ラディルが都市庁にいることも、施療院へ移送班を出したことも分かっている。だが、残りの所在と指揮系統をディルハ側で確認できず、主根広場の指揮下で何人が戦うか読めなかった。
「敵を広場へ入れるな」
ディルハは兵へ言った。
「だが、退去する住民を止めるな。戦列を離れる市民兵は、武器を広場へ置けば東へ下げる。衛戍兵は持ち場を離れるな。窓へ火を入れるな。根へ攻撃魔法を使うな」
市民兵の一人が問うた。
「……救援がいつ着くか、分からないんですか」
ディルハは、その男を見た。槍の握り方さえ不慣れな手に血の気がなく、何度も東門の方角を確かめている。
「救援はもう東まで来てるんだろ。放送でもそう言ってた。俺の家族も、あの列にいる。それなのに、俺たちはあと何人ここで――」
男は、最後の言葉だけを飲み込んだ。
隣の市民兵が、代わりに吐き出した。
「あと何人死ねば、ここを下がれるんだ」
衛戍兵の列から怒声が上がりかけた。ディルハは片手で制した。
「到着時刻は分からない。街道で工兵が避難列を通している」
嘘ではない。
一千八百は近くにいるが、街道では避難列と救援軍の工兵が動き続けている。
「その列を出したのは司令だって、聞きました」
責める声は震えていた。ディルハは逸らさずに受けた。
「私の命令だ。住民を閉じ込めれば、救援は早く入れられた。私は、それを選ばなかった」
男が槍を握り直した。納得ではない。逃げ出さずに立つため、怒りの置き場所を求める手だった。
「じゃあ、俺たちは家族を逃がす時間を稼げと」
「そうだ。ただし、ここで全員死ねとは命じない」
ディルハは東門を見た。
「線を支えられなくなれば、私か副官が退却を命じる。市民兵は東門へ下がれ。道が切れていれば武器を広場へ置き、住民の退去列へ入れ。それより前に家族を追いたい者も、武器を置けば止めない」
誰も応じなかった。だが、男の指には少しだけ血の色が戻った。
最初の衝突は北枝道で起きた。
岩猪が街路防壁へ丸太を当てると、セレネア兵は二階の窓から石と矢を落とした。住民は避難済みだった。だから双方とも、ためらわず家を戦場に変えた。窓は射撃口、壁は盾となり、人がいないと分かった家は壊す判断まで早い。
防壁は道へ置いただけではない。横木の両端を、街路を挟む二軒の空き家の一階梁へ差し込んである。岩猪が丸太を打ち込むたび、押された横木が左右の家を内側から突いた。
三度目の衝撃で左の梁が折れ、防壁が斜めに沈んだ。
「家から離れろ!」
衛戍兵が叫ぶ。後列は走れたが、横木へ盾を押し当てていた六人は、傾いた防壁へ盾を挟まれた。腕革を外すより先に、横木が右の梁を道側へ引き抜く。左右の正面壁が続けて倒れ、その上から二階床と屋根が落ちた。
北枝道の二軒が崩れ、岩猪十七人と衛戍兵六人が瓦礫の下へ消えた。
崩れた壁の下から声がする。岩猪の後列は丸太を捨て、石材を退け始めた。引き出した者の脚は不自然な向きに曲がり、一人を後ろへ運ぶのに二人、瓦礫を支えるのにさらに二人を取られる。防壁を破るために集めた重さが、今度は味方を掘り出すために減っていった。
南水路では、沼獺が側溝の水門を開いた。浅い水が石畳へ広がると、二人が盾列の脇から水へ伏せ、槍兵の足元へ回り込む。そこへ二階から油壺が落ちた。割れた壺の火芯は水へ触れて消え、油だけが虹色に流れた。
二つ目は乾いた石段で割れた。炎が壁を這い、穴熊の盾列が水側へ寄る。
濡れた石で鉄靴が滑った。前列の穴熊が膝をついたところをセレネアの槍兵が押し返し、沼獺は水中からその脚を取る。一人が倒れると、三人が重なった。
後ろの沼獺が水へ膝をつき、濁りの中から倒れた者の肩紐を探り当てる。息をしていても、自分で立てなければ槍列へは戻せない。水は血と、ほどけた包帯を運びながら主根広場へ流れた。
中央大路では、ゼグとバルガが並んだ。
二人が同じ列で戦うのは、白鹿の夜以来だった。
「右側の防壁を取る」
ゼグが言った。
「左側へ回れ」
「命令か」
バルガは一拍、答えを遅らせた。二十氏族から預かった指揮権が、白鹿の夜と同じ重さで喉へ引っかかる。
「……提案だ」
「なら、右側を取る」
「勝手に死ぬな」
二人は別れた。
セレネアの矢を大角牛の盾が受け、その陰を灰狼が走って街路防壁へ鉤をかける。綱へ獣人たちの体重が乗り、荷車が石畳を削りながら横倒しになった。その隙間へ黒豹が入る。
セレネア兵は一歩ずつ下がった。崩れたのではない。一列退くたびに踵を止め、また槍先を揃える。ディルハが、逃げ道を残したうえで踏みとどまらせた兵だった。
ゼグが一人を倒す間に、次の二人が左右から突く。穂先が右腕と左腿を裂いた。
短刀を握る指が血で滑り、左足だけ踏み込みが浅くなる。
ゼグは血を流しながら笑った。
「ははっ……そうだ。やっと戦らしくなってきた」
彼は槍の柄を掴み、兵ごと引き寄せ、喉へ刃を走らせかけた。兵が武器を離す。ゼグの刃が止まった、その一瞬に別の槍が脇腹へ入った。
息が喉で詰まり、ゼグの膝が半歩沈む。それでも倒れず、槍の柄を肘と脇へ抱え込んだ。これ以上は押し込ませない。身体を横へ捻ると、刺した兵の足が流れ、手が柄から離れた。
「武器を離せば助かると思うな!」
叫びながら、最初の兵を蹴って後ろへ逃がした。
兵が槍の列へ這い戻る。ゼグは、刃を止めたままの右手を一度見た。舌打ちし、追おうと半歩踏み出したところで、左膝が石畳へついた。
黒豹二人が両脇へ入る。片方が肩を担ぎ、もう一人が脇腹から伸びる槍柄を両手で支えた。ゼグは肩を振って外そうとしたが、柄がわずかに揺れただけで息が止まる。二人を振り払う力も残らず、そのまま中央大路の後方へ運ばれた。
前列から、さらに二人が抜けた。
夕刻、三道の防壁は相前後して破れた。
中央大路の号笛が北へ届いたとき、北枝道ではすでに岩猪が崩れた家を越えている。南の突破を告げる伝令がディルハへ着くより先に、濡れた穴熊の前列が広場へ姿を見せた。あとで報告書へ時刻を並べれば同時と書ける程度の差だったが、路上にいた者にほかの二道は見えなかった。
獣人族が主根広場へ入る。
広場の中央には、盟約王の碑があった。
その周りで、国を持たない者と国家の兵がぶつかった。
都市庁上階の窓から、広場へ矢が落ちる。盟約王碑の陰へ入ろうとした灰狼の肩を貫き、後ろの大角牛が足を止めた。盾を上へ向ければ、正面の衛戍兵へ腹が開く。
通信樹から来た崖鷲二十四人は、射窓の上を取るため鐘楼を左右から挟んだ。先頭が屋根の棟を越えると、四方の窓から監察兵の矢が上がる。
一本が若い崖鷲の翼の付け根を貫いた。片翼の羽ばたきが遅れ、身体は屋根の傾斜へ肩から落ちる。瓦を割りながら軒へ滑ったところで、後ろの一人が腰帯を掴んだ。二人分の重さに鉤爪が樋を削り、そこで止まる。
後ろの二人が棟へ降り、腰帯を受け取った。若者は傷ついた翼を畳めず、風切羽を瓦へ擦りながら引き上げられる。矢は抜かない。矢柄の両側へ厚布を当て、翼が動かないよう胴へ固定して、棟の陰へ寝かせた。一人がその場へ残る。
若者と付き添いの一人が戦列を外れた。残る二十二人は屋根の稜線へ翼を伏せた。
サルカの前腕は、前日の槍傷ごと厚い布で胸へ固定されていた。弓には触れず、無傷の手で鐘楼北側の窓を指す。
「二人で北窓を狙え」
指された二人が棟の左右から同時に射る。一矢は窓へ消え、もう一矢は鐘綱を弾いた。
鐘が一度だけ、勝手に鳴った。
北側の射窓から矢が止まり、広場の大角牛が盾を正面へ戻した。盟約王碑の前へ、一歩出る。
ディルハは広場の東半分へ線を下げた。
背後の都市庁から煙が上がっていた。都市庁そのものの延焼ではない。地下文書庫で紙を焼いている煙だった。
都市庁の脇扉から、評議会衛兵が一人出てきた。兜を失い、オルネの封印を押した紙を胸甲へ挟んでいる。広場を横切る途中で矢が肩当てへ当たった。衛兵は痛みに肩を庇い、走っていた勢いのまま一歩よろめく。それでも紙は離さなかった。
副官が盾の内側へ引き入れる。
「地下文書庫を監察隊が封鎖しました」
衛兵は息を継いだ。
「王府協力者の名簿と、王府通信の認証照合簿を焼いています。市の徴税台帳と居住者台帳は別室です。評議会衛兵は入れてもらえません」
「なぜ今になって焼く」
「北と南の防壁が破れ、崖鷲が屋根へ降りたと報告が入ってからです」
封書には、主認証晶を持ったラディルが地下へ入り、都市庁の扉が破られる前に晶石も処分すると告げた、とあった。移送できなかった拘束者十三人も、同じ地下に残されている。
戦闘の途中で返された命令書は、ディルハの内衣にあった。患者の移送中止。医師を地下へ立ち会わせ、拘束者全員の生存を確認させること。その下に、王府保安措置は現地軍の管轄外、とラディルの筆跡があった。医師が拘束者を見たという記録は、どこにも追記されていない。
東の森では、救援軍の緑銀旗が列を変えている。街道のどこまで進んだのか、広場からは読めない。
正面では獣人族が次の突撃を整えていた。
ディルハは副官の足元を見た。北、南、中央から届いた三本の伝令札が並び、東門からの報告だけが手に握られている。この半刻、三道を実際に動かしていたのは副官だった。
「副官。三道と東門を預ける」
副官が顔を上げた。
「まさか、都市庁へ行く気ですか」
「命令で止まらないなら、ラディルを拘束する」
「私が行きます」
副官の返事は早すぎた。三道を預かる重さより、司令を地下へ行かせる方を恐れた声だった。
「三道と東門の状況を見ているのは、お前だ」
ディルハは三本の伝令札を靴先で揃えた。
「広場東半分を最終線にする。市民兵が武器を置けば通せ。救援軍が門前まで来ても、避難列越しに敵を撃たせるな。線が切れたら、都市庁の階段へ固執せず東へ下がれ」
「司令は」
「認証晶を取り戻す。砕かれれば、救援軍へ前進停止を要請する正規の回線まで失う」
ディルハは予備の一個分隊、十二人を選んだ。
「私と来い」
副官の復唱を最後まで聞いてから、ディルハは防衛線を離れた。刃を向ける先は、正面の敵ではなく、内側から閉じられた都市庁の扉だった。




