第三十三章――枝の上の戦線
リュサで最も高い建造物は、通信樹だった。根路では建物、上層区では樹塔と呼ばれている。
太い幹を囲むように枝が螺旋を描き、通信室、鐘室、気象台、見張り台を一層ずつ抱えていた。地上から四百歩近い冠枝のすぐ下を、二番枝が東へ半周する。その下では三番枝が西へ張り出し、さらに低い六番枝が幹を太く取り巻いている。
枝の外側には空がある。内側には、幹へ穿たれた射窓と昇降籠がある。
サルカは冠枝へ腹這いになり、翼を枝へ沿わせて眼下を見た。西門には三十六の旗。根路管理所からは白い蒸気が上がり、穀倉前では配給布が揺れている。都市庁の緑銀旗は、まだ東側に残っていた。
高いところから見れば、戦線は線に見えた。
その線の中で、人は家と家の間に挟まれている。
「二番枝」
見張りの声で、サルカは身体を起こした。
冠枝の東下を回る二番枝へ、通信樹の内部からセレネア兵が出てくる。先に欄干へ散ったのは十二人。昇降籠の格子越しにも、弓と兜が重なっていた。全員が短弓を背負い、腰の安全縄を枝の環へ掛けている。
兵の四人が、欄干の巻軸から枝網の綱を引き出した。西壁の枝網弩が射るものと同じ網を、枝上で落とせるよう巻き取ったものだった。端には拳ほどの重りが結ばれ、網はまだ畳まれたまま枝の外へ垂れている。
冠枝の外縁にいた崖鷲が飛び出す。
二番枝のさらに外を回り、下の三番枝へ降りるつもりだった。
一度目の羽ばたきで、東の射窓から弦が鳴った。
矢が翼の下を抜ける。男は東の射窓を避け、西へ身体を振った。前夜、水袋を運び上げたときには沈黙していた見張り台から二本目が来て、風切羽を二枚持っていく。白い羽軸が回りながら落ちた。
男は高度を捨て、太枝の陰へ戻ろうとした。開いた翼の前へ、下層の窓から三本の鏃が光る。一本が翼端を裂き、もう一本は頬を掠めた。空へ向けた胸を捻り、幹へ肩から飛び込む。
太枝の陰へ滑り込んだときには、片側の風切羽が血で貼りついていた。冠枝の二人が腕を掴み、枝上へ引きずり上げる。
男が太枝の陰へ消えると、弦の音も止まった。
射窓の鏃は幹の左右へ分かれたまま、次の翼が現れる高さを向いている。
「外縁の六人、三番枝へ」
サルカが言った。
「上を捨てるのか」
若い崖鷲が顔を向ける。その頬の脇へ矢が突き立ち、冠枝の樹皮が弾けた。
「頭を出すな。行け」
六人は冠枝の付け根へ集まり、弓を胸へ寄せた。先頭が翼を開くと、羽先が隣の肩を打つ。若者は一歩退いた。
一人ずつ身を落とした。
冠枝の裏へ翼を擦らせ、幹に沿って半周する。二番枝の内側を抜け、その下から西へ伸びる三番枝へ入る。先頭は外側の鏃を見て翼を縮め、次の者は幹へ羽先を打ちながら続いた。
二人が抜けた。
三人目が二番枝の下へ入ったとき、欄干の巻軸が一斉に解かれた。
枝網の重りが落ちる。
畳まれていた網が重りに引かれ、幹と二番枝の間へ斜めに開いた。崖鷲が通ってきた場所へ、後ろから蓋をする。
男の左翼が枝網を受けた。
羽ばたいた力がそのまま網を締める。編まれた細枝が羽軸の間へ入り、翼の付け根を逆へ引いた。鈍い音がして、男は肩から三番枝へ叩きつけられる。息を吐くこともできず、口だけを開いた。
鉤爪で樹皮を掴んだ。右手の短刀で綱を一本、二本と切る。
三本目へ刃を掛けたところで、矢が脇腹へ入った。
身体が跳ねる。短刀が落ちた。枝を掴んだ指が一本ずつ剥がれ、網に絡んだ翼だけが一瞬残る。
重りが欄干を越えた。
男は網ごと下へ消えた。
声は途中で聞こえなくなった。落ちていく枝網だけが、下の枝へ二度当たり、そのたび黒く開いた。
「射返せ!」
三番枝の若者が弓を引く。冠枝からも矢が重なり、巻軸へ手を伸ばした兵の指を一本、欄干へ縫い止めた。兵が手を引いたとき、指先だけが矢の下に残る。
サルカは冠枝から身を落とし、三番枝へ入る直前に一射した。矢は兵の肩当てを砕いた。兵は肩を押さえて身を引き、足場を失って枝の付け根へよろめく。
網を扱っていた兵たちは通信室の奥へ退いた。
若者が追って飛び出す。翼が風を掴むより早く、サルカは肩帯を引いた。
枝の付け根に並ぶ射窓から、短弓の先が五つ現れる。
矢が若者の鉤爪の間へ刺さった。二本目は、退いた網兵の肩越しに飛んでくる。
サルカは若者を枝へ引き戻した。冠枝に残る弓は止まらない。太枝の陰から射返し、射窓の一つへ矢を入れる。窓の奥で短い声が上がり、弓先が消えた。
昇降籠から出た兵は二番枝へ広がったが、冠枝へは登ってこない。新しい枝網を欄干へ渡し、枝の付け根と窓の前へ射手を置いていく。
残る三人も冠枝の裏を擦り、先に抜けた二人のいる三番枝へ降りた。
三番枝へ降りた五人が、翼を畳んでサルカを待っていた。
崖鷲族が通信樹の冠を取ったのは、二日前の夜だった。だが冠枝へ続く導路は二番中継室で切られ、見張り台から地上へ合図を送る以上のことはできない。
冠枝の外縁には、最初の夜に下層へ出した二人の安全縄が残っていた。
一人は外周を回り、二番枝の下まで降りた。東の射窓を越えたところで翼へ矢を受け、片翼を畳んだまま縄を手繰って戻った。もう一人の縄は夜半に二度震え、そのあと動かなくなった。夜明けに引き上げると、先端だけが刃で切られていた。
翌朝は三人が幹際を降りた。太枝の裏を使えば二番枝まで届く。三人目が枝の陰へ入ったところで、下の射窓が開いた。矢が翼の付け根へ入り、羽ばたきが止まる。両脇の二人が肩帯を掴み、三人で冠枝へ戻った。外縁の樹皮には、そのときの血が黒く乾き、折れた矢柄が二本残っている。
二度目の夜、三人で枝裏の樹脂窓へ鉤を掛けた。枠が指幅ほど浮いたところで、隙間から短槍が出た。綱を握っていた者の掌を貫き、枝の根元から矢が続く。窓を外す前に退いた。
夜が深くなると、まだ飛べる者が幹の西側を一人ずつ上がり、水袋と干し肉、包帯を運んだ。飛べなくなった者は見張り台の壁際へ寄せ、裂いた外套と折った弓身で翼を固定してある。火は焚けない。包帯を替えるたび、水袋が一つずつ空になった。
サルカたちが矢の来ない窓を一つ覚えるたび、次の朝にはそこへ兜と短弓が増えていた。
サルカは二番枝の下面を見た。幹へ食い込む根元の先に、樹脂窓が一枚ある。欄干に並んだ鏃は外縁を向いたまま、枝裏の窓までは回らない。
「五人、来い。残りは冠枝を捨てるな。網へ近づくな」
返事を待たず、三番枝の裏へ身体を移す。
六人は鉤爪と手を交互に掛け、枝の下面を伝った。風が翼を開こうとするたび、肩の筋が引かれる。二番枝の真下へ着くと、サルカは翼を一度だけ広げ、窓枠へ飛びついた。
樹脂板へ鉤を打ち込む。
二人、三人と縄へ体重を掛けた。枠が軋み、内側の留め具が一つずつ抜ける。
窓が外れた瞬間、短槍が突き出された。
先頭の崖鷲が弓で穂先を払う。木の弓身が折れ、槍は頬の肉を削って外へ抜けた。男は血の流れる顔のまま柄を掴み、窓の兵をこちらへ引く。
サルカが肩から室内へ入った。
中には樹上兵が六人、通信官が四人いた。兵が窓を塞ぐ間にも、通信官は青く光る導路を制御板から抜いている。
「手を離せ」
誰も離さない。
通信官の一人が絶縁鉈を振り上げた。刃が最後の導路へ落ちる前に、サルカの矢が腕の下から胸へ入る。男は鉈を握ったまま制御板へぶつかり、青い樹液と血を同じ溝へ流した。
樹上兵が盾を押し出す。狭い室内では翼を開けない。崖鷲は足の鉤爪で床を掴み、手の剣と折れた弓で押し返した。
一人の通信官が警報輪へ走る。
若い崖鷲が腰へ飛びついた。二人で制御卓へ倒れ、通信官のこめかみが青銅の角へ当たる。乾いた音がした。身体は崖鷲の下で一度だけ強張り、そのあと動かなかった。
残る二人の通信官が壁へ下がる。
「殺すな」
サルカの声に、剣を振り上げていた仲間が止まった。
樹上兵のうち三人は奥の階段へ退き、踊り場の隔扉を引き下ろした。
「下から来る。枝裏だ。六番へ知らせろ!」
声と足音が下層へ遠ざかる。
追おうとした崖鷲を、サルカが止めた。
「隔扉を見張れ。二人残せ」
室内では二人が武器を捨てた。最後の一人は窓際で膝をつき、裂けた腿を両手で押さえている。指の間から出た血が、床の傾きに沿って通信官の靴まで流れた。
サルカは制御板へ近づいた。
最後の導路は半ばまで切られ、裂け目から青い樹液が垂れている。真鍮札には、第二中継、冠枝系統と刻まれていた。市内放送を示す印も、外部発信の印もない。
「導路をつなぎ直せ」
女の通信官は答えなかった。
「つなぎ直せば、上の仲間へ声を送れる」
「そのために手を貸すと思いますか」
声は震えていたが、目は制御板から動かない。
もう一人の通信官は、床へ倒れた兵の傷を押さえている。敵へ設備を渡す気はなくても、血を止める手までは離さなかった。
サルカはそれ以上聞かなかった。
武器を捨てた兵と二人の通信官を器材庫へ入れ、外から閂を掛けた。動かせない負傷者は中継室の窓際へ残す。二人の崖鷲が、隔扉と捕虜を一人ずつ見張った。攻撃前に市内の作業員から集めた聞き書きには、六番枝から都市へ声が流れるとだけある。外へ送る線については、誰も確かなことを知らなかった。
サルカは冠枝に残した者を一人呼び、聞いたことを二度言わせた。
「西門へ」
「誰に」
「バルガ。セナにも」
伝令は窓から飛び出さない。三番枝へ戻り、枝の陰を拾いながら西側へ降りていった。
地上で二十一氏族の代表が集められたのは、それから半刻後だった。
来た者の肩には、穀粉や包帯の埃がついている。穀倉の配給も、西門の警戒も止められない。欠席した十五氏族から、新しい返答は届いていなかった。
セナは伝令の言葉を帳面へ移した。
二番中継室を確保。
六番中継室から市内へ声を流せる。
外部発信の操作位置は不明。
紙の脇には、都市の外へ持ち出す文案が置かれていた。西門は今回の攻撃へ参加した氏族の管理下にある。住民の退去を妨げず、武器を置く者を殺さない。家屋、施療院、貯水、穀倉を保護し、セレネア軍へ都市内での停戦協議を求める。
署名欄だけが空白だった。
「三十六氏族と書け」
バルガが言う。
「十五氏族は、この文をまだ読んでない」
セナは筆を置かなかった。
「都市を攻めることと、この文で国を名乗ることは同じじゃない」
ゼグが紙を覗き込む。
「国名が決まるまで、六つの国は待たない」
「だから国名は空ける」
「国名も署名もない文を、誰が読む」
「今ここにいる者の名で送る」
バルガは署名欄を自分へ引いた。
「俺の名を使え」
「代表として?」
「送った責任を取る者としてだ」
セナは筆先を紙へ置いた。
戦場指揮、灰狼バルガ。
その下に、文案作成、赤狐セナ。
国名は書かなかった。
セナは同じ文を二部、薄い紙へ写した。
「樹から送れないなら、西門から出す」
「二人とも捕まったら」
岩猪の代表が問う。
「赤狐の走者を二人、別々の道へ出す。一人でも城外の氏族陣地へ着けば、走者を継いで王都の盟約会議まで運べる」
「今回、取るのは通信樹までだ」
バルガが代表たちを見る。
「樹を取ってから決める。勝手に先へ出るな」
「幹心室の先は都市庁前だぞ」
岩猪の代表が言った。
「近くても、今の命令には入っていない」
岩猪は鼻を鳴らした。それでも反対の札は上げない。
二十一氏族は、都市内放送を復旧するための通信樹確保と、西門からの文書搬出に限って作戦を認めた。欠席者へ内容は送るが、返答のない氏族から新しい兵は出さない。作戦が終わるまで、その範囲の指揮だけがバルガへ預け直された。
セナは別の欄を開く。
「ゼグの指揮違反は残ってる」
黒豹たちの視線が集まった。
「分かっている」
ゼグが答える。
「なら書く。通信樹の根元から幹心室まで、二百二十人の指揮をゼグに預ける。この作戦のあいだだけ」
「終われば」
「また審議」
「十分だ」
ゼグは短刀の柄を締め直した。
枝上と地上で、攻撃開始の時刻だけを揃える。
赤狐の走者二人は、攻撃開始を待たずに西門を出た。一人は街道、一人は畑の畦へ入り、互いの姿を見ないまま西へ走る。
幹の陰へ入れば、根元の号笛は六番枝まで届かない。枝上の旗も、螺旋を半周すれば見えなくなる。始まったあと、ゼグとサルカは互いの位置を知らないまま進む。
バルガは正面隊に加わらない。穀倉、水路、西門。取った場所が増えるほど、その場を守る兵が要る。
セレネア側でも、通信樹の防備が組み直されていた。
ディルハは根元広場へ三重の盾列を置き、各中継室の樹上班へ安全縄と予備の枝網を配った。樹皮階段には滑り油。幹心室へ通じる東階段には、退却時に下ろす隔扉の係を二人残す。
「二列目が割れたら、三列目を残すな」
彼女は副官へ言った。
「東階段へ下げる。負傷者を先に通せ」
「樹を渡すことになります」
「退路まで塞がれれば、失うのは樹だけでは済まない」
幹心室では、ラディルが主認証晶を制御卓から外していた。黒緑の袖に包まれた晶石から青い光が消える。
通信樹を奪われても、王府の名で命令を送らせない。その判断はラディルの権限に入る。ディルハに残されたのは、晶石のない樹をどこまで兵で守るかだった。
通信樹付きの灯務技師は、助手二人と下層の点火盤を開いていた。前夜から残る断線と今朝の枝上戦の震動で、内部灯が下から順に消えている。担架が暗い螺旋階段で手摺へ当たり、後ろの兵まで止まった。
「東階段の灯りだけ戻せ」
ディルハが命じる。
技師は焼けた接点を抜き、予備の金具へ差し替えた。螺旋階段の灯りが三つ点く。四つ目は明滅したまま戻らない。
「三灯で足りる。修理は切り上げろ。東階段へ下がれ」
工具を畳ませ、ディルハは技師たちを東階段へ下げた。
正午、根元広場と枝上で同時に弦が鳴った。
ゼグは二百二十人を率い、正面から入った。
最初の盾壁には岩猪を当てる。大盾で矢を受け、その陰から赤狐が盾の隙間を狙った。黒豹は左右の根張りへ伏せ、列が崩れる瞬間を待つ。
セレネア兵も槍の石突きを根へ固定した。
一度目の衝突で盾が三枚割れる。岩猪の前歯が盾縁へ当たり、欠けた白い破片が飛んだ。二度目には前列の足元へ血が広がり、踏み込んだ者から滑った。
三度目、槍が大盾の脇を抜け、岩猪の胸へ入る。
穂先が肋骨へ当たる感触が、柄を持つ兵の腕まで返った。兵はさらに押す。岩猪の口から泡の混じった息が漏れ、盾の裏へ赤い点が散った。
それでも男は槍の柄を脇へ抱えた。抜かせないまま盾壁の端へ肩を入れる。
「今だ!」
黒豹が開いた隙間へ滑り込む。
一人目の兵の手首を斬り、二人目の盾へ身体ごとぶつかる。落ちた槍を拾おうと屈んだ兵の後頭部へ、別の岩猪が盾の縁を打ち下ろした。兜が歪み、兵は膝から崩れた。顔を確かめる者はいない。その身体が次の足を止める障害になった。
ゼグは盾壁の内側へ入った。
兵の膝裏へ刃を入れる。倒れた兵の喉へ返した切っ先が止まった。
兵の槍はもう床にある。取り戻そうともせず、空いた両手を胸の前へ上げていた。
「その兵を後ろへ運べ」
黒豹の部下が動かない。
「捕虜だ!」
ゼグが怒鳴る。
部下は兵とゼグを一度ずつ見てから、襟を掴んだ。ゼグは次の盾へ向かい、振り返らなかった。
上空では、サルカの隊が六番枝へ降り始めている。
四十七人で来た崖鷲は、前夜までに三人の死亡が確認され、三人が行方不明、九人が傷で飛べなくなっていた。今朝、さらに一人が網とともに落ちた。
西門へ出した伝令は、攻撃時刻だけを持って戻った。地上との連絡役として三番枝へ一人残し、残る三十人を二手に分ける。
五人が冠枝、三番枝、確保した二番中継室から樹上班へ矢を浴びせた。朝に風切羽を裂かれた男も、冠枝へ腹をつけたまま弓を引いている。樹上班の弓が上を向く。その下で、サルカを含む二十五人が三番枝の裏へ回った。
幹を盾にして下る。
四番枝の射窓から短弓が突き出る。先頭が翼を捻ると、鏃は腹の羽を梳いて抜けた。二人目が外へ避けた途端、離れた見張り台から矢が重なる。一本が肩羽へ刺さり、身体が傾く。仲間が腰帯を掴み、太枝の下へ引き戻した。
列は進むたび長くなった。前の者が枝を回り終えるまで、後ろの者は翼を打てない。五番枝の裏には、朝にはなかった黒い油が塗られている。鉤爪を置いた者の足が滑り、後続の胸へ背中からぶつかった。
六番枝の欄干に、枝網の重りが見えない。
サルカは羽ばたきを弱めた。
窓の下で、巻軸だけが回った。
「上へ!」
枝の裏に畳まれていた枝網が跳ねた。
上から一枚、下から一枚。重りに引かれた枝網が幹際で噛み合い、縦に伸びた崖鷲の列を途中で断つ。
先頭側は上へ逃げた。
後ろの一人は間に合わない。翼の付け根へ網綱が食い込み、羽ばたくたび細枝が肉へ沈んだ。男は短刀を抜こうとしたが、腕まで網に巻かれている。重りが枝裏へ当たるたび身体も打ちつけられ、口から血と欠けた歯が落ちた。
その後ろの二人が、同じ隙間を避けようとした。
翼がぶつかる。
一人の額が五番枝の下面へ当たり、首が力を失った。もう一人は折れた翼を抱えたまま六番枝の欄干へ落ち、胸から下だけが外へ垂れた。欄干の兵が剣を向け直すより早く、身体が滑り落ちる。
二つの影が、別々の速さで枝の下へ消えた。網に巻かれた一人だけが六番枝の下面へ残り、動かなくなった身体を重りが揺らしていた。
サルカの羽ばたきが一度だけ乱れた。
朝に落ちた男の枝網が、まだ下の枝へ引っかかっている。折れた細枝の先が、風のたび白く光った。
六番枝の射窓から矢が来る。
サルカは上昇しながら射返した。鏃が短弓を握る兵の前腕へ入り、射窓から弓が落ちる。仲間の矢は網の重りを一本外し、枝網を枝側へ傾けた。
幹との間に、翼一枚分の隙間ができる。
サルカが身体を横へ倒して先に抜けた。後ろの者は羽ばたかず、前の翼が作った風へ身を預ける。速すぎれば幹へ肩を打ち、遅れれば網が戻る。
二十五人のうち、六番枝へ入れたのは二十二人だった。
樹脂窓へ鉤を打つ。
一度目に引くと、窓の内側から短槍が鉤縄を一本切った。二度目、枠が指幅だけ浮く。三度目で留め具が抜け、窓が室内へ倒れた。
崖鷲が雪崩れ込む。
狭い中継室では翼を使えない。鉤爪で床を掴み、手の剣と短弓で樹上兵の槍を受ける。奥の制御卓には、この六番中継室を守っていた当直通信官が二人いた。切断レバーへ手を掛けたまま、兵の背後から動かない。
兵が窓際の崖鷲へ突き込む。男は槍を弓身で逸らし、二歩の距離から矢を放った。鏃は兵の胸へ入る。兵は息を詰まらせて二歩よろめき、制御卓へ背中からぶつかった。落ちた槍を別の兵が拾い、倒れた仲間の肩越しに突き出した。
穂先がサルカの革籠手の縁へ当たり、前腕の外側を肘近くまで裂いた。
指が開いた。弓が床へ落ちる。
兵は槍を引き、同じ腕へ二度目を突く。サルカは傷ついた腕を胸へ寄せ、半身になった。穂先が脇を抜け、踏み込んだ兵の身体だけが窓際へ出る。
サルカの鉤爪が足首を払った。
兵は窓の外へ落ち、腰の安全縄で止まった。剣が先に下へ消える。縄を掴んだのは、サルカではなく後ろの崖鷲だった。
「兵を引き上げろ」
二人がかりで兵を室内へ戻す。床へ転がった兵は、空いた両手を見せた。
「座れ」
仲間がサルカの籠手を切り開き、布を傷へ押し当てた。指は動いたが、握ろうとすると前腕が痙攣する。弓は拾えない。肘を曲げた形で腕ごと胸へ縛った。
窓際では、翼の付け根を矢に裂かれた若者が座り込んでいる。羽の下から血が滲み、翼をわずかに開くだけで肩が震えた。当て布を巻く者と、捕虜を見張る者が要る。室内へ入れた数が、そのまま戦える数ではなかった。
当直通信官二人は、切断レバーへ手を掛けたまま動かなかった。
「切断レバーを動かすな」
「そちらも武器を置いてください」
女の通信官が答えた。
窓の外では、枝に絡んだ網が死体の重さで軋んでいる。床では、胸を射られた兵の指が制御卓の脚を掻いていた。誰も、動くなという言葉を守れる場所ではなかった。
樹上兵が武器を置いた。
通信官も、切断レバーから手を離す。
六番中継室が落ちたころ、根元の第二盾列も崩れかけていた。
戦いの音は幹の内部へ入り、階段と灯路を伝って上へ走る。
直後、階段口へ衛戍兵が倒れ込んだ。首の横へ矢が刺さり、呼吸のたび傷口で泡が膨らむ。後ろの兵が肩帯を掴んで引いたが、そのぶん盾列から一人が抜けた。
黒豹が隙間へ入る。
最初の斬撃を盾で受けた兵が、二度目を返す。三度目は来なかった。脇から入った短槍が腹を貫き、切っ先が背の外套を持ち上げた。
兵は剣を落とさないまま膝をついた。柄を握る手だけが痙攣し、刃先が樹皮床を細かく叩く。
六番中継室の制御板には、中継晶が残っている。白い石の奥で青い光が脈打っていた。
「市内線を開けろ」
サルカが言う。
「幹心室から、すぐ閉じられます」
「閉じられるまででいい。市内へ声を流せ」
通信官はしばらく動かなかった。
床の兵が咳き込む。胸へ入った矢が揺れ、口元から細い血が垂れた。
「先に、こちらの避難連絡を読みます」
「読め」
通信官はサルカの顔を見た。罠を疑っているのではない。聞き違えたのか確かめる目だった。
サルカは傷ついた腕を胸へ縛られたまま、床へ落ちた自分の弓を足先で遠ざける。
通信官は中継晶へ掌を置いた。
青い光が制御板を走った。
「西根路第四避難所へ。飲料水は南配管から受け取ってください。根路橋は閉鎖中。子供を近づけないでください」
通信官自身の声が枝葉を通り、三日ぶりに都市へ降った。
窓が開く。通りで人が足を止める。東でも西でも、最初に聞いたのは誰の宣言でもなく、水の場所だった。
通信官は二枚目の避難連絡票を取った。サルカは止めない。
東根路の閉鎖路を読み終える前に、青い光が途切れた。
幹心室から回線閉鎖を受け、中継晶が白く濁る。
「幹心室から市内線を切られました」
通信官が言った。
根元広場では、第二盾列の右端が破れていた。
負傷者を東階段へ運ぶ列と、前へ出る第三列がぶつかる。担架を縦にしなければ通れず、胸を射られた兵の身体が布帯の中でずれた。血を吸った布が階段へ垂れる。
黒豹が倒れた盾を越えた。
一人は剣で追い返されたが、二人目が列の内側へ入り、号笛を持つ兵の肩へ刃を入れる。笛が樹皮床を転がった。
ディルハは剣を上げた。
「三列目、東階段へ! 負傷者から下げろ!」
副官の号笛が退却を告げた。
盾列は一度に背を向けない。前列が槍を揃え、後列が倒れた兵を引く。肩を射抜かれた兵の革帯を二人で掴んだため、その場所だけ盾が薄くなる。
黒豹が入った。
一人は剣で追い払われ、もう一人は盾の縁へ顎を打ちつけた。舌を噛んだ血を吐きながら、兵の足首へ刃を入れる。倒れた兵を踏まないよう後続が開いた半歩へ、衛戍兵の槍が返った。
穂先が黒豹の腹へ沈む。
男は槍の柄を掴み、引かせなかった。兵が手を離したときには、別の黒豹がその横を抜けている。
誰が最後に刺したのか、もう記録できなかった。
ディルハは東階段の入口で残兵を数える。通信樹一つを守るため、ここで全員を使い切る気はない。
「隔扉を下ろせ」
最後の盾が下がると、隔扉が降りた。
ゼグは幹心室へ入った。
制御卓の主認証を収める窪みは空だった。周囲の樹皮だけが淡く光り、外した晶石の形を残している。
「東階段から都市庁まで追える」
黒豹の一人が息を切らして言う。
ゼグは東階段の隔扉を見た。
「命令は樹までだ」
「逃がすのか」
「そう決めた」
短刀についた血を外套で拭い、制御卓から離れる。
主認証晶はない。外部へは発信できない。
それでも幹心室からの遮断は止まり、六番中継室の青い光が戻った。
夕刻、通信樹から最初の声が流れた。
六番中継室の通信官が、セレネア語で避難路と水の配給場所を読み上げている。
声だけを聞けば、昨日までと変わらない。
その背後には、血の乾いた革鎧を着た崖鷲が立っていた。
最後の立入禁止区画を読み終えると、崖鷲が紙を差し出す。
「次はこれだ」
通信官は紙を受け取った。
一行目。
二行目。
読み進めるほど、口元が固くなっていく。
末尾にある二人の名まで目を通すと、紙を制御卓へ置いた。
「読みません」
崖鷲が顔をしかめた。
「……何だと?」
「聞こえたでしょう」
「ここまで運んできた。外じゃ仲間が何人も死んでる」
通信官の指が紙の端を押さえた。
「私の同僚も死んでいます」
崖鷲の嘴がわずかに開き、そのまま閉じる。
通信官は紙を押し返した。
「水がどこにあるかは読みます。どの道を通れば子供が矢に当たらないかも読む」
そこで一度、崖鷲を見る。
「でも、あなたたちが正しいと、市民に私の口から言わせるつもりなら――」
「そんなことは書いてない」
「同じです」
「違う」
崖鷲の声が低くなる。
「俺たちは――」
「違いません」
今度は通信官が遮った。
室内が静かになった。
窓の外では、枝に残った網が風に擦れている。
崖鷲はしばらく紙を睨んでいた。
怒鳴れば済む。
剣を抜けば、もっと早い。
だが、どちらもしなかった。
階段の下から、荒い呼吸が近づいてくる。
「……それ」
声がして、二人が振り向いた。
セナが階段口で片手を膝についていた。額の毛が汗で張りつき、息を吸うたび肩が上下している。
「私が……書いた文です」
崖鷲が何か言おうとしたが、セナは手を上げて止めた。
「いい」
一度、大きく息を吸う。
それでも声はまだ掠れていた。
「その人に読ませなくていい」
セナは通信官の前まで歩き、紙を取った。
「私が書いたんだから」
紙を握る指に力が入る。
「私が読みます」
セナは通信官から紙を受け取り、制御卓の前へ立った。西側の取り決めをセレネア語で読み、そのあと氏族共通語でも繰り返した。
二つの声が、同じ枝葉を使った。
市民は、自分に必要なものだけを聞いた。
水の場所。
パンの時間。
矢が飛ぶ道。
誰が正当かという部分は、窓を閉める音に消えた。
冠枝へ上げられたのは氏族旗ではない。穀倉と同じ白い配給布だった。今日の一人分を示す黒い横線が、夕風の中で折れている。
通信樹から都市の外へ、声は出なかった。
代わりに、正午前に西門を抜けた二枚の紙が、それぞれ別の道を進んでいる。
街道を選んだ走者は、日没前に城外の氏族陣地へ着いた。紙はそこで次の走者へ渡された。行き先は王都の盟約会議。そこから六つの主権国家へ回される。
戦場指揮、灰狼バルガ。文案作成、赤狐セナ。
国名の代わりに、二人の名が書かれた紙だった。
認証晶を持ち出したラディルは、都市庁地下の文書庫へ戻っていた。
手の中の晶石には、歴代の都市評議長と王府通信官の認証が重なっている。
これがあれば、通信樹を奪われても王府の名で偽の命令を出されずに済む。
同時に、これがなければディルハも、市民も、通常の回線で外へ助けを求められない。
東門から王府の騎馬伝令が着いた。
封紙に記されているのは、救援隊一千八百、明日の日没までに到着予定という二行だった。
ラディルは文を二度読んだ。
「都市評議会へ伝えろ。住民には伏せる」
「衛戍隊には」
「到着六刻前まで知らせるな」
監察兵がためらう。
「セレド司令は、救援と呼応する配置が必要だと」
「内応者がいる。救援の到着時刻を広く回せば、敵にも漏れる」
「司令まで疑うのですか」
「疑うのが我々の仕事だ」
ラディルは救援の数字を、衛戍隊へ回す文書から外した。東門の倉庫と厩舎へ出す荷役票にだけ残す。
ラディルは認証晶を金属箱へ入れ、蓋へ三つの封印を掛けた。
文書庫の壁には、王府の命令が届く範囲を緑で塗った市街図がある。ラディルは応答の消えた西半分を墨で消し、残った東半分の境へ前より太い線を引いた。
その図に、住民の数を書く欄はない。
ディルハが救援の接近を知ったのは、監察隊からではなかった。
東門の穀物庫と厩舎へ、一千八百人分の糧食、二百騎分の飼料、宿営地の準備を命じる作業票が配られていた。兵数を伏せたままでは、袋も馬房も揃えられない。
西側に家族を残した根路の荷役主任は、割り当てられた袋と飼葉の数を別の作業票へ写した。正規の票は倉庫へ返し、写しは空桶の底へ敷いて第二線へ送る。桶を受け取った水運びが、同じ数字を西側へ回した。
王府の命令書は閉じられていても、荷車の数までは閉じられなかった。
ディルハは都市庁へ使者を送った。求めたのは救援隊の規模、指揮官、到着路である。
返ってきたのは、配置を保持せよという一行だけだった。
「こちらを守備隊と呼びながら、守るための情報は渡さないらしい」
副官が言う。
ディルハは市街図へ、推定到着路を三本引いた。
通信樹の冠枝からなら、森の動きが見える。隠した情報ほど、こちらより先に敵が見つけることもある。
「明日、都市庁前まで線を下げる準備をする」
「穀倉前を放棄するのですか」
「穀倉前は、もう半分しか守れていない」
「救援が来れば挟撃できます」
「来るまで持てばな」
ディルハは、通信樹の冠に上がった白い布を見た。
氏族旗ではない。黒い横線が一本。地上からでも読める、今日の配給量である。
敵は取った場所へ、旗より先に数字を掲げ始めている。
軍の前進より、その方が長く残るかもしれなかった。
その日の死者名簿には、根元広場で倒れた獣人側十九人とセレネア兵十四人が記された。
枝上では通信官二人が死に、朝に落ちた男とは別に崖鷲族四人の名が増える。そのうち一人は、行方不明だった三人のうち、下の枝で遺体を見つけられた者だった。残る二人はまだ見つからない。
翼の付け根や風切羽を傷つけた者は、日が落ちてから昇降籠で下ろされた。外から傷が小さく見えても、風を受けられなければ自分では帰れない。一人を寝かせるたび、二人が枝上の持ち場を離れた。
通信樹は獣人側の手に落ちた。それでも認証晶は都市庁に運ばれ、救援軍は止まらなかった。
リュサの声は戻った。
誰の声なのかだけが、前より分からなくなった。




