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第三十一章――水を止めない戦

水は朝を待たなかった。


西門側の配水口から、細い流れが落ちている。


前日の夕方に開けられた西管だった。


桶を持った者たちが、暗いうちから並んでいた。


だが、夜明け前に流れが細くなる。


やがて止まった。


「またか」


誰かが空の桶を蹴った。


根路管理所では、フィレネが閉じた西弁を見ていた。


「誰が閉めた」


若い技師は答えない。


代わりに、灰白の外套を着た監察官が命令書を差し出した。


「敵支配区への供給停止です」


フィレネは紙を見なかった。


「昨日、開けろと言われた」


「今日は閉じろという命令です」


「水は昨日と今日で旗を変えん」


「命令は変わります」


フィレネの杖が床を打った。


「紙は便利だな。弁の場所も知らずに、水を止められる」


戦時保安令では、敵支配区へ送られる水、食料、魔力その他の戦略物資についてのみ、王府保安命令が現地軍の判断へ割り込める。


戦場で兵をどこへ置くかはディルハが決める。


だが、その兵を支える水を敵側へ流してよいかについては、ラディルたちにも命令権があった。


そこへ、設備を壊さず命令を実行できるかを判断する、フィレネたち根路技師の権限が重なる。


三つの権限が、同じ弁へ別の命令を出している。


結果、西管は再び止まった。


止まった水では、三千人近い兵と住民、負傷者、家畜を支えられない。汲み置きも朝を越えない。


夜明け、西門側の井戸にはすでに底が見えていた。


呼び出されたバルガが井戸を覗き込んだとき、底からは泥を掻く音ばかりが返ってきた。引き上げた桶には濁り水がわずかに残り、その中で白い根毛が揺れている。


井戸番の穴熊老女は、最後の一杯を飲料桶へ移さない。布を浸し、腹を裂かれた黒豹の唇へ当てる。


「次は」


列の先頭にいた男が問う。


「ないよ」


「朝まで待てば」


男は、続きを口にできずに井戸を覗いた。


「朝になれば出るのかって? 知らんよ。私に聞いたって、水は湧かない」


老女は空の桶を井戸端へ伏せた。


並んでいた者たちは動かなかった。ほかへ行けと言われないかぎり、そこに立っていたかったのだろう。待つ場所を変えても水は増えない。それでも列を離れれば、自分の分だけ失う気がする。


セナが夜半までにまとめた数では、西門の内外に兵と住民を合わせて三千人近く。馬と荷牛が二百頭、負傷者は百六十余りに及ぶ。煮炊きを止めても、概算で朝までに大桶七百杯を越える水が要る。


井戸は二つ。一つはもう底を見せ、残る一つにも長い列ができていた。


根路の水が戻らなければ、門を守るどころではない。


セナが空になった水樽を数えている横で、モグルが根路図を広げた。


「前と同じ入口は?」


「もう塞いでる」


「見たの」


「音で分かる」


モグルは図の一点を爪で叩いた。


「一度入られた道を、そのまま残すほど馬鹿じゃない」


バルガが管理所の印を見る。


「もう一度入れるか」


「入るだけならな」


「取れるか」


モグルは鼻を鳴らした。


「前も入るだけは入った」


誰も笑わなかった。


バルガは門楼に氏族代表を集めた。


来たのは、三十六氏族のうち二十一氏族の代表だった。夜番を離れられない者、負傷者のそばから動かぬ者、呼びに行っても姿を見せない者がいる。来られない氏族からは、氏族印を押した木札や伝言だけが届けられていた。


書かれているのは、夜番を離れられない、負傷者のそばを離れない、現配置を維持する――といった現在の状態だけだった。


根路管理所へ新しい攻撃を仕掛けることへの賛否まで示したものはない。


「根路管理所へ手を出すなら、ここで決める」


バルガは集まった代表を見た。西門を守るだけなら、暫定指揮の範囲で動ける。だが、新しく攻めるなら話は別だった。


弁を開けさせる。


口にすれば、それだけで済む。


「火を入れろ」


岩猪の代表が市街図へ爪を置いた。


「東へ煙を送れば、籠もっていられん」


「根が燻る」


穴熊のモグルが、その爪の先を太い指で押し戻す。


「九本の古木は地下で繋がってる。火が走れば、西門まで死ぬぞ」


「水をかければいい」


「その水を取りに行くんだろうが」


別の者が天井を落とせと言い、モグルは水圧塔ごと埋まると返す。東の送水路を外から切る案には、町中の水を止める気か、と鼻を鳴らした。


何を出しても潰される。岩猪の鼻息が荒くなり、バルガも同じ苛立ちを覚えた。


ただ、モグルは反対するために反対しているのではない。土を掘る者は、落とした天井がどこへ重みを逃がし、傷つけた根が何日後に腐るかまで見てしまう。


「お前ならどう取る」


「取らない」


聞き違えたかと思った。


「水がない」


「知ってる」


「なら、どうする」


「中の奴らと一緒に弁を開ける」


岩猪たちが鼻を鳴らす。


「敵に頼むのか」


「弁は四百年前の青銅だ。閉めたまま圧を上げりゃ割れる。割れたら、向こうも飲めん」


「分かっているなら、もう開けているはずだ」


「兵は知らん。技師は知ってる」


「技師を呼べ」


「呼ぶ道が格子の向こうだ」


また、それか。


こちらには足りない者がいて、その者はいつも線の向こうにいる。


バルガは市街図を覗き込んだ。根路管理所は、九本の古木のうち西端の一本、その根元を刳り抜いて造られている。地上入口は第二線のすぐ横。地下には三本の保守路があった。


下水路。送水管に沿う点検路。古い獣道の上へ根が伸び、空洞になった道。


「兵は通れるか」


「下水ならな。ただし、もう気づかれてる。点検路は一人ずつ。古い空洞は途中で沈んでる」


モグルの指が下水路から中央水槽へ動く。


「俺たちは格子へ行く。沼獺が下から水槽へ入る。灰狼と岩猪は地上入口で音を立てろ。攻めるふりだけでいい」


「ふりでも矢は飛んでくる」


「そのための盾だ」


「下がる合図は」


バルガが問うと、モグルは管理所の西壁を爪で叩いた。


「西管へ水を通せたら、小窓から赤布を垂らす。それが見えるまでは、下で何があっても押してろ」


「見えなかったら」


「一刻だ。それまでに赤布が出なければ退け。俺たちが失敗したか、布を出す手も残ってない。どっちにせよ、それ以上待っても声は届かん」


「格子は破れるのか」


「破らん。蝶番を外す」


戦の相談というより、修繕仕事の段取りだった。


必要なのも戦士ばかりではない。下水の流れを知る清掃人、古木の中で方角を失わない根路夫、水槽へ潜れる沼獺、格子の蝶番を外す穴熊、その場で弁を打てる鍛冶師。


そして、どの管を開けば施療院へ水が行くのか知る者。


最後の一人だけが、格子の向こうにいた。


バルガは代表たちへ向き直った。


「水を確保するためだけの作戦だ。管理所の設備は壊さない。第二線へ攻め広げない。これを認めるか」


返事が揃うまで、少し時間がかかった。


モグルはその間にも図を見ていた。


前に使った根路には、もう印をつけていない。


各氏族の意思を確かめると、出席した二十一氏族は限定作戦を承認した。


ただし、作戦へ加えるのは、その場で了承した氏族の兵と、すでにバルガの暫定指揮下にあり、今回の作戦参加を了承した部隊だけとする。


欠席した十五氏族へも、作戦内容を記した伝令を出す。


新たな兵を求める場合は、それぞれの返答を待つ。


異議があれば、それも後で記録へ残す。


管理所の恒久的な支配や、氏族連合全体の方針まで決めるものではない。


水を確保するための限定作戦が終わるまで、その範囲の指揮だけが改めてバルガへ預けられた。


朝のうちに、モグルは二十七人を連れて根路へ降りる。


沼獺十二人。穴熊八人。赤狐の根路清掃人四人。鍛冶師二人。それに、長く根路の排泥を担い、目は見えなくても髭で空気の流れを拾い、根を伝う振動から曲がりと段差を数えられる老いた土鼠が一人。


武器は短刀だけにした。長い槍は曲がった根の中で穂先を遊ばせる場所がない。


灯りも最小限。古い壁には魔法灯が埋め込まれているものの、西門を取ったあとに供給を絞られ、子供の寝息ほどの明るさしか残っていなかった。


一行は腰まで汚水へ入る。春先なら骨まで冷える水が、都市の排熱を吸って生ぬるい。油の膜が毛へまとわりつき、ときおり血の臭いが混じった。


モグルは口で息をしようとして、やめる。鼻を塞いでも臭いは喉へ入ってきた。


「止まれ」


先頭の土鼠が囁く。


誰も理由を尋ねない。


先頭の土鼠が数歩進み、暗がりへ手を伸ばした。


爪が鉄へ触れ、低い音を立てる。


灯りを寄せると、通路いっぱいに格子が下りていた。


遮断柵だ。


「やっぱり、一本目を塞いだな」


モグルは柵へ触れる。錆の浮いていない、よく手入れされた鉄だった。


昨夜運び込んだものではない。こういう夜が来ると考えて、何年も前から根の中に仕込んであったのだ。


平時には、根壁の上部へ引き上げられているものらしい。


通路を使うだけなら、溝の存在にさえ気づかない。


ナシャから渡された線図にも、道は描かれていたが、この柵はない。


市内で働く者が知っているのは、通れる道だった。


戦争になったとき、その道をどう塞ぐかまで知っているのは衛戍隊だけだった。


穴熊は汚水へ片腕を差し入れ、泥の中に埋もれた柵の下端を探った。


指先を左右へ滑らせたあと、腕を引き抜いて首を横に振る。


柵の下端は、根壁へ埋め込まれた青銅の受け金具に固定されている。無理にこじれば、金具ごと根壁が裂け、水路まで傷つく。


「こっちだ」


清掃人が脇の排泥口へ肩を差し入れた。幅は一人分にも満たない。岩猪なら鼻先さえ通せないだろう。


沼獺と赤狐が抜け、穴熊も息を吐ききって身体を滑らせる。鍛冶師の一人は胸がつかえた。何度か角度を変えたあと、自分から首を振って工具袋だけを渡す。


戦場で頼られる太い胸が、ここでは道を塞いでいた。


ここで全員を引き返すわけにもいかない。彼を柵のこちらへ残し、痩せた者から先へ進んだ。


同じころ、地上ではバルガが百八十人を西門から第二線へ出していた。


盾を重ね、その後ろで槍を構える。根路へ降りた者たちの姿はもう見えない。下で何が起きていても、知らせが来るまでは進むしかなかった。


セレネア側でも弓が上がる。


「前へ」


十歩。


「止まれ」


盾の手前へ矢が刺さる。警告の一射。


バルガは列を見た。誰も退いていない。


「もう十歩」


二射目は盾の中央へ来た。衝撃で三人の腕が沈み、縁を抜けた一本が戦士の頬を裂く。


三射目から、矢は警告ではなくなった。


盾列の上を越えた一本が、後列の岩猪の鎖骨下へ入る。


男は一歩だけ後ろへよろめいた。


矢を掴もうとした手が胸まで届かず、そのまま膝をつく。


「下げろ!」


隣の二人が腕を取る。


その間にも盾列は進んだ。


男を荷車の陰へ運んだときには、口元から泡立った血が流れていた。


地上では囮のはずだった。


矢の方は、そのつもりではなかった。


血を見ても、地下の成否は分からない。


「押せ!」


岩猪が盾へ肩を当て、荷車の防壁を前へ送る。こちらからも矢を返した。狙うのは胸ではない。盾の縁、胸壁、弓兵が顔を出す枝の付け根。頭を上げさせないための射撃だった。それでも外れた矢が人へ向かわない保証はない。


獣人側から返した矢の一本が胸壁を越えた。


身を伏せるのが半歩遅れた衛戍兵の胸甲、その脇へ入る。


兵は弓を落とし、隣の者へ何か言おうとした。


声になる前に身体が崩れた。


後ろの兵がその弓を拾う。


射線は一つも減らなかった。


戦うふりをするには、相手に本気だと思わせなければならない。本気に見える距離まで寄れば、矢はふりをしてくれなかった。


第二線中央で、ディルハは獣人側の矢筋を追っていた。


浅い。


盾列も左右へ広がらず、門から同じ幅のまま押してくる。路地へ回り込む影もない。


正面だけを見せたいのか。


囮だと決めつけるのは早い。そう思った直後、地下の管理所が頭に浮かぶ。敵が門を取った夜、最初に水を止めたのはこちらだ。


「根路だ」


ディルハは副官を呼ぶ。


「管理所の地下を見ろ」


「予備兵を回しますか」


「二十。これ以上は動かすな」


「二十では足りません」


「根の中へ百人入れても、先頭しか戦えない。正面が本隊だったとき、戻す時間もない」


副官は正面の盾列を見た。二十人では地下が足りず、これ以上抜けば地上が薄くなる。どちらを言っても不安を口にするだけだと悟ったのか、唇を結び、兵を連れて第二線の裏へ走った。


獣人族には統一国家がない。都市評議会では、だから統一された計画も持てないと言う者がいた。


だが盾列の向こうにいるのは、命令書を読まない獣ではない。土を掘る者は穴を知り、水に暮らす者は管を知っている。


昨夜、門を開けた者たちもそうだった。


国がなくても、仕事はある。


その手が覚えた道は、役所の図面より古い。


「根路技師を管理所へ」


ディルハは命じた。


「フィレネも呼びますか」


「あの婆さんなら、もういる」


地下の管理所東側では、ディルハの予想どおり、フィレネが中央水槽の水位計を見上げ、弟子を怒鳴っていた。


「閉めすぎだ! 西管へ逃がせ!」


「西側は敵支配区です。監察隊から供給停止命令が出ています」


「敵を渇かせるために、施療院の管を裂く気か!」


「開けば、敵も飲みます」


「裂ければ、誰も飲めん。開けろ!」


弟子が制御輪へ手を伸ばしたとき、管理所の奥から金属音が届く。


一度。


間を置いて、二度。


衛戍兵が格子へ弓を向けた。


二重の鉄格子は倒れない。上側の留め具だけが外れ、根へもたれるように斜めへ傾く。できた隙間は腕一本分。


そこから濡れた穴熊の顔が覗いた。


「西の弁を開けろ!」


矢が頬を裂き、後ろの根へ刺さる。


穴熊は頭を引かなかった。


「半分だ! 圧を逃がさねえと中央槽が割れる!」


穴熊は顔を引き、隙間へ鉄棒を差し込んだ。沼獺がその脇から腕を伸ばし、内側にある下の留め具を外す。格子はさらに傾いたが、蝶番の固定楔が残っている。別の穴熊が細い鏨を入れ、楔を少しずつ押し出した。


「黙れ!」


衛戍兵が二本目をつがえる。フィレネは杖で弓を下から叩き、放たれた矢を天井へ逸らした。


「言ってることは正しい」


「敵です」


「水圧に敵味方はない」


中央水槽の壁から、獣の唸りに似た音が続いていた。


上流から送られる水は止まっていない。出口だけを絞られ、四百年使われた青銅槽が内側から押されている。継ぎ目に浮いた雫が線となり、細い噴水に変わった。魔法灯へ霧がかかる。


「西管を開ければ、敵陣へ水が行きます」


「開けなければ、ここが割れる。そうなれば誰にも行かん」


「昨日、セレド司令の命令で開けた管だ。もう一度絞らせたのは誰だ」


「監察隊です。王府命令は、西門地区への供給停止です」


樹冠監察隊の声だった。


灰白の外套を腰までたくし上げた若い監察官を先頭に、六人が東側の扉を固めている。


胸には、葉の落ちた枝紋。


泥水が外套の裾を濡らしていたが、男は気にする様子もなく送水停止輪を見ていた。


「供給停止は敵の滞陣能力を削ぐためです。設備が危険なら、中央送水を止めます」


「施療院も止まるぞ」


「備蓄水があります」


「昨夜、負傷者の傷の洗浄で使い切った」


「報告にありません」


「報告書を書けば、患者の渇きは癒えるのか」


若い監察官は答えず、送水停止輪へ向かう。


フィレネの弟子がその前へ出た。監察兵の剣が鞘を離れる。


次の瞬間、床下の排水格子が持ち上がった。


中央水槽へ潜っていた沼獺が二人、床へ転がり出る。撒き散らされた水で監察兵の足が止まり、一人が脛へ組みついた。


剣が落ちる。


沼獺の肩が裂けた。もう一人は尾を床へ打ちつけ、監察兵の脚を払う。


狭い管理所の中で、敵味方が一度に三つへ割れた。


衛戍兵は格子へ矢を射る。穴熊は隙間へ差し込んだ鉄棒を、身体ごと押す。床を滑った沼獺は制御輪を目指し、監察兵は送水停止輪へ手を伸ばした。技師の一人がその腕を掴み、別の一人は短刀を持つ沼獺を押し戻す。制服と毛皮の間を作業衣が行き来し、誰を止めれば水槽を守れるのか、フィレネにも分からなくなった。


振り返ったとき、弟子の一人が胸を押さえて崩れていた。監察兵の剣と沼獺の短刀、どちらを受けたのかは見えなかった。フィレネが名を呼ぶより先に、弟子は血に濡れた手を制御輪へかける。


輪が四分の一、回る。


そのすぐ脇で、監察隊員の一人が脇腹を押さえて倒れた。胸甲の継ぎ目へ短刀が深く入っていたが、誰が刺したのかは混戦に隠れている。頬が水へ沈んでも、もう息は上がらなかった。


空だった西管へ水が走り、根の奥から雷のような響きが返った。


西門側の配水口が、まず泥を吐く。次に茶色い水。泡が切れ、ようやく透明な流れへ変わると、井戸から配水口へ移っていた列の中で歓声が上がった。


地下には届かない声だった。


管理所では中央槽の継ぎ目が裂けている。四分の一では足りない。


噴き出した水が刃のように横切り、魔法灯を一つ砕く。破片と水を浴びながら、フィレネは制御輪を指した。


「西管と南管を全開にしろ!」


最後の固定楔が抜け、格子が根を擦って倒れた。


穴熊たちが雪崩れ込む。


その先には、セレネア兵がいた。


前夜と同じ場所。


違うのは、今度は退くためではなく、水を取りに来たことだった。


最初に隙間を越えた穴熊へ、衛戍兵の槍が突き出された。


穂先が腹へ入る。


穴熊は止まらず、槍の柄ごと兵へ身体を預けた。


二人で床へ倒れる。


兵が槍の柄を引こうと身体を起こしたところへ、後続の沼獺が短刀を突き込む。


浮いた胸甲の裾から、刃が腹へ入った。


同時に、倒れた穴熊の脚が一度だけ震え、動かなくなる。


後ろから来た者たちは二人を越えた。


水槽が軋んでいる。


死者を確かめている時間はなかった。


モグルは倒れた二人を跨いだ。残る衛戍兵の槍が揃うより先に、彼は怒鳴った。


「西管の制御輪だ! 兵に構うな!」


「水槽を見ろ!」


フィレネも杖を投げ、制御輪へしがみついた。


その瞬間だけ、敵味方が同じ方向を向いた。


老いた腕だけでは動かない。モグルが反対側を掴む。セレネアの衛戍兵が一人、槍を捨てて加わった。肩から血を流す沼獺も床を這い、輪の下へ身体を入れる。


四人で押す。


半分。


三分の二。


全開。


西管と南管へ水が逃げ、中央槽の唸りが低くなっていく。裂け目から噴く水も、やがて布で押さえられる太さまで細くなった。


破裂は免れた。


床では、フィレネの弟子が仰向けになっている。別の技師が両手で胸を押さえていたが、指の間から血が溢れ、もう呼吸はない。フィレネは弟子の名を呑み込み、裂けた水槽へ向き直った。ここで止まれば、あの手が回した四分の一まで無駄になる。


肩を斬られた沼獺には、穴熊が自分の腰布を押し当てる。短刀は床へ置かれていた。


それでも戦いは止まらない。


若い監察官が水の中から立ち、フィレネへ剣を向けた。


「利敵行為で拘束する」


「あとにしろ」


モグルは制御輪から手を離さない。


「お前もだ、獣人」


監察官が笛を吹く。東側の扉から増援の靴音が迫った。


重なって、地上から別の号笛が届く。


ディルハの副官を先頭に、衛戍兵二十人が管理所へ入った。


「武器を下ろせ!」


向けられた弓は、獣人族にも監察隊にも同じ角度で揃っている。


「管理所内の戦闘を停止せよ。セレド司令の命令だ」


「王府保安命令が優先する」


「現場指揮権は衛戍隊にある」


「反逆者と交渉するのか」


「水槽を守る」


「同じことだ」


「違う」


副官が剣を抜く。


「この管の先には、二万を超える住民がいる」


監察隊と衛戍隊が向き合い、その間で獣人族も武器を拾う。三方から向け合う刃の下に、死んだ技師と、その胸を押さえる手だけが残された。


誰か一人が踏み込めば、今度は水槽では止まらない。


「こんな人数はいらん。技師と最低限の警備だけ残して、あとは外へ出ろ」


床へ膝をついたまま、フィレネが言う。


誰も従わない。


「聞こえんのか。ここに残るのは設備を動かす者と、それを邪魔させない最低限の警備だけだ。ほかの武器持ちは、旗ごと外へ出ろ」


「管理権を誰に渡す」


モグルが問う。


「水にだ」


「答えになってない」


「なら、水を止めない者に渡す」


フィレネは血のついた手でモグルを指す。


「お前、弁の数字が読めるか」


「読めん」


「水圧計は」


「針が右へ行きすぎたら危ない」


「子供よりましだ。残れ」


数字は読めない。


だがモグルは、根へ手を当てれば水圧の変化を振動で拾えた。


天井のひびがどちらへ荷重を逃がしているかも、管の震えが正常かどうかも分かる。


文字は読めなくても、根の軋みと管の震えなら読める。


フィレネは次に、衛戍隊の副官へ向き直った。


「設備を保つなら、この人数でなければ私は作業しない。セレネア側から技師を六人。衛戍兵は二人。獣人側も、根路を扱える作業員と護衛を必要最小限だけ残せ。戦うためだけの者はいらん。監察隊は一人も入れるな」


「敵に管理所の半分を渡すのですか」


「もう西口まで入られとる」


「セレド司令の許可が必要です」


フィレネは背後の水槽を振り返る。裂け目へ詰めた布が膨らみ、樹脂を持ってこいと弟子が叫んでいた。


「あれが許可を待つと思うか」


副官は使者を走らせた。


「許可が届くまでの現場保全だ。双方、今いる人数から増やすな」


モグルは短刀を床へ置いた。


「西管を止めないなら従う」


副官は共同管理とは呼ばなかった。返答が来るまで、全員が刃を納めたわけではない。負傷者の止血だけが、その間を縫って続けられた。


地上では、盾列が二度目の衝突を迎えていた。


バルガは合図を待ちながら、盾の縁から管理所の小窓を探す。根路へ降りてから、もうどれほどたったのか。頬を射られた戦士の血は首まで伝い、後列へ下げるべきだと分かっているのに、本人は盾を離そうとしない。


小窓から赤い布が垂れた。


成功の合図。


「退け!」


盾列が一斉に下がる。間を詰めようとしたセレネア側から追撃の矢が来たが、ディルハが腕を上げて止めさせた。


頬を裂かれた戦士は片目へ血が入り、盾の縁さえ見えなくなっていた。後列の二人に盾を奪われてようやく下がり、荷車の陰で傷へ布を押し当てられる。


敵はなぜ退く。


やがて西門側の配水口へ桶の列ができているのを見つける。管理所へ入られたのだ。


それでも、水は流れている。


地下から戻った使者が、途切れ途切れに事情を伝えた。管理所の誰が誰へ刃を向けたのかは、本人にも整理できていない。最後にフィレネの提案を述べる。


「共同管理を認めるのですか」


副官が問う。


ディルハは百二十歩先を見る。盾列は門まで退いたが、管理所の西口には獣人の旗が残っている。


奪還を命じれば、地下でまた刃が抜かれる。次は中央槽が持つとは限らない。


「認めない」


口にした自分の言葉が、ひどく空疎に聞こえた。


「黙認する」


「違いは」


使者の報告を追って第二線へ来たラディルの声だった。


「報告書だ」


「言葉を変えても、王府には同じです」


「ここでは違う」


「敵へ水を与えました」


「市民へもだ」


「その水で、敵は西門に居座れます」


「分かっている!」


声が第二線に響き、副官が振り返った。


ディルハは握っていた手を開いた。掌に爪の跡が残っている。


「敵を都市から出せば、市民だけに与えられる」


「管理所を戦場に戻してでもか」


「設備は再建できます」


再建に何年かかろうと、ディルハ自身はその完成を見るだろう。


だが、水の届かない十日を、根路の子供も獣人の老人も越えられない。


百二十歩先の配水口には、獣人の革袋と市民の木桶が交互に並んでいた。


ディルハはそこから目を離した。


「管理所へ監察隊を入れるな」


「命令権を越えています」


「なら、越えたと書け」


「あなたの名は、もう十分に書いてあります」


その日の午後、根路管理所には境界ができた。


西口には獣人。


東口にはセレネア兵。


中央槽の前では、双方が一本ずつ槍を持つ。


どちらの旗も、フィレネが外させた。


「邪魔だ」


制御卓に残ったのは、水圧表と配水図。


それだけだった。


西管へ水が流れる。


東管にも流れる。


誰が管理所を取ったのかを決めるには、まだ言葉が足りなかった。


水だけは、もう待たなかった。


フィレネが水圧計の数字を杖の先で示す。


「この針がここを越えたら、南弁を一目盛り開ける」


「一目盛りってのは」


「これだ」


「印が薄い」


「四百年使えば薄くなる」


「直さなかったのか」


「予算を噴水に取られた」


モグルは笑う。


フィレネは笑わなかった。


「上は、落ちてくるまで地下があることを忘れる」


二人は中央槽の裂け目へ鉄帯を当てた。


獣人の鍛冶師が火を使わず締め輪を打ち、セレネアの技師が樹脂を詰める。工具が東から西へ、西から東へ渡るたび、二本の槍がわずかに動いた。


鑿も槌も、振り向けば武器になる。


それでも、誰も相手へ振り上げない。


負傷者は管理所の両方の出口へ運ばれた。担架の行き先は傷の深さではなく、制服と毛皮で東西に分けられる。肩を斬られた沼獺は、圧迫布の上から腕を胸へ固定され、獣人側へ運ばれた。息のない監察隊員は戸板へ載せられ、東側へ運ばれた。技師たちはそのたびに作業を止め、担架が狭い通路を抜けるまで壁際へ寄った。


死んだ弟子だけは、昨日まで東西に分かれていなかった技師たちと、同じ管理所で働いていた。


朝まで同じ班だった者が、いまは二つの出口の両側に立っている。


だから遺体をどちらへ運ぶのか、すぐに決められる者はいなかった。


夕方までに、その日の西門側で必要とされた量の七割が流れた。


施療院へは通常の九割、根路住宅区へは六割。上層区の防火水槽は満水のままで、噴水はすべて止まった。


都市評議会から三枚の抗議文が届く。


防火水槽を減らすな。


上層区の衛生を維持せよ。


敵占領区へ送水するな。


フィレネは三枚を重ね、制御卓の脚へ敷いた。卓が傾いていたからである。


日没前、前夜の西門攻防とは別に、この日の根路管理所を巡る限定作戦で出た死者が数えられた。


獣人族七人。


セレネア衛戍兵四人。


根路技師一人。


樹冠監察隊一人。


負傷者は、合わせて三十六人。


歩ける者は肩を貸し、歩けない者は戸板と工具箱の蓋に載せられた。水を取り戻したあとも、担架を洗う水には順番がある。血を落としきれないまま、次の負傷者が運ばれていった。


獣人族が取ったのは、管理所の全部ではない。


獣人側が確保したのは西口と、中央槽までの通路。中央槽そのものは、どちらも単独では押さえられなかった。セレネアは東口と上流側の弁を保持している。


どちらか一方が相手を追い出せば、水を止められる。


だから、どちらも追い出せなかった。


バルガは水口で、子供が木杯を満たすのを見ていた。


一杯目をその場で飲み、二杯目は両手で抱えて家へ持っていく。その後ろには、戦士も住民も同じ木札を持って並んでいる。


「勝ったのか」


隣に立つロウが聞く。額には、盾の縁を抜けた矢の傷が細く走っていた。


「水は出た」


「なら、勝っただろ」


「地下には敵がいる」


「追い出すか」


バルガは答える前に列を見た。木札の刻み目を確かめているのは、昨夜、自分の水筒を開けなかった穴熊の老女だった。


「追い出せば、水を動かす者が足りない」


ロウの耳がわずかに伏せられる。


「敵に生かされてるみたいだ」


「向こうもだ」


順番が来て、バルガは杯を受け取った。


口へ運ぶより先に、鉄と樹脂の臭いが鼻へ抜ける。裂けた中央槽を通ってきた水だ。


飲めないほどではない。


だが、勝利の味と呼ぶには濁っている。


その夜、リュサでは西も東も同じ水を飲んだ。


一方は奪ったと思い、もう一方は守ったと思っている。


水だけが、どちらの言葉も知らずに流れた。

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