第二十九章――最初の門
三度目の闇を見たとき、バルガはまだ西門から三百歩余り離れていた。
予定なら、全隊が枝柵の手前まで進んでいる時刻である。
だが岩猪の荷車が北寄りの枯れ溝にはまり、後続を塞いでいた。南から回る灰狼隊は早く鳴った警鐘に足を止め、ゼグの黒豹隊だけが、西門南側の樹医用昇降蔓まで進んで城壁の影へ入っている。
バルガから見えるのは灰狼と大角牛の列までだった。岩猪の遅れは泥だらけの伝令から聞き、ゼグの位置は消灯前に届いた報告しかない。
三度目の消灯は、最後の配置へ入る合図だった。
だが、そこへ辿り着けていない隊がまだある。外へ出たピクシーが全隊を回れたかも分からなかった。
「待つか」
ロウが尋ねた。
若い灰狼の息が白い。
返事を待つ五百の耳が、暗闇でこちらを向いていた。
待てば、内側の協力者が捕まる。
進めば、遅れた部隊を置いていく。
決めた時刻は、もう役に立たない。決めた撤退条件だけが残っている。
「進む」
バルガは言う。
「走るな。合流点まで音を出すな。灰狼は二列。大角牛は荷車を押せ。転んだ者を踏むな」
まず動いたのは、その声が届く灰狼と大角牛だった。
岩猪はまだ遅れている。黒豹はすでに別の経路へ入っている。
それでも三度目の消灯を見た各隊が、それぞれの持ち場で動き始めていた。
雄叫びも、角笛もない。
やがて千を越える足音が、凍った草の上で重なった。
夜の草原は音を隠さない。爪、蹄、皮鎧、水筒の揺れ、白く漏れる呼吸。一人なら草に吸われる音も、千人分が重なると地面から返ってきた。
城壁の上から、白い光が上がる。
照明弾だった。
魔力の球が枝より高く昇り、草原を昼のように照らした。
先頭が伏せたところで、後ろの列はまだ光の中にいる。
灰狼の列。
門扉用の丸太。
担架を積んだ荷車。
全て見えてしまう。
「敵襲!」
西壁から声が降る。
警鐘は四度。
今度は、都市外からの攻撃を告げる音である。
枝弓が一斉に引かれる。城壁から三百歩余り先では、まだ狙って当てられる距離ではない。最初の斉射は高く弧を描き、そのあいだにも獣人側は距離を詰め続ける。
バルガは右手を上げた。
「盾!」
岩猪が荷車の側板を起こす。
木と革を重ねた即席の盾が列の前へ並んだ。
最初の矢は先頭を越え、次は手前の草へ刺さった。三度目で、守備兵の距離が合う。
側板へ矢が刺さる。
一人の灰狼が盾の隙間から弓を返した。壁上の兵が肩を射抜かれ、欄干へ背中をぶつける。それでも弓を落とさず、膝をついたまま二本目を放った。
その矢が、別の灰狼の喉へ入った。
男は声を出さず、膝から落ちた。後ろの二人が盾の陰へ引き、喉へ刺さった矢を抜かずに布を当てる。一人が傷を押さえ、もう一人が担架班を呼んだ。
射った兵も、次に飛んできた矢を胸甲の脇へ受けた。欄干を掴んだ指から力が抜け、身体が壁上へ崩れる。後ろの兵は倒れた者を跨ぎ、その弓を拾って列へ戻った。
止まらない。
倒れた者も、手当てに残った二人も踏まない。
軍議で決めたとおりだ。
決めていなければ、最初の負傷者へ列が固まり、次の矢が同じ場所へ落ちていた。
後方の窪地には、赤狐の治療班が待つ。
戦わないと答えた五つの火から来た者たちである。
矢を抜く者、血を押さえる者、名前を聞く者、死んだ者の氏族印を結び直す者。運び込まれた順ではなく、今すぐ手を入れれば生きる者から毛皮の上へ並べる。
そこは城壁から外れた窪地だったが、安全な場所ではない。逸れた矢は、戦う役目も治す役目も選ばなかった。
「崖鷲はまだか!」
誰かが叫んだ。
頭上で風が裂けた。
サルカが照明弾の光を横切る。
四十七の影が城壁より高く上がっていた。三十二人はサルカとともに壁へ向かい、残る十五人はさらに高い円を描く。観測と伝令を担う者たちである。
翼を広げたまま飛び続けるのではない。
上昇気流へ身体を預け、必要なときだけ羽ばたく。力を温存しながら速度と高度を変え続ければ、体熱を拾う感知石を組み込んだ照準具でも、夜空と樹冠の間を動く影を追い続けるのは難しい。
西門北側、城壁から外へ張り出した弩塔で、感知石が赤く灯った。
低空の三十二人を拾い、枝網弩の弩身が兵の手元でゆっくり向きを変える。
石が敵の位置を示す。
最後に狙いを合わせるのは射手だった。
独立基礎の下で、穴熊のモグルは最後の固定楔に両手をかけ、頭上の軋みを待っていた。
四日かけて、固定部を少しずつ削った。それ以上手を入れれば、攻撃が始まる前に異常を悟られる。外から見破られないまま台座を割るには、最初の一射が生む反動を利用するしかなかった。
太い弦が鳴る。
網を畳んだ矢が空へ飛び、途中で枝を広げた。
反動が石台を抜け、モグルの両腕まで震わせた。すぐ脇で、石の裂ける硬い音がする。狙いどおり、亀裂が台座を走っていた。
サルカは片翼を閉じ、身体を落とした。
網が頭上を通る。
後ろの若い崖鷲が避けきれなかった。
左翼へ枝が絡む。
羽根が束で抜ける。
若者は回転しながら城壁の外へ落ちる。
左右から二人が追い、地面へ着く前に腕を掴んだ。三人分の重さで高度を失い、そのまま枝柵へ衝突する。
高空の観測役が落下地点を記憶した。今は救助を下ろせない。地上隊へ伝えるにも、枝弓の射程を迂回する必要がある。
二射目が来る。
「今だ」
モグルは固定楔を引き抜いた。
二射目の弦が引かれる。
台座が傾いた。
矢は空ではなく、隣の監視塔へ放たれた。
空中で開いた枝網が欄干へ絡み、そのまま塔上の兵を巻き込む。
一人は胸へ網を受け、二人は咄嗟に欄干へ掴まった。
だが弩の勢いまでは止まらない。
枝網が欄干を外側へ引き、三人の身体がまとめて持っていかれた。
悲鳴が重なり、三人とも城壁の外へ消える。
弩塔の石床が割れ、弩は台座ごと基礎下の空洞へ沈んだ。
モグルたちが掘り広げた空洞へ、石と根と土が崩れ込む。
穴熊二人が逃げ遅れた。土煙の中で名を呼ぶ声がするが、返事はない。
掘り返しに戻ろうとした一人を、モグルが襟で止めた。弩塔の基礎はまだ沈み続けている。支えを入れ、崩れが止まるまで待たなければ、助ける側まで埋まる。
「一基、止まった!」
サルカは翼を打った。
攻撃役の崖鷲が二群に分かれる。
一群は残る枝網弩へ、一群は通信樹へ。上に残った十五人は、地上の合流点と二群の動きを見比べている。
彼らは地上兵を運ばない。
爪へ短い縄を巻き、自分たちの身体を弾丸にした。
城壁上の兵が弓を向ける。
崖鷲は木の枝へ隠れ、上下から現れた。
飛ぶ者との戦いに慣れた兵は少ない。それでもリュサの兵は逃げなかった。
二人一組で背を合わせ、低く来る者へ槍、高く来る者へ弓を向ける。
最初に降りた崖鷲は、足をつく前に胸を射抜かれた。
二人目の崖鷲が、その射手へ飛び込んだ。
鉤爪が胸甲の肩紐を切り、兵の身体を欄干へ叩きつける。
隣の兵が槍を横から突き出した。
穂先が崖鷲の脇腹へ沈む。
翼が一度、大きく開いた。
崖鷲は槍から逃げるのではなく、刺されたまま兵へ体重を預けた。
二人の身体が欄干へ乗る。
兵が槍を抜こうとする。
間に合わない。
崖鷲が翼を閉じた瞬間、二人まとめて壁の向こうへ消えた。
下から、重い音が二つ続く。
どちらが先に死んだのか、城壁に残った者には分からなかった。
次の一人が、その兵の弓へ翼を被せる。
視界を奪い、鉤爪で弦を切る。
三百歩余り先のバルガに見えるのは、照明弾の周りで鳥の群れが乱れたような影だけだった。
壁上では、枝と羽と血が絡み合っている。サルカには地上の門隊の位置が見えた。だが、戦闘中の地上へその場で声を届けることはできない。高空の伝令役へ合図を送っても、枝弓の射程を迂回して地上の指揮所へ届くまでには時間がかかる。
そのころ西門南側では、二人のセレネア兵が樹医用昇降蔓の根元を守っていた。
三度目の合図のあと、バルガが待ったか進んだか、ゼグには分からない。城壁の影を伝って背後へ近づき、一人が壁上の戦闘へ顔を向けた瞬間、その口を塞いだ。もう一方の手に握った刃を、胸甲の脇へ入れる。
声は出なかった。
隣の兵は、倒れた槍の音で振り向いた。
角笛へ手を伸ばす。
黒豹の女が背後から腕を絡め、喉ではなく手首を切った。
角笛が落ちる。
兵は叫んだ。
もう隠れる時間は終わった。
ゼグは刃を返した。
「登れ。壁上へ出たら北へ進め。門上を取る。生きている者は縛れ。武器を持って抵抗する者だけ殺せ」
命令を聞いた黒豹の何人かが彼を見る。「生きている者は縛れ」は、白鹿の夜にはなかった言葉だ。
ゼグはその視線を受け取らない。今は理由を問う者もいない。
黒豹隊は樹医の昇降蔓を登っていく。
先頭が鉤をかけ、後ろが押す。
槍が下へ突き出される。
一人が肩を貫かれ、蔓から落ちる。下の者が受け止め、二人とも倒れ込んだ。
肩の槍傷へ布を押し当て、後列の二人が壁際から引きずり出す。そのぶん昇る手が減っても、次の者は待たなかった。
同じ頃、灯油庫では、次の矢がナシャへ向けられていた。
最初の矢は彼女の左上腕を貫いている。布芯を引いた瞬間に身体が捻れ、胸を外れたのだ。
矢尻は背後の板壁まで食い込み、腕を縫いつけていた。
監察隊員が次の矢を番える。
「動くな」
「もう動かした」
西壁の灯りは消えている。
補助線は戻らない。
監察隊員が踏み込んだ。
床下の格子が跳ね上がった。
犬系の男が棍棒で膝を払った。
弦が鳴る。
矢は天井の導線へ刺さり、緑の火花が降った。
監察隊員の後ろにいた二人の衛戍兵が剣を抜く。
最初に飛び出した犬男に続き、根路から四人が上がってくる。
棍棒と縄だけだった。
刃を持つ兵へ、短い武器で近づく。
一人が腿を斬られた。
もう一人が兵の腕へ縄を巻き、柱へ引いた。短い武器では届かない間合いを、二人がかりで詰めていく。
ナシャは矢を抜かない。抜けば血が増える。
犬男が板を棍棒で割り、壁から矢尻を外した。矢柄は腕へ残し、裂いた布で両側を固定する。そのあいだにも、廊下の足音は近づいていた。
ナシャは痺れ始めた左腕を胸へ寄せ、点火盤へ身体を預ける。
後から上がってきた四人へ顔を向けた。
「お前たちは管理所へ行け」
根路口にいた一人が、ナシャの腕を見る。
「お前はどうする」
「ここに残る。補助線を戻させない」
「一人では持たない」
床板を割った犬男が、棍棒を握り直した。
「一人じゃない。俺が残る」
廊下から、別の足音が近づく。
味方か兵か分からない。
血と油の臭いが混じり、ナシャの鼻でも味方か兵か嗅ぎ分けられない。
「聞いたな。四人は行け!」
四人が根路へ戻る。管理所までは枝道が多く、走ってもすぐには着かない。
犬男は動かず、ナシャと廊下の間に立った。
「俺はここだ」
朝、西門で包丁を取り上げられた犬男より若い。
片耳の先が欠け、油と肉の臭いが染みついた前掛けを腰へ巻いたままだった。
刃を持たないまま、兵との間に立つ。
「名前は」
ナシャが尋ねた。
「今か」
「死んだら記録する」
男は牙を見せた。
「ガド」
廊下の角へ、銀緑の胸甲が現れる。西壁まで塞がった通りを抜けてきたディルハだった。
衛戍長の目が、灯油庫の中を順に拾う。
倒れた監察隊員。
縛られた兵。
腕を射抜かれたナシャ。
棍棒を構えるガド。
彼女は剣を抜いた。
「点火盤から離れろ」
「門を開けるまで離れない」
「外に何人いる」
「門を閉じた者より多い」
「開けば、ここにいる子供も死ぬ」
「閉じても死ぬと、前に言った」
ディルハは一歩進む。
ガドが棍棒を上げた。
「退け」
「嫌だ」
「私はお前を殺したくない」
「それは、俺たちが従う理由にならない」
ガドが先に動き、棍棒を横へ振った。
ディルハは剣の腹で受け、柄で顎を打つ。犬男の脚から力が抜けても、刃は返さなかった。
ナシャが点火杖を投げる。
ディルハは避ける。
フィレネが配管図の端を指で叩いた共通主幹は、点火盤の奥にある。非常時の今だけ、西壁の照明と門の根弁が途中まで同じ線を使っていた。
その隙に、ナシャが共通主幹の導線を引き抜く。
門を直接動かす線ではない。それでも、灯りとともに門系統へ流れる魔力が止まる。
城壁の枝が、低く軋んだ。
西門を抱いていた太枝から、緑の光が抜けていく。
四十数える間。根弁を押さえられなければ、門の力はすぐ戻る。
「何をした」
ディルハの顔から血の気が引く。
「四十だけ、門を都市から借りた」
ナシャは言った。
衛戍長は剣を収め、ナシャの右肩を掴んだ。
点火盤から引き剥がされる勢いで左腕の矢柄が揺れ、ナシャの膝が落ちる。喉の奥で声が潰れた。
ディルハはそのまま彼女を点火盤から離した。
「補助線を戻せ!」
部下へ叫ぶ。
だが、導線についた色別札と刻印は油と血に覆われ、どれが門系統か一目では判別できない。
七十四年働いたハルネなら分かる。彼女は監察隊の拘置室にいる。
必要な仕事をさせるあいだは臨時雇い。危険になれば、最初に縛る相手。
都市は、自分で自分の指を縛っていた。
ディルハは廊下へ駆け込んだ部下にナシャを預けた。
「この女を施療院へ運べ。拘束はするな。まず血を止めろ」
監察隊長が割って入る。
「破壊工作員です」
「腕を射たのはあなたの隊だ。尋問は血を止めてからにしろ」
「王府の命令を――」
「今、この西壁で命令するのは私だ」
部下がナシャを支えて廊下へ消える。ディルハは灯油庫を出て、西門へ向かった。
灯油庫から枝道を隔てた根路管理所では、フィレネが六つの弁を開いていた。ナシャが送り出した四人は、まだ途中にいる。
上層区の貯水槽から、施療院と根元街区へ水が逆流する。
古い管が震えた。
「圧が高すぎます!」
若い技師が叫ぶ。
「三番を半分閉じて」
「城壁系統が落ちます」
「落とすのよ」
「敵が入ります!」
「分かっている!」
フィレネが初めて声を張り上げると、若い技師の手が止まった。
「あなたも協力者だったのですか」
「違う」
「では、これは何です」
「施療院の水を守っている」
「都市を守ってください」
「都市とは何」
フィレネは九本の根を指した。
「壁? 評議会? 上に住む者? 寝台の子供へ水を送らない都市なら、私は何を守ってきたの」
答えを待たず、弁を回す。
外縁の城壁光が一本ずつ落ちていく。完全には消えないものの、防御魔法は薄くなり、枝の動きが遅くなる。
管理所の扉が破られ、銀緑の兵がなだれ込む。ほぼ同時に、反対側の根路から沼獺と穴熊が姿を現す。
互いに相手の到着時刻を知っていたわけではない。門系統の魔力圧が落ち、管理所の警告具が鳴ったため、両側とも弁室へ急いだ。その結果、ほぼ同時に到着しただけだった。
両方とも弁を守れと命じられている。守りたい向きだけが違う。
最初の槍が突き出される。
沼獺が水溝へ身を沈め、柄を下から掴む。
穴熊が兵の盾へ体当たりする。
狭い管理所では、大きく刃を振れない。
技師たちは床へ伏せたが、フィレネだけは弁輪から手を離さない。
「弁へ触るな!」
敵味方の両方へ叫ぶ。
槍の穂が配管へ当たる。
樹液が噴き出す。
淡い金色の液が床へ広がる。
魔力を含んだ樹液に触れ、兵の手袋が煙を上げた。
「布を! 乾いた布!」
戦いの真ん中で、フィレネは修理を命じる。
穴熊の一人が上着を裂いて管へ巻き、セレネア兵がその上から押さえた。互いを敵と知ったまま、噴き出す樹液が細るまで両手を離さない。
漏れが止まる。
穴熊と兵は、ほとんど同時に手を離した。
次の瞬間、弁室の奥から槍が伸びる。
沼獺の胸へ穂先が入った。
肉を抜ける感触が柄まで伝わり、刺した兵の顔が一瞬だけ強張る。
沼獺は逃げなかった。
槍の柄へ両腕を巻きつけ、その場へ膝をつく。
「弁から離せ!」
穴熊が兵へ体当たりした。
槍を手放せなかった兵も一緒に倒れる。
別の沼獺が短刀を抜き、兵の首元へ入れた。
血が床へ落ちる。
数息前まで管を一緒に押さえていたセレネア兵が、その沼獺を盾の縁で殴った。
牙が一本、金色の樹液の上へ落ちる。
「管から離れろ! 倒れるなら通路側へ倒れろ!」
フィレネが怒鳴った。
敵味方の誰も返事をしない。
弁室では、誰かが倒れても水だけは流れ続けていた。
管理所の東側で、号笛が鳴った。
一度。
続けて二度。
奥の通路から、複数の靴音が返ってくる。
沼獺が顔を上げた。
「増えるぞ」
穴熊は倒れた仲間の腕を肩へ回した。
弁室には、まだセレネア兵が残っている。
さらに奥から、新しい影が近づいていた。
「引く!」
一人ずつ根路へ下がる。
追おうとした兵の前で、フィレネの杖が床を打った。
「ここで走るな! また管を割るぞ!」
兵の足が止まる。
最後の穴熊が根路へ消えたあと、残ったのはセレネア兵と技師だけだった。
弁室の床には、血と金色の樹液が混じっていた。
管理所は取れなかった。
根路へ戻った者を数える。
穴熊が二人足りない。
誰も、探しに戻ろうとは言わなかった。
西門の太枝が、完全に力を失った。
門前まで辿り着いていた岩猪隊が、その変化を見て動く。
「今だ!」
二百四十人の岩猪隊が門前へ押し寄せる。
その先頭で、丸太を担いだ者たちが肩を揃えた。
門を打ち破るためではない。
開いた隙間へ差し込み、閉じさせないためだった。
門扉そのものは、枝の重さでまだ閉じている。
ただし根弁を内側から回す者が要る。六人の協力者は、すでに西門地下へ着いていた。
目の前にあるのは、輪のような木製の取手。
直径は大角牛の背丈ほどある。
平時は魔力で回る。
今は止まっている。
安全に回すなら、十二人必要だった。
六人しかいない。
「足りない」
山羊男が歯を食いしばる。
「今さら数えるな」
山羊男の隣へ赤狐の女が立つ。犬が二人、人族の荷役夫、エルフの清掃夫。
六人で取手を押しても、最初は木肌が軋むだけだった。
外から、丸太が門を叩く。
一度。
二度。
三度目で、内と外から同時に押す。それだけは事前に決めていた。
六人が取手へ肩を入れる。
三度目。
丸太が門へ当たる。閉じようとする枝がわずかにたわみ、根弁の軸から荷重が抜けた。同時に、六人が押す。
取手が指一本分動き、根の奥で何かが外れる。
門扉の間へ夜の線が生まれた。
岩猪たちは、合図に使った丸太をそのまま隙間へ差し込む。内側の六人も取手から手を離さない。
枝が開く。
一尺。
二尺。
最初の岩猪が肩を入れる。閉じようとする樹皮が鎧を削り、後ろから仲間の重みが加わった。
門は、都市の意志のように閉じようとした。
太枝へ魔力が戻り始めている。
「楔!」
鉄楔が隙間へ打ち込まれる。
一本が弾かれ、岩猪の頬を裂く。血が片目へ流れても、後列へ下がる余地はない。隣の者が袖で目元だけを拭った。
二本目。
三本目。
根と石の間へ入る。
閉じる力が止まった。
ようやく、人一人が通れる隙間ができる。
西門南側の昇降蔓から上がった黒豹隊は、壁上を北へ進み、門上の守備兵を押し戻していた。
城壁へ上がった黒豹の一人へ、正面から槍が突き出された。身を捻って穂先を外す。その後ろにいた男の腹へ、槍が深く入った。
刺された男は柄を両腕で抱え込み、離さなかった。
「行け」
前の黒豹が柄を踏みつける。引き戻せなくなった守備兵の身体が前へ泳ぎ、短刀が胸甲の脇へ入った。兵の膝が落ちても、腹を刺された黒豹は立ち上がらない。後続は二人の間を越えていく。
門上へ続く狭い壁道では、別の守備兵が弓を引き切る前に黒豹へ組みつかれた。二人は欄干へぶつかり、兵が剣を抜いて相手の脇腹を裂く。黒豹は手を放さず、そのまま兵ごと壁の内側へ落ちた。下から、どちらのものか分からない短い叫びが一つ届く。
残った守備兵が盾を揃える。先頭の黒豹は盾の縁へ肩を当て、後ろの二人がその背を押した。押し返す槍が頬を裂き、別の穂先が後列の腿へ入る。それでも列は止まらず、盾ごと兵を門上の階段まで押し戻した。
ゼグが門上から縄を滑り、最初に内側へ足をつく。
目の前にセレネア兵がいた。
若い兵だった。
槍を向けている。
槍先が震えている。
ゼグは刃を構えた。
兵の後ろで、市民が逃げている。
老人を支えるエルフ。
パンを抱いた人族。
門内へ入れられた獣人の子供たち。
その中に、赤狐の少女――リイがいる。
兵の槍が伸びた。
ゼグが身をずらす。
刃を喉へ向ける。
白鹿の角輪が、火の中で崩れた形のまま浮かんだ。
刃を止める。
柄で槍を叩き落とし、兵の顎を殴る。
若い兵が倒れる。
「縛れ」
後続へ言った。
次の瞬間、横の路地から矢が飛んだ。
黒豹の一人が胸を射抜かれ、背中から石畳へ落ちた。近くの二人が戸口の陰へ引くが、胸の穴から息が漏れている。白布を当てても、呼吸のたび赤く泡立った。
ゼグの顔から迷いが消える。
路地へ飛び込む。
弓を持つ市民衛兵を倒した。
一人目は腕を切る。
二人目は抵抗を続け、喉を切った。
三人目は弓を捨てた。
ゼグの刃が首筋へ触れる。
白鹿の火が、記憶の中で燃える。
「伏せろ」
彼は言った。
三人目は殺さない。
誰も褒めなかった。最初から、そうするべきだった。
鉄楔は、閉じようとする門の力を受け止め続けていた。
「丸太を抜け! もっと開けろ!」
岩猪たちが門の間から丸太を引き戻す。内側の六人が取手を押し、外では、その後ろから別の岩猪たちが門扉へ肩を入れた。
隙間は一丈近くまで広がった。
門脇に残っていた衛戍兵が、通路へ槍を揃えた。
最初に入った灰狼の胸へ穂先が入る。男は槍を掴もうとしたまま崩れ、その肩を越えて大角牛が柄へ両手をかけた。引き戻す兵ごと壁へ押しつける。
隣の兵が大角牛の首へ剣を振った。刃は角に当たり、欠けた破片が兵自身の頬を切る。大角牛の拳が胸甲を打ち、兵は息を吐き切ったまま石畳へ倒れた。
その横では、別の灰狼が脇腹を刺されていた。身体を引けば穂先がさらに入る。灰狼は逃げずに槍の柄を抱え、後ろの仲間が守備兵へ届くまで押さえ続けた。短剣が兵の肩口へ沈み、二人とも同じ場所へ膝をつく。
門が開いても、道が開いたわけではなかった。
後続の灰狼隊が続こうとする。
同時に、門外へ逃げようとする市民が押し寄せた。
二つの流れがぶつかり、悲鳴が上がる。後列には門内の詰まりが見えず、前へ押す力だけが伝わってきた。
一人が転び、その足元へ子供の姿が消える。
「止まれ!」
バルガが叫んだ。
後続が止まらない。後ろには矢を避けて進む者がおり、前が詰まったことをまだ知らない。
バルガは角笛を奪い、軍議で決めていない長音を三度鳴らした。
灰狼の列に一瞬、迷いが走る。撤退の音ではない。意味の決まっていない異常な三長音に前進が鈍り、大角牛と岩猪が「止まれ」を後ろへ中継した。押す力が少しずつ抜けていく。
バルガは門の隙間へ身体を入れる。
「入る者は右! 出る者は左! 武器を下げろ!」
大角牛が声を繰り返す。
岩猪たちは、先ほど引き抜いた丸太を門の中央へ、通行方向に沿わせて寝かせる。門内の短い区間だけでも、道が二つに分かれた。
赤狐の少女が、倒れた子供の腕を引いている。
バルガは二人を持ち上げ、逃げる市民の側へ渡す。
「母さんを知らない?」
少女が尋ねる。
「名前は」
「ナシャ」
バルガは一瞬、言葉を失う。
都市の中にいるはずだ。
三度、灯りを消した者かもしれない。
生きているかは分からない。
「門柱の赤狐の記録係へ行け。母親の名を伝えろ」
嘘は言わなかった。
安心させる言葉も言えなかった。
リイはもう一人の子供を支え、左の流れへ消えていく。
「今、止める必要があったか」
ゼグが血のついた刃を持って戻る。
「止めなければ、倒れた子供を後続が踏んでいた」
「踏めば進めた」
「住民を敷石にした道の先で、何を名乗る」
「勝者だ」
「国には住民がいる。敷石じゃない」
ゼグは言い返そうとした。
門上から枝が落ちる。
二人は同時に身を退いた。
魔力が戻り、城壁が攻撃者を振り落とそうとしている。
西門は開いたままだが、都市は生きて抵抗を続ける。
ナシャを部下へ預けたディルハが、西門広場へ来る。
ディルハは広場を見た。
西門内へ入った敵は、まだ百に届かない。門外には千以上の影が続き、市民衛兵も各区から集まりつつある。
通信樹は崖鷲に襲われ、非常通信が途切れた。根路管理所から届いた報告は城壁系統不安定――ただし走者が管理所を出た時点の情報で、現在どちらが弁を押さえているかまでは分からない。
全てを取り返そうとすれば、兵が散る。西門、通信樹、管理所のどれも、同じ部隊を振り向かせて間に合う距離ではない。
「第二防衛線へ下がれ!」
彼女は命じた。
「西門広場を放棄。根路橋を第二線にする。抜かれたら穀倉前まで下がれ。家屋へ入るな。市民を盾にするな」
副官が驚いた。
「門を渡すのですか」
「門はもう失った。兵まで失う気はない」
「奪還を」
「夜明けにする。今は都市を二つに切らせない」
退却の笛が区画ごとに受け渡される。最初の音を聞けなかった兵には、伝令が路地を回った。
銀緑の兵は列を作り、歩けない者を槍と外套の担架へ載せて下がる。片脚を傷めた者一人を下がらせるだけでも、左右から一人ずつ、二人の兵が必要になる。
最後尾では、衛戍兵が盾を重ねたまま後ろ向きに下がっていた。追いついた灰狼が盾の隙間へ短槍を入れる。穂先は兵の腿を裂いたが、盾の縁が灰狼の口元を打ち、牙が一本石畳へ転がった。
盾列の端で、一人の衛戍兵が血に足を取られた。
半歩だけ、列から外れる。
追いついた灰狼がその隙間へ短槍を入れた。
穂先が胸甲の下へ滑り込む。
兵は倒れながら剣を振った。
刃が灰狼の首筋へ入る。
二人はほとんど同時に石畳へ崩れた。
誰も止まらない。
セレネア兵は倒れた兵の革帯を掴み、盾列の内側へ引く。
獣人側では別の灰狼が仲間の肩を担ぐ。
数歩離れたところで、どちらも動かなくなった。
名前を聞く時間はなかった。
負傷した兵は片脚を引きずりながら剣を振る。灰狼の耳先が切れ、後ろから来た仲間が兵へ飛びかかろうとした。
バルガが横から肩をぶつけ、その灰狼を止める。
「追うな! 下がる者へ近づくな!」
盾列の向こうでも、兵が一人倒れた仲間の革帯を掴み、引きずっていた。両者の槍はまだ届く。どちらが先に背を向けるか、誰にも決められない距離だった。
獣人側の弓兵が狙う。
バルガは腕を上げる。
「撃つな!」
「退いてるぞ!」
「撃つな!」
全員が従ったわけではない。
二本の矢が飛んだ。
一本は盾へ刺さった。
一本は退く兵の脚へ入る。兵がその場で倒れ、隣の二人は盾を立てて引き戻す。
バルガは射手のところまで行き、弓を取り上げる。
「次は縛る」
「敵を逃がした」
「門は取った。追えば通りで死ぬ」
「白鹿には追いついたくせに」
言葉が深く入った。
バルガは射手を殴らなかった。
「だから、今は追わない」
門外から、後続が順に入り始める。数百歩後方の治療窪地と三本の撤退路には、まだ別の隊が残っていた。
灰狼。
岩猪。
大角牛。
担架。
水樽。
縄。
戦う者の列に混じり、戦いを続けさせる物が運び込まれる。
赤狐の記録係が門柱の脇へ座り、入った部隊の数、負傷者、死者、捕虜、開いた門から逃げた市民を、分かる限り書きつける。
治療窪地から来る札は遅れ、崖鷲の名簿には空欄が残った。数字は書くたびに増え、消しても元へは戻らない。
夜半の暫定集計。
獣人側死者、二十三。
重傷、四十一。
行方不明、崖鷲三、穴熊二。
セレネア側死者、確認できた者十一。
捕虜、二十七。
市民の死者、確認二。
一人は門の混乱で踏まれた老人。もう一人は、流れ矢に当たったパン屋の娘だった。
規則を作っても、死者はゼロにならない。火を使わず、家へ入らなくても、矢は名前を選ばない。
セナは市民死者の欄を別に作った。
ただし、文字の大きさは兵の死者と変えなかった。
「穀倉はまだ」
伝令が息を切らして来た。穀倉から門までは、戦闘前の道でもすぐには戻れない。届いた内容は、少し前の状況である。
「根路管理所も未達成です。侵入隊は撤退しました。穴熊が二人戻っていません」
「通信樹は」
「崖鷲が頂冠を取ったが、導管が切られた。宣言は送れない」
「都市庁」
「手をつけていません」
五枚の木片のうち、確保済みの位置へ移せるものは一枚しかない。
西門だけだった。
撤退条件では、夜明けまで門を保持できなければ退く。
夜明けまでは、まだ時間がある。だが衛戍隊は第二線を整え、市民衛兵も増え続けている。通信樹を止める前に、王都への非常伝令が別の門から出た可能性もあった。
「ここで止めるの」
セナが問う。
バルガは門の外を見る。
暗い草原に、後方の火は見えない。命令が守られているのか、途中の隊が散ったのかも、ここからでは分からなかった。
少なくとも、見える範囲に火はない。
門の内側を見る。
家々の窓が閉じている。
その隙間から、住民がこちらを見ていた。
恐怖。
怒り。
期待。
同じ顔の中に、三つともある者もいた。
「退かない」
バルガは言った。
ゼグが牙を見せる。
「では、第二線を潰す」
「今夜は行かない」
黒豹の牙が消えた。
「何をする」
「門を守る。負傷者を運ぶ。市民の通る道を作る。根路と連絡を取る。夜明けにもう一度決める」
「敵へ時間をやるのか」
「こちらにも必要だ」
「勢いを失う」
「勢いで二万人の都市を走り切れると思うな」
二人の間に、白鹿の夜が立つ。
あのときは、止まらなかった。
止まれば反対が増えると思い、夜のうちに全て殺した。
今、止まることが正しい保証はない。
衛戍隊に守りを固める時間を与え、明日さらに多くが死ぬかもしれない。
それでも、必要という言葉だけで今夜の続きを決めることを、バルガは選ばなかった。
「戦場指揮はお前だ」
ゼグが言った。
「夜明けまでだ」
それだけ残し、門上へ戻った。
セナは門柱の下へ座り、膝に紙を置く。
西門確保。
その下へ、未達成の四項目を書く。
根路管理所。
通信樹。
穀倉。
都市庁。
さらに、予定になかった項目を書き足す。
避難路。
捕虜置場。
市民への布告。
遺体の収容。
迷子。
最後の欄へ、一人目の名前を書いた。
リイ。赤狐。九歳。母、ナシャ。西門内で保護。母の所在、不明。
勝利を書くはずの紙で、最初に結び直されたのは、離れた親子の名前だった。
夜明け前、三十六の氏族旗が門上へ並ぶ。
取ったのは、まだこの門だけだ。
その列の端に、もう一本分だけ間が空けられている。
白鹿の旗を作る者はいなかった。
代わりに焼けた角輪を細い紐で結ぶ。
風が吹いても、旗のようにはなびかない。
ただ、そこに残った。
東の空が薄くなる。
リュサの九本の古木が、闇から姿を現す。
西門の外には獣人族の列。
内側にはセレネアの第二防衛線。
間には、逃げ遅れた住民と、倒れた兵と、両方の負傷者を運ぶ担架があった。
停戦の残りは、二十三日。
停戦文書に記された国々は、それぞれが負う約束をまだ破っていない。
その約束の外側で、国名のない軍が都市の入口を取った。
最初の門は開いた。
都市は、まだ開かなかった。




