第二十八章――灯りを三度消す
攻撃の日、リュサの窯は夜明け前から赤い。
戦争という言葉はまだ布告にない。それでも市民は小麦を買いに走り、パン屋は普段より多くの生地を焼く。商会が値を二度上げたあと、都市庁は買い占めを禁ずる紙を出した。
紙が根元街区の壁へ届くころには、上層区の倉庫は満杯である。下では一人一斤の制限が始まり、列の後ろまで焼けた匂いだけが流れてきた。
誰もまだ剣を抜いていない。
最初に奪われたのは食べ物だった。
ナシャは朝の列に並び、都市へ入った。
今日の荷は灯油ではない。小麦袋を二十四積んだ荷車である。
二つの袋だけ、小麦は半分。その下に縄、白布、短い棍棒、根弁を固定する鉄楔が沈んでいる。
刃は一つも入れない。
縄も白布も鉄楔も、本来の用途は別にある。棍棒だけは苦しいが、少なくとも刃物の持込禁止には触れない。
見つかれば捕まる。それでも、最初から武器を運び込んだという形だけは避けられる。
西門には、一昨日まで二台だった検査台が六台並ぶ。兵が細い棒を袋へ刺し、先についた粉と臭いを確かめている。
二十四袋すべてを開ける余裕はない。検査台では兵が番号札を引き、一台につき二袋だけを抜き取って調べていた。
荷車の進み方は普段より遅い。門外から来る列の最後は、曲がった街道の先へ隠れていた。
ナシャの前に並ぶ犬系氏族の男が止められる。腰の工具袋から出たのは、肉切り包丁だった。
「食肉工房で使う。昨日、工房の包丁を全部持っていかれたから、自分のを持ってきた」
「持込禁止だ」
「これがなければ仕事にならない」
「なら今日は働くな」
「働かなければ、明日から許可を失う」
兵は答えず、男の両腕を縛った。門外へ返さず、内側の仮拘置所へ連れていく。
獣人を追い出せという声と、労働力を残せという命令。その両方へ従った結果が、働く場所へ入れてから働けないよう縛ることらしい。
「次」
ナシャの荷車が検査台へ進んだ。
前に通ったときとは違う門番だった。若く、胸甲の革帯にもまだ使い込んだ跡がない。
検査台の端には、青、赤、黄の木片が箱を分けて置かれていた。評議会が区分を変えてから、再審査待ちの者には赤が渡される。
新兵は荷札とナシャの顔を何度も見比べた。
「赤狐、ナシャ」
「そうだ」
「出生地」
「西の草原」
「氏族」
「赤狐」
「現住所」
「家畜市場西柵、十九番毛布」
新兵は顔を上げた。「十九番毛布」を住所として受け取ってよいのか、荷札へ視線を戻す。
ナシャは笑わない。囲いの番号を住まいの代わりに書いたのは、これが初めてではなかった。
新兵は荷札を検査台の窪みへ押し当てた。
台の木目へ埋め込まれた細い法印が、青く一度だけ光る。
発行元と有効期限を照合するためのものだった。
荷の中身までは分からない。
青い光が消えると、新兵は番号札へ手を伸ばした。
「袋を開けろ」
最初に引かれた番号は、道具を入れていない袋だった。ナシャが紐を解くと、棒は底近くまで刺さり、小麦粉だけをつけて戻った。
「次」
二袋目も本物だった。新兵が棒を拭い、検査済みの印を荷札へ押したところで、門の内側から怒鳴り声が弾けた。
先ほどの犬男が、両手を縛られたまま兵を振り切り、門外を目指して走っている。
三人が追う。
検査台の兵たちも振り返った。
十歩も行かない。槍の柄が脚を払い、男は顔から石畳へ落ちた。鼻の下から赤いものが広がる。
ナシャは二袋目の紐を結び直す。規定の検査は終わっている。新兵が向き直ると、次の荷車を詰まらせるなと顎を振った。
ナシャは荷車を押し出す。
「待て」
胸の内側で一度だけ、大きな音が鳴る。
「仮札を取れ」
赤い木片が飛んでくる。ナシャは片手で受け取り、歩き続けた。
犬男は計画を知らない。今夜、都市を取ろうとしていることも、その荷車へ何が隠れているかも。
騒ぎがなくても、定められた二袋の検査は済んでいた。男の血が変えたのは、新兵が荷札をもう一度見直す時間だけだった。
後ろで何かを訴える声が続いている。ナシャは振り返らなかった。
その頃、リュサの中央では、西部衛戍長ディルハが地図を三枚並べていた。
一枚は軍務局の防衛図。
一枚は根路管理所の配管図。
最後は、市内で雇われる獣人族の居住と勤務先を記した一覧だった。
三枚を重ねても、同じ都市にはならない。防衛図の兵舎と配管図の弁は位置がずれ、三枚目に至っては空白の方が多かった。
出生未登録。期限切れの労働許可。氏族名だけで個人名がない者。同じ札を三人で使っている例。
昨日まで数えなかった人々を、軍は一晩で数えろと言われている。
「王都から返答です」
副官が封書を置いた。
ディルハは開いた。
挑発を避けよ。
都市機能を維持せよ。
不法武装集団の侵入を許すな。
住民の権利を守れ。
必要な措置は現地判断に委ねる。
一つを守れば、別の一つに触れる。挑発を避けたまま武装集団を止め、門を閉じずに都市機能を守れという紙だった。
最後の一文だけは迷いようがない。失敗した場合に記録されるのは、現地判断という四文字である。
「樹冠監察隊は」
「西部を巡察中の二十四名が、こちらへ向かっています。正午には着きます」
「多すぎる」
「監察隊長は、扇動への関与を疑う者の一覧を持参すると」
都市を守るための兵ではない。守るのは王府の治安だった。
公には、扇動者の摘発と重要人物の保護を担う。
実際には、評議会へ逆らう者が夜中に消えるとき、扉の外に葉のない枝紋が残った。
敵が外にいる日に、王府は内側の敵を探す者を二十四人送ってくる。
「指揮権は渡さない」
ディルハが言った。
「王府直属です」
「ここは王府ではない」
副官は返事をしなかった。
ディルハは地図へ駒を置く。
西門に百二十。
東門に四十。
北小門に二十。
南側の枝道に二十。
根路管理所に四十。
通信樹に三十。
市の穀倉に二十。
残りを隊舎と巡回へ。
駒はすぐ尽きた。全てを守れば、どこも薄い。
市民衛兵を今すぐ招集すれば、街道の先にいる斥候にも準備を知らせる。鐘が鳴るまで待てば、集結にはそこから二刻。どちらを選んでも、足りない時間を別の場所から奪うことになる。
「門を閉じますか」
副官が尋ねた。
「閉じれば、明日から根元へ入る荷が止まる」
「一日なら持ちます」
「上層区はな」
ディルハは根元街区の配給報告を見た。
根元街区配給所――小麦、残り二日。
獣脂、一日。
薬草、半日。
市の穀倉には、全住民へ配る七日分がまだある。だが、そこから根元街区へ回す量は、評議会の配給決裁で決まる。商会倉庫にもあるが、市の備蓄ではないという理由で、供出命令は出ていない。
門を閉じて都市を守れば、根元街区から先に食べ物が消える。ディルハは上層区の配給在庫三日分へ一度だけ目をやり、配給報告を伏せた。
「日没の二刻前に閉じる。それまでは検査を増やせ。葬路と排水渠へ兵を置く。根路管理所には、城壁系統を独立させるよう伝えろ」
「完全に切り離すには」
副官が配管図へ目を落とした。
「古い共通主幹が一本残っています。根を開いて継ぎ直せば、早くても半日は」
ディルハは窓の外を見た。
日没まで、そこまでの時間はない。
「今夜までに切れるところだけ切れ。残る線は監視させろ」
「獣人労働者は」
「勤務を終えた者から退去。門外に家族を残している労働者は、施療院裏の臨時宿泊区へ移す」
「家族も入れるのですか」
「まだだ。まず働いている者だけを外へ戻さない」
「監察隊が認めません」
「私が認める」
副官の筆が走る。各所へ着く時刻は違う。最も遠い排水渠へは走者を替えても時間がかかり、途中で招集された市民が道を塞ぐかもしれない。
ディルハは窓越しに西壁の魔法灯を見上げた。
昼でも、淡い緑光が樹皮を走っている。
あれが消えれば、城壁のどこかに異常がある。
都市を守るためにつながれた九本の古木は、一か所の異常まで分け合う。
「灯務局へも兵を」
ディルハが命じる。
一刻後、ハルネは灯油庫で兵を迎える。
正午前には毎日一度、根路側の系統を切り替えるため、灯油庫の補助灯が二十ほど数える間だけ消える。七十四年ここで働くハルネは、切替の時刻が鐘より先に分かった。
「ここに何がある」
監察隊の男が問う。
銀緑ではなく、灰白の外套を着ている。
胸に葉の落ちた枝紋があった。
「油です」
「見れば分かる」
「では、何をお尋ねで」
「油以外に何がある」
ハルネの目に、毎日扱う物が順に入る。樽、布芯、点火杖、古い帳簿。そして壁際の排水口。
その下に、門外の子供が七人隠れている。
朝、ハルネは排水設備の点検荷車を三度往復させた。泥水から工具を守るために高く組まれた底板の下へ、一度に二人か三人ずつ伏せさせ、上には布芯と修理材、弁工具を積む。門では官給札と作業票を照合され、工具箱も開けられた。底板下の重さは、毎回積み替える修理材の差に紛れた。
攻撃の前に子供を入れないという、ナシャたちが決めた段取りには反している。
ナシャは知らない。ハルネが勝手にした。
今夜、門外が戦場になると分かっていて、七人を残して働くことはできなかった。
「帳簿の不足が一樽」
監察隊員が帳簿から目を上げる。
「前任者が数え間違えました」
「前任者はあなたでは」
「なら、私が間違えました」
男が帳簿を閉じる。乾いた音が、排水口の方から返ってきたように聞こえる。
「ハルネ。灯務局臨時雇い、七十三年」
「七十四年です」
「王府は、長く報われない者が裏切りやすいと考えている」
「報いてからお考えになればよかったのに」
監察隊員の目が細くなる。
倉庫の外では、兵の靴音が増えていく。
ハルネは胸の内で、定時切替までの残りを数えていた。
「排水口を開けろ」
子供の一人が息を呑んだ。人族なら聞き流すほど小さくても、エルフの耳は拾う。監察隊員の耳先が、排水口へわずかに向いた。
ハルネは点火杖を棚から落とした。
乾いた音が倉庫へ跳ね返る。
「失礼」
拾おうとして、油樽を蹴った。
栓が外れる。
獣脂を混ぜた油が床へ流れ出した。
外套へ油が跳ね、男が反射的に下がる。
「何をしている!」
「七十四年も報われないと、手元が狂うのです」
排水口へ油が流れ込む。
隠れた子供たちの靴を濡らした。
臭いが全てを覆う。
油は点火盤の下まで届いた。
青い火花が一つ散る。
壁際へ刻まれた防火法印が白く走り、火花を包んだ。
炎になる前に光だけが潰れる。法印が抑えられるのは、まだ火花であるうちだけだった。
代わりに法印とつながった火災警鐘が鳴り始めた。
「点火盤へ油が回った!」
監察隊員は排水口から目を離さなかった。
「全員、外へ出ろ。元弁を閉めろ。鎮火班が入るまで封鎖する。火花が止まりしだい、排水口を開けろ」
ハルネの腕に手がかかる。彼女は油を拭うふりで片膝をつき、朝のうちに点火盤の下まで通しておいた三本の予備布芯を、指先で切替爪へ掛けた。立ち上がるとき、布芯の端を帳簿棚の裏へ押し込む。
「女を連れていけ」
人が倉庫から退いたところで、定時の系統切替が始まり、魔法灯が消えた。ハルネが待っていた、二十ほど数える間の暗闇だった。
同じころ、灯油庫の床下を走る根路では、ナシャが排水口の真下で待っていた。ハルネから、何かあった場合は正午前の系統切替に合わせてここへ来るよう伝えられていた。ただし、何を逃がすのかまでは聞いていない。
排水口の格子が下から持ち上がった。
ナシャの手が、子供を一人ずつ引き込む。
油に濡れた子供を受け取ったのは、ナシャだった。
七人目を引き込むと、ナシャは子供たちの肩を順に触れ、開いた片手へ二本の指を足して数え直した。
灯りが戻る。連れ出されるハルネが一度だけ振り返り、格子越しにナシャと目が合った。ナシャの尾は硬くなり、ハルネは何も言わず口を結ぶ。
監察隊員は油しか見えない排水口へすぐ戻り、工具を持ってこさせた。格子がわずかにずれている。
「二人、下へ。西と南を追え」
監察隊が根路へ降りたころには、ナシャは七人を一つ先の水門まで移し、フィレネから聞いていた管理用横道へ入れていた。追手の靴音が近づく前に点検扉を閉め、別の水路へ足跡を流す。
監察隊はハルネを連れ出し、別班を根路へ回した。排水口を疑った判断は正しかったが、油漏れへの対応で失った時間までは取り戻せなかった。
ナシャは七人を、施療院地下の洗濯室へ運んだ。
洗濯室では、白髪を後ろで束ねた根路技師、フィレネ・アルネスが待っていた。
九本の古木を診て五百年以上。彼女の配管図には、どの根が渇き、どの弁が固いかだけでなく、水を減らせば先に誰が死ぬかまで書き込まれている。
「子供を連れてくる場所ではない」
フィレネが言った。
「ほかに、兵が調べない場所がない」
「今夜から、ここも調べる」
「それまででいい」
洗濯係の人族女が、子供たちへ濡れた服を渡す。施療院の孤児に見せるためだった。
七人の中にリイはいない。
肩から力が抜けかけ、すぐに戻った。ここにいないなら、娘はまだ門外である。
「西壁の灯りを三度消す」
ナシャがフィレネへ言った。
「そのあと、管理所の根弁を止める。城壁と門の力を四十数える間、抜く」
「知っている」
ナシャは配管図を見た。
「管理所まで行けなかったら」
フィレネは図の端へ視線を落とした。
「非常時だけ、西壁の照明と門は途中まで同じ主幹を使う。衛戍長が切り離せと命じたけど、古い継ぎ足しが一本残ってる」
フィレネは灯油庫へ伸びる線を指で叩いた。
「そこを落とせば、少しのあいだ両方止まる」
「戻せる?」
「戻せる者が残っていればね」
「水系統は触らない」
「触らずに門だけ止めることはできない」
フィレネが配管図を床へ広げる。
灯り、門、城壁、水、施療院、汚水処理。色の違う線は古い根の中で何度も交差し、百年前の増設が三百年前の修理を横切っている。記録のない継ぎ足しには、フィレネ自身の細い注記だけがあった。
「門へ送る魔力を切れば、この弁が閉じる」
フィレネが黄色の線を指す。
「閉じれば、外縁区の水圧が落ちる。貯水槽は一刻で空になる」
「一刻以内に戻す」
「戦いは、いつも一刻以内に終わると言って始まる」
「では、どうする」
「施療院と根元街区を、上層区の貯水系統へ繋ぐ」
「上層区の水が減る」
「上層区にはまだ余裕がある。一晩、根元へ回したくらいで干上がりはしない」
「協力するのか」
フィレネの指が、黄色の線の上で止まる。
「私は、あなたたちに都市を渡したいわけではない」
「では、なぜ」
「都市を守りたいから」
都市を開けようとする自分と、守ると言うフィレネ。同じ弁に手をかけても、同じ側にいるとは聞こえなかった。
フィレネは続けた。
「衛戍隊は、攻撃を受ければ城壁系統を最大にする。評議会は、樹冠区の水を守る。記録と同じよ。敵が壁を越える前に、根元の子供が死ぬ」
「私たちが越えれば、別の者が死ぬ」
「だから、死ぬ順番を機械に決めさせない」
フィレネは協力とは呼ばない。
都市を攻める者と守る者が、同じ弁へ手をかける。どちらかを裏切ったと記録するなら、あとは誰の旗の下で記録を書くかだけだった。
正午、樹冠監察隊は十三人を拘束した。
獣人八人、エルフ三人、人族二人。
名がどこから漏れたのか、ナシャには分からない。ナシャが把握している協力者の中にはいない者が捕らえられ、反対に中心にいる者の名が抜けている。連絡先は担当者ごとに分け、全員の名を一枚へまとめてはいなかった。
監察隊は真実を知ったのではないらしい。不満を持ちそうな者を先に捕らえ、その中に一人でも事情を知る者がいればよい。誰も知らなくても、残った者は怖がる。
王府が治安と呼ぶには、それで足りた。
ナシャは根路の暗がりで、連絡役を集めた。
獣人の協力者だけなら、本来は百二十人いるはずだった。だが、この場まで来られた赤狐、山羊、犬、猫は三十四人。そこへエルフ六人、人族三人、ピクシー二人が加わった。
検問を越えられなかった者、怖くなった者、家族に止められた者、すでに拘束された者。来なかった理由まで、一枚の名簿にすることはしない。
「やめるなら今」
彼女は言った。
「名前は残さない。誰も責めない」
二人が列を離れた。そのうち一人は十歩進んで足を止め、何も言わずに戻ってくる。
残ったのは四十四人。
「足りない」
山羊男が言った。
「最初から足りない。だから外から千四百人以上来る」
「外の連中は、道を知らない」
「私たちが知っている」
「それで勝てるか」
「勝つためだけなら、城壁へ火をつければいい」
ナシャは一人ずつ役目を渡した。
根路管理所へ八人。西門の根弁へ六人。穀倉に五人、施療院に四人、貯水槽に三人。二人のピクシーは通信樹の導管へ入り、残りが案内と伝令を担う。
武器を持って戦うのは十二人だけ。ほかは鍵を持ち、弁を回し、負傷者を運び、帳簿を隠す。
都市を動かしている者の大半は、刃を持っていなかった。
日没の三刻前、南の監視塔から煙が上がった。
交易商の列が三つ、離れた地点でほぼ同じ時刻に街道を外れたという。狩人にしては荷車が多く、移住者にしては子供が少ない。
報告は塔から塔を渡る。ディルハへ届くのは煙を上げた時点の位置であり、現在地までは分からない。それでも彼女は、獣人族が集結していると判断して西門の閉鎖を早めた。
「警鐘を一度。市民衛兵を招集。門外の者を中へ入れろ」
副官が聞き返す。
「入れるのですか」
「外へ置けば、攻撃側へ加わるか、人質になる」
「監察隊は危険人物だと」
「危険でない者から入れる。子供、老人、負傷者」
「選別に時間が」
「だから今始める」
命令を携えた騎手が西門へ着くころ、街道の列はさらに伸びていた。門外の家畜市場にいた者たちも加わる。
リイもいた。
九歳以下だと証明する紙はない。
年齢を証明する紙の代わりに、門番がリイの歯を見る。家畜のようだと怒鳴る声が列から上がった。
それでも門は、夜を越えるための場所として、初めて獣人の子供を門の記録に残して内側へ通す。
リイが門をくぐるころ、ナシャは根路の奥にいる。母は娘が入ったことを知らず、娘も、母が都市を開けようとしているとは知らない。
二人は同じ壁の内側へ入った。
違う目的で。
西門の枝が、予定より早く閉じ始める。
門柱へ刻まれた葉脈状の法印が、根元から順に緑へ灯った。
光は城壁樹の内部へ吸い込まれ、九本の古木を伝って走る。
二枚の門扉を抱く太枝が軋みながら降りてくる。
枝先同士が噛み合うと、その隙間へ新しい樹皮が盛り上がった。
閉じたというより、傷口が塞がっていくようだった。
各隊は所定位置の手前まで進み、三度目の合図で最後の配置へ入る予定だった。だが門外では、ゼグの先鋒が西門南側の樹医用昇降蔓へ向かう待機線にまだ着いていない。崖鷲も南風を待っていた。
昇降蔓は西門の南、弩塔は門を挟んだ北にある。弩塔は城壁本体から門外へ張り出し、独立した基礎で支えられていた。その基礎下には、穴熊のモグルたちが排水穴から潜り込み、最後の仕上げを待っていた。
互いの姿は見えない。計画が崩れても、その音が別の合流点まで届くことはなく、決めた時刻だけが過ぎていく。
ナシャのもとへ、犬系の伝令が駆け込んだ。
「門が閉じる。合図を早めろ」
「外へ伝えたか」
「ピクシーを一人出した」
「一人は通信樹に必要だ」
「今夜を越えなければ、明日はない」
伝令が外の各隊を回るには時間がかかる。全員へ届く保証もない。
それでも「必要」が計画を押し退け、通信樹へ入るはずの一人を外へ走らせた。
正しい手順を待てないとき、必要という言葉はいつも早い。
ナシャは灯務局へ走った。
ハルネは拘束されている。
西壁の灯りを消せる者がいない。
だが、ハルネは連れ出される前に点火盤へ油を流していた。
事故に見せるためではない。
油が接点へ回ると、保護機構が魔力導線を切り、補助線へ切り替える。ハルネは、その切替爪を外から動かせるよう細工していた。
補助線の止め方を知るのは、七十四年働いた者だけだった。
ナシャは帳簿棚の裏へ手を入れた。
点火盤の奥から、三本の布芯が垂れている。ハルネが切替爪へ掛けた、即席の引き紐だった。
一本目は主線の爪、二本目は補助線の爪を外す。どちらも三つ数える間に復帰爪が別の線をつなぐ。三本目だけは、その復帰爪そのものを外す。
一本目を引く。
西壁の灯りが消えた。
暗闇は、三つ数える間だけ続く。
西壁を見張っていた崖鷲の観測役が、翼を一度打つ。丘陰の走者がそれを見て駆け、排水渠入口へ合図を落とした。
外の排水渠では、根路管理所へ向かう沼獺と穴熊が進み始める。
灯りが戻った。
西壁から笛が鳴った。都市の兵も、最初の消灯を見ている。
「灯務局を封鎖しろ!」
遠くで声がした。
ナシャは二本目を引いた。
再び壁が暗くなる。
西壁の観測役が翼を二度打ち、地上の走者が、壁を直接見られない合流点へ走る。
外の草原では、合図を受けた崖鷲が次々に翼を開いた。三十二人が低い空へ散り、すでに動いていた観測役を含む十五人は各合流点を結ぶため高度を取る。
西門北側の弩塔をはじめ、西壁の枝網弩が旋回を始める。
弩台の縁に埋め込まれた感知石が、一つずつ赤く灯る。
低空へ散った崖鷲の体熱を拾い、巨大な弩身が数度、小さく向きを変えた。
石が敵の位置を示す。
最後に狙いを合わせ、引き金を落とすのは射手だった。
灯りが戻る。
警鐘が二度鳴った。
鐘楼だけが鳴っているのではない。
九本の古木へ刻まれた警戒法印が同じ振動を拾い、離れた兵舎の小鐘まで二度ずつ震わせていく。
敵襲ではない。
都市内破壊工作の鐘だった。
伝わるのは警報の種類だけで、場所も人数も伝令が運ぶしかない。
通信樹へ向かっていたディルハは、その音で馬を止めた。西壁までの通りは、招集に応じる市民と避難者で詰まり始めている。
一度目の消灯。
二度目。
偶然ではない。
三度目が来る。
「西門を完全封鎖! 根弁へ兵を送れ! 灯務局は生きたまま確保しろ!」
命令を三方向へ飛ばす。根弁へ届く走者と、西門へ向かう騎手は、次の角で別れた。
「市民衛兵は」
「まだ三百です」
「根元街区へ半数。住民を家へ入れろ。武装していない獣人へ手を出すな」
「攻撃側と見分けがつきません」
「武器を見ろ。耳ではなく手を見ろ」
ディルハは西へ馬を走らせた。
王府の監察隊長が後ろから叫ぶ。
「衛戍長、獣人区画を封鎖すべきです!」
「区画などない! 働かせる場所へ散らしたのは、この都市だ!」
三本目の布芯へ、ナシャの手がかかる。
廊下の扉が破られた。
兵が三人入る。
先頭は灰白の外套だった。
監察隊。
「手を離せ」
短弓が向けられる。
ナシャは布芯を握ったまま止まった。
引けば矢が放たれる。引かなければ、外で待つ千四百人以上は合図だけを失う。どこまで伝令が届いたか、地下のナシャには知りようがない。
この灯りを消せば、娘を戦いに巻き込むかもしれない。
消さなければ、娘を市民と数えない都市が残る。
正しい答えはない。
選んだあとで、自分の答えになってしまうだけだ。
「誰の命令だ」
監察隊員が問う。
ナシャは、バルガの名を口にしない。
セナの名も。
「今、引くと決めたのは私だ」
ナシャは布芯を握り直した。
「ここで生まれたのに、名簿にいない子供たちのためだ」
布芯を引いた。
矢が放たれた。
同時に、灯りが消えた。
西壁を見張る崖鷲が翼を三度打つ。丘陰の走者が駆け出し、所定位置の手前で待つ門前部隊へ最後の合図を運ぶ。
三度目だけは、灯りが戻らなかった。




