第二十七章――都市を取る条件
白鹿の角輪は、三日間、中央の火の前にあった。
拾う者はいない。
夜半に雨が通り、焼けた溝へ水を残した。朝には薄い氷が張り、火が大きくなるたび表面だけが濡れていく。
バルガはそこから最も遠い場所を選んで眠った。食事を受け取るときも、井戸へ行くときも、背中に集まる気配だけは消えない。
罵声には振り向かなかった。足元へ落ちた唾も踏まずに避ける。
牙を剥いて決闘を求めた者に対しても、短刀は鞘に収めたまま。
一人目の爪が頬を裂き、二人目の牙は左肩へ食い込んだ。血の臭いが立つたび、角輪の夜が近くなる。やり返せば楽だ、と一度だけ思った。勝ち負けの形にしてしまえば、少なくとも黙って殴られている理由を考えずに済む。
三人目が踏み込んだところで、セナが二人の間へ帳面を差し入れた。
「順番に殴って、全員の気が済んだら国ができるの」
「では、どう裁く」
「これから決める。今まで、それを決める場所がなかったから」
満足した者はいない。
それでも四人目は来ない。バルガの頬に残った血だけが乾いていく。
三日目の夕刻、三十六の火が再び集まる。
この夜、火は輪にならない。中央へ長い獣皮を敷き、その上にリュサの地図を置くと、集まった者たちは氏族ごとに不揃いな半円を作った。
白鹿の角輪は地図の北、誰も座らない場所へ移されている。
空席とは呼ばなかった。名をつけなくても、そこだけ火の熱が届かないように見えた。
「先に決める」
セナの声が、火を越えた。
「バルガとゼグをどうするか」
地図の向こうで、ゼグが腕を組んでいる。
謝罪も誇示もなく、必要なことを終えた者のような顔をしている。その無傷の頬へ向く怒りは、傷を受けても黙っていたバルガへ向くものより鋭い。少なくとも、半円の外から見ているバルガにはそう見えた。
最初に立ったのは、岩羊氏族の老女だった。
「追放しろ」
「リュサを取る前、それともあと?」
セナが尋ねる。
「今だ」
「二人が知っている兵の配置と連絡先を、誰が引き継ぐ」
「それを盾にするなら、なおさら殺せ」
次に沼獺の男が立った。
「殺せば、四十三人と同じだ。反対した者を、話が始まる前に消す」
「同じではない。あれは罪のない者だった」
「では、誰が罪を決める」
答えが出る前に、岩猪氏族の男が鼻を鳴らした。
「妙な話をしているな」
何人かが彼を見る。
「白鹿が連合を抜け、ほかの氏族まで連れていけば、リュサの話はそこで終わっていた。バルガが止めたから、今ここに三十六の火が残っている。それまで否定するのか」
「子供まで殺してか」
沼獺の男が返す。
「そこまでやれとは言っていない」
岩猪は火へ唾を吐いた。
「だが、出ていく者を刃で止めることまで罪だと言うなら、俺たちはいつから王都の法官になった。氏族同士で土地を争ったとき、誰も法官の裁きを待ってから槍を持ったわけじゃない」
別の火から声が上がる。
「国を作るなら、それを変える話をしているんだろ」
「なら変えると言え。昔から全部間違っていたような顔をするな」
火の間に、別の沈黙が落ちた。
白鹿を殺したことへの怒りと、力で物事を決めてきた自分たちの歴史は、同じ場所には収まらなかった。
「四十三で、三十六氏族が残った」
ゼグが言った。
火のいくつかが彼へ向く。
「気に入らないなら好きにしろ。だが、あの夜に白鹿を行かせていれば、今ここに三十六の火があったかは分からない」
「だから正しかったと言うの」
セナが問う。
「結果は残った」
「それを正しい理由にしたら、次は三十六のうち一つを殺して三十五を残せる」
ゼグは黙る。
「三十五で足りなければ、三十四。最後に一つ残っても、結果は残ったと言える」
セナは帳面へ視線を落とした。
「効いたことと、正しかったことを同じにしないで」
誰が罪を決めるのか。その答えは火ごとに違った。
血族の長。殺された者の家族。氏族会合。刃を持つ者。神。
誰かが一つを挙げるたび、別の火から、それに裁かれた記憶が返ってきた。どれも氏族が使ってきた答えであり、最後には強い者の答えになったことがある。
話は夜半まで続いた。
バルガとゼグをどう見るかについて、三十六の火が同じ答えを持つことはなかった。
殺せという者。
追放しろという者。
白鹿を止めるために力を使ったこと自体は間違いではないという者。
四十三人を殺した時点で、理由など意味を失ったという者。
それでも、一つだけ合意できることがあった。
バルガとゼグを赦したことにはしない。
だが、今ここでは殺さない。
二人を、対外交渉で氏族連合を代表する立場から外す。
白鹿氏族の四十三人については、名と殺害の経緯を記録する。リュサを得たなら、公開の場で責任を問うための場を設ける。
逃げた場合、ここに残る三十六氏族は二人を匿わない。
バルガにリュサ攻略の戦場指揮を任せるかは、作戦内容を決めたあと、改めて判断する。
ゼグには、捕虜と住民の処遇を単独で決める権限を与えない。
「国を取るために犯した罪を、国ができるまで裁けない」
輪の外から、ロウの声が飛ぶ。
若い灰狼は、半円へ加わらずに立っている。
「都合がよすぎる」
「そう」
セナは帳面へ目を落とさずに答えた。
「だから、忘れないために書く」
「紙なら燃える」
「三部作る。私が一部、岩羊が一部、沼獺が一部。リュサを取れたら通信樹から全文を送る」
「取れなかったら」
「生き残った者が持って逃げる」
セナが帳面の新しい頁を開き、焼けた角輪のそばで、最初の記録を読み上げる。
白鹿氏族、確認死者四十三名。
判明した氏名と、氏名未確認者の年齢、毛色、所持品を以下に記録する。
命令者、バルガ。
実行計画への同意・参加、ゼグ。
実行者、バルガとゼグを含む十六名。
目的、氏族連合による国家形成への反対を排除すること。
偉業も大義も記されない。
必要という言葉さえない。
紙を三部に分けて別々の火へ渡す。そこでようやく、リュサの地図が中央へ引き寄せられる。
「リュサを攻める理由を言え」
大角牛氏族の長の声が、バルガへ向く。
「セレネアだからか。お前を円卓の下へ座らせた仕返しか」
「違う」
「アルヴェルンに奪われた草原を取り戻すなら分かる。なぜ西ではなく東へ行く」
バルガは地図の中央へ爪を置く。
「水がある」
爪をずらし、穀倉を示す。
「食料がある」
次は通信樹。
「六国へ声を送れる」
九本の城壁樹を、爪先で順に数えた。
「守れる」
門外の家畜市場では、指が止まる。
「すでに、門の外へ追い出された者がいる」
最後に、都市の下へ広がる古い窪地を掌で覆った。
「あそこは、セレネアの都市になる前から氏族が集まった場所だ」
「古い話なら、世界中を俺たちの土地にできる」
「だから古い話だけでは取らない。今そこで生きている者を、血に関係なく住民として数えられる場所にするために取る」
「エルフもか」
「リュサに残るなら」
薪が崩れ、火のいくつかが大きく揺れた。敵を追い出して土地を得る話だと思っていた者たちから、低い声が漏れる。
エルフを残して、何を取り返したことになる。
声になりきらない疑問を拾うように、セナが言う。
「血で住民を選べば、セレネアが私たちにしたことを、今度は私たちがする。国が欲しいのか、氏族だけの大きな冬営地が欲しいのか、先に決めて」
「冬営地で何が悪い」
「二万人が暮らす都市で、氏族の掟だけを使えば、一月で餓える」
「脅しか」
「勘定よ」
セナは別の皮紙を広げた。
先ほどの紙には、白鹿四十三人の死が記されていた。今度の皮紙に並ぶのは、数だけである。
リュサの推定人口、二万前後。
常備兵、三百六十。
二刻以内に集まる市民衛兵、およそ七百。
都市外にいる獣人労働者、確認済みおよそ三百。未確認を含め、およそ四百五十。
都市内の獣人労働者と家族、およそ四百。
市の穀倉、全住民七日分。
商会保有分、推定三十日以上。
根路系統の主要貯水槽、通常使用で約三日分。
「壁を取っただけでは、都市を取ったことにはならない」
セナの指が、二万前後という数字の下を滑る。
「毎日、二万人へ水と食べ物を配り、汚物を処理する仕組み。それを壊して勝ったら、瓦礫を取っただけになる」
ゼグが鼻を鳴らした。
「門を開ける前から、便所の心配か」
「兵が千人集まれば、便所を掘るだけでも人手が要る。汚水が飲み水へ入れば、セレネア兵より先に腹が私たちを殺す」
今度は誰も笑わない。
戦場で刃に倒れれば歌にされる。汚れた水で腹を壊して死んでも、名を覚える歌い手はいない。それで死者が減るわけではなかった。
「兵を数える」
セナが三十六の火を一つずつ回ると、二十八が戦う者を出すと答えた。五つは刃を持たず、食料、治療、運搬を引き受ける。残る三つから返事はない。離れるという言葉も出なかった。
戦える者は千四百六十二。
そのうち、弓を持つ者が二百十一。
盾を持つ者が百八十七。
城壁へ登った経験のある者が七十六。
傷を縫える者は十九。
煮炊きができる者の数を尋ねたところで、声が途切れた。
「今、数えて」
セナが言った。
火ごとに手を挙げ直させると、百二十八。
続いて、荷車を直せる者、四十四。蹄と爪を診られる者、三十一。読み書きができる者、二十七。夜道を往復できる伝令、五十三。子供と老人を守るため後方へ残る者は、二百九十に及んだ。この二百九十は、千四百六十二の戦える者とは別に数えられた。
戦いに行かない者の数が増えるたび、ゼグの尾が土を強く打つ。
「いつまで数える」
「足りないものが見えるまで」
「刃は足りている」
「刃を振る者へ、明日の飯を運ぶ手が足りない」
「勝てば都市にある」
「負ければ」
ゼグは答えなかった。
そのとき、火の上から影が落ちた。
羽音はほとんど聞こえない。褐色の翼を畳みながら、一人の女が地面へ降り立つ。
翼は腕とは別に肩甲骨から伸び、畳んでも先端が踵へ届いた。頬には短い羽毛。地図の縁を踏まないよう開かれた足の指には、黒い鉤爪がある。
崖鷲氏族のサルカ。
その背後では、さらに四人が上空の円を解き、順に降りてくる。
「遅い」
ゼグの声には、待たされた苛立ちが混じる。
「空には道標がない」
サルカが短く返す。
「だが、リュサの上は見てきた」
革筒から引き抜いた紙には、上空から見た城壁が細長く走る。監視塔、大型弩の向き、樹冠をつなぐ吊橋――地面を歩く者の地図にはない線である。
「戦える者は何人いる」
バルガが問う。
「四十七。長く戦えるのは三十二。残りは伝令と観測に回す」
四十七という数に、地上の何人かが安堵の息を漏らした。サルカの褐色の翼が、畳みきる前に一度強く震える。
「門上へ降りられるか」
「降りるだけならな。生きて戻る話は別だ」
サルカは西壁の二か所を指した。
「ここに対空弩。矢ではなく、枝網を射る。翼へ絡めば落ちる。夜でも生き物の体熱へ反応する感知石を組み込んだ照準具がある」
「壊せるか」
ゼグが身を乗り出す。
「一基なら。二基目がこちらを落とす」
「二組に分かれろ」
「空を歩けない者は簡単に言う」
サルカの翼がわずかに開き、火の粉をゼグの側へ押し返す。
「崖鷲は、地上の兵を壁へ運ぶ翼ではない。自分で飛び、自分で戦う。誰かの馬になるために来たんじゃない」
「それで、何をするの」
セナが問う。
サルカは地図の通信樹を鉤爪で叩く。
「上層の連絡橋を切る。鐘楼の兵を閉じ込める。通信樹の頂冠へ二人下ろす。空からしか見えない動きを伝える」
「門へ縄を下ろせるか」
「枝網弩が止まったあとなら」
「誰が止める」
地面の下から声が返る。地図の端では土が盛り上がっていく。
黒土を頭へ載せた穴熊氏族の男が、半円の内側へ顔を出す。名はモグル。そのまますぎる名を笑う者は、今夜はいなかった。
「弩台の根元まで、古い排水渠がある」
ナシャから受け取った線図を持っている。
「壁の外から十八間。石は三層。音を立てずに抜くなら六日。二日で抜けと言うなら、最後は採掘用の火薬が要る」
「火は使わない」
セナが即座に言った。
「火薬と火事は違う」
「都市の根は乾いている。違わなくなる」
「なら六日くれ」
「六日あれば、防備が変わる」
バルガが言った。
モグルは地図を睨んだ。
「四日。石を割るんじゃない。固定を弱める。一度撃てば、反動で台座がずれるようにする」
「一度は撃たせるのか」
サルカが尋ねる。
「最初の一射を避けろ」
「地面の者は簡単に言う」
今度は小さな笑いが起きた。サルカは笑わず、モグルも頭の土を払わない。
空を行く者と土の下を行く者では、相手の危険だけが簡単に見える。バルガは左肩の噛み痕へ触れかけ、手を下ろした。門上へ降りられるかと聞きながら、サルカが落ちたあとのことまでは考えていなかった。
セナはその笑いが消える前に、地図へ五枚の木片を置いた。
目的は五つ。
西門。
根路管理所。
通信樹。
市の穀倉。
都市庁。
門を押さえる。
水を止めない。
外との通信を持つ。
食料を確保する。
そして、都市行政の中心を押さえる。
全ての通りを取る必要はなく、全ての家へ入る必要もない。
夜明けまでに五つを押さえ、リュサから、六つの主権国家へ宣言を送る。
獣人族が反乱したのではない。
氏族連合が、自らの土地と住民を持つ政治主体として、セレネアへ戦闘停止と交渉開始を求める。
主権印は持たない。だから、国家であることを魔法的に証明することはできない。使えるのは、通信が確かにリュサから送られたと証明する都市印だけだった。
セレネアの印を盗むためではない。都市で起きたことを、都市自身が外へ知らせる古い非常通信である。
文面の最後には、この場に残った三十六氏族の印を並べる。
一つの王印より、読むにも照合にも時間がかかる。それでも、誰が決めたのかを隠すよりはいい――セナは、三十六の印を置く余白を削ろうとしなかった。
「宣言を送ったあと、六国が俺たちを国と認めなければ」
岩羊の老女が尋ねた。
「セレネアは反乱と呼ぶ。アルヴェルンは獣人暴動と呼ぶ。呼び方だけなら、今と変わらない」
セナが答えた。
「軍が来たら」
「王都の本隊なら七日以上。武器も糧食も医療具も宿営具も一緒に運ぶから、そんなに早くは動けない。でも、近隣の駐屯地から先遣隊を出せば二日。最初に来るのは、そっちだと思った方がいい」
「二日で国を作るのか」
「二日で、門や水、食料、通信、都市行政を誰の指揮下へ置くか決める。そのあと国を作り続ける」
二日という言葉だけが火の間に残った。本隊が来るまでの日数ではない。最初の軍事増援がリュサへ届くまでの猶予だった。ここにいる者には、門を開けた後の水も捕虜も決める期限になる。
「アルヴェルンが武器を送ると言ったら」
ゼグが答えた。
「受け取る」
「条件を聞く前に?」
セナが遮る。
「セレネアを削るために私たちを使うだけかもしれない」
「使われる前に使う」
「鉄道を通す権利と引き換えなら」
「あとで破ればいい」
反対の声が、いくつもの火から重なった。
「破ればいい、で兵は助かる」
ゼグは声の方を見ない。
「次に結ぶ相手はいなくなる」
セナは受領簿の余白を押さえた。まだ一つも条約を持たない者たちが、最初の一枚を破る相談から始めている。
「外からの武器、兵、食料は、少人数の判断だけで受け取らない」
彼女は新しい条件を書き加える。
「火の代表を集め、条件を読む。急ぐ場合でも、受領記録を残す」
「戦場で会議をするのか」
「戦場だからする。必要という言葉で、白鹿を殺したばかりでしょ」
反対の唸りは残った。それでも、急ぐから少人数で決めるべきだと正面から押し通す者はいなかった。
「セレネアが、市民を連れて退去すると言ったら」
今度はロウが問う。
「止めない」
バルガは間を置かずに返す。
「職人も、技師もか。都市が動かなくなる」
「残れと刃を向ければ、奴隷にしたのと同じだ」
言い終えたあと、バルガの舌に鉄の味が戻った。白鹿へ向けた刃は、反対する自由だけを奪うつもりだった。結果は四十三の遺体である。
「白鹿は止めて、都市の職人は止めないのか」
岩猪の男が問う。
「止めた結果を、今、角輪のそばに置いている」
「同じとは思わん」
「思わなくていい。だが、俺が指揮するなら、退去する者へ刃は向けさせない」
岩猪は答えず、沼獺の火から低い同意が返る。ゼグはどちらにも加わらなかった。
「では、門を閉じる理由がなくなる」
「残りたいと思わせる理由を、取ったあとに作る」
それは本来、軍議だけで決められることではない。だが先に書かなければ、最初の恐怖を理由に門を閉じる者が出る。
何をするかより先に、勝ったあと何をしてはならないかを決める必要があった。
セナは宣言案の余白へ書いた。
退去の自由。
財産の持出し。
残留者への報復禁止。
徴発には受領証を出すこと。
国はまだない。それなのに、国が破りそうな約束だけが先に増えていく。
部隊は七つに分ける。ただし、同じ場所へ集めない。
ゼグが率いる黒豹隊百十は先に散り、外周の見張りと門上兵を制圧する。岩猪氏族二百四十は荷車と丸太を伴うため、別の枯れ溝から門扉と遮蔽柵へ向かう。
沼獺と穴熊の百八十は、さらに早く排水渠へ入り、根路から管理所を目指す。門が開いたあと大通りを確保するのは、灰狼と大角牛を中心とする五百。
崖鷲四十七のうち、長く戦える三十二は通信樹と上層連絡を切り、残る十五が観測と伝令を担う。
外から入る赤狐を中心とする百人は、都市内にいる獣人の協力者およそ百二十と合流し、穀倉、施療院、貯水槽を守る。都市内の協力者は、外から動員する千四百六十二には含めない。残る二百八十五の戦える者は、予備と三本の撤退路守備に分け、一部を運搬と後方支援へ回す。
地図では爪一つぶんの間隔でも、実際には各隊の合流点が互いに見えない。どこかが遅れても、それを知るまでに伝令の脚が要る。
「俺たちが施療院を守るのか」
灰狼の一人が尋ねた。
「負傷者を入れるためか」
「それもある」
セナが答える。
「でも、先にいる患者は追い出さない」
「敵だぞ」
「寝台にいる者まで兵にするなら、都市全部を殺すしかなくなる」
「殺せば早い」
ゼグが言う。
セナは彼を見る。
「あなたには、住民の処分を命じる権限がない」
先に決めた言葉だった。
ゼグの牙が覗く。
「戦場で迷えば、こちらが死ぬ」
「武器を持つ者には迷わなくていい。捨てた者には刃を止める。それだけ」
「捨てたふりなら」
「捕らえる」
「捕らえる手が足りない」
「だから拘束縄を三百組用意する」
戦の準備として、セナは刃より多い三百組の拘束縄を帳面へ記した。負傷者と降伏者の印にする白い布は五百枚。水樽六十、担架八十、松明は百本だけ。火矢は一本も作らない。その欄には、数の代わりに太い線を引く。
「今回のリュサ攻略に参加する三十六氏族の、共同軍規を読み上げる」
セナが立った。
第一、住居へ入らない。
第二、略奪しない。
第三、火を放たない。
第四、武器を捨てた者を殺さない。
「敵が武器を捨てれば助けるのか」
岩猪の火から、不満の声が上がる。
「助けるんじゃない。殺さないと決めるだけ」
セナが返した。
「縄も食料も使う」
「だから先に数えて、用意した」
沼獺の男が口を挟む。
「捨てた者まで殺す軍で国を作るなら、白鹿の続きだ」
「同じ考えになった覚えはない」
岩猪の男が言う。
「同じになる必要はない。戦場で一緒に守る線だけ決めて」
第五、施療院、貯水槽、食料庫を壊さない。
第六、命令のない氏族旗を都市庁へ掲げない。
第七、違反した者は、その場で味方が拘束する。
「何の権利で」
誰かが尋ねた。
「私たちはまだ国ではない」
「国になりたい者の約束として」
「守らなければ」
「国を名乗らない」
火の一つが爆ぜる。
敗北すれば国はできない。セナが書いたのは、勝っても国を名乗れない条件だった。
そのあいだ、バルガは最後まで口を挟まない。
「罪を記録された男へ、千人を預けるのか」
岩羊の老女が言った。
「ほかに、全部隊の位置と退路を知っている者は」
誰もすぐには答えない。
バルガが計画を作った。
各氏族の人数も、合流点も、撤退路も知っている。
それ自体が、赦す理由にはならない。
「使えるから赦す、にはしない」
セナが言った。
「戦場では使う。終わったら裁く。それを同じにしない」
「逃げたら」
「三十六氏族全部の敵になる」
「命令を破ったら」
「その場で指揮権を外す」
岩羊の老女はバルガを見る。
「勝てば帳消し、にはならないぞ」
「分かっている」
バルガは答えた。
「勝っても、四十三人は戻らない」
条件が決まると、セナが彼を見る。
「戦場の指揮を引き受けるの」
「引き受ける」
それで対外交渉の代表へ戻るわけではない。任されるのは、リュサ攻略のあいだの戦場指揮だけだった。
「規則に従うの」
「従う」
「ゼグが破ったら」
「俺が止める」
「止められなければ」
バルガは白鹿の角輪を見る。
頬の傷より、左肩の噛み痕より、焼けた溝へ残る泥の方が目についた。
「俺も拘束しろ」
ゼグが低く唸る。
「敵より先に、味方へ縄をかける相談か」
「敵へ勝ったあと、俺たち自身に負けないためだ」
バルガは言う。
頷く者はいなかった。ロウはバルガを見ず、岩羊の老女は腕を組んだまま、セナだけが返答を記録した。
反省から出た言葉なのか、指揮を取り戻したくて口にしたのか。バルガ自身にも、次に刃を持つまで分からなかった。
合図は、西壁の魔法灯だった。
内側の協力者が、三度消す。
魔法灯を直接見られる高所と各隊の合流点へ観測役を置き、崖鷲と走者が、見えない位置にいる隊へ合図を中継する。
一度目で、排水渠の隊が進む。
二度目で、崖鷲が上がる。
各隊は所定位置の手前まで先に進み、三度目の消灯を待つ。三度目を確認した時点で、門前部隊が最後の配置へ入る。
合図から一刻以内に根路管理所を取れなければ、撤退。
夜明けの第一鐘までに西門を保持できなければ、撤退。
各隊長が、隊の五人に一人以上が死傷して戦列を離れたと判断した時点で、その隊は後退を開始する。
撤退路は三本。北の石切場、西の枯れ谷、南の葦沼。
同じ道へ集まらない。門前から最も遠い葦沼まで、負傷者を担いでなら一刻では届かない。各隊は自分の退路へ運搬役を残す。
負傷者の回収を優先する。回収できない者が出た場合は、位置と氏族印を必ず伝える。
死者の氏族印を外さない。
「攻撃は四日後」
バルガが告げる。
「新月の夜。停戦の残りは二十三日になる」
「四日で千人以上を動かすのか」
「千人を一度に動かさない。狩り、交易、移住の列に分ける」
「セレネアの斥候は数える」
「数えさせる。いくつもの違う行き先を見せる」
サルカが翼を広げる。
「上からは、火を隠せない」
「火を焚かなければ兵が凍える」
「だから、昼に眠らせる。夜は歩かせる」
夜明けに軍議が終わっても、雄叫びは上がらなかった。刃を打ち鳴らす者もいない。
氏族ごとに散ると、まず人数を数え直す。岩猪は門を支える丸太を選び、沼獺は水路の深さを測った。穴熊が確かめるのは土の湿り。崖鷲は合流点から城壁までの風を読むため、一日中、往復を重ねる。
赤狐は包帯を裂き、受領簿を作り、誰がどの鍋を持つかまで記した。
灰狼が刃を研ぐ音の隣では、老人たちが子供の避難順を決めている。
戦争は、攻撃の時刻より先に始まっている。
誰が戦うか。
誰が食べさせるか。
誰が傷を縫うか。
誰が命令を止めるか。
そして、誰を殺してはならないか。
都市を取る条件は、都市へ入る方法より多かった。




