第二十六章――門の内側に住む者
リュサの西門は、朝になると花のように開いた。
二枚の門扉を抱いていた太い枝がゆっくり持ち上がり、夜露を石畳へ落とす。
門前には、荷車が四十六台並んでいた。
穀物。塩。羊毛。薬草。工房へ送られる黒炭。
そして、それらを運んできた獣人族。
門番は荷を先に数え、運び手をあとから数えた。
ナシャの番になる。
「荷札」
赤狐は胸元から木札を出した。
昨夜まで有効だった札である。
門番は表を見た。裏も見た。朝日へ透かした。
「更新印がない」
「六日前に更新を頼んだ。荷主が押すと言ったまま、昨日で切れた」
「なら荷主を呼べ」
「門の中にいる」
門番は面倒そうに息を吐いた。
ナシャの荷車には、羊皮を張った樽が十二個積まれている。
荷札では、すべて獣脂。
城壁の魔法灯へ使う油に混ぜる。
停戦が始まってから警戒点灯が増え、西壁の備蓄は予定より早く減っていた。
今日の分が届かなければ、夜の西壁は二刻早く暗くなる。
門番の目も、更新印のない荷札と、樽についた灯務局の印を往復した。
規則と必要が争うとき、リュサではたいてい必要が勝つ。
ただし、勝った必要には仮札がつく。
「日没までだ」
門番は細長い白木片へ日付印を押し、ナシャへ渡した。
「今日だけだ。次までに荷主の更新印をもらえ」
「更新しても、別の理由で止めるくせに」
「聞こえなかった」
「なら、耳はよく働いている」
門番は睨んだが、槍を横へ退けた。
ナシャは荷車を押した。
門をくぐる瞬間、頭上で樹皮が軋んだ。
九本の古木から伸びた城壁は、生きている。
枝を門にし、根を道にし、樹液へ魔力を通して都市全体へ光と水を配る。
門の先では、九本の幹が街を縦に貫いていた。地上の大通りはその間を縫い、工房の庇と露店の布屋根が荷捌き場まで連なる。根元へ寄るほど、薪束や洗濯物、順番を待つ荷車が石畳へはみ出し、道幅を少しずつ奪っていた。
見上げれば、家ほど太い枝から枝へ歩廊が渡され、その上にも建物が重なっている。人と荷を運ぶ昇降籠が蔓を編んだ綱を軋ませて幹を上り、樹冠へ近づくほど欄干は真っ直ぐに揃い、壁は白く、屋根の泥は見えなくなった。
魔法灯の導管は幹肌を這って上へ伸びる。その下では、水樽や食料籠が根元の荷揚げ場へ集まり、空になった籠だけがまた下りてきた。同じ古木の上と下を行き来しているはずなのに、ナシャの荷車が通る場所には、樹皮の屑と湿った土と、人の仕事の臭いばかりが残る。
セレネアはリュサを、育てた都市と呼んだ。
ナシャの母は、奪った土地へ根を下ろしただけだと言っていた。
母はもういない。
娘のリイは、その都市で生まれた。
出生簿には載っていない。
ナシャが産気づいた夜、獣人居住区の戸口を閉める役人が先に来て、産婆はあとから来た。
父親の氏族印がないという理由で、届出は受理されなかった。
今、九歳になるリイは西門の外にいる。
家畜市場の柵の脇で、十九枚の毛布の一つに包まれて眠っている。
都市で生まれた子供が、都市の外で母親の帰りを待つ。
リュサでは珍しくない。
門内の荷捌き場には、別の布告が張られていた。
停戦期間中における臨時治安規則。
登録外労働者の再審査。
刃物、弓、発火具の持ち込み禁止。
宿泊許可の一時停止。
異種族五人以上の集会には事前届出を要する。
その下に、獣人族だけを対象とするものではない、と小さく書かれている。
だが、ナシャの一つ前を通ったエルフの包丁は袋から出されず、一つ後ろのピクシーも火打石を預けていない。
平等なのは、布告の上だけだった。
「読めるのか」
隣で荷を下ろしていた山羊系氏族の男が尋ねた。
「少し」
ナシャは答えた。
本当は全部読めた。
読める獣人は、役人から二度嫌われる。
一度目は獣人だから。
二度目は、誤魔化せないから。
獣脂の樽を受け取りに来たのは、灯務局の下働きだった。
名をハルネという。
細いエルフの女で、三百歳を越えているはずだが、局では七十年も臨時雇いのままだった。
正式採用の印は、いまだ一度も押されていない。
樹冠に家を持つ者が火を眺め、根元に住む者が油を運ぶ。
種族が違っても、下にいる者の仕事は似ている。
「遅い」
ハルネは言った。
「門で止められた」
「毎日同じ言い訳ね」
「毎日同じ門だから」
ハルネが、ナシャの押してきた荷車の後ろへ回った。
十二個の樽を載せたまま、二人で押す。
行き先は西壁の灯油庫だった。
荷捌き場から大通りを北へ行けば近い。
だがナシャは根路を選んだ。
大通りから折れると、巨大な根が地面を割り、場所によってはナシャの背より高くせり上がっていた。その根と根が左右の壁になる谷間を削り、土を固めて通した道が根路である。
地下道ではない。頭上には空が見える。ただ、別の太い根が橋のように渡る場所では日が遮られ、そこだけは半地下の坑道めいて薄暗い。
道幅は荷車一台が通れるほどしかなく、両脇には細い水路が走っていた。片輪を落とさないようナシャが取っ手を切るたび、ハルネが後ろから荷台の向きを直す。雨水、汚水、生活用水は途中の水門で流れを分けられ、根の壁には樹医の道具庫や灯油庫、管理所へ続く木戸が埋め込まれている。枝分かれする狭い横道のいくつかは根元街区へ、いくつかは城外の避難口へ通じていた。
観光客が歩く道ではない。樹冠に住む者も、ほとんど使わない。
ここを知っているのは、荷運び人、清掃夫、樹医、施設の管理人、それに死体を運ぶ者たちだった。食料と燃料を運び、詰まった水路をさらい、火事になれば住民を城外へ逃がす。都市を下から動かす者の道である。
ナシャは西門から歩数を数え続けた。
最初の曲がり角まで十九。
分岐まで六十四。
根路橋の下まで百十七。
四日前、王都の狼は根路を知っているかと聞いた。
何に使うつもりなのかは、聞かなくても分かった。知らないと答えるには、リイが門外で眠る夜を、ナシャは知りすぎていた。
「今日は遠回りね」
ハルネが言った。
「大通りで検問している」
「誰を探しているの」
「まだ罪を犯していない者」
ハルネは笑わない。
根路の壁には、新しい白線が引かれていた。
樹液管の交換予定を示す印だ。
白線は西門の下から都市中央へ延びている。
途中で三本に分かれ、一つは上層住宅区、一つは工房区、一つは施療院と貯水槽へ向かう。
リュサの光と水は、同じ根から分けられていた。
配分を決めるのは根路管理所である。
戦争になれば、城壁へ魔力を回すため、外縁区への給水と照明が止まる。
根路を使う荷運び人なら、その順番を知らずにはいられなかった。水が止まれば荷揚げ場も工房も動かなくなる。根路管理所では過去に三度、同じ切り替えが行われたと聞いている。
敵兵は一人も壁を越えなかった。
根元では、乳児まで死んだと聞いている。
その死は都市防衛記録へ載らなかったとも。
「止まれ」
前方に兵がいた。
六人。
銀緑の胸甲に、リュサ衛戍隊の葉紋がある。
根路で兵を見るのは珍しい。
先頭の女は兜を被っていなかった。
黒髪を短く切り、左の眉から頬へ古い火傷が走っている。
西部衛戍長ディルハ・セレド。
ナシャは式典で一度見たことがあった。
王都の貴族ではない。
根元街区の警備に就いた兵卒から、現場叩き上げでここまで上がった者だ。
「荷札を」
ディルハは部下へ任せず、自分で言った。
ナシャは白木の仮札を出す。
衛戍長は日付を見た。
樽を一つ開けさせ、指を差し入れ、臭いを嗅いだ。
「獣脂です」
「見れば分かる」
「なら、開けなくても」
「見えないものを調べている」
ディルハの視線が、荷車の軸へ移った。
底板。
車輪の内側。
ナシャの爪。
旅塵はない。
乾いた草の種もついていない。
王都の狼と会った証拠は、どこにもないはずだった。
それでも、狐の尾は自分の意思より先に硬くなる。
「四日前、門外に見慣れない者がいたそうだ」
ディルハが言った。
「門外には、毎晩、門内から追い出された者がいる」
「灰狼。大柄。右の耳に古い裂け目」
「見ていない」
嘘は短いほど臭いが少ない。
ディルハはしばらくナシャを見た。
「獣人族が都市を狙っているという投書が三通来た」
「三通なら、三人が書いたとは限らない」
「筆跡は三つだった」
「一人が筆跡を変えて三通書いたのかも」
「その可能性もある。投書だけでは、誰が何を企んでいるのか証明できない」
衛戍長はナシャへ視線を戻した。
「だから、私は都市内の獣人を一斉拘束する提案を退けた」
ナシャは黙る。感謝を求める言い方ではない。
「だが、攻撃があれば退けられなくなる。ここで暮らす者から先に檻へ入る」
「ここで暮らしていると、今初めて認められた」
ディルハの眉間に皺が寄った。
「言葉遊びをしている時間はない」
「私たちには、言葉しかない時間が長すぎた」
樽の中で脂が揺れた。
衛戍長の後ろにいる若い兵が、槍を握り直す。
ディルハは手を上げ、制した。
「西門の外にいる者へ伝えろ。軍用地の一角を臨時宿泊区として使えるよう、評議会へ申請している。通すなら、再審査を受ける者と子供からだ」
「三日後は」
「分からない。評議会が認めなければ、始めることすらできない」
「いつも、それだ」
「いつも決めるのは私ではない」
初めて、衛戍長の声に疲れが混じった。
ナシャには、その疲れが誰へ向いたものかまでは分からなかった。
ディルハは荷札を返した。
「通れ」
ナシャは荷車を押した。
十二歩進んだところで、衛戍長が呼び止める。
「赤狐」
ナシャは振り返らなかった。
「門を開ければ、死ぬのは外の者だけじゃない」
「閉じたままでも、外にいる者は死ぬ」
それだけ答えた。
その日の昼前、ディルハは評議会へ呼ばれた。
会議室は樹冠区にある。
壁際には暖房管が通り、根元街区より室内は暖かかった。窓から西門の外に並ぶ毛布は見えなかった。
リュサ評議会は昨夜から会議を続けていた。商会は門を閉じるなと言い、樹冠区の家主は獣人を追い出せと迫る。工房主は労働者を残せと要求し、王都からは挑発回避、軍務局からは防備強化。
千年前の戦争でも、評議会と軍務局は両立しない命令を出していた。その二通の間で死んだ兵の名を、ディルハは古い記録で読んでいる。
商会代表は、卓上の取引札を指で揃えながら門の閉鎖に反対した。
「羊毛の季節です。三日止めれば、工房が十二軒止まる」
上層区代表は窓を閉めさせてから、入市停止を求めた。
「門内の獣人が、外の者を手引きする可能性がある」
皮革工房組合の男は、獣脂の染みた袖口を卓の下へ隠した。
「工房で働いている者まで追い出されては困ります。熟練工が抜ければ、止まる工房も出る」
「登録されていない者もいる」
ディルハが指摘する。
「登録の有無と、働いてきた事実は別でしょう。今日まで都市の靴を作ってきた者たちです」
「未登録の者まで残すなら、誰が身元を保証する」
男は一拍置いた。
「少なくとも、工房で働いている者については、組合で確認できます」
議長は細い木槌を叩いた。声が重なるたびに叩いていたせいで、卓には同じ形の傷が増えている。
「軍事上、必要な措置だけを答えてください」
「全住民の所在を把握することです。種族ではなく、居住地と仕事で。今の名簿には、都市で生まれた獣人の子供さえ載っていない」
書記官が議長へ耳打ちした。議長は答えず、積まれた税務帳の表紙を撫でた。
「出生登録を認めれば、過去の居住税と就学義務の問題が生じます」
「敵が来たとき、その問題を矢除けにできますか」
「セレド殿。言い方を慎みなさい」
「見えない者を守れと命じられているのです。見えるようにする提案を、税の都合で退けるなら、代わりに誰を守るか明記してください」
商会代表は取引札へ目を戻し、上層区代表は閉じた窓を見た。誰も、守らない者の名を自分の声で文書へ残そうとはしない。
結局、決まったのは仮札の色を変えることだけだった。
登録済みは青。
再審査待ちは赤。
身元保証のない者は黄。
子供には札を出さない。
働かないからではない。
誰の責任で数えるか、評議会が決められなかったからだ。
会議室を出ると、ディルハは副官へ言った。
「門外の子供を、臨時宿泊区の給養人数に入れろ」
「評議会は、住民と認めていません」
「住民かどうかは後で決めろ。食わせる数は今決める」
「……人数が分かりません」
「だから数えろ」
評議会で議論が続いている頃、ナシャはハルネと灯油庫へ向かっていた。荷車を押しながら、樹冠へ上がる昇降籠を見る。上り籠にはパンと葡萄酒。下り籠が運ぶのは、空瓶と食べ残した白パンだった。
根元街区の配給所では、黒パンが一人半斤に減らされている。
昇降籠が動くたび、鎖の軋みと白パンの匂いだけが頭上を通り過ぎた。ナシャには、その上下にも門があるように見えた。札を見せる場所がないだけで、越えられる者は決まっている。
荷下ろしと保管庫の整理を終えるころには、日はもう西へ傾いていた。
灯油庫へ着くと、二人は同じ荷車から満樽十一個を下ろし、保管列へ入れた。最後の一個だけは床へ残す。
ハルネは受領簿へ、満樽十一、要修理一と書いた。
要修理とした十二個目は最初から空だった。
底には、満樽との差をごまかすための砂袋が二つ固定してある。羊皮の継ぎ目には獣脂を塗り、外から嗅げば他の樽と変わらない。
門で開けられたのが別の樽だったから、ここまで来られた。
ナシャが入る前に、ハルネは砂袋を一つ外した。
残した一つとナシャの重さで、返却時にも他の修理樽から極端に浮かない。
獣脂を盗むためではない。
朝と同じ顔で西門へ戻れば、またディルハか、その部下に呼び止められるかもしれない。止められるだけならいい。通されたあとまで見張られ、門外で誰のところへ向かうのか知られる方がまずかった。
空樽の中に、ナシャが入った。
ハルネは蓋へ手を掛けたまま、一度止まった。それから、ナシャの顔を隠すように閉じた。
「詳しいことは聞かない」
「聞かなくても、捕まれば同じだ」
ハルネは蓋へ手を掛けたまま、もう一度止まった。
「……やっぱり、一つだけ。あなたたちは、街を焼くの」
樽の中で、ナシャは少し考えた。
「焼かせないために、あいつらのところへ戻る」
「答えになっていない」
「まだ、誰も答えを持っていない」
金具はすぐには鳴らなかった。ハルネがもう一度だけ蓋を浮かせたあと、今度こそ留めた。
ナシャを入れた空樽は、城外の修理工房へ戻る別の返却用荷車へ積まれた。
返却用の荷車は西門へ向かった。
日没より一刻早い。
蓋の内側は獣脂の臭いが濃く、息を吸うたび喉へ膜が張る。車輪が根を越えるたび、膝と胸がぶつかった。咳を一つ漏らせば終わる。
門番は返却票と樽数を照合した。
棒の先が、一番手前の樽を二度叩く。
乾いた音が返った。
ナシャの入った樽までは来ない。
入る荷への検査は厳しくなっていたが、修理印のある返却樽を一つずつ開ける命令はまだない。
槍が荷車の前から退くまで、西門の点灯鐘が自分の心臓より近く聞こえた。
外へ出てから、ナシャは樽の底を三度叩いた。
荷車を引く山羊男が咳払いを返す。
家畜市場から二里離れた林で、蓋が開いた。
待っていたのはバルガではない。セナだった。
氏族会合の川床は、バルガの足でここから二日かかる。
セナは途中の荷車を三度乗り継ぎ、リュサ近郊まで戻ってきていた。だが、ここで長く足を止める余裕はない。夜明けの便を逃せば、氏族会合へ戻るのがさらに遅れる。
赤狐同士、最初に互いの手を見る。
片方にはインクが染み、片方には獣脂が染みていた。
「王都の狼は」
ナシャが尋ねる。
「会合にはいる。でも、あいつ一人で氏族を動かせるわけじゃない」
「殺したのか」
「まだ」
セナは白鹿氏族に起きたことを、短くも美しくも整えずに話した。
四十三人。
見張り。
子供。
焼いた荷車。
偽った移住。
そして、バルガがようやく認めたこと。
ナシャは最後まで聞いた。
狐は怒ると尾を膨らませると言われる。
彼女の尾は逆に細くなった。
毛が皮膚へ貼りつくほど、力を失っていた。
「それでも、国を作るのか」
「それでも、作るかを決める」
「殺した者を頭にして」
「決まってない」
「決める間に、セレネアは門を固める」
「分かってる」
「分かってる」と言ったあとも、セナは次の言葉を続けなかった。急げと口にする代わりに、白鹿の名を書いた紙の角を指で押さえている。
ナシャにも、急ぐ理由は分かる。けれど、時間がないという言葉で誰かを黙らせた先に四十三人がいたことも、今は知っていた。
ナシャは林の地面へ、炭でリュサの形を描いた。
円。
西門。
根路。
水路。
通信樹。
食料庫。
衛戍隊舎。
「門は枝で閉じる。外から切れば、一晩かかる。内側の根弁を止めれば、四十数える間だけ力が抜ける」
「四十のあとは」
「戻る。止めた者が管理所を押さえれば、開いたままにできる」
「兵は」
「定数は五百二十。門と壁、隊舎、貯水槽の警備を合わせた数だ。国境へ出た者を引けば、今いるのは三百六十ほど」
「ほど?」
「三日前の交代表と、運ばれた食事から数えた。病人や戻った兵までは分からない」
三百六十が西門の内側で待っているわけではない。警報が届き、各所の指揮官が意味を確かめ、離れた持ち場から集まるまでには差が出る。その差がどちらへ転ぶかは、ナシャにも読めなかった。
「市民衛兵まで集めれば、名簿では千を越える」
「越えるまで、どれくらい」
「最初の鐘から二刻。伝令が各区へ着いて、武器庫を開けられればね。樹冠区の連中は、防具を着るだけで半刻使う」
セナは紙へ書いた。
「根路から一刻で通せる人数は」
「戦える者だけなら三百。荷を持たせれば百五十ほど。途中で止まれば、後ろは全部詰まる」
「街を取ったあと、今の人数を何日食べさせられる」
ナシャはそこでセナを見た。
「初めて、それを聞いた」
ナシャは炭を持つ手を止めた。門の開け方なら、もう何度も聞かれている。開いたあとに何人を食べさせられるかを尋ねた者は、セナが初めてだった。
「平時の備蓄規定は二十日。いま市の穀倉から配れるのは七日分。商会倉庫には三十日分以上あると荷役帳には出ているけど、隠し倉までは分からない。上層区の個人倉にもある」
「奪えば暴動になる」
「配らなくても暴動になる」
「水は」
「根路管理所を壊すな。あそこが止まれば、三日で都市は病む。施療院より先に外縁区の水が止まる」
「衛戍隊が立て籠もったら」
「管理所を力ずくで取ることはできる。でも施療院への水も止まる」
「ほかの道は」
「ある」
ナシャは四本の線を引いた。
一つは、乾季だけ水の引く古い排水渠。
一つは、死者を城外へ運ぶ葬路。
一つは、城壁の樹医が使う昇降蔓。
最後の一つは、西門そのものだった。
「内側に手を貸す者がいれば、どれも使える」
「いなければ」
「排水渠と昇降蔓から入るしかない。門は、外から開けるには時間がかかりすぎる」
炭の線なら掌一つに収まる。しかし実際の入口は壁沿いに離れ、互いの合図も見えない。一つが失敗したと知る頃には、別の道ではもう引き返せなくなっている。
「協力する者は」
「獣人だけなら百二十。門を開けるだけなら足りる。都市を止めずに取るなら、エルフも人族も必要になる」
「なぜ協力する」
「理由は一つじゃない」
ナシャが知っているだけでも、理由はばらばらだった。
ハルネは七十年以上働いても臨時雇いのまま。短命種街区の洗濯女は、戦時には自分たちの給水から止められると知っている。根路の清掃夫は息子を市民衛兵へ取られたくない。獣人の荷役夫は、門外で眠る家族を中へ入れたい。
評議会を恨む者も、セレネアそのものを嫌う者もいる。戦いを避けるには早く門を開けた方が被害が少ないと考える者がいる一方、何が起きるか分からないままナシャだけを信じている者もいた。
「私たちの国を欲しがっているわけではない」
ナシャは言った。
「門を開けたあと、氏族旗を見て逃げる者もいる。それを裏切りと呼ぶなら、最初から手を借りないほうがいい」
「取ったあとも従わない者がいる」
「都市だからね」
氏族では、長へ従えない者は離れればよかった。
都市では、井戸も仕事も墓も壁の内側にある。
反対するたび住む場所を捨てろとは言えない。
セナは紙へ、新しい見出しを書いた。
協力者、ではない。
残る者の条件。
都市を取る前から、支配される側の言葉を集める欄だった。
ナシャはハルネの名を出さず、代わりに条件を並べる。
「家へ入らない。店を奪わない。火を使わない。施療院と貯水槽を止めない。武器を捨てた者を殺さない」
「それは私が決めることじゃない」
「なら、決められる者を揃えろ」
「私一人でも、バルガ一人でも決められない」
「なら、なおさら一人の返事で決めるな。国を作る話なんだろ」
セナは反論しなかった。
「それから」
ナシャは続けた。
「門外の子供を先に入れる」
「攻撃の前に?」
「違う。都市を取ったあと、一番先にだ。兵より先に住民として数える」
「何人」
「数えた者がいない」
「なら、数える」
セナは紙の裏へ、新しい欄を作った。
氏族。
名前。
年齢。
生まれた場所。
今夜眠る場所。
国が生まれる前に必要なのは、旗より名簿だった。
セナは、白鹿の移住を偽って記録したのも自分だと話していた。その手が、今度は新しい名を書くために、紙の上で待っている。
ナシャが見ていても、セナは手を引かなかった。
夜明け前に家畜市場へ戻ると、リイが起きていた。
「どこにいたの」
「門の中」
「何を運んだの」
ナシャは娘の隣へ横になった。
「今度は、道を運んできた」
リイは首を傾げたが、聞き返さなかった。母の服に残る獣脂とインクの臭いを嗅ぎ、顔を胸へ埋めた。
城壁の向こうで、朝の点灯鐘が鳴った。
九本の古木へ光が走る。
リュサは何も知らないように目を覚ました。
だが門の内側には、すでに外を待つ者がいた。
門の外には、中へ入るためではなく、そこを故郷と呼ぶために戻ろうとする者がいた。




