第二十五章――国名のない停戦
停戦文書に並ぶ国名を、バルガは上から数えた。
六つ。
自分の名は、その下にある。
証人。
円卓が国を持たない者へ与えたのは、国名の列から外れた場所だった。
盟約会議が終わると、各国の随行員が文書の写しを受け取り始めた。セヴァルは一枚目が配られる前に席を立ち、自分の名を刻んだ椅子にも振り返らず、客座殿を出ていった。
六つの主権印が並んだ原本は、盟約会議の文書庫へ封印される。
各国には、それぞれの保存方法に合わせた正本が渡された。
セレネアには法印付きの正本。
アルヴェルンには人族語訳を併記した正本。
カルドランには、鋼板へ打ち直すための刻印紙。
ネレイアの藻紙は水へ浸しても崩れず、ネフティアの薄紙はピクシー二人で運べる大きさまで縮められていた。
媒体が違っても、記された本文と主権印の効力は同じだった。
オルディアが受け取ったのは文字だけではない。本文と主権印に改変がないか照合するための記録列も添えられている。
卓に残った者のうち、バルガの前だけが空いている。
「俺の分は」
記帳台の書記が顔を上げた。
まだ若いエルフだった。耳の先には、乾ききっていない緑の法印がついている。
「証人には、写しの交付規定がありません」
「見たことだけを持ち帰れと?」
「閲覧はできます」
「氏族はここにいない」
「代理閲覧の申請を――」
書記は途中で口を閉じ、バルガの牙印へ目を落とした。獣人諸氏族には、代理人を任命する共通印がない。その不在を知っていながら、口だけが規定どおりに動いたように、バルガには見えた。
バルガは続きを促さなかった。決める者が一人ではないから証人に留められ、その証人へ渡す紙はない。円卓で聞かされた理屈が、若い書記の沈黙にまで染み込んでいた。
ネイセル・ヴァレシオンが前室から戻ってきた。
地下へ持っていく複写具を抱えている。
今朝見たときより、顔色が悪い。抱えた複写具の角へ、指が食い込んでいた。何かあったことくらいは分かったが、バルガから踏み込んで聞くほどの間柄ではなかった。
「同じ内容を、普通紙へ写してください」
ネイセルは書記へ言った。
「証人用の参考写しとして、交付時刻と受領者名を記録します」
「ですが、規定がありません」
「禁止規定もありません」
書記は眉を寄せた。
「正文としての効力は付けられません」
「構いません。主権印の代わりに、原本から複写した時刻と、この場で照合したことだけを記録してください」
「氏族を拘束する文書にはなりません」
「そのための写しではありません。証人が、何を見たか持ち帰るためです」
書記は唇を結んだ。前室の衛兵へ視線を送ったものの、助けは求めず、複写台へ紙を置いた。
停戦文書の光が、薄い紙へ移る。
六つの国名。
セレネアとアルヴェルンの停戦。
他の主権国家が参加する共同手続きと、それぞれに関わる措置。
国境部隊の現状維持。
軍用輸送の事前通知。
領海検査の暫定手続き。
北鉱脈における新規採掘の停止。
人格核の移送禁止。
停戦違反を検証する共同手続き。
どの条項にも、獣人諸氏族という主語はなかった。
最後の証人欄に、バルガの牙印がある。
短刀で紙へつけた傷を、法印が縁取っていた。
「聞きたい」
バルガは写しを取らずに言った。
「獣人の氏族が、セレネア兵と衝突したら、この停戦は破れるのか」
書記の手が止まる。
「特定の氏族についての質問ですか」
「違う」
バルガは証人欄へ爪を置いた。
「紙に入っていない者が戦った場合を聞いている」
「停戦文書における獣人諸氏族の法的地位について、という意味なら――」
書記は耳先の法印へ触れかけ、手を下ろした。先ほどより長く言葉を選び、それでも今度は、規定の文句だけには逃げなかった。
「直接の停戦当事国は、セレネアとアルヴェルンです。他の主権国家は、共同検証や、それぞれに関わる地域・移送措置の条項へ参加しています。獣人諸氏族は証人であり、この協定の義務主体ではありません」
「なら、俺たちがセレネアを攻めても、この紙の停戦違反にはならない」
書記は一度、言葉を飲み込んだ。
「攻撃そのものは罪になります」
「セレネア法では」
「はい」
「だが、この紙を破ったことにはならない」
「……協定上は、そうなります」
バルガは紙を取り、証人欄へ爪を当てた。国へ課される義務も、国同士で交わされる約束も、その線から下へは来ない。
「具体的な衝突を想定しているのであれば、別の扱いになります」
ネイセルが言った。
「今は紙の範囲を聞いている」
「でしたら、書記の説明どおりです」
バルガは写しを折った。
一度。
二度。
国名が内側へ隠れ、外からは証人欄だけが見えた。
「二国の停戦だけではありません。他の四国も、該当する条項に参加しています」
ネイセルは言った。
「だが、俺たちは、そのどれにも入っていない」
「獣人族を除く、とは書いていません」
「含む、とも書いていない」
「国を持たない集団全体へ、一人の証人を通じて義務を課すことはできません」
「分かっている。円卓で何度も聞かされた」
バルガは旅袋を肩へ掛けた。
底で、白鹿の角輪が紙へ当たった。
乾いた音がした。
「一人で全氏族を決められる者がいないから、俺たちにはまとめて約束させられない。だから、俺たちへもまとめて約束しない。うまくできている」
「うまくできてはいません」
ネイセルの返事は早かった。
バルガは扉の前で振り返る。
「なら、誰が直す」
ネイセルの口が開くより先に、バルガは客座殿を出た。答えを聞けば、また次の会議と申請の話になる気がした。
翌日、王冠保管室の八錠化に立ち会い、獣人諸氏族の鍵を預かってから、バルガは王都を発った。
王都の門では、停戦延長を知らせる新しい布告が張られていた。
残っていた六日に、三十日が加えられる。
市民が足を止め、延長三十日という文字を読む。商人は倉庫の契約を数え直し、兵士の家族は布告の前からなかなか動かなかった。王府の役人は、もう次の会議日程を脇へ張り出している。
同じ三十日を見ても、待っているものは違う。バルガには、六国が獣人族より早く動ける日数にしか見えなかった。
王都を出て四日目、街道の西にリュサの樹冠が見えた。
停戦延長の布告は、王府の通信根を通ってバルガより先に町々へ着いている。紙を持ち帰る証人だけが、四日分遅れて歩いていた。
リュサは、セレネア西部の地方魔法都市だった。王都ほど高い巨樹はない。代わりに九本の古木が輪を作り、枝同士を組み合わせて一つの城壁を育てている。
遠目には、緑の椀を伏せたように見えた。枝の隙間から塔が伸び、夕刻前でも点いている魔法灯の光は、草原からでも見える。
祖母は、あの場所をリュサとは呼ばなかった。
乾季にも水の残る窪地。群れが仔を産む前に集まり、白鹿が角を落とし、灰狼が冬毛を替え、沼獺が水路を掘り直す場所。古い名も教えられたはずなのに、幼かったバルガは、その音を覚えていない。
リュサという名は、セレネアが都市を築いたあとにつけられた。獣人族の古い言葉は国の地図へ載らず、覚えていなければ、それだけで失われる。
街道脇の石標に、リュサまで十二里と刻まれている。
その下へ、小さな文字で注意書きがあった。
登録外の獣人は、日没後の入市を禁ずる。
十日間先行措置は終了。灰角族の通行を認める条項は延長されたが、獣人族の居住規定は議題にさえ上がっていない。
バルガは石標へ爪を立てた。削り屑が出るほど力を込めてから、手を離す。
文字を消しても、門の向こうから新しい石標が運ばれてくる。変えるべきなのは石ではなく、それを立てる者だった。
夜、彼はリュサを迂回した。
都市の西には、枝柵に囲まれた家畜市場がある。
門の外では、獣人族の荷運び人が眠っている。昼に荷を運び、夜には入市許可が切れる者たちだった。
毛布は十九枚あるのに、見張りは一人。武器と呼べるものも、作業用の鉈だけだった。
バルガが近づくと、見張りの赤狐が立ち上がった。
「王都の狼」
「バルガだ」
「椅子はもらえたか」
「鍵を一つ預かった」
「何を開ける」
「八人揃わなければ、何も」
赤狐は鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのか、暗がりでは口元まで見えない。
「ここでは、門番一人で門を閉じる」
家畜市場の向こうで、夜間鐘が鳴った。
リュサの西門が閉じる。
枝が動き、二枚の門扉を外から抱いた。
魔法灯が門の輪郭を緑に照らす。
「中に何人いる」
バルガが尋ねた。
「獣人か」
「そうだ」
「働いている者と、その家族まで合わせれば四百前後。ちゃんと登録されている働き手は、その半分ほどだ」
「子供は」
「もっと分からない。親の氏族印がない、保証人がいない、届出が通らない。理由はいくらでもつける」
赤狐は眠る者たちを見た。毛布の端から、小さな尾が一本だけ出ている。
「生まれた場所を聞かれれば、リュサと答える。住民かと聞かれれば、違うと言われる」
バルガは城壁を見た。
門の上を、セレネア兵が二人歩いている。
槍を持っていた。
弓は壁の内側にある。
戦争を恐れている配置ではない。
荷運び人や盗人を追い払うための見張りだった。
「名前は」
「ナシャ」
「中の道を知っているか」
赤狐の尾が止まった。鉈には触れない。ただ、門を背にしたまま半歩退いた。
「荷を運ぶ道なら」
「根路は」
「聞いてどうする」
バルガは答えなかった。
ナシャは彼の旅袋へ鼻を向けた。
紙。
革。
王都の油。
その下に、古い煙と焦げた骨質の臭いが残っている。
さらに、ほんのわずかに甘い冬油の匂い。
「白鹿と会ったのか」
「なぜそう思う」
「焼けた角と、冬油の臭いがする」
「冬油?」
「白鹿が角飾りへ塗る。乾季でも割れないようにな」
バルガの手が旅袋へ触れた。
「古いものだ」
「古くても、油は残る」
ナシャはそれ以上聞かなかった。
獣人族は、他人が隠したい臭いへ気づかないふりをすることがある。
それが礼儀になるのは、氏族の外で暮らすときだけだった。
「次に来るなら、荷を持ってこい」
ナシャが言った。
「何の」
「干し肉でも毛皮でもいい。手ぶらの獣人は、門で長く止められる」
「荷があれば入れるのか」
「止められにくくはなる」
ナシャは閉じた門へ顎を向けた。
「ただし、通すのと見張らないのは別だ」
さらに西へ二日進むと、三十七の火が見えた。旅袋の中で、停戦文書の折り目は汗と砂を吸い、王都を出たときより深くなっている。
氏族会合は、二百八十一号杭から南へ移っていた。
鉄道の近くにいれば、人族の監視帳へ毎日人数を書かれる。
丘を二つ越えた乾いた川床なら、煙は草原の靄に紛れる。
バルガが着いたとき、中央の火は消えていた。大きな決定を待つあいだ、誰の火を中心にするか決められないからだ。
その暗がりへ、ゼグが都市図を広げていた。
地上の案内図ではない。西門の内側から家畜市場、皮革工房、配給倉、根路管理所、守備隊詰所、枝壁の保守口まで、赤い線と黒い印が獣皮の上へ細かく描かれている。
「どこで手に入れた」
バルガは尋ねた。
「中に住む連中からだ」
ゼグの耳の銀毛が、火明かりを受けた。
「荷運び。皮革工房。根路の清掃。城壁の補修。知っているところだけ、それぞれ描かせた」
「一人が描いた図じゃないのか」
「一人で都市全部を知ってる奴がいるなら、そいつを連れてきてる」
セナが図の反対側に座っていた。
赤狐の細い指で、配給倉から西門へ続く道を測っている。
鉄道工場で使っていた折尺が、膝の上にあった。
「三か所、縮尺が合わない」
セナは言った。
「描いた者が違う。根路管理所の位置は、少なくとも二十歩東だ」
「中へ入ったことがあるのか」
バルガが尋ねる。
「工場を辞めたあと、二年働いた。配水管の修理だ」
「なぜ言わなかった」
「聞かれなかった」
ゼグが都市図の中央を押さえた。
「ここを取る」
ゼグの爪が都市庁を押さえた。相談を始める指ではない。もう攻める場所を選ぶ指だった。
「何のために」
「国を置くためだ」
「草原では置けないのか」
「国境を描けば、杭を抜かれる。天幕を役所にすれば、季節が変わるたび動く。印を作っても、外国は保管庫がないと言う」
ゼグはリュサの根路管理所から都市庁へ爪を滑らせた。
「壁。倉。道。記録庫。外国へ音を送る通信樹。国に必要だと人族とエルフが言うものは、全部ここにある」
「図の上ではね」
セナの折尺が、ゼグの爪を押し返した。
「門を開けても、反対側の兵はまだ残る。倉を押さえても、水が止まれば住民は出ていく。ここからここまで走るだけでも、荷を担いだ足なら一刻はかかる。ひとつ取る間に、都市の別の場所も動く」
「だから、中の者の手を借りる」
「中の者を、道具として数えないで」
「住んでいる者もいる」
セナが言った。
「二万近く」
「戦わない者は、先に外へ出せばいい」
「子供も?」
「俺たちの子供は、あの門の外で寝ている」
「答えになってない」
ゼグの目が細くなった。言い返す前に、爪が都市図の縁を裂く。
白鹿の冬営地で、同じ言葉を聞いた。
全員へ話せば、怖くなって来ない者が出る――ゼグはあの夜、そう答えた。いま問われている相手も内容も違うのに、バルガの耳には同じ声に聞こえた。
バルガは旅袋から停戦文書を出した。
三十七の火の代表が、紙へ顔を寄せる。
読める者は少ない。
読める者も、法の言葉をすべて理解できるわけではない。
セナが受け取り、最初から読み上げた。
セレネアとアルヴェルンの停戦。
他の四国が参加する共同手続きと、それぞれに関わる措置。
三十日の延長。
現状の国境。
現在の部隊配置。
最後に、二つの証人名。
読み終えるまで、誰も口を挟まなかった。
「俺たちは」
岩猪の老人が尋ねた。
「どこに書かれている」
「最後だ」
バルガが答えた。
「見ていた者として」
「土地は」
「何も変わらない」
「線路は」
「新しく敷かない。三十日だけ」
「そのあと」
「また話す」
いくつもの喉から低い音が漏れたが、唸りにはならず、すぐに消えた。バルガには、怒りよりも疲れに聞こえた。
「国になれば、次はあの紙に国名を載せられる」
ゼグが言った。
「リュサを取る。セレネアが各地の兵を集める前に、俺たちの印を通信樹から世界へ送る。国家として停戦を求める」
「攻撃してから、停戦を求めるの」
セナが問う。
「国がやっていることだ」
「だから、同じになるの」
「同じでなければ、同じ席へ座れない」
ゼグの言葉に頷く者がいた。その隣で、火だけを見ている者もいる。
バルガは白鹿の角輪を握った。
袋の中で、折れた角が掌へ当たる。
ミサラは言った。
今度は自分の椅子を作り、そこへ座らない者の話を聞かなくなる。
彼女の問いを消すために、四十三人を殺した。それでも問いは消えず、答える者だけがバルガ一人になっている。
「氏族ごとに、もう一度話を通せ」
彼は言った。
ゼグが笑った。
「もう集まっている」
「ここにいる戦士だけでは決めない」
「都市を取る話だ。戦えない者を呼んで何を聞く」
「門を取ったあとも、都市は残る。水を配る者も、傷を縫う者も、死者の名を書く者も要る。中にいる者へ、残るか出るかを聞く者もだ」
セナは折尺を膝へ戻せないまま、バルガを見た。
「それでも、国を作るつもりなの」
「そのために、四十三人を殺した」
火の周囲から声が消えた。ゼグの尾が一度地面を打ち、岩猪の老人は浮かせた腰を下ろさない。
襲撃に加わった十六人だけが知り、セナだけが疑っていたことだった。
バルガは旅袋から白鹿の角輪を出した。
冬の数が刻まれた白い枝角。
火の前へ置く。
「白鹿は東へ移っていない」
セナが目を閉じた。少なくともバルガには、知っていた者の顔には見えなかった。疑いが当たってほしくなかった者の顔だった。
岩猪の老人が腰を浮かせ、草兎の女は傍らの子供を背へ隠した。刃へ手を置く者もいれば、バルガから離れる者もいる。
ゼグは動かなかった。都市図を裂いた爪だけが、獣皮の上に残っている。
「俺が殺した」
バルガは言った。
「ゼグを含む十五人と。俺を入れて十六人で。四十三人全員を」
ロウが火の外から顔を上げた。
あの夜から、彼は中央へ近づかなくなっていた。
「なぜ、今になって言う」
誰かが尋ねた。
「リュサを取れば、今より多くを殺せる。白鹿のことを隠したまま、リュサを取る戦いで俺を頭に置くか、決めさせたくない」
「決めさせたくない者は、もう殺した」
セナの声だった。
バルガは頷いた。
「そうだ」
弁解の言葉は出ない。
土地を守るため。国を作るため。外へ向ければ、どちらも理由になる。
外へはそう言える。
火の前で言えば、どれも四十三人を生き返らせなかった。
「俺を殺すなら、今にしろ」
バルガは短刀を鞘ごと外した。
白鹿の角輪の隣へ置く。
「そのあと、リュサを取るか決めろ」
最初に動いたのはゼグだった。
自分の短刀を抜き、白鹿の角輪の隣へ置いた。
柄を、火を囲む者たちの側へ向ける。
「殺すなら、俺もだ」
バルガには、罪を分けるための短刀には見えなかった。二人を殺せば、戦う者をまとめる声が同時に消える。その事実を示す、卑怯で正確な置き方だった。
その夜、三十七の火は答えを出せなかった。白鹿の角輪を中央へ置いたまま、話は夜明けまで続いた。
最初に問われたのは、四十三人の名だった。
バルガは全員を答えられなかった。
ミサラ。
見張りの若者。
角を削っていた老人。
母親の背へ隠れた子供。
顔は覚えている。
刃が入った場所も覚えている。
だが名を知らない者が二十人以上いた。
殺す前に、聞かなかったからだった。
「それで、四十三とだけ数えたのか」
草兎の女が言った。
「名前を知らなければ、一つの数にできるから」
バルガは返せなかった。知らなかった名を、今さら口の中で探すことさえできない。
セナが紙を出した。
「知っている名を全部言って。知らない者は、年齢、毛色、身につけていたものを書く。白鹿と交易した氏族にも聞く」
「今は、裁きより記録なのか」
岩猪の老人が問う。
「記録がなければ、裁く頃には移住中の事故に変えられる。殺した側に都合のいい話で、もう一度あの人たちを消すことになる」
セナは火のそばへ座り、紙を膝へ置いた。周囲ではまだ刃を握る手がある。それでも筆記具の蓋を開けた。
ロウが輪へ入った。
「俺もだ」
声が震えていた。
「見張りを殺した。逃げようとした男の足を噛んだ。十五人の一人だ」
「俺が命じた」
バルガが言った。
ロウは牙を剥いた。震えていた声が、そこだけ太くなる。
「それを言うな」
初めて、バルガへ唸った。
「命令なら俺の手は違う手になるのか。俺が噛んだ。骨が折れる音を聞いた」
「お前まで背負わなくていい」
「また、俺に聞かずに決めるのか」
バルガは口を閉じた。
若い者を守るという言葉も、使う者によっては罪を小さくする道具になる。
ロウはセナの前へ座り、自分の名を最初に書かせた。
夜半、草兎氏族が荷をまとめ始めた。白鹿を殺した者と同じ場所では眠れない、と草兎の女は言った。背負い袋の紐を締める手を止めず、バルガの返事も求めなかった。
ゼグの黒豹隊が立ち上がる。
逃がせば攻撃の計画が漏れる。
止めれば、白鹿の夜が繰り返される。
黒豹隊の者たちはゼグを見た。ほかの火では、子供を荷の内側へ入れる者と、逃げ道を確かめる者がいる。
ゼグの手は短刀から離れない。だが、抜きもしなかった。
「行け」
ゼグは言った。
「ただし、今夜見た地図をセレネアへ売れば、敵として会う」
草兎の女は背負い袋の紐を引き、ようやくゼグを見た。
「地図は売らない。お前たちの罪は話す」
「好きにしろ」
十二人が火を離れた。黒豹隊の一人が二歩だけ後を追い、ゼグを振り返る。命令が出ないと分かると、その場に残った。
三十七の火は三十六になった。
火の抜けた場所が、輪の一角に暗く残る。力ずくで連れ戻せば、数だけは三十七へ戻せたかもしれない。そう考えた自分に、バルガは白鹿の夜と同じ臭いを嗅いだ。
残った全員が、リュサへの攻撃を望んだわけではない。白鹿の裁きを先にせよという者がいれば、セレネアへ交渉団を送れという者もいる。アルヴェルンの鉄道を止めるほうが先だという声の向こうでは、都市を攻めれば門内の獣人族が報復されると訴える者がいた。
議論は同じ場所を何度も回る。バルガは一度も中央へ戻らなかった。
自分への支持を数えれば、また反対を敵と見始める気がした。
バルガを殺すか、追放するか。これから始まる戦いで、バルガを指揮役から外すか。それでもリュサを取るのか。
火が一つずつ消えた。
最後に残った、白鹿の場所。
誰も火を焚いていないのに、焼けた角が月光を返していた。
停戦の残りは、二十九日。
国々の停戦は、国名のない者たちへ、戦争を禁じる言葉を一つも持っていなかった。




