第二十四章――七百年分の命
盟約王冠は、先王の寝台の下に置かれた保管室へ収められている。
二日後、その保管室へ八つの錠を加える。
六国家、獣人諸氏族、灰角族。八者が立ち会い、一者につき一つの鍵を持つ。
工事が始まれば、セレネアだけで壁を開くことはできなくなる。
十日間先行措置の九日目。
本格改修に先立つ、事前点検の日。
立会人は、新王、儀典官ネイセル・ヴァレシオン、王府育成官、法印卿、樹冠評議会の首席評議員。いずれもセレネアの者だけだった。
王冠の機能には触れず、保管台も動かさない。室内の寸法と壁の強度を測り、錠を固定する位置に古い根路がないか確認する。点検の範囲は、それだけだった。
黒い石の台座には、盟約王冠が置かれている。
六つの主権印へつながっていた銀線は外されていた。
正面には、先王が死んだ夜に入った亀裂が残っている。
新王は亀裂を見ないように、図面へ目を落としていた。
育成官が、北壁へ薄い検流葉を当てる。
白かった葉脈へ、淡い紫が走った。
育成官は葉を外し、別の位置へ当てた。
同じ紫が現れた。
床に近づくほど、色が濃くなる。
「ここに根路があります」
育成官が言った。
ネイセルは図面を確かめた。北壁の内側は空隙のない充填部として塗り潰され、配管を示す線は一本も引かれていない。先王の葬儀後に作られた現行図面だった。
「古い図面は」
新王が尋ねた。
法印卿が三枚を重ねる。
二十年前。
百年前。
三百年前。
どの図面にも、北壁の根路はない。
育成官は床へ膝をついた。
検流葉の先を、石の継ぎ目へ差し込む。
紫の光が、葉の中央から先端へ動く。
保管室から、壁の内側へ。
そこから下へ。
「現在も流れています」
首席評議員が言った。
「旧設備です」
返答が早かった。
育成官が顔を上げるより早い。
「先王の療養に使った残存管でしょう。改修には関係ありません」
「図面にないと分かったばかりだ」
新王が言った。
「なぜ、何の管か知っている」
首席評議員は、検流葉を見た。
「王府の古い設備は、すべて評議会の管理下にありました」
「すべてなら、図面にもあるはずだ」
「廃止済みの管まで、新しい図面へ移す必要はありません」
育成官が首を振った。
「廃止されていません」
「残留魔力です」
「残留なら、流れません」
育成官は新しい葉を置いた。
紫が一定の間隔で脈打つ。
一度。
十四呼吸おいて、もう一度。
「受ける側の応答を待つ流れです」
首席評議員の金瞳が、紫の脈を一度だけ追う。
「触れる必要はありません」
「必要かどうかは、調べてから決める」
新王は法印卿へ向いた。
「この部屋を閉じろ」
「本日の点検記録は」
「まだ確定するな。ここにいる五名以外へ回すな」
法印卿はためらった。
「二日後には、八者の立会人が入ります」
「だから、その前に確かめる」
扉が閉じた。
白い法印が、内側から錠へ入る。
点検記録は、まだ部屋の外へ出ない。オルディアにも、ほかの五国家にも、獣人諸氏族にも灰角族にも、紫の流れは知らされていなかった。
育成官が根路の外殻を追うと、流れは北壁から天井裏へ入り、先王の寝台が置かれていた上階の床下で再び地下へ折れている。
五人は保管室を出て、閉鎖された寝室へ移る。
寝台は葬儀後に片づけられている。
床には新しい苔が植えられていた。
中央の一帯だけ、葉の向きが違う。
光へ伸びず、床の一点を避けている。
ネイセルが苔を分けた。
樹皮の下から、白い封印線が現れた。
その横に、金。
さらに、古く変色した紫。
王家。
樹冠評議会。
法印局。
三つの印で閉じられた扉だった。
現行図面では、扉の下まで根が詰まっていることになっている。
「旧療養区画です」
首席評議員が言った。今度は、旧設備という言葉だけで押し通そうとはしなかった。
「先王の死と同時に閉鎖しました。王冠保管室の改修範囲には含まれません」
「中に何がある」
「停止した設備です」
「記録は」
首席評議員は答えない。
新王は紫印の前へ立った。
「開ける」
「陛下」
「命令だ」
「開ければ、知らなかった状態には戻れません」
脅しには聞こえなかった。首席評議員は、扉の中身よりも、それを知った後に新王が負うものを警告していた。
新王は床を見た。
その下では、図面にない流れが続いている。
ここで点検を終えれば、明日は何も知らない顔で八本の鍵を受け取れる。そうすれば停戦を延ばす仕事だけに戻れた。
父なら、どうしただろう。
問いが浮かんだ途端、新王はそれを追い払った。いま扉の前に立っているのは父ではない。
二日後には、八者が同じ床の上で保管室を作り替える。
「知らないまま、他者を立ち会わせることはできない」
新王が紫印へ手を置いた。
法印卿が白印を解く。
首席評議員は、長く動かなかった。
「評議会の印を」
新王が言った。
金瞳の長老は目を閉じた。
それから、金印へ掌を当てた。
三色の光が重なる。
樹皮が、音を立てずに左右へ開いた。
下り階段から、冷たい空気が上がってきた。
王都の地下は、巨樹の根で満たされている。
通常の通路は、根を避けて曲がる。
この階段では、根そのものが壁と天井を作っていた。
細い根が絡まり、ところどころに紫の光を運んでいる。
育成官が先頭で検流葉を置く。
ネイセルが壁と段床の封印を確かめる。
新王が続き、首席評議員は最後を歩いた。
百二十段下りたところで、通路が二つに分かれた。
右から、紫の流れが来ている。
左には、乾いた紙と防腐樹脂の匂いがあった。
新王は左を選んだ。
扉に文字はない。
法印卿が白印を当てると、古い封印が剥がれた。
中には、木箱が並んでいた。
床から天井まで。
壁の端から端まで。
箱の正面には、数字だけが刻まれている。
一。
二。
三。
最後の棚は、暗がりの先まで続いていた。
ネイセルは入口に最も近い箱を開けた。
中には、薄い木札が入っている。
一枚目は縁が欠け、箱の底へ落ちかけている。彼が取り出した札には、最初に名があった。
――セラ。
――枝籍、下層七枝。
その下に、生年。
採取日。
採取量。
採取後の身体状態。
死亡年。
古い王府紀年で、一行ずつ記されている。
初回採取時、八十七歳。
一回目の採取量、四月。
採取後、睡眠の断裂。
両手末端の冷え。
翌年、再採取。
その翌年にも、再採取。
四十六年分の欄が続いていた。
最後に、総採取量。
十一年七月。
最終採取の一年後、根枯症により死亡。
新王は札を受け取った。
薄い木札だった。けれど十一年七月という数字へ指が触れたとき、落としそうなほど重く感じた。
もう一度、最初から読む。
「採取量とは何だ」
法印卿は、首席評議員を見た。
首席評議員は答えない。
育成官が札を覗き込んだ。
「魔力ではありません」
「なぜ分かる」
「魔力なら、珠量か根量で記します。月や年は使いません」
ネイセルが箱の中を探ると、セラの札と同じ番号を持つ薄冊子が出てきた。
王府療養記録。
採取前の身体年齢。
採取後の身体年齢。
二つの値に、十二年近い差がある。
血液量は戻った。
魔力も、三月後には基準値へ戻っている。
戻っていない欄が一つだけあった。
――生命活性残量。
育成官は別の帳面を開いた。
古い用語の換算表だった。
生命活性。
身体が、自分を生かし続けられる力。
根が葉を保ち、心臓が次の鼓動を作り、傷が塞がるまでの残り。
年月で換算する。
「寿命ですか」
ネイセルが尋ねた。
育成官は、すぐには頷かなかった。
記録を三枚並べた。
採取量。
身体年齢の増加。
生命活性残量の減少。
誤差を除けば、同じ年月だった。
「魔力を取ったのではありません」
育成官が言った。
「魔力を通路にして、身体がこれから生きるための力を切り分けています」
新王は札を見た。
十一年七月。
セラが生きるはずだった年月だった。
「どこへ移した」
ネイセルが薄冊子をめくる。
末尾に、移送記録があった。
供給者。
セラ。
枝籍、下層七枝。
受容根。
紫一号。
法印卿が目を閉じた。
新王は、その識別印を知っていた。
先王の療養槽。
葬儀の日、停止を確認した生命根と同じ印だった。
「父へ与えたのか」
首席評議員が答えた。
「盟約王アルフレッドの生命根系を維持するためです」
一枚の札から、治療や奉仕という言葉が剥がれ落ちた。
残ったのは、一人から切り取った年月を別の一人へ移した記録だけだった。
ネイセルは箱の中を見た。
セラの下に、別の名がある。
その下にも。
一つの箱だけではない。
棚のすべてが、同じ形式で作られている。
新王は、暗がりの先へ続く木箱を見た。
「千年の平和を維持するためでした」
首席評議員が言った。
誰も理由を尋ねてはいない。それでも首席評議員は、自分だけが知る理由を抱えたまま、木札を見つめ返すことには耐えられないようだった。
「先王が死ねば、終戦盟約は持ちませんでした。列国は次の王を選ぶ前に軍を動かしたでしょう。国境は書き直され、短命種の一世代ごとに報復が始まる」
「だから、セラの十一年を使った」
「セラ一人ではありません」
首席評議員は言い直さなかった。
「犠牲がなかったとは申しません。知った上で、比べたのです」
首席評議員は弁明するように声を上げなかった。七百年、同じ問いへ答え続けてきたかのような静けさだった。
「数千人から奪う年月と、戦争で失われる数十万、数百万の命を。王が変わらず立ち続ければ、列国は次の戦争を始める理由を失う。世界が得た千年も、記録から消さないでいただきたい」
「本人たちへ、その比較を示したのか」
新王が尋ねた。
首席評議員は答えなかった。
「何人だ」
新王はもう一度尋ねた。
「父のために、何人から採取した」
法印卿が、部屋の奥にある総覧箱へ白印を当てた。
封印が解ける。
取り出した集計板には、修正の跡が何層も残っていた。
「直接採取を受けた者、八千四百十二名」
ネイセルの指が、セラの札の上で止まった。
「死亡との因果が高いと認められた者、二千百九十三名」
法印卿は続けた。
「全体の約七割に、程度の異なる寿命短縮が推定されています」
「父へ渡ったのは」
「約七百年です」
新王は、聞き違えたのかと思った。父の在位でも、王冠の年齢でもない。目の前の札と同じ単位で数えられた、父一人の年月だった。
「採った年月の合計は」
「推定、一万九千六百年」
七百年を一人へ加えるために、一万九千六百年が切り分けられた。拒絶と術式損失、生命根の維持に費やされ、父へ届かなかった年月まで含む。
「本人の同意は」
新王が尋ねた。
首席評議員が答えた。
「最初の二十七年は、延命への使用を説明した志願者だけでした」
「その後は」
「必要量を満たせなくなりました」
王府医療奉仕。
刑の減免。
枝籍の取得。
債務の返済。
王府記録杖の育成。
制度ごとに、生命活性を提供する条項が加えられた。
王へ寿命を渡すとは書かれていない。
契約を拒めば、治療を失う者がいた。
刑が戻る者がいた。
枝籍を得られない者がいた。
選ばれたのは、選べるものが少ない者だった。
長命のエルフにとって十年は短い――少なくとも、王府の集計では。
新王はセラの死亡年へ指を戻した。彼女にとって、その十一年七月より後は一日もない。会えた者も、完成させた仕事も、木札には記す欄がなかった。
ネイセルは、棚の枝名を追う。
ヴァレシオン。
一枚あった。
――エルナ・ヴァレシオン。
――採取期間、九年。
――総採取量、十七年三月。
――魔力性心衰弱により死亡。
「私の枝の者です」
ネイセルの指先は、エルナの札の縁から離れなかった。
「三代前の記録官です。若くして眠り病で死んだと、枝では伝えられてきました。王都の記録事業へ力を使いすぎたのだと。リエナが育てている記録杖、その最初の芽を選んだ者でもあります」
途切れずに説明した声が、最後の一言でかすれた。
「何をすると聞かされていたのですか」
法印卿が個別記録を探した。
「王府記録杖の育成へ、生命活性を提供すると」
「記録杖ではなく、王へ使った」
「王冠、王都根系、先王の生命根は、同じ系統へ接続されていました」
「だから、嘘ではないと」
法印卿は答えなかった。
記録杖も生命根も同じ系統にある。だから文面は虚偽ではない。ネイセルの指の下で、エルナの十七年三月だけが、その説明を拒んでいた。
新王は総覧箱を見た。
「父は知っていたのか」
首席評議員が、部屋の最奥を示した。
そこだけ、木札ではなく黒い記録板が並んでいる。
先王の私記録だった。
在位百三十八年目。
アルフレッド自身の筆跡がある。
――生命根系の供給源について説明を受けた。
次の行。
――停止した場合、三年以内に生命根が枯死する。盟約王急死による列国の混乱予測を求める。
四日後。
――予測を確認。採取量を半減し、志願者に限るよう命じる。
七年後。
――志願者不足。王府は刑減免者および医療奉仕者を対象へ戻すよう求める。
その下に、先王の紫印があった。
承認。
新王は自分の印指を握った。命令へ触れれば、父と同じ色が灯る指だった。
記録板を台へ戻す。
「父も、途中から知っていた」
「はい」
「止めようとした」
「はい」
「それでも、続ける印を押した」
「はい」
採取量を半減させた命令と、再開を認めた紫印は、同じ一枚から剥がせない。
父を弁護する言葉なら浮かんだ。王冠へ身体をつながれ、自分も自由ではなかった。戦争を止めるには必要だった。
どれも、エルナの札を元の意味へ戻してはくれない。
「陛下も、同じ予測をご覧になれば分かります」
首席評議員が言った。
「先王が倒れたあとの十七日で、六国は兵を動かし、航路を閉じ、工場を軍へ戻した。いま停戦を三十日延ばすだけでも、八者が毎日、破綻の理由を数えています」
「その予測が正しければ、奪ってよいのか」
「よいとは申しません」
首席評議員は、新王を見た。
「必要だったと申し上げています」
首席評議員は視線を逸らさない。新王には、八千四百十二名を知らなかった者の顔には見えなかった。その数を抱えたまま、なお別の死者を数えてきた者の顔だった。
右の通路から、育成官が呼んだ。
「陛下」
五人は、記録室を出た。
右の通路は、さらに下へ続いている。
壁を走る紫の光が、少しずつ太くなった。
二つ目の区画には、十六の採取台が並んでいた。
生木で作られた寝台。
手首と足首を置く窪み。
頭の周囲を囲む細い根。
すべて空だった。
表面は乾き、採取側の管には光がない。
先王の死後、新たな採取は行われていない。
部屋の奥に、太い根の束があった。
十六本を一つへまとめ、さらに地下へ送る移送根。
その一部だけが、紫に脈打っている。
保管室で見つけたものと同じ間隔だった。
一度。
十四呼吸おいて、もう一度。
育成官が三枚の検流葉を置いた。
採取側。
移送部。
受容側。
採取側の葉は白いままだった。
移送部には、細い紫。
受容側の葉だけが、脈のたびに光る。
「延命設備は停止したのではないのか」
新王が尋ねた。
「採取部は停止しています」
「ここは」
「受容を確認する回路です」
「誰も受け取らないなら、何を確認している」
育成官は答えず、根の束へ細い測定針を入れた。
一つ目の節。
応答なし。
二つ目。
応答なし。
七つ目で、針の先が紫に変わった。
育成官は位置を変え、同じ試験を繰り返す。
光は消えない。
先王の生命根識別印とは照合できなかった。
別の名も現れない。
ただ、受ける側からの応答だけが返ってくる。
「どこへ送っている」
新王が尋ねた。
育成官は最後の検流葉を外した。
「受け取り先が、まだ存在しています」
新王は根の束を見た。
「父は死んでいる」
「存じています」
それ以上、育成官は言わなかった。測定針にも検流葉にも、その先を答えられる反応は出ていない。
受け取り先が人なのか、物なのか。
この地下にあるのか、別の場所なのか。
記録にも、測定具にも答えは出なかった。
新王は根を切らなかった。
行き先を知らずに切れば、何を止めるかも分からない。
残せば、何が続くか分からない。
「この区画を一時封鎖する」
新王が言った。
「流量を記録しろ。変化があれば、ここにいる者だけへ報告する。採取台には触れるな。根も切るな」
法印卿が白印を出した。
首席評議員の金印。
新王の紫印。
三つを重ね、採取区画の扉を閉じた。
答えは、扉の内側に残った。
記録室へ戻ると、地上の鐘が鳴った。
日没。
先行措置の残りは、一日になる。
八錠化の本格改修まで、二日。
それまでに、図面にない根路と地下区画をどう扱うか決めなければならない。
首席評議員が、総覧箱の蓋を閉じた。
金印を封印溝へ置く。
「何をしている」
新王が尋ねた。
「元へ戻します」
「まだ調査は終わっていない」
「終わらせるべきです」
首席評議員の手は震えていなかった。
「外へ出れば、先王の正統性は崩れます。セレネアが千年にわたり列国を欺き、自国民を王の燃料にしたと記録される」
「事実と違うのか」
「事実の一部です」
首席評議員は答えた。
「千年間、止められた戦争は記録の外へ追いやられる。先王の治世すべてが、八千人への虐殺としてだけ記憶される」
金印が、封印溝の上で光った。
蓋が指一本分だけ沈む。そのまま閉じるのを、新王は一瞬、止めなかった。
明日を終えるまででいい。八者に鍵を持たせ、停戦を延ばしてから考えればいい。
考える時間が欲しいという言葉は、七百年ここを閉じてきた者にも使えたはずだった。
ネイセルが箱の蓋へ手を置いた。
首席評議員を押しのけない。
印だけを入れさせなかった。
「エルナの死は、今まで何として記憶されていました」
「眠り病です」
「それも、事実の一部です」
首席評議員はネイセルを見た。金瞳がわずかに揺れた。怒りよりも、国が壊れることを恐れているように新王には見えた。守ってきた千年から、守ったものの名まで消えることを恐れているように。
法印卿が言った。
「公表すれば、先王が押した国境裁定、通商法、休戦命令の正当性まで争われます」
「法は失効しない」
新王が言った。
「法理上は」
法印卿は答えた。
「ですが、従わない理由には使われます。セレネアが盟約王を人工的に維持し、その権威で列国を拘束したと主張される」
アルヴェルンは、東部線の境界裁定を問い直す。
ネレイアは、旧航路の裁定を問い直す。
カルドランは、北鉱脈の分配を問い直す。
正しい主張だけが出るとは限らない。停戦が切れるまで八日もなく、明日公表すれば、明後日の改修に八者が揃わない可能性もある。
王冠を閉じるための約束が、王冠の過去によって壊れる。
「秘密にすれば」
ネイセルが言った。
「八千四百十二名を、もう一度ここへ埋めます」
「公表すれば、その名を戦争の旗にする者が出る」
首席評議員が返した。
どちらも、あり得た。
新王は、すぐに命じなかった。
総覧箱を開けたままにすれば、八千四百十二の名が見える。閉じれば、明日の会議だけは守れる。
父なら平和を選んだだろう――そこまで考えて、新王は唇を噛んだ。それは父の判断ではなく、自分が決める責任から逃げるための答えだった。
「今は、公表しない」
新王が言った。
「寿命採取の事実と地下区画は、当面、セレネアの国家機密とする。ここにいる五名以外へは知らせない」
口にした瞬間、首席評議員と同じ側へ立ったような感覚がした。
首席評議員の金印から、光が消えた。
「安堵するな」
新王は続けた。
「……違うな。隠すことまで否定はできない。だが、なかったことにはさせない。記録は一枚も処分しない」
「では」
「まず複写を作る。原本とは別の場所へ保管する。氏名、契約、採取量、死因を照合する手順も作れ。父の私記録も外すな」
「照合には、いずれ記録官が要ります」
法印卿の声は低かった。拒む響きはなかった。五人だけでは終わらない量を、目の前の棚で確かめるような声だった。
「誰に、どの範囲まで見せるかは五人で決める。それまでは一人も増やさない」
法印卿が尋ねた。
「公開の時期は」
「決めていない」
「決めなければ、七百年後も同じ答えになります」
首席評議員が言った。
新王は否定しなかった。
「だから、今日の判断も記録する」
公表を見送った日、理由、期限を定められなかったこと、秘密を知る五名。すべてを地下の記録へ加える。
自分もまた知らなかったとは言えなくなる。それでよかった。
「八錠化の改修までに決めることは二つだ」
新王は言った。
「地下へ続く根路を、改修図面へ含めるか。受け取り先が不明なまま、どこまでを停止できるか」
「秘密そのものの公表は」
「二日で決めない。だが二日を理由に、証拠を消すことも許さない」
首席評議員は、総覧箱から手を離した。
賛同ではない。
自分一人の印で閉じられないと理解しただけだった。
五人は地上へ戻る。
三つの印で入口を封じた。
紫の流量を測る検流葉だけを、扉の外へ残した。
一度。
十四呼吸おいて、もう一度。
受け取り先からの応答は続いていた。
夜が明けた。
十日間先行措置の最終日。
八者が客座殿へ集まる。
各地から、既存の通信網を通じて記録が届いていた。届いた時刻も経路も異なり、遠方の記録は到着した時点ですでに数時間前の状況だった。
東部線は、民需輸送を維持。
北鉱脈は、新規採掘なし。
新航路は、一日一隻の試験通航を達成。
灰角族の通行拒否、公式報告なし。
卵と人格核の新規軍事移送、公式報告なし。
不備はあった。
民需列車の遅延。
鉱滓量の申告差。
貨物船の曳航事故。
灰角族の宿泊拒否三件。
人格核保管庫の記録不足。
それでも、銃撃はない。新たな線路は敷かれず、兵器を積んだ船も通らなかった。
王冠保管室の八錠化については、翌日の立会人と作業時刻が確認された。錠の固定位置は、北壁の根路へ触れないよう夜のうちにずらしてある。
提出された予定表に、地下区画はない。五人が前夜に選んだ暫定措置だった。
第一調整官も、他国の代表も、その存在を知らない。
「三十日間の停戦延長条件は満たされたと判断します」
第一調整官が言った。
ハイン・ロートが懐中時計を開く。
「異議なし」
大潮守の鰓が開く。
羽化議長が羽を畳む。
カルドラン王は酒筒を卓上へ置いた。
バルガは、白鹿の角輪を入れた旅袋を足元へ置いた。
セヴァルの右角には、ルメアの地下で熱を持った名残がある。
卓上の報告だけで、各国が抱える事情のすべてが見えるわけではない。少なくとも新王は、セレネアの地下にあるものを隠したまま、彼らと同じ卓についていた。
停戦延長文書が円卓を回る。
六つの主権印。
二つの証人印。
最後に新王の前へ来た。
彼は紫の印を押した。
光が文書を一周する。
停戦は三十日延びた。
歓声はなかった。
十日を守れた者たちは、三十日も守れると証明したのではない。
次の一日を作る理由を、もう一度得ただけだった。
会議のあと、新王は先王の寝室へ戻った。
入口の封印は閉じている。
白。
金。
紫。
三つの印には前日に一度開かれた跡が残り、階段の下では記録室の灯りが待っていた。
ネイセルが、複写台の前に座っている。
命令された複写は、まだ始まっていない。
保存用の帳面も、法印局の書式も届いていない。
彼の前にあるのは、儀典官が持ち歩く白紙の記録簿だった。
ネイセルは、誰にも命じられずに最初の木札を置いていた。
――セラ。
枝籍、下層七枝。
番号を先に書かない。
採取量も先に書かない。
最初に、名を書く。
その下へ、生年。
採取日。
採取後の身体状態。
死亡年。
隠された記録にしかいなかった一人を、別の記録へ移す。
新王は入口に立ったまま、それを見た。
ネイセルは手を止めなかった。
許可を求めない。
公表を迫る言葉も口にしない。
ただ、一人目を書き終えた。
新王は複写台の隣へ座った。
二枚目の札を取る。
――ミオル。
枝籍なし。
新王は、その名を読んだ。
ネイセルが新しい頁を開く。
新王は、自分で二人目の名を書いた。
停戦の残りは、三十六日。
先行措置は、十日間を終えた。
王冠保管室の本格改修まで、あと一日。
封鎖された採取区画からは、受け取り先の応答が続いている。それが何なのか、五人の誰にも分からない。
地上を行くのは、停戦を三十日延ばす文書と、次の会議日程を照合する通信。
地下では、千年間の平和を支えるために寿命を奪われた者たちの名が、初めて隠すためではない記録へ戻され始める。
平和が千年続いたことは、消えない。
そのために誰かの年月が奪われたことも、消えない。
一枚目。
二枚目。
八千四百十二の名には、まだ遠い。
新王は三枚目の札を、ネイセルの前へ置いた。
二人は、その名から読み始めた。




