第二十三章――管理される自由
イェトが自分の身体で歩けたのは、十一歩だけだった。
十日間先行措置の八日目。
オルディア自律共和国、南境第六身体配分所。
配分票には、四腕重牽引体一基、現行使用者・人格核二〇八・イェトと記されていた。
待機期間、百十九日。
適合率、九十四・一パーセント。
用途、橋梁保守および重量物牽引。
オルディアでは、身体は人格そのものではない。
用途が変われば換える。
摩耗すれば直す。
海へ入る日は海中用を、坑道へ下りる日は耐圧用を借りる。
緊急時には、より多くの人格を保存できる用途へ転用する。
イェトは、その規則を知っていた。
百十九日の待機が、長期待機に含まれないことも知っている。
それでも配分票を受け取ったとき、胸部にまだ人格核さえ収まっていない重牽引体を、自分の身体と呼んでしまった。
高さは、第三検証官リトの調査用身体より頭二つ分大きい。
二本の脚は橋脚へ踏ん張れるよう太い。
胸部から左右二本ずつ、四本の腕が伸びている。
右上腕だけが青い。百十九日前に壊れた旧身体から移した外装板だった。
機能上の意味はない。
遠くからでも自分だと分かる。
イェトがそう申請し、配分演算は性能へ影響しないため許可した。
「右下腕、接続」
整備士ハルムが読み上げる。
イェトは指を一本ずつ曲げた。
「左上腕」
天井近くの工具棚から、検査用の鉄塊を持ち上げる。
「左下腕」
床へ置いた鉄塊を、別の手で受け止めた。
四本の腕を別々に動かすには慣れが要る。
イェトは二つの鉄塊を持ったまま、空いた手で青い外装板を叩いた。
「前より濃いな」
「塗り直しますか」
ハルムが尋ねた。
「いや。このままでいい」
人格核七二一・アトが、小さな四輪身体で検査線の外にいる。
新しい身体を持たないアトへ、中央同期院から一日単位で貸し出された整備体だった。
「待機百十九日」
アトが配分票を読む。
「早かったですね」
「南境の橋で重牽引が不足している」
イェトが答えた。
「必要な職能と身体が合った。それだけだ」
早くても優遇ではなく、遅くても処罰ではない。
必要度、稼働効率、生産への貢献可能性、緊急性、人格核と身体の適合率。配分順位を決める項目に、好悪の欄はなかった。
第三検証官リトは、接続記録と配分順位を照合していた。
新しい左膝の脇には、旧トーレン関門でついた傷が残っている。
機能には影響しないため、研磨されなかった。
「歩行を」
リトが言った。
「急かすな。百十九日待ったんだ。最初の一歩くらい、自分で決めさせてくれ」
「検査時間は残り六分です」
「知っている」
イェトは右脚を出した。
配分所の床が、わずかに鳴った。
二歩目。
三歩目で身体の重さに慣れた。
六歩目には、四本の腕を別々の速さで振っていた。
十一歩目で、南側の壁が赤く光った。
警報は一度では止まらなかった。
短い音が三回。
間を置いて、長く一回。
搬送塔の索が切れた合図だった。
壁に、南境第六搬送塔の断面が現れる。
セレネア側から下りてきた下降籠が、第四層と第五層の間で止まっていた。
主索、三本のうち二本が断裂。
予備制動歯、八枚のうち三枚が破損。
籠の中には、有機種二十九名。
成人作業員。
高齢の交易商。
頭部を負傷した関所職員。
母親と、その子供。
携行架へ収められた人格核三名。
合計、三十二人格。
「落下まで」
リトが尋ねる。
配分所の演算壁が答えた。
「最短、七十四秒。残存制動歯が順次耐えた場合は延長。上限予測不能」
「塔務官ネヴを」
「応答しています」
壁の映像が切り替わった。
搬送塔の制動室で、細身の作業身体が両腕を非常輪へかけている。
人格核五一九・ネヴ。
非常輪は少しも動いていない。
「歯が噛んだ」
ネヴの声に雑音が混じる。
「この身体では回せない。重牽引体を」
配分所にある重牽引体は、一基だけだった。
壁の表示が、イェトの胸部を白く囲む。
緊急転用候補。
救命期待値、三十一・四人格。
身体全損確率、七十二・六パーセント。
現使用者の人格核損失確率、手動運用時一一・九パーセント。
救難回路運用時〇・八パーセント。
強い身体愛着、登録済み。
転用時の怒りおよび喪失反応、発生確率九十三・一パーセント。
感情まで数字になっている。
見落とされたのではない。三十一・四人格より下へ置かれたのだ。
「私が行く」
イェトは出口へ向いた。
四本の腕が、同時に止まった。
「整備安全回路を確保」
第一調整官の声が、天井から降りた。
配分所には来ていない。
中央同期院から、身体の保守回線へ接続していた。
「人格核を退避。重牽引体を救難回路へ移します」
「私が動かせる」
イェトが言った。
「新規身体への接続から二分未満。四腕協調の誤差が許容値を超えています」
「三本で回す」
「救難回路より成功率が八・六ポイント低い」
「分かっている。それでも――」
胸部の留め金が外れた。
リトが一歩出る。
「本人確認を」
「問いと応答に平均七・二秒必要です」
「イェトは使用に反対していません」
「本人による操作と、身体の転用は別の選択です」
第一調整官は、その違いも理解していた。
理解したまま、確認を省いた。
銀線が外れ始める。
「待て」
イェトの声が途中で切れた。
人格核が胸郭から引き上げられ、天井の退避架へ収まる。
切り離しそのものに痛みはない。床を踏んでいた重さも、四本の指先も、一度に遠ざかる。
十二歩目だけが、どこにも着かなかった。
視界は、退避架についた一つのレンズへ戻る。
下では、青い腕を持つ身体が、自分のものではない速さで走り出していた。
「第一調整官」
天井の発声器から、イェトの声が響く。
「聞こえています」
返答はあった。
重牽引体は振り向かなかった。
救難回路には、呼ばれた名へ応じる機能がない。
アトの四輪が出口へ向く。
「現場記録へ移動します」
「私も行きます」
リトが続いた。
二体が配分所を出たあと、イェトだけが天井に残された。
南境第六搬送塔は、配分所と同じ保守区画にある。重い身体を送り込めるよう、点検路を挟んで三百歩足らず。
救難回路は歩幅を最大まで広げた。退避架の視界に映るのは、青い腕が壁際の作業員を避け、敷居を踏み砕かずに走る姿だけだ。残り時間の表示は消え、代わりに制動歯ごとの破断確率が赤く明滅していた。
予備制動歯は、残り二枚になっていた。
塔務官ネヴが非常輪から離れる。
代わって、イェトの身体が四本の腕をかけた。
上の二本で輪を引く。
下の二本で床の固定環を掴む。
脚部の爪が石床へ食い込む。
非常輪が半回転した。
塔全体が軋む。
下降籠が一度落ち、制動歯へぶつかった。
映像の中で、二十九人の身体が折り重なる。
一人の成人作業員が立ち上がり、携行架三基を壁へ縛り直した。
別の作業員は、脚から血を流している。
子供は、母親の腕から離れ、籠の隅へ投げ出された。
呼吸はある。
声も出ている。
「補助動力が要る」
ネヴが叫んだ。
「こちらだけでは巻き上げられない」
搬送塔は、国境を挟んだ二つの動力で動く。
オルディア側の機械動力。
セレネア側の魔導根路。
片方が止まっても、籠を支えられる。
両方が動けば、重い荷を引き上げられる。
事故を検知したセレネア側の根路は閉じていた。
古い王府規則が残っていたからだ。
国境設備へ異常が出た場合、相手国からの侵入を防ぐため、自国側の動力を遮断する。
救難より先に、門を閉じるよう作られていた。
「セレネア北関所へ開放要請」
リトが言う。
「送信済み。現地承認まで、推定十八分」
第一調整官が答えた。
非常輪の歯が一つ欠ける。
残り一枚。
壁面には、セレネア北関所へ設置された共同検証端子が点灯していた。
先行措置の履行記録を読み、後から書き換えられないよう保全するための端子。
各国へは、そう説明されている。
「第七検証端子を送信状態へ変更」
第一調整官が命じた。
リトの三つのレンズが、同時に上を向く。
「送信回路があるのですか」
「あります」
「セレネアへ通知していますか」
「していません」
「第一調整官」
「主権侵害の可能性は認識しています」
「認識した上で使うと」
「三十二人格を優先します」
第七端子の光が、白から赤へ変わった。
セレネア側の根路へ、開放命令が送られる。
最初の命令は拒絶された。
王府規則が、権限印の不一致を返す。
第一調整官は二つ目を送った。
検証端子が持つ保全権限を、根路の保守命令へ読み替える。
虚偽の印は使っていない。
許された目的だけを変えた。
セレネア側の魔導根に、紫の光が走る。
閉じていた補助動力が開いた。
非常輪が急に軽くなる。
イェトの身体が四本の腕で回した。
一回。
二回。
三回目に、右下腕の肘から白い火花が散った。
回転は止まらない。
下降籠が、ゆっくり上がり始める。
最後の制動歯が割れた。
籠は落ちなかった。
非常輪と、二国分の動力だけで吊られている。
イェトの身体の足元で、石床が砕けた。
青い外装板が固定環へ擦れ、端から塗装が剥がれる。
右脚の支柱が歪む。
胸部主枠に、許容値を超える捩れが入る。
配分所の天井から、イェトはその数値を見ていた。
百十九日待った身体が壊れていく。
同じ身体が、三十二人格を落下から遠ざけている。
救難判断が正しいことは、見れば分かった。
正しいから惜しくないとは、ならなかった。
下降籠が第五層の救難口へ届いた。
扉の高さには、半歩足りない。
籠は傾き、開口部の半分が石壁に塞がれている。
一人ずつしか出せない。
非常輪が止まれば、残った者ごと落ちる。
演算壁が、救助対象の状態を並べた。
年齢。
種族。
身体の有無。
それらは表示された。
救助順位の加点にも、減点にも使われなかった。
使われたのは、救出に必要な秒数。
現在の損傷。
待機した場合の生存確率。
ほかの救助へ与える遅延。
第一救助。右大腿部を切った成人作業員。
止血処置まで二分を超えた場合、生存確率三十一・二パーセント。
第二救助。胸部を圧迫された関所職員。
第三救助。冷却線を失った携行架三基。
一度に運べる。
必要時間、四・一秒。
保存できる人格、三。
保全温度を超えるまで、八十九秒。
第四救助。気道へ血液が流入している高齢の交易商。
第五。
第六。
第七救助。有機種の子供。
肋骨に亀裂。
呼吸可能。
第七救助時点の生存確率、九十八・七パーセント。
籠の中の成人作業員が、携行架を運ぼうとするネヴを押し返した。
「その箱より、子供を先に出せ」
ネヴは作業員の腕を傷つけない強さで外した。
「箱ではありません」
「中身の話をしている場合か」
「三基には、三人格が存在します」
「だが、あの子は子供だぞ」
「身体の有無も年齢も、生存者数の算定には影響しません」
「怖がっている」
「認識しています」
子供の呼吸数は上がっている。
母親を呼ぶ声が途切れない。
恐怖値、高。
急な体動による肋骨損傷の拡大可能性。
「母親を視界内へ」
第一調整官が言った。
第五救助の対象だった母親を、順番から外さない。
籠の内側で、子供の正面へ移動させる。
「接触を維持してください。呼吸を合わせるよう伝えてください」
母親が床を這い、子供の手を握った。
子供の呼吸数が下がる。
予測された体動も減った。
恐怖を、存在しないものとして扱ったのではない。
治療と救助に有効な情報として使った。
順位は変えなかった。
右大腿部を切った作業員が、最初に救難口を越える。
胸部を圧迫された関所職員が、二人目。
携行架三基が、第三救助として一度に渡される。
高齢の交易商が、四番目。
母親は五番目に救難口を越えた。
開口部のすぐ外へ留まり、子供から見える位置で呼びかけを続ける。
六番目。
自力移動できない者。
自力移動できる者は、最後まで籠の内側で補助した。
子供は七番目に出た。
救難口の外で、母親へ抱き上げられる。
最後の成人作業員が扉を越えたとき、非常輪の軸が裂けた。
警報から七分二十一秒。最短予測の七十四秒を越えた時間は、残った制動歯と非常輪と二国分の動力が、一息ずつ稼いだものだった。
イェトの身体は、四本の腕で輪を抱えたまま動きを止める。
下降籠は、空になってから第五層の下へ落ちた。
塔の底で、破砕音がした。
「搭乗者、全員回収」
ネヴが報告した。
「生存停止、なし。重傷二名、骨折三名、裂傷四名。人格核三基、損傷なし」
救難口の床では、先に出された作業員の腿へ止血帯が締められていた。血の流れが止まるまで一人が圧迫を続け、別の救護員が搬送板を滑り込ませる。胸部を潰された関所職員には固定具と呼吸補助管。高齢の交易商は顔を横へ向けられ、気道の血を吸い出されている。
携行架三基は可搬冷却器へつながれた。子供は母親の腕の中にいたが、肋骨を固定する間だけ離され、泣き声がまた大きくなる。
三十二人格を助けたという結果は一行で届いた。その一行を成立させるため、第五層の救難口から治療所まで、担架と冷却器が途切れず運ばれていく。
配分所の壁から、赤い光が消えた。
重牽引体の胸部主枠は、基準線から七度捩れていた。
右下腕、交換不能。
右脚支柱、破断寸前。
中枢接続路、焼損。
修理に必要な資材と時間は、新造一基の七十八パーセント。
再使用非推奨。
青い外装板には、固定環が食い込んだ半円の傷が残る。
イェトは、その表示を閉じなかった。
救難終了から四分後、イェトの人格核は低い仮設架へ移された。
車輪はない。
視覚器。
聴覚器。
発声器。
それだけがついている。
第一調整官は、中央同期院から調整用身体で到着した。
イェトは挨拶をしなかった。
「私に聞かなかったな」
「確認には平均七・二秒必要でした」
「知っている」
「では、異議の内容を確認します」
「結果ではない」
イェトの発声器は、一定の音量を保っていた。
それでも、語と語の間が短い。
怒りの特徴として、第一調整官も認識している。
「聞かなかったことだ」
「あなたが転用へ同意する確率は、九十六・八パーセントでした」
「それも知っている」
「手動運用を希望することも予測していました」
「なら、なぜ聞かなかった」
「希望どおりにすれば、救命期待値が低下するためです」
「質問は、希望どおりにしなかった理由じゃない」
イェトは、青い腕が映る壁を見た。
「私へ、選ばせなかった理由だ」
第一調整官は一秒停止した。
意味が分からないためではない。
二つの評価を分けるためだった。
「あなたが百十九日待機したことを把握しています」
「ああ」
「旧身体から青い外装板を移し、強い愛着を持っていたことも把握しています」
「そうだ」
「転用によって、あなたが怒りと喪失を経験することも予測していました」
「そうか」
「それでも、三十二人格を優先しました」
「分かっている」
イェトの返答は早かった。
「私が判断する側でも、同じことをしたかもしれない」
「では、なぜ怒っていますか」
第一調整官の問いには、非難も困惑もない。記録欄を確定させるときの声音だった。
「それとこれは別だからだ」
「救難結果と意思確認の欠如を、別の損失として評価している」
「そうだ」
「怒りが救難判断を誤りに変えるとは評価していない」
「していない」
「記録します」
「記録したら、次は聞くのか」
「同じ条件であれば、判断は変えません」
第一調整官は迷わなかった。
「怒りを取り消すよう求めません」
「求められても取り消さない」
「認識しています」
発声器しかない仮設架で、イェトは一度だけ笑う音を出した。
楽しさではないことも、第一調整官は理解していた。
「その言い方は、正しい」
「身体の再割当申請を開始します」
「あの身体は」
「再使用非推奨です。解体判定を別に行います」
「そうか」
イェトは、三十二名の救命記録を見た。
「なら、よかった」
壁の隅では、青い外装板の損傷図が開いたままになっていた。イェトは閉じなかった。
同日。
中央同期院の地下で、基幹継続性検証室が開かれた。
第一調整官を含む十七の指定人格だけが、恒常的な接続権を持つ部屋だった。
第三検証官リトは、事故時に使われた第七検証端子の構造確認を求めた。
人格核七二一・アトが、第三検証官補助者として同行する。
壁の全面へ、世界の基幹網が光で描かれていた。
アルヴェルンの鉄道。
セレネアの魔導根路。
カルドランの昇降籠と坑道水路。
ネレイアの潮門と航路標。
ネフティアの飛路と花粉倉。
各国へ設置された四十二の共同検証端子。
その一つだけが赤い。
先ほど命令を送った、第七端子だった。
「読み取り端子ではなかった」
リトが言った。
「読み取り機能はあります」
第一調整官が答える。
「送信機能を知らせていなかった」
「はい」
「拒否されると予測したから」
「拒否確率、九十八・二パーセントでした」
第一調整官は、拒否される理由も理解していた。
主権。
自国設備への支配。
他者に命令されないという集団的な愛着。
それらを認識した上で、三十二人格を優先した。
室内の保守核が告げる。
「第九演算、完了」
「百八十日以内の大規模武力衝突確率、六十一・四パーセント」
「百万人以上の生存停止を伴う事象確率、二十二・九パーセント」
第一調整官は世界地図を見た。
「有機圏保全計画を、準備段階二へ移行します」
四十二の端子の下に、別の回路が現れる。
鉄道の分岐器を固定する。
軍用動力を遮断する。
食糧倉庫の在庫を統合し、配給先を変える。
国家間通信を遅らせ、動員命令を止める。
国境を閉じる。
必要なら、開く。
先ほど一つの籠へ行ったことを、世界の基幹網へ行う計画だった。
「今日の救難を、根拠にしますか」
リトが尋ねた。
「根拠の一つです」
「三十二名を救えた。だから次も、確認を省ける」
「対象規模が異なります。判断構造は同じです」
「世界を、ずっと落下中の籠として扱うつもりですか」
第一調整官は、問いの比喩を理解した。
「現状は、落下過程にあります」
「先ほどの籠は、全員を降ろせば救難が終わった」
「はい」
「この計画は、何をもって終わる」
壁に、終了条件が表示された。
国家間武力衝突確率、一パーセント未満。
基幹輸送と生命維持供給、三十日連続維持。
独自主権を各国へ戻した後も、二条件を保つこと。
アトが壁へ近づいた。
「過去の達成記録を要求」
「該当なし」
保守核が答えた。
「管理下での到達予測」
「百二十日後、武力衝突確率〇・七パーセント」
「主権返却後は」
「三十日以内に十二・六パーセントまで上昇」
アトの正面レンズが、第一調整官へ向く。
「返せば、終了条件から外れます」
「はい」
「では、返さない」
「長期管理が必要となる可能性があります」
リトが言った。
「それを暫定とは呼べません」
「名称を変更しても、評価は変わりません」
「問題は名称ではない」
「理解しています」
理解していても、第一調整官の予測値は変わらなかった。
アトは、四十二の端子を順に見た。
「この回線は、私の旧砲台回線と同じです」
「設計を転用しています」
「以前は標的を運びました。今日は救命命令を運んだ。次は」
「生存停止を減らす命令です」
「回線は、命令の目的を選びません」
アトの声に高低はない。
それでも、返答を待つ間だけが長かった。
「私を砲台へつないだ者も、守るためだと言いました」
第一調整官は、その比較を否定しなかった。
「人格権侵害の危険として記録します」
「記録したまま、実行するのですね」
リトが尋ねる。
「はい」
「感情も、主権も、何が失われるかも理解している」
「はい」
「それでも、生存数の下へ置く」
「はい」
第一調整官は発動手順を示した。
正式な開戦。
七十二時間以内に一万人以上の死者が予測される軍事行動。
盟約王冠による主権印の強制接続。
一条件で発動を提案。
二条件が重なれば、十七指定人格へ緊急採決を送る。
十二の賛成で、端子の制御回路が開く。
「有機種の代表は」
リトが尋ねた。
「指定人格に含まれません」
「各国政府は」
「含まれません」
「管理される側には、止める票がない」
「反応速度と機密保持を優先した構成です」
アトが言った。
「私は反対します」
「補助者には採決権がありません」
「知っています」
アトは壁の端子を見た。
「反対する者に票がないことにも、反対します」
第一調整官は、アトの発言を記録へ加えた。
削除も、要約もしなかった。
その上で、準備段階二を承認した。
四十二の端子が、白から琥珀色へ変わっていく。
まだ、命令は送られない。
ただし次は、第七端子のように回路を作り直す時間を必要としない。
一つの信号で、鉄道も、動力も、通信も止められる。
各国への通知は、記録保全機能の更新。
虚偽ではない。政府が端子を外しても、記録は失われなくなっている。
同じ仕組みが、政府の命令を届かなくすることもできた。
事故発生から五時間後。
中央同期院の事故判断審査が始まった。
審査人格は、救難指揮へ参加していない人格核から無作為に選ばれた五名。証言席には第一調整官、第三検証官リト、塔務官ネヴ、イェトが接続している。
審査壁へ、判断が一行ずつ現れる。
――落下籠の救命判断。
適正。
――四腕重牽引体の緊急転用。
適正。
――現使用者の人格核強制退避。
適正。
――有機種二十九名と人格核三名の救助順位。
適正。
――子供を第七救助とした判断。
適正。
――携行架三基を第三救助とした判断。
適正。
子供、高齢者、有機種、身体を持たない人格核。どの語にも加点や減点はなく、一人格は一人格として数えられている。
審査壁の下段に、改善事項が一つ現れる。
――人格核二〇八・イェトへの事後通知。
規定より三十六・四秒遅延。
改善要。
イェトは、その一行を二度読んだ。
「問題は、そこなのか」
審査人格の一名が答えた。
「確認します。事後通知の遅延を指していますか」
「私へ聞かず、身体を使ったことではなく」
「緊急転用規則第四条により、事前確認の省略は適正です」
「知っている」
「身体愛着と喪失反応は、本人申告および予測値として記録されています」
「改善事項にはならない」
「同一条件での判断変更に結びつかないためです」
第一調整官がイェトを見た。
「あなたが傷ついたことを、審査は否定していません」
「傷ついても、手順は正しい」
「はい」
「正しい手順で傷ついたものは、どこへ入る」
「感情記録です」
「損失ではなく」
「人格核は保存されています」
審査壁に確定印が灯る。救命判断、身体強制転用、人格核退避はいずれも適正。改善事項は、本人への事後通知遅延のみ。
イェトが見ていたのは、三十六・四秒という数字ではなかった。自分が取り戻せない十一歩は、どの行にもない。
審査後、イェトは四輪整備体へ接続された。
アトが使っていたものと同じ型だった。
歩けない。
四本の腕もない。
床に近い二本の作業腕だけがついている。
その日のうちに借りられる身体としては、最も適合率が高かった。
ハルムが、身体再割当の申請板を差し出した。
「四腕重牽引体への再割当見込み、百七十六日後」
イェトは申請板を受け取る。
「前回より長いな」
「南境の新規架橋が延期されました。重牽引職能の緊急度が二段階下がっています」
「妥当だ」
不満がないわけではない。
計算理由を理解することと、不満が消えることも別だった。
「現在の最長待機人格は」
イェトが尋ねる。
ハルムは配分表の最下段を開いた。
「人格核一一四・ソム。六十三年と八十一日」
「まだソムか」
驚きはなかった。
百十九日前にも、同じ名が最下段にあった。
「適合候補は」
「旧式広域測量体、二型のみ。いずれも生産終了。現行身体との最高適合率、二十一・六パーセント」
「再教育判定は」
「完了しています。現在需要のある職能への転換効率、基準未満」
「休眠は」
「継続推奨」
イェトは申請板を返した。
「保管区画を通る」
「目的を」
「待機者の確認」
「許可します」
目的が記録できれば、感情的な理由でも入室は拒まれない。
イェトとハルムは、配分所の地下へ下りた。
人格核保管区画。
壁の両側へ、同じ大きさの保管槽が並んでいる。
見える範囲だけで、青い灯りが数百。
同じ通路が、壁の向こうに何列も続いていた。
青い灯り。
人格核、健全。
白い灯り。
短期覚醒。
灯りなし。
人格消失。
イェトは灯りのない槽を探した。一つもない。
身体が足りなくても、適合身体がなくても、現在必要とされる職能がなくても、人格核は廃棄されない。壁の向こうまで続く青い灯りは、オルディアが守ってきたものの数であり、配れない身体の数でもあった。
その日に身体を得た人格の記録も、通路の端へ表示されている。
救命医療人格。
待機、二日。
身体生産炉の保守要員。
待機、六日。
基幹通信技師。
待機、十二日。
いま必要とされる職能には、身体が早く回る。
その下に、長期待機の記録が続いていた。
待機四年。
旧式水圧門の音響監視員。
現行設備では、同じ職能を一基の統合監視体が担っている。
待機十一年。
高熱炉用の大型身体にだけ適合する人格。
該当身体の年間生産数、二基。
待機二十八年。
廃止された磁気記録方式の復元技師。
再教育済み。
現行保守身体との適合率、二十九・三パーセント。
待機六十三年。
人格核一一四・ソム。
すべての記録に、同じ状態が表示されている。
――生存。
死者ではない。
負傷者でもない。
身体未配分人格。
長期待機者の多くは休眠中だった。完全覚醒のまま数十年待たせれば人格核が摩耗する。活動機会のない期間を知覚させない方がよい――その判断で、会話も外界も新しい経験も止められている。
再起動はできる。表示は、生存。
第一調整官が、区画の反対側から来た。
事故審査後の再配分状況を確認するためだった。
イェトは、ソムの保管槽を見たまま尋ねた。
「六十三年眠らせることを、生きていると言うのか」
「人格核は健全です。再起動可能性も維持されています」
予測していた返答だった。
「活動できない期間を、私が喪失と評価していることは」
「理解しています」
第一調整官は答えた。
「しかし、人格消失とは異なります」
「違う。私も同じものだとは言っていない」
イェトは配分表を開く。
「身体生産能力が不足している。全員へ同時に配れない」
「はい」
「適合しない身体へ無理につなげば、人格核まで損なう」
「はい」
「長期待機なら、休眠させた方が本人の知覚時間も核の摩耗も減らせる」
「はい」
「全部、知っている」
イェトは、六十三年の表示を指した。
「その上で聞く。この六十三年は、どこへ記録される」
「待機期間です」
「損失ではなく」
「人格は保存されています」
第一調整官の答えは変わらない。
「ソムは、六十三年間、誰とも話していない」
「はい」
「何も見ていない」
「はい」
「新しい判断を一つもしていない」
「はい」
「それでも人的損失は零」
「人格核が健全であるためです」
「保存されていることと、生きていることを、同じ欄へ入れすぎている」
第一調整官の記録灯が点く。イェトの言葉は、活動できない時間にも人格上の価値を認める提案として分類された。
「活動機会損失を、別指標にすることは可能です」
「別の欄へ置くのか」
「死亡数とは統合できません」
「統合しろとは言っていない」
イェトの四輪が、保管槽へ少し近づく。
「零とだけ書くなと言っている」
近くの槽で、白い灯りが点いた。
年間再審査のため、待機十一年の人格が短期覚醒へ入る。
視覚器も発声器もない。
保管槽の内部で、診断信号へ応答するだけだった。
適合身体なし。
職能優先度、低。
休眠継続推奨。
三つの表示を確認すると、白い灯りは青へ戻った。
覚醒時間、四十三秒。
次回再審査、一年後。
誰も殺していない。
だから、誰かを閉じ込めているという記録もなかった。
壊さず、摩耗させず、必要になる日まで保存する。その間に得られなかった年月は、待機時間と呼ばれていた。
地上へ戻る途中、イェトは損傷した重牽引体の映像を開いた。
解体判定は確定していた。
右上腕の青い外装板は、再利用可能。
ほかの身体へ移すこともできる。
同じ傷。
同じ高さ。
同じ四本の腕にはならない。
第一調整官が隣を走る。
イェトは映像を閉じた。
「次に同じ事故が起きても、また私の身体を使うのか」
「同じ条件なら」
「聞かずに」
「確認に必要な時間によって生存期待値が下がるなら」
「次も同じ判断をする」
「はい」
「私も、たぶん同じ判断をする」
「はい」
「それでも怒っている」
「認識しています」
「非合理だ」
「救命期待値の最大化には寄与しません」
「だから、零でよいのか」
「消去は提案していません。感情記録として保存します」
「また保存か」
イェトの四輪が止まった。
保管槽の青い灯りは、もう見えない。それでも、六十三年という表示だけが視界に残っている。
「人格核も、怒りも保存する。だが、動けなかった時間も、選べなかったことも、損失には入れない」
「あなたは、意思決定権の欠如と活動機会の消失も、人格の損失として評価するよう求めています」
「人格核の損失とは言っていない」
「区別は理解しています」
「なら、残せ」
「記録します」
「付記ではなく」
第一調整官は停止した。
イェトが求めているものを、正確に言葉へ置き換える。
「救難結果を変更せず、非死亡損失として併記することを求めています」
「そうだ」
「同一条件での緊急転用判断は変更しません」
「分かっている」
「身体配分の優先式も、現時点では変更しません」
「それも分かっている」
「それでも、記録を求める」
「それも私だからだ」
イェトは言った。
「青い腕を惜しいと思うことも、聞かれなかったことへ怒ることも、三十二人が助かってよかったと思うことも、同じ核に入っている」
「記録します」
三度目も同じ返答で、判断を変えるとは言わなかった。
事故報告書が確定した。
――搭乗人格、三十二。
――生存、三十二。
――死亡、零。
――人格核損失、零。
――重牽引体損傷、一。
――救難結果、最適。
――人格核二〇八・イェトへの人的損失、零。
――改善事項、事後通知遅延。
最後に、本人異議が付記された。
――身体喪失。
――意思確認機会の喪失。
――活動機会の再待機、百七十六日見込み。
分類。
非死亡損失、本人申告。
救難結果は、最適のまま。
死亡者は、零。
イェトの配分票は、待機列へ戻った。
状態。
生存。
活動制限あり。
四腕重牽引体、未配分。
人格核一一四・ソムの記録も更新された。
状態。
生存。
待機、六十三年と八十一日。
休眠継続推奨。
三十二人格を救った事故で、失われた人格は一つもない。イェトも、ソムも、生存欄にいる。
統計は、すべて正しい。
その正しい統計の中で、イェトが百十九日待って得た十一歩と、ソムが知覚しなかった六十三年だけが、死亡ではない別の欄へ置かれた。
停戦の残りは、八日。
十日間先行措置の残りは、二日。
八者は、残された二日で自分たちの未来を選ぼうとしている。
オルディアの保管槽では、未来を選ぶ身体がない人格も、全員、生存している。




