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第二十二章――まだ国民ではない

ネフティアの孵化庭には、出口を六つ作る決まりがある。


秘密の孵化庭には、一つしかない。


中央孵化庭から北へ三刻。


湿地に倒れた巨木が、根の半分を泥に沈めている。その根元に、共和国第七隔離房はあった。


表向きは、卵殻腐敗病の研究施設である。


胞子が外へ出ないよう、窓はない。


出入口は二枚の扉で閉じられ、片方を開けている間は、もう片方が開かない。


千年前、卵と幼体を運んだ箱と同じ構造だった。


施設で働く者は、一枚目を外扉、二枚目を内扉と呼ぶ。


出口という名は、図面にも勤務表にもなかった。


主任孵育官ナエラが第七隔離房へ移されたのは、先王の死から九日後。


辞令に記された任務は、卵殻腐敗病の臨時観察。


病気の卵は一つもないと知らされたのは、内扉が背後で閉じてからである。


盟約会議で採択された先行措置では、卵、幼体、蛹へ新たな軍事処理を行わない。


ネフティアは既に、国内法でそれ以上の保護を定めている。


固有魔法を無理に発現させる検査を禁じる。


軍用区分を廃止する。


羽化前の者へ、他者を傷つける訓練をしない。


判断に迷う余地などないはずだった。


それでも十日間先行措置の七日目、第七隔離房では九十六個の卵が光に囲まれている。


ナエラは毎朝、自分で数えた。


九十六。


表示板にも同じ数字が出ていたが、それで数えずに済むとは思えなかった。


患者ではない。


病名もない。


施設の記録では、観察対象と呼ばれている。


最初の循環を見た日に、彼女は停止を求めた。


だが既に魔力経路を刺激された卵は、急に術式を切れば衰弱するおそれがあった。


段階的に出力を落とすべきだと判断したのは、ほかならぬナエラ自身だ。


診断書へ署名したときは、卵を守るためだと思っていた。


嘘ではない。


嘘でない言葉は、七日間、卵を囲む光を消さなかった。


「扉を開けます」


補助孵育官が言った。


外扉が閉じ、錠の音が一度。


狭い中間室へ胞子を殺す薬霧が満ちたあと、もう一度、錠が鳴る。


内扉が開く。


その先は、孵化庭より兵器庫に似ていた。


天井から九十六本の細い糸が下がっている。


一本につき、一個の卵。


籠へ寝かされることもなく、どれも空中に吊られている。


卵殻には銀粉で細かな術式が描かれ、周囲を六角形の魔法板が囲んでいる。


魔法板は決められた順に色を変える。


赤。


青。


白。


黒。


光が変わるたび、卵が小さく震える。


「まだ『病気の研究』で通すつもりですか」


ナエラは言った。


共和国防衛委員会の計画監が、奥の監視台から降りてくる。


共和国議会で、幼体の軍事記録を残すよう主張した者だった。


肩から腰へ投槍の帯を掛けている。


ここでは槍を外し、その手に記録具を持っていた。


「病気になる可能性を調べている」


「何の」


「魔法不適合だ」


計画監は一番近い卵を指す。


殻の色は淡い橙。


赤い魔法板が光ると、表面へ火花が散る。


青い板へ変わると火花は消え、卵の内部で影が身を縮める。


「固有魔法を持つ幼体へ、異なる属性の術式が触れた場合の反応を見ている」


「無理に発現させています」


「発現ではない。殻を通じた環境適応だ」


「言葉を変えても、卵は震えています」


「孵化庭でも温度を変える。音を聞かせる。親の魔力に触れさせる」


「戦闘術式で囲みません」


計画監は否定しなかった。


ナエラは卵ではなく、その周囲の板を一つずつ見た。


火炎。


凍結。


重量変化。


短距離転位。


音響破砕。


視覚遮断。


千年前、ピクシーの幼体へ刻まれた戦闘魔法と同じ系統。


孵育官だけが閲覧できる封印資料にも、その術式は残されている。


封印資料の末尾には、すべて廃棄と記されていた。目の前の銀粉は、その頁に描かれた線とよく似ている。


病気の研究ではない。


千年前の戦闘個体を、もう一度生み出そうとしている。


高位羽化体。


通称、ハイピクシー。


かつての戦争で、蛹へ強制的な羽化処理を施し、通常を越える固有魔法を持たせた個体である。


城壁を焼き切った熱線。


数百人規模の部隊を覆った幻惑。


音響だけで周囲一帯を吹き飛ばした広域破壊魔法と、広範囲の魔力を封じた結界。


どれも通常のピクシーが持ち得る規模を大きく逸脱している。


ナエラは廃棄という二文字を信じて、その頁を閉じていた。


「七日前にも聞きました。もう一度、答えてください。これは、高位羽化の研究ですか」


計画監の目が、魔法板からナエラへ移った。


「蛹への処理は行っていない」


「卵のうちに、耐えられる魔力経路を作っている」


「環境適応の結果が、将来どこまで利用できるかは調べる」


作ってはいない。


孵る前から、作れる身体を用意しているだけだと、そう聞こえた。


「計画の開始は、先王が亡くなって九日後。共和国法が可決されるより前です」


計画監は答えない。


「予算は防衛予備費。議会には潜在魔法防護研究として通した。卵を使うことは伝えていない」


「調べたのか」


「七日もありましたから」


ナエラの手で、記録板が閉じる。


七日。


自分の診断書が光を守っていた時間と、同じだった。


「実態を知っているのは、防衛委員会の五名、孵化担当三名、法務書記、羽化府防衛局の二名」


そこで一度、計画監を見る。


「羽化府が承認したのは防衛力の確保と予算枠だけです。第七隔離房の名も、卵の数も報告されていない」


計画監は否定しなかった。


国の長が知るのは、孵化庭防護計画という名と、必要な金額だけだ。


計画監はしばらく黙り、卓上へ薄い地図板を広げた。


「君が調べたことは、間違っていない」


ネフティアにある六つの中央孵化庭が、黄色い点で浮かび上がる。卵と同じ数ではないのに、ナエラはまた数えた。


六つ。


そのすべてへ、他国の飛行艦が到達できる範囲と、長距離術式の推定射程が赤く重なっていた。


六つすべてが、赤の内側にある。


「だが、これも七日前と変わらない」


計画監は黄色い点を一つずつ指した。


「停戦が破れれば、現在の守備隊で確実に守れるのは二つだ。残る四つには、増援が間に合わない」


二つと四つ。その数字なら、ナエラも知っている。


「だから高位羽化が必要だと?」


「卵を国外へ逃がすために、国を作ったのではない」


計画監の指は地図から離れない。


「一体のハイピクシーが飛路を半刻維持できれば、その時間で守備隊は陣を整えられる。六体いれば、六つの庭をこの国の中で守れる」


計画監の指が黄色い点を移るたび、ナエラには、九十六本の糸から六本を選んでいるように見えた。


「だから、このまま続けるのですか」


ナエラが訊いた。


計画監は答える代わりに、記録具を開く。


「循環を今すぐ停止した場合の死亡予測は」


「九から二十七。魔力経路の損傷を含めれば、半数以上に後遺障害の可能性があります」


その幅を算出した診断書の末尾には、ナエラ自身の署名がある。


最初の循環を終えた卵は、急に刺激を切れば魔力経路が崩れる。


九から二十七。


口にするたび、自分の声で扉へもう一つ錠を掛けている気がした。


奥で、法務書記の記録板が開く。


「共和国法で、卵は保護対象です。ただし、国民登録は孵化と命名から。法的代理人が同意した治療と養育は継続できます」


「治療ではありません」


ナエラの声は短い。


「分かっています」


法務書記の返答は早い。


「軍事処理と記せば、今日中に止めなければならない。止めれば、最大二十七個が死ぬ。治療と記せば、段階的に出力を落とせる。その間に研究結果も残る」


「結果も残すのですね」


「残さなければ、ここで受けた苦痛まで無駄になる」


正しいとは、誰も言わない。


必要。治療。継続。


一つ増えるたび、内扉は開きにくくなった。


九十六個の親名は、一覧の裏側へ封じられている。


代わりに、提供区分が書かれている。


過剰卵。


保護卵。


養育者不明。


孵化遅延。


親を亡くした卵も、育てられず中央孵化庭へ預けられた卵も、法的代理人の欄には共和国とある。


卵がここへ来た事情は裏側に封じられ、守り方を決める国の名だけが表から読めた。


その一覧の向こうで、卵の一つが強く揺れた。


橙色ではない。


奥から三列目、白い殻。


周囲の魔法板は、音響破砕の循環に入っている。


耳には届かない高音が、床から吊り糸へ伝わってくる。


卵殻へ亀裂が走る。


孵育官たちが飛んだ。


「予定より早い!」


「循環を止めろ!」


「急停止は危険です!」


「孵化する方が先だ!」


命令だけが重なる。


卵へ向けた声はない。


ナエラは吊り糸を切る。


落ちる卵を両腕で受け、床へ降りる。


「布を。温めたものを」


差し出された布は温かい。白い卵を包み、低い台へ置く。


亀裂から、小さな指が出た。


四本。


殻の内側を掴み、押す。


次の瞬間、部屋から音が消えた。


機械は動いている。


孵育官たちは口を開けている。


羽も空気を打っている。


何も聞こえない。


孵った幼体の固有魔法だ。


音を消したのではない。周囲の振動を一か所へ集めている。


幼体の胸が膨らみ続けた。


「吸いすぎています」


声は出ているはずなのに、自分の耳へ戻ってこない。ナエラは唇だけで伝える。


計画監は幼体を見てから、部屋の端に立てた厚い試験板を指す。


孵育官の一人が首を振った。


計画監が自分で幼体を持ち上げ、試験板へ向けようとする。


ナエラが腕を掴む。


「何を」


声はない。


計画監の口が一語を作った。


逃がす。


集まった振動を逃がさなければ、幼体の身体が壊れる。その理屈は正しい。


ただし、向けた先は戦闘用の試験板だった。


幼体の背を撫で、特定の光を見せる。


赤。


研究で繰り返した刺激。


幼体が口を開いた。


音が戻った。


爆発に似た衝撃が試験板へ当たる。


厚い木板が中央から割れた。


残る九十五個の卵が吊り糸ごと一斉に揺れ、法務書記の身体は壁へ飛んだ。計画監も幼体を抱えたまま床を転がる。


左耳の奥が熱い。ナエラが触れた指には、血がついている。


部屋へ、孵ったばかりの子供の泣き声が戻る。


それでもすぐには、誰もそちらを向かなかった。


中央から割れた試験板を、全員が見ている。


その間も記録具は止まらず、数字を刻み続ける。


出力。


範囲。


板の損傷。


刺激から発現までの時間。


計画監が最初に確かめたのは、割れた板ではなく幼体の胸だった。


「経路が耐えた」


声が震えている。


恐怖だと、ナエラは聞き違えたかった。


封印資料に描かれていた、ハイピクシーの魔力経路図が浮かぶ。


まだ同じではない。


だが、孵ったばかりの身体に開くはずのない広さまで、固有魔法は通っている。


この力なら、孵化庭を一つ守れる。


計画監の言葉ではない。


ナエラ自身の頭に、先に浮かんだ。


割れた板の向こうへ、地図にあった六つの黄色い点が重なる。目を逸らせば済むはずなのに、幼体の胸を見てしまう。


封印資料の中にしかなかった力が、いま腕の届く場所で息をしていた。


「直前二刻の記録を保存しろ」


計画監の命令が飛ぶ。


「魔法板には触れるな。配列も周期も、そのまま残せ」


「この子の治療が先です」


ナエラは幼体へ両手を伸ばす。


計画監の目が、一度だけ幼体へ戻る。


「治療しろ。だが測定は止めるな」


法務書記は壁へ片手をつき、割れた板から目を離さない。


「本当に、一体で庭を守れるのですか」


「これは、まだ高位羽化前だ」


計画監の返答に間はない。


「蛹で完成すれば、庭一つでは済まない」


割れた板は、危険を示すはずだった。


計画監の目には、成功の証拠として映っている。そう思った直後、ナエラも同じ場所を見ていることに気づく。


計画監の腕の中で、幼体が泣いている。


赤い光が巡ってくるたび、小さな身体が縮んだ。


ナエラは一覧を開いた。


白い卵。


三列目。


提供区分、養育者不明。


仮名欄は空白だった。


「記録には番号を」


壁を支えて起き上がる法務書記の声だった。


「シオ」


考えるより先に、ナエラの口から名が出る。


計画監と法務書記、二人の目が彼女へ向く。


「この子が卵の中で動くたび、吊り糸が潮のように揺れました。私たちは、陰でそう呼んでいました」


軍用区分を廃止した国が、秘密の場所では名を与えていない。


名がなければ、記録には番号を使える。番号なら、次の卵へ移しても同じ欄に収まる。


計画監は幼体をナエラへ渡す。


「隣の観察房を治療室に変えろ。この子は外へ出さない」


「中央孵化庭へ移さないのですか」


「移せば、経路が閉じるまでの変化を測れない」


「記録は」


ナエラは腕の中の幼体を見る。


「公式記録には、孵化遅延のため隔離、偶発的な音響魔法による早期孵化。感染管理のため移送延期とする」


「戦闘術式の刺激は」


「治療記録には、すべて書く。赤色刺激への恐怖も、我々が与えた術式も」


「公表は」


「しない」


計画監の目は、九十五個の卵へ向いている。


「公表すれば施設は閉じる。盟約会議では、他国が卵と人格核を動かさない保証さえ失う」


「では、計画は続けるのですか」


シオは胸元で細く息をしている。ナエラは計画監を見た。


「全循環を現状のまま続ける。シオの孵化前記録と、残りの卵を照合する」


計画監は卓上に置かれていた段階停止表を裏返す。


事故の前まで決まっていた減衰予定は、それだけで見えなくなった。


「音響破砕が、この子を早く孵したのですよ」


「そして、この経路を開いた」


計画監は割れた板を指す。


「同じ反応を示していた卵は」


答えは分かっている。毎朝、数も震え方も記録してきた。


白い卵のほかに、五つ。


知らないと言えばよい。


ナエラの腕の中で、シオの呼吸が一度浅くなった。


「シオを含めて、六つです」


自分の声が遠い。傷めた左耳のせいだと思いたかった。


計画監は地図板へ並ぶ六つの黄色い点を見る。


「残る五つを第二観察群にする。音響周期をシオと同じ間隔へ揃えろ」


「高位羽化の研究は」


「今日から第二段階へ進める。蛹への処理に耐えられる個体を選ぶ」


必要な数は、もう地図の上にあった。


さっきまで一人だった子供の力が、残る九十五個を選別する基準になる。


腕の中で、シオの泣き声が弱くなっていく。


赤い光のない胸元へ抱き、背中を撫でた。


国が名をつけるべきではない。


家族がいない場合は、養育者が仮名を決める。


第七隔離房は、法的代理人を名乗っている。


それでも九十六個に、一つの名もない。


代理していたのは、権利ではなく処理だけだった。


ナエラは新しい治療記録板を開く。


――シオ。


孵化時刻。


体温。


呼吸。


音響魔法。


赤色刺激へ強い恐怖反応。


戦闘術式による反復刺激を受けた可能性。


計画監の目が、最後の一文で止まった。


「可能性ではない」


声は低い。


ナエラも視線を返した。


「我々が行ったと書け」


「公表されます」


「今すぐではない」


「それでも残すと」


計画監の視線の先には、割れた試験板。


「この子が自分で読める年齢になったとき、事故だったと書かれている方がよいのか」


段階停止表を裏返したのと同じ手が、可能性という文字を消させる。


ナエラは書き直した。


――第七隔離房の防衛研究において、意図的な音響戦闘術式の刺激を受けた。


――本人の同意はない。


法務書記が目を閉じる。この二行があれば、将来の裁判で言い逃れるのは難しい。


計画監は削れと命じなかった。


法務書記は記録板を保管箱へ入れ、防衛委員会の秘匿印を押す。


青白い光が封を走る。


「公開期限は」


ナエラが尋ねた。


「防衛秘匿指定が解除された日」


「解除条件は」


法務書記は答えなかった。


期限のない秘密は、隠蔽とは呼ばれない。


必要な保全と呼ばれる。


シオは第七隔離房の隣室へ移された。


公式の孵化記録に書かれたのは、早期孵化と感染管理による隔離継続だけである。


別の治療記録には、第七隔離房で受けたことが残る。


読めるのは、計画監、法務書記、ナエラの三人。


第七隔離房では、九十五個の卵を囲む魔法板が再び点灯する。


赤。


青。


白。


黒。


五つの卵へ、白い札が付く。


第二観察群。


音響破砕の周期が、シオの記録と同じ間隔へ揃えられる。


事故の再現とは呼ばない。


成功条件の確認と呼ぶ。


卵は、その違いを理解しない。


光るたび、殻の内側で影が震える。


隣室でシオが泣いた。


次の音響循環が始まると、その声は誰にも聞こえなくなる。


その日のうちに、ネフティアは盟約会議へ遵守報告を送った。


先行措置採択後に、新たに軍事処理を受けた卵、幼体、蛹。


零。


第七隔離房の処理は、採択前に始まっている。


継続中の刺激は、採択前から続く環境観察。


第二観察群への指定は、処理ではなく記録上の区分変更。


数字は正しかった。


負傷者の欄にも、零と書かれている。


シオの恐怖は傷口として測れない。ナエラの耳から出た血には、職員の作業事故という欄があった。


衝撃で剥がれた銀粉も、その日のうちに描き直される。


消せる痕を消し、別の欄へ移せる傷を移せば、報告の零は崩れない。


卵を囲む光だけが、区分を変えても同じ色で巡っていた。


停戦の残りは、九日。


十日間先行措置の残りは、三日。


第七隔離房では、名のない五つの白い札が、次の音響循環を待っていた。

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