第二十一章――海の底へ
ネレイア潮環連邦の公式海図では、黒底溝に住む者はいない。
水深。
水温。
塩分。
海底の亀裂。
沈んだ船。
採れる鉱石。
それらは細かく描かれている。
居住を示す真珠印だけが、一つもなかった。
だから、そこへ何を流しても、住民への被害は発生しないことになっていた。
十日間先行措置の六日目。
潮生医イオラ・アウレイは、北端の産卵礁で卵膜を数えていた。
黒ずんだ膜は、前日より減っている。
四十七。
三十九。
二十八。
十一枚。
イオラの指が、十二枚目を探して海草を分ける。
見つからない。
昨日の半分にも満たない。イオラはもう一度数え直す。
間違いない。
喜んでいいはずだった。
アルヴェルンの二工場は排水口を監査へ開き、濾過設備の交換も始まっている。
新航路を通る貨物船は、一日一隻に制限され、船内の汚水を海へ捨てず持ち帰る。
小さな措置でも、積み重なれば海は変わる。
十一という数字を成果欄へ移しかけて、イオラは記録貝から指を離した。
早すぎる。
大河から流れ込んだ油と鉱滓は、命令書を読まない。
昨日まで海にあったものが、今日の朝だけで消えるはずはない。
「北向きの底流が強くなっています」
孵育員ミレア・セルンが言った。
頬に黄色が浮かび、細く揺れている。
「いつから」
「先王の崩御から三日後です」
イオラは海草の先を見た。
細い葉が、以前とは違う方向へ傾いている。
表層の潮は南へ流れている。
卵膜の下だけ、北東へ引かれていた。
自然の潮ではない。
連邦が管理する潮門が、卵膜の下だけを引いている。
「第四潮門の運転記録を見せて」
ミレアが貝板から中央へ照会を送り、半刻後に返答が届く。
「治療官には閲覧権がないそうです」
「産卵礁に流れ込んでいるのに」
「潮路保全級の指定だそうです」
潮路保全級。
外国船の位置。
防衛礁の開閉。
避難用の海底路。
戦時に敵へ渡せない情報を閉じ込めるための区分である。
卵を守る流れが、いつから軍事機密になったのか。
イオラは貝板を閉じた。
「現地へ行く」
第四潮門は、アウレイ潮環から下へ半日泳いだ場所にある。
水面の光が届かなくなる深さだった。
イオラは胸へ発光貝を二つつけ、潮門へ向かった。
随行したのは、ミレアと若い潮路技師ルオ・ナシルだけである。
護衛は連れなかった。
護衛を連れれば、識別光だけで到着より先に守衛の貝板へ名が届く。治療に武器は不要だという顔で、イオラは二人だけを連れた。
下るほど水は冷たくなった。
肺に残した空気が圧力で縮み、首筋の鰓だけが開く。
海洋種でも、すべての深さへ自由に行けるわけではない。
浅い潮で育った者は、急に深く潜れば血に泡が生じる。
耳の奥に針を入れられたような痛みが走るたび、三人は岩棚で止まり、身体を水圧へ慣らした。
やがて暗闇の中に、青い輪が見えた。
第四潮門。
二本の岩柱の間へ、巨大な膜が張られている。
膜へ刻まれた術式が収縮すると、水の流れが変わる。
川の水を止めるのではない。
海そのものへ、別の道を選ばせる設備だった。
先の大戦後、盟約王府が主要航路と産卵礁を守るために設置した。
いま管理しているのはネレイアだが、膜の中央には古い王冠印が残っている。
潮門の手前で、技師が止まった。
「運転出力が七割になっている……」
「平時は」
「四割」
「どこへ流しているの」
ルオは答えず、操作貝を握ったまま下を指す。
門で曲げられた底流は、細い白濁を伴っていた。
油。
金属粉。
薬品。
産卵礁から消えたものが、筋となって暗い海へ落ちていく。
行き先は、黒底溝だった。
十一枚。
減ったのではない。別の場所へ送っただけなのか。
「閉じて」
イオラが言った。
「僕の権限では、閉じられません」
「操作はできる?」
「できます」
「なら、閉じて」
岩柱の監視窟から、守衛長が泳ぎ出た。
封印貝を掲げる。
「大潮守の直令です。潮門には触れないでください」
ルオの頬で、琥珀色が細かく明滅した。
イオラの鰭が止まり、身体がわずかに沈む。
「いつからですか」
「先王が死んだ三日後。アルヴェルンの工場増産で北河口の濃度が上がってからです」
守衛長が口にした日付は、ミレアの記録と同じだった。
「潮議の承認は?」
「緊急潮路保全令として、深潮環と北潮環の代表だけが署名しています」
十二潮環すべての採決ではない。
次の潮が反転するまでの緊急命令を、何度も更新したのだ。
一回なら短い。
更新を続ければ、期限のない命令になる。
「黒底溝は無棲水域です」
守衛長は言った。
「海図では」
「実地調査でも、定住礁は確認されていません」
「定住礁がなければ、住民ではないと?」
守衛長は目を逸らした。
黒底溝の者たちは、潮環を作らない。
深い海では珊瑚が育たず、一つの場所へ卵を預けることもできない。
温かな噴出孔と、餌になる深海魚の群れを追って移動する。
柱を持たない。
固定された境界を持たない。
連邦の潮議へ代表を送るには、十二潮環のどれかへ所属しなければならない。
どこにも留まらない者のための真珠印は、海図に用意されていない。
「下ります」
イオラは言った。
「浅海育ちの身体で、黒底溝まで下りるのは危険です」
「誰もいないなら、危険なのは私だけです」
守衛長は止められなかった。
第四潮門を越える。
白濁した流れの外側へ出ても、鰓の奥から臭いが抜けない。
金属の味。
腐った油。
焼いた石のような酸。
川が海へ渡したものを、潮門は一つの筋へ集めていた。
広い海へ散っていたものが、ここでは一本の水路ほどに濃い。
イオラは流れから距離を取りながら、さらに下りた。
慣らしたはずの水圧が、また耳の奥を押した。
発光貝の明かりは、数歩先までしか届かない。
ミレアが先に異変を見つけた。
岩壁へ、網が張られている。
海草ではない。
細い魚骨と、巨大な貝の腱を編んだ網だった。
魚を捕るための道具。
その下に、石を積んだ低い囲いがある。
「無棲水域」
ミレアが呟いた。
石囲いの入口には、すり減った貝殻が敷かれている。何度も誰かが通った跡。
ミレアの頬から光が消えた。
囲いの中から、二つの目が光った。
次に四つ。
十。
黒底溝の者たちが、岩陰から出てくる。
ネレイアの者より肌の色が薄く、鱗には光がない。イオラの目は、顔より先に首筋へ向かった。
目は大きく、瞳がほとんどを占めている。
首の外へ長い鰓房が広がり、細い指の間には厚い膜があった。
陸へ上がる肺を持たない。
潮環の共通語を話す者も少なかった。
一人の老人が前へ泳いだ。
胸へ、割れた真珠殻を下げている。
イオラは治療官の印を見せた。
老人は印より先に、彼女の鰓を見た。
白濁した流れを吸った鰓かどうかを、見分けようとしている。
「治す者」
老人は、古い共通語で言った。
「上の潮の」
「アウレイ潮環のイオラです」
「上の潮が、何を治す」
老人が腕を上げた。
皮膚に黒い斑点がある。
鱗の間がただれ、指先の膜が一部溶けていた。
後ろから、子供が運ばれてきた。
外鰓が片方しか動いていない。
腹が異様に膨れ、半透明の皮膚の下に暗い液体が溜まっている。
イオラは近づいた。
子供を抱く女が身体を引き、ほかの者も老人の背後へ寄った。治療官の印を見せても、誰の身体も緩まない。
「触れても?」
イオラが尋ねた。
老人が、子供を抱く女を見る。
女は短く頷く。
イオラの手が鰓房へ触れた。
指の下で、薄くなった粘膜が震える。
油膜が呼吸面へ付着し、血へ酸素が入っていない。
薬藻で洗えば一時的に楽になる。
流れが続けば、また同じになる。
「いつから」
「暗い雨が来て、四度眠った」
老人が答えた。
黒底溝では、水面の朝夕が分からない。
大きな深海魚の群れが一巡する時間を、眠りの数で測る。
水面の朝夕を基準にした日数へは、正確に置き換えられない。それでも、暗い雨が来たのは底流の向きが変わったあとだった。
「ほかの病人は」
老人が岩壁を叩いた。
奥から、次々と者が出てくる。
二十。
五十。
百を越える。
どれだけ出てきても、海図の真珠印は一つも増えない。
咳に似た鰓の収縮音が、暗い海へ重なった。
「助けを求めに、上へ行った人はいなかったの?」
ミレアが尋ねる。
老人は大きな目を細める。
「上の門が、暗い雨を送った。三人、それでも上へ行った」
老人の目が、水面のない闇へ向く。
「戻らない」
潮門の守衛が止めたのか。
水圧の変化へ耐えられなかったのか。
誰にも記録されていない。
戻らなかった事実だけが、黒底溝へ残っている。
イオラは薬袋を開いた。
持ってきた量では、子供三人を一日治療するのが限界だった。
病人は数え切れない。
三人を選ぶ理由が見つからない。見つけたくもない。
「潮門を止める」
彼女は言った。
若い技師が周囲を見た。
「それは、命令違反になります」
「医療緊急権を使う」
「治療官の権限は、潮環内の水質改善までです。ここは――」
「無棲水域だから、患者もいないことになるの?」
技師の頬へ琥珀色が浮かび、すぐに揺らいだ。
「そんな意味で言ったわけじゃ……」
「でも、法の上ではそうなる」
イオラは子供へ薬藻を巻いた。
「なら、私は法の外で治療する。ルオは法の中へ戻って、門を止めて」
技師は動かなかった。
操作貝の凹みに置いた親指だけが、離れない。
そのとき、上方の闇に白い灯りが六つ浮かんだ。
互いの間隔が、寸分違わず揃っている。
灯りは、白濁した流れの脇にある岩壁の亀裂から現れる。
自然の裂け目に見えた奥には、第四潮門の保安孔。そこから六人が間隔を崩さず降りてくる。
全員が鉛色の鱗布で身体を覆っていた。
頬と腕には鎮光藻が塗られ、感情を示す発光模様が見えない。
胸にあるのは、三重の波を縦の銛が貫く標章。
連邦治安維持隊だった。
正式な任務は、暴動の鎮圧、災害時の避難誘導、潮門や産卵礁の警備。
潮議で政府を批判した代表が護送中に消えるたび、最後の記録へ名が残るのもこの隊だった。
人々は小声で、静潮隊と呼ぶ。
騒ぎのあった海を静かにする。
騒いだ者ごと。
先頭の隊員だけ、胸章の外周が銀で縁取られている。
班長の印。
「潮路保全令に基づき、この水域を封鎖する」
名乗りはない。
残りの隊員が、イオラたちと黒底溝の者たちの間へ広がる。
腰には短い銛銃。
筒の中には、骨針が装填されていた。
「病人がいます」
イオラは言った。
「確認した」
「治療班を呼んでください。ここだけでも、患者は百人を越えています。ほかの噴出孔にも群れがいる」
「推計三百から七百」
班長は答えた。
イオラの鰭が止まり、身体が沈みかける。
「知っていたんですね」
「任務に必要な数は把握している」
「海図には、無棲水域と書いてある」
「定住礁は確認されていない」
「言い換えないで」
イオラの身体へ赤が走った。
「ここには人が暮らしている。連邦はそれを知っていて、汚染を流したんでしょう」
班長の頬には何も浮かばない。
鎮光藻は、どんな色も外へ出さない。
「北河口の汚染濃度は、アウレイ産卵礁の致死値を越えている。第四潮門を閉じれば、十二日以内に卵の半数が失われる」
「だから、こちらの子供を……」
「その判断の是非を語る立場にはない」
「では、何をしに来たんですか」
「あなた方を保護し、記録を回収する」
保護。
静潮隊が使うとき、その言葉は帰還を意味しない。
前年、海上封鎖の解除を求めた二人の潮議員が保護移送を受けた。
一人は移送中の水圧障害で死んだ。
もう一人は、今も治療中ということになっている。
病室を知る者はいない。
隊員の一人が、ミレアの持つ貝板へ手を伸ばした。
ミレアは貝板を胸へ抱え込む。
「卵膜の治療記録です」
「潮路保全情報が記録されている可能性がある」
「患者の記録です」
「この水域に患者は登録されていない」
貝板が奪われた。
十一枚と刻まれた数字も、ミレアの腕から奪われる。
別の隊員が、ルオの操作貝を求めて手を出す。
「これは潮門の保守具です」
「だから回収する」
ルオは渡さなかった。
班長が短く指を動かす。
二本の銛銃が、ルオの胸へ向いた。
黒底溝の者たちが岩陰へ退く。
子供を抱いた女だけは動けなかった。
イオラは子供の外鰓へ薬藻を巻き直した。
指先で、自分の治療貝板の裏から小さな脈録珠を外す。
患者の呼吸、血の色、触れた毒を記憶する治療具だった。
彼女は珠を薬藻の内側へ押し込み、古い共通語で囁いた。
「外さないで。これは、この子がここにいた記録です」
女が意味を理解したかは分からない。
ただ、薬藻を押さえる手に力が入った。
「上へ助けを求めに行った三人は?」
イオラは班長へ尋ねた。
老人の大きな目が動いた。
「潮門の守衛までは来たはずです。どこへ連れていったんですか」
「該当する救難記録はない」
「戻っていません」
「記録にない者については答えられない」
イオラは、脈録珠を隠した薬藻へもう一度指を添えた。
記録がなければ、答える相手もいない。
老人が班長を見た。
「上の者、海は一つと言う」
古い共通語だった。
班長は答えない。
「捨てる場所、選ぶときだけ別の海」
鎮光藻は、班長の色を隠したままだった。
「外部接触者三名を隔離槽へ移す」
班長が命じた。
外部接触者。
治療官も、孵育員も、潮路技師も、すでに名前では呼ばれていなかった。
「ここにいる人たちは、どうするつもりですか」
イオラが尋ねる。
「本件の対象外だ」
「ここが、この人たちの住処なのに」
「公式海図では居住域ではない」
「流れは止めるんですか」
「第四潮門は現行出力を維持する」
「この子は、あと四日ももちません」
「先行措置の残りは四日だ」
「四日なら、殺してもいいと?」
「期間の是非は、我々の任務外だ」
班長は同じ調子で言った。
答えを持たないのではない。
答えなくてよい階級にいる。
隊員がイオラの腕を取った。
ルオの頬では、琥珀色を薄く残したまま、明滅だけが止まる。
その瞬間、操作貝が青く光った。
彼は渡すふりをして、内側の緊急弁へ指を入れていた。
遠い上方から、第四潮門の震えが伝わってくる。
白濁した流れが揺らぐ。
七割。
六割。
五割。
ルオが操作貝を握り潰した。
三割五分で、出力の低下が止まった。
銛銃の筒が一度だけ縮んだ。
音はしなかった。
細い骨針が、ルオの鰓の付け根へ入った。
砕けた操作貝の青が、指から腕へ駆け上がる。次の瞬間には消えていた。
操作貝の破片が、指の間から沈んでいく。
イオラは隊員の手を振り払い、ルオを抱えた。
針を抜こうとする。
班長が制した。
「触れるな。深度障害の痙攣だ」
「嘘をつかないで! あなたが撃ったんでしょう!」
「急速潜行による呼吸停止として記録する」
「まだ生きています! 死んだことにしないで。お願い、手を貸してください!」
ルオの脈が、イオラの指先へ二度、弱く返った。
三度目はなかった。
隊員が骨針を抜き、鱗布の袋へ収める。
別の隊員は、もう貝板へ死因を刻んでいた。
記録は、死より早かった。
「潮門を戻せ」
班長が命じる。
保守具を調べた隊員が首を振った。
「対の操作貝が破損しています。潮門側の核を開かなければ戻せません」
「三割五分を保守調整として記録しろ。交換具が届くまで維持する」
黒底溝へ落ちる白濁が細くなった。
老人は弱くなった流れではなく、イオラの腕にいるルオを見た。
礼は言わない。
言う相手は、もう死んでいる。
イオラとミレアの手首へ、細い拘束索が巻かれた。
索は暴れるほど縮まり、鰓の近くまで食い込む。
「誰の命令です」
イオラが尋ねる。
班長が、封印された命令貝を掲げる。
押されているのは治安維持局の部局印だけ。
個人名はない。
「命令系統は潮路保全級の秘匿事項だ」
「あなたの名前は?」
「任務中は階級が氏名だ」
役職の下に、誰もいなかった。
命じた者も。
撃った者も。
連れていかれる者も。
治安維持隊はルオの遺体を回収し、イオラとミレアを上昇槽へ入れた。
黒底溝の者たちへは何も告げず、救護班も、退去先を示す案内も残さない。
連邦の記録に住民がいない以上、救助を終える報告さえ必要ない。
上昇槽が閉じる直前、イオラは子供を見る。
薬藻の下で、脈録珠が一度だけ青く瞬く。
治安維持隊の目は、その身体を素通りした。
推計三百から七百と答えた者たちにとって、公式には住民でない子供を調べる理由はない。
同じ日の夕方、アウレイ潮環へ三通の通知が届いた。
潮路技師ルオ・ナシル。
急速潜行に伴う深度障害により死亡。
潮生医イオラ・アウレイ。
汚染海域への接触により、治安維持局の隔離施設で治療中。
孵育員ミレア・セルン。
同じく治療中。
施設名は書かれていなかった。
面会期限もなかった。
同じ公報の次の欄には、北端産卵礁の数字が載る。
黒ずんだ卵膜、十一枚。
先行措置開始後、最少。
工場監査と新航路の成果だと説明されていた。
第四潮門のことは書かれなかった。
黒底溝のことも。
公報は嘘ではなかった。
工場の濾過は始まっている。
船は汚水を持ち帰っている。
その効果へ、汚れを別の海へ送った数字が混ざっているだけだった。
停戦の残りは、十日。
十日間先行措置の残りは、四日。
黒底溝では、子供の外鰓に巻かれた薬藻の下で、小さな珠が呼吸のたびに光っていた。
そこに記録された患者名は、一つもない。
名前を尋ねる言葉が、イオラには通じなかったからだ。
代わりに、数が残っていた。
病人、百四十三。
子供、二十七。
第四潮門から流れてきた毒の成分。
流れの向き。
治療官の所属と名。
そして最後に、一行。
――黒底溝に、住む者がいる。
川が捨てたものを、海はすべて覚えている。
その夜も、公式海図に真珠印は増えなかった。




