第十三章――和平の値段
八つ目の席は、開会時刻を過ぎても空いていた。
獣人族のために作った席だった。
背もたれを低くし、後ろを開け、腰を下ろしても尾を挟まないようにしてある。
席そのものは間に合い、座る者も王都へ着いている。
止めているのは、一つの空欄だった。
「入殿簿が受理されません」
儀典局の書記が、ネイセルへ小声で報告した。
円卓の向こうで、国家統監ハイン・ロートが懐中時計を開く。
長針は定刻を三分過ぎている。
新王は席に着いていたが、開会を告げなかった。
「何が問題なのですか」
ネイセルが尋ねる。
「代表権限の欄です」
「バルガ殿には決定権がないと、先に伝えたはずです」
「ですから、その旨で受け取ろうとしたのですが、警備局の照合印が下りません。何も決定する権限を持たない者を、正式な代表として登録してよいのか判断できないと」
全氏族会合は、まだ結論を出していない。まとまったのは、バルガをここへ送り、出された条件を持ち帰らせることだけ。何かを決める権限までは、誰も預けていなかった。
ネイセルは円卓を離れ、前室へ向かった。
バルガは記帳台の前に立っている。
十三日前と同じ旅装だが、肩から斜めに掛けた革帯には、色も太さも異なる紐が何本も結ばれている。
灰狼氏族。
岩猪氏族。
赤狐氏族。
草原を移動する氏族だけでなく、人族の町に住む者や、鉱山近くに集落を作った者の印もある。
同じ革帯に結ばれていても、同じ答えを預けた紐ではない。
「代表権限を書けと言われた」
バルガが言った。
「俺にはない」
「何を決める権限を預かっていますか」
「何も決めるなと言われてきた」
警備局の書記が顔を上げる。
バルガは続ける。
「土地を売るな。国境を認めるな。誰か一人を王にするな。出された条件を持ち帰れ。それが、今まとまっている唯一の言葉だ」
代表とは呼べない。だからといって、何も持たずに来た者でもない。
ネイセルは入殿簿の「代表権限」の欄に線を引いた。
その下へ書き足す。
バルガ。
獣人諸氏族から、条件を持ち帰る者。
決定権なし。
「これで通してください」
警備局の書記は、空欄とネイセルを交互に見た。
「照合先がありません」
「私が照合します」
ネイセルは儀典官印を押した。
百年後、この書式を見た者は誤記だと思うかもしれない。
それでも、今日人を通せない正しい書式よりは役に立つ。
バルガが会議室へ入ったとき、定刻を八分過ぎていた。
ハインが懐中時計を閉じる。
「八分です」
「氏族は八分ではまとまらない」
バルガは答え、自分の席へ腰を下ろす。
尾が背もたれの隙間から自然に垂れた。バルガは一度だけ座り直し、作った者を探すように席を見てから、何も言わない。
八つの場所が、ようやく埋まる。
セレネアの新王。
アルヴェルンの国家統監。
カルドランの国王。
ネフティアの羽化議長。
ネレイアの大潮守。
オルディアの第一調整官。
獣人族のバルガ。
灰角族のセヴァル。
セヴァルの右角には細い金属の添え木が当てられ、封印壁を押し開けたときの亀裂を革帯で固定している。
それでも、彼はドワーフ王の後ろには座らない。
選んだのは、自分の名の札が置かれた席。油灯の火が添え木へ映っても、魔法灯のように消えはしなかった。
第一調整官の場所には椅子がなく、白い装甲の足首が床金具へ固定されている。胸郭の回路は一定の間隔で明滅していた。
羽化議長は止まり木に立ち、大潮守の座面では塩水が小さな音を立てて循環している。
ハインの外套には、前回より濃い煤の臭いが染みついている。四日半を要する献納線を、短いあいだに二度通ったためだ。
新王の席だけが、誰の身体にも合わせて作られていない。他と同じ高さの、ただの椅子だった。
円卓の中央に盟約冠はない。
代わりに、まだ誰の印もない文書が置かれている。
「本会議を、八者による盟約会議とします」
新王が言った。
「開会の前に、発言と決定の違いを確認します。盟約王を結印する票は、終戦盟約に従い六つの主権印が持つ。ただし、候補の提示、条件の提示、異議の申し立ては、ここにいる八者すべてに認める」
ハインが二本の金属指を卓上へ置く。
「国家間の合意については」
「国家を拘束する条項には、その国の主権印が要る」
「では、印を持たない二人の署名には、どのような力がある」
新王が答える前に、セヴァルが口を開く。
「番号よりは弱いだろうな」
ハインの視線が、彼の袖口へ落ちる。
焼きつけられた番号は隠れている。セヴァルには、その視線だけで皮膚が炉の熱を思い出した。
「皮肉を尋ねたのではない」
「俺も、法の話をしている。お前たちの国では、俺の名前より番号の方が多くの扉を開けた」
「その制度を正しいとは言っていない」
「やめるとも言っていない」
第一調整官の胸部回路が一度明るくなる。
「整理案を提示します。六国家を拘束する条項には、関係国の主権印を必要とする。獣人族または灰角族へ義務を課し、土地、身体、移動を制限する条項には、当事者の署名を必要とする」
「署名を拒めば、六国の合意を止められるのか」
ハインが尋ねた。
「当該条項のみです」
「バルガには決定権がないと、今記録されたばかりだ」
「だから、俺の土地を決める条項には署名しない」
バルガは言った。
「条件を持ち帰る。氏族が決めるまで、誰も線を引くな。それを伝えるために来た」
ハインの目が細くなる。決定権のない者へ期限を尋ねても、答えが増えないことは分かっている。それでも、鉄路の工程表には空欄を置けない。
「全氏族が答えるまで、どれほどかかる」
「分からない」
「十日か。百日か。十年か」
「人族が俺たちへ聞かずに線を引いた時間よりは短くしたい」
「期限を決めずに待てと言われても、拒否と同じだ」
「俺たちには、これまで拒否する権利がなかった」
二人の間で言葉が止まる。
新王の視線がネイセルへ移る。
「バルガの権限と制限を、そのまま記録してください」
「はい」
「決められないことを、決められるように書き換えないように」
ネイセルは頷き、入殿簿と同じ言葉を記録の上へ置く。
以前の儀典記録なら、発言資格のない者の言葉は要約され、国家元首の発言へ付記されていた。
今回は、一人分の頁を使う。
新王が中央の文書へ手を置く。
「ここからが本日の議題です」
表紙には、暫定和平案と記されていた。
停戦ではない。
戦闘を一時止めるだけでなく、その間に戦争の理由を減らすための案だった。
第一条。
現在の停戦を百八十日間延長する。
第二条。
セレネアとアルヴェルンは、接触している部隊を現在地から一日の行軍距離だけ後退させる。後退地域へ新たな砲台、魔法障壁、鉄道支線を設置しない。
ネイセルが読み上げたところで、ハインの金属指が上がった。
「反対する」
まだ第二条だった。八条すべてを読み終えるまで会議が保つと、新王は勝手に思っていたらしい。
「理由を」
新王が促す。
「現在地を基準にすれば、セレネア軍が我が国土にいる状態を百八十日固定することになる。撤退とは呼べない」
「どの線まで戻ることを求めますか」
「先の戦争以前の国境線だ」
カルドラン王が鼻を鳴らした。
「その線を言い出すなら、北鉱脈も返してもらうぞ」
「今はカルドランの話ではない」
「どの時点の国境線を基準にするかという話だろう。なら同じだ」
新王が言った。
「先の戦争以前の国境線についても、各国が提出した地図の線は一致していません」
「セレネアの地図だけが正しいと?」
「父が引いた線を、私が正しいと言うつもりはない」
「では、撤兵先を決められない」
ハインが言った。
「決められないから現在地を使う、というのは、占領している側に有利な決定だ」
バルガの喉から、乾いた笑いが漏れる。
ハインが目を向ける。
「何がおかしい」
「お前の口から、その言葉が出たことだ」
バルガは円卓中央の地図を指した。
「お前が戻せと言う古い線も、いまの線も、俺たちの草原をアルヴェルン領にしている。どちらへ戻っても、俺たちの土地は戻らない」
ネイセルは第二条の余白へ三つの異議を書き込む。本文より先に、周囲の文字が場所を奪い始めた。
第三条。
アルヴェルン東部線の複線化工事を、獣人諸氏族の会合が土地利用について回答するまで停止する。
「反対する」
ハインが再び言った。
バルガの爪が卓へ触れる。
「今の一本では、上りと下りを交換駅ごとに止めている。複線にしなければ、東部へ送れる穀物も石炭もこれ以上増やせない」
「墓の上を通す必要があるのか」
「経路は変更できる」
「変更先が水場なら同じだ」
「では、使っている場所を地図に示せ」
「示せば、そこだけ避けて残りは奪うのか」
「示さなければ、交渉のしようがない」
バルガの耳が後ろへ倒れた。
地図へ墓や水場を書き込めば、そこだけが氏族の土地になる。書かなかった場所は、誰も使っていない土地として残る。
「俺たちは季節で移る。墓も、水場も、冬を越す場所も一つじゃない。それを全部、お前たちの地図の点と線にしなければ、土地を使っていることにならないのか」
「今の輸送量のままでは、東部で冬を越せない人族もいる」
「工事を続ければ、冬の居場所を失う氏族がいる」
同じ冬の話をしているはずなのに、二人の言葉は一度も同じ場所を指さない。
人族が越せない冬と、氏族が戻れない冬が、一本の線路の上で向かい合っている。
第四条。
ネレイアはアルヴェルン船へ二本の航路を開く。
アルヴェルンは、主要工場の排水口と航路を通る船の積荷を、ネレイアおよびオルディアの検証官へ開示する。
汚染物の排出量を六十日以内に半減させる。
大潮守の頬へ紫の光が浮かぶ。座面の塩水は静かに循環していたが、鰓の動きだけが少し速い。
ハインは文面を最後まで聞いてから尋ねる。
「航路は、いつ開く」
「排水口への立ち入りが認められた日です」
大潮守が答えた。
「開いてから立ち入るのではないのか」
「先に船だけ通せば、検査を拒む理由が一つ増えます」
「資材が入らなければ、排水設備を更新できない」
「設備を更新しない工場へ資材を運ぶために、産卵礁を通せと?」
「汚染を減らせと言いながら、減らすための機械を止めている」
「海を汚しながら、止めている海のせいにするのですか」
ハインの金属指が、卓上を一度叩く。
大潮守の鰓が大きく開く。
二人とも声は上げない。ネイセルは、前の会議でも同じ言葉を記録していた。小さい声で言えるほど、二人は互いの反論を覚えている。
第五条。
北鉱脈での新規採掘を停止する。
すでに発見された休眠人格核はオルディアの検証下に置き、覚醒後の意思が確認されるまで、移送、分解、軍事利用を禁じる。
カルドラン王は第五条を太い指で叩く。
「採掘停止を口実に、北鉱脈を占領し続けるつもりか」
「セレネアの採掘も停止します。帰属が決まるまで、どの国にも鉱脈を掘らせません」
「だが、兵は残すのだろう」
「休眠核を保護するためです」
「山を押さえている者が、今度は保護者を名乗る。便利な話だ」
カルドラン王は第一調整官へ目を移した。
「おぬしらは、眠っている核をすべて民として迎えるつもりか」
「覚醒後、本人がオルディアへの移送を望んだ場合に限ります」
「望まぬ者は」
「現在地に留まるか、受け入れに同意した国へ移るかを、本人が選びます」
「身体を造り、移送し、維持するにも鉱石が要る。誰が負担する」
「オルディアが受け入れる者については、我が国が負担します」
「他国なら」
「受入国との協議事項です」
「権利には、ずいぶん鉱石が要るものだな」
「あなた方も、自らの命と土地を守る城に、大量の鉱石を使っています」
ドワーフ王の手が止まる。
「言うようになったな」
「事実を回答しました」
第六条。
灰角族を、角または魔力吸収能力のみを理由に国境、都市、街道から排除しない。
魔力炉、封印施設その他の魔力設備で働かせる場合、本人の拒否権、退職の自由、身体損傷への補償を保証する。
セヴァルは身動きせずに聞いている。「拒否権」も「退職」も、炉の入口では聞かなかった言葉だった。
「この条項には賛成だ」
カルドラン王が言った。
「カルドランの街道と坑道については、すでに契約した」
「カルドランだけでは足りない。他国にも、同じ保証を求める」
セヴァルが言った。
樹冠評議会の長老たちが並ぶ傍聴席で、衣擦れの音がする。
新王はそちらを見ない。
「セレネアは、角を理由とする追放規則を改めます」
長老の一人が立ち上がりかける。首席評議員の腕が、それを止めた。
セヴァルの目は新王から動かない。
「いつまでに」
「評議会へ、明日提出する」
「可決の保証は」
「ない」
黒い角の添え木へ、油灯の火が映る。
「なら、保証ではなく、提出すると書け」
新王の視線が彼へ向く。
「通すよう努めます」
「努めることと、門が開くことは違う」
「分かっています」
新王はネイセルへ言った。
「セレネアの欄は、規則改正案を明日提出、と直してください」
セヴァルは、書き直された二文字を見た。
提出。
それで開いた門を、彼は一つも知らない。
ハインが第六条へ指を置く。
「アルヴェルンでは、灰角族だからという理由だけで就労を強制する法はない」
セヴァルが袖を捲った。
番号が現れる。
「この番号は、法ではないのか」
「登録制度だ」
「拒めたか」
「軍需施設へ入る者は全員登録する」
「入ることを拒めたかと聞いている」
ハインはすぐには答えない。
「飢える自由まで、国が選択肢として数えるならな」
セヴァルが言った。
「炉へ入れば食糧票を受け取れた。入らなければ居住票を失った。書面には、どちらも自分で選んだと残っている」
食糧票は薄く、番号を焼きつけられた腕へも同じように渡された。居住票は、それより先になくなった。
「すべての工場がそうではない」
「なら、そうした工場を調べろ」
「調査には応じる。ただし、オルディアだけだ。セレネアの検証官は認めない」
「理由は」
新王が尋ねた。
「自国の追放規則も改められない国に、我が国の人権を検査させるつもりはない」
新王は反論しなかった。
第七条。
ピクシーの卵、幼体、蛹を軍事資源として取得、輸送、加工しない。
休眠人格核を兵器部品として取得、売買、分解しない。
「この条項だけなら、今日結べますか」
新王が尋ねた。
羽化議長が羽を震わせる。
「現在、各国の施設にいる幼体も、本国へ返還していただきます」
「本人が帰国を望まない場合は」
ハインが問う。
「幼体が望んだと言えば、返さずに済むのですか」
羽化議長の声は静かだった。
「本人の意思だと確認できた場合でもか」
「幼体の保護先を、本人だけに決めさせることはできません」
「その扱いは、いつまで続く」
「我々は、最初の羽化を終え、自ら飛べる者を成人としています」
「戦闘魔法を刻まれ、羽を開けない者は、永遠に幼体として扱うのか」
会議室が静まる。
羽化議長の羽から、細かな光粉が一度だけ落ちた。
「その者たちを作った国が、今それを尋ねますか」
ハインは視線を逸らさなかった。
「尋ねなければ、条文に穴が残る」
問いを引っ込めれば、条文の穴だけが残る。ハインは、羽化議長に許されるために尋ねたのではない。
羽化議長の羽から、また一粒、光粉が落ちた。
第一調整官が提案する。
「年齢、身体状態、本人の意思を別々に確認する審査が必要です。オルディアは判定手順の作成に協力できます」
「機械に、我々の成人を決めさせるのですか」
羽化議長が尋ねた。
「決定はしません。本人の意思が他者によって書き換えられていないかを検証します」
「戦闘魔法を刻んだ者が、戦いたいと答えた場合は」
「自発的意思と加工結果を、完全には分離できません」
第一調整官は、できないことをできるとは言わなかった。
その正確さは、ときに慰めより冷たい。
第八条。
以上の暫定措置が実施されるまで、盟約王の選定を行わない。
法印卿が傍聴席で目を伏せる。
ハインは反対しなかった。
大潮守も、羽化議長も、第一調整官も口を挟まない。
カルドラン王だけが酒筒の蓋を回している。
「選ばぬことを決めるために、王選びの会議を開いたのか」
「条件を整えずに選べば、その王へすべての問題を押しつけることになります」
新王が答えた。
「押しつけるための王ではないのか」
「それをやめるための会議です」
ドワーフ王は酒筒を傾ける。中身はもう残っていない。
「ならば、和平が先だ」
羽化議長が言った。
「我々の百八十日は長い。次の世代が生まれ、最初の羽を開く者もいる。王の候補を眺めながら使える時間ではありません」
ハインが文書を閉じる。
「和平に反対する者はいない」
「では、どの条項に賛成しますか」
新王が尋ねる。
「条件が整えば、すべてに」
大潮守の頬へ紫の光が走る。
「その条件を決める会議です」
「承知している」
「承知した上で、先に海路を開けと?」
「貴国も、先に排水を止めろと言っている」
第一調整官の顔が、わずかに左右へ動いた。
人族なら、列席者を見比べる仕草に近かった。
「現時点の傾向を報告します」
全員が第一調整官を見る。
「各者は、自身が権利を得る条項に賛成し、自身が兵力、土地、資源、権限を差し出す条項に条件を付しています」
カルドラン王が空の酒筒を卓へ置く。
「機械は嫌味まで言うのか」
「嫌味ではありません。発言の分類です」
「なお悪い」
羽化議長の護衛の一人が、笑いを堪えるように羽を震わせる。
ハインは笑わなかった。
「和平とは、そういうものだ」
彼は言った。
「全員が利益を得るなら、とっくに結ばれている。誰が先に代価を払うかを決められないから、戦争になる」
新王は中央の八条を見た。自分が書かせた案なのに、誰が先に動くかはどこにもない。
「なら、同時に実施する」
「同時とは、着手ですか。完了ですか」
第一調整官が尋ねる。
「着手する時刻を合わせる」
新王が言った。
口にした途端、「着手」も新しい逃げ道になり得ると気づいた。工事を始めたと言いながら、一日で止めることもできる。
「撤兵、排水改善、航路標の再設置、採掘停止では、必要な時間が異なります。各国とも今ここで条件を提示されたため、完了時期は算出されていません」
「なら、各国で算出する」
「完了時期が一致する保証はありません」
「完了を待ってから次を始めれば、また誰が先かに戻る」
大潮守が言う。
第一調整官の胸部回路が細かく明滅する。
「条件の関係を整理します。アルヴェルンは、セレネア軍の撤退と航路開放を、軍備縮小および排水改善の条件としている。ネレイアは、排水改善を航路開放の条件としている。セレネアは、アルヴェルン軍の後退を自軍撤退の条件としている」
「輪になっておるな」
ドワーフ王が言った。
「はい。すべての条件を同時に満たす状態は存在します。しかし、最初に実行できる条項がありません」
円卓の中央に、出口のない輪ができている。
誰かが一歩目を譲れば切れる。だが、その一歩を踏み出した者だけが、相手に約束を破られたとき不利になる。
そのとき、アルヴェルンの通信官が会議室へ入った。
足音を抑えていたが、バルガの耳は扉が開く前からそちらを向いている。
通信官はハインの背後へ回り、細長い受信紙を差し出す。
国家統監の目が、最初の行で止まる。
「東部線か」
バルガが言った。
通信官が彼を見る。
ハインは受信紙を伏せなかった。
「東部線第二測区、二百八十一号杭付近。二本目の敷設予定地を獣人諸氏族に塞がれ、工事隊が作業に入れない」
バルガの爪が伸びる。
「何人いる」
「報告では数えられないほど、とある」
「兵士は」
「作業列車の最後尾に一個小隊。双方に負傷者なし。工事隊は鋼条を下ろせず、現地指揮官が障害排除の許可を求めている」
障害。
そこに立っている者の名ではない。
バルガが立ち上がる。腰に結ばれた氏族ごとの革紐が、椅子の背へばらばらに擦れた。
「工事を進めるなら、あそこにいる者たちは戦う」
「全氏族会合の決定か」
ハインが尋ねた。
「決定する場所を、線路から守っている」
「工事を止める権限があるかと聞いている」
「進める権限を、誰がお前たちへ渡した」
「アルヴェルン法だ」
「俺たちは、その法を決めていない」
「アルヴェルン領内の法を、すべての居住集団へ個別に問うことはできない」
「だから、国になれと言うのか」
バルガの声に唸りが混じった。
「国でなければ聞かない。国になろうとすれば、それを待たずに二本目を通す。ずいぶん都合のいい理屈だな」
ハインは受信紙を見る。
金属の指が、紙の端を押さえている。
許可を出せば、兵士は前へ出る。
前へ出た兵士へ石が飛べば、銃口が上がる。
どちらが先だったかを調べる会議が、また必要になる。
停戦文書に獣人族の名はない。ここで発砲しても、セレネアとの停戦違反にはならない。
停戦違反にならないからといって、ここで新しい銃撃を始める理由にはならない。
「返電を」
ハインが言った。
通信官が筆記板を構える。
「工事を中断。鋼条は貨車から下ろすな。部隊は現在位置で待機。直接攻撃を受けない限り、発砲を禁ずる」
バルガは座らない。
「列車を下げろ」
「それは認めない」
「兵を墓の前へ置いたまま、平和を話すのか」
「列車を下げれば、武装した集団に国有事業を撤退させられたことになる」
「俺たちは、そこに住んでいる」
「だから撃つなと命じた」
バルガの声が一段低くなった。
「撃たないことを、譲ったもののように言うな」
ハインの眉が動く。怒ったのか、痛いところを突かれたのか、ネイセルには分からない。
「では、氏族へ何を伝える」
「兵へ近づくなとは伝える。だが、俺の言葉で全員を縛れると思うな」
ハインは通信官へ返電を渡す。
命令は西へ走る。
だが、会議室と二百八十一号杭のあいだには距離がある。命令より銃声の方が先に越えない保証はない。
新王が暫定和平案を開き直す。八条の文字は増えているのに、署名欄だけが白い。
「本日は、ここまでにします」
ハインが懐中時計を見る。
「まだ日没前です」
「時間が足りないからです」
「なら続けるべきでしょう」
「要求を繰り返すだけなら、夜を越えても同じです」
父なら、王冠を使って一つ目を命じただろう。誰が何を失うかは、あとから報告書にさせる。そう決めつければ、自分が何も決められないことまで父との違いにできた。
新王はその考えを追い払う代わりに、ネイセルへ白紙を八枚用意させた。
一枚ずつ、それぞれの席へ置く。
「次の会議までに、自分が求めるものではなく、自分が差し出せるものを書いてください」
カルドラン王が白紙を持ち上げ、光へ透かす。
「国土か。鉱脈か。兵の命か」
「相手が約束を守ると信じるために必要なものです」
「信頼を紙に書けと?」
「兵数でも、日数でも、検証を受ける場所でもよい。少なくとも、他者へ払わせる値段ではなく、自分が払う値段を」
羽化議長は白紙の端へ触れる。
小さな指に、紙の繊維が引っかかった。
大潮守は濡らさないよう随行員へ渡す。
第一調整官は紙面を一度走査し、胸部記憶へ保存する。
セヴァルは、自分の名を書く場所を探すように、何もない紙を見た。
バルガだけは立ったまま。
「次の会議まで、工事は止めるのか」
ハインが答える。
「現地で攻撃がない限り、現在位置で待機させる」
「攻撃があったと決めるのは」
「現地指揮官だ」
バルガは白紙を折らず、革帯へ挟む。色も太さも違う紐のあいだで、紙だけが何も決めていない。
「なら、次があるかは、そいつ次第だ」
彼は席を離れる。
扉まで歩き、そこで一度振り返る。
八つの席のうち、彼の場所だけが空いた。
今度は、椅子が足りないからではなかった。
会議は日没前に休会する。
暫定和平案の署名欄には、最後まで何の印も置かれない。
停戦の残りは、十九日。
和平そのものに反対する声はなかった。
それでも、その値段を最初に引き受けるという約束は、一つも残らなかった。




