第十四章――二百八十一号杭
国家統監の命令は、最初の銃声より十三分遅れて二百八十一号杭へ届いた。
命令が発せられたのは、銃声より前だった。
セレネアの会議室から献納線の通信所へ渡り、途中の交換駅を六つ経て、東部線の仮設電信機へ届くまでに時間がかかった。
銃声には、中継所が要らなかった。
赤狐系のセナは、乾いた音を聞いた瞬間、反射的に地面へ伏せた。
人族の鉄道工場で働いていた頃、鋼材が折れる音も、蒸気管が破裂する音も、試験場で小銃を撃つ音も聞いたことがある。
腹が草を押し潰してから、自分がなぜ伏せたのか分かった。
今の音は、小銃だった。
「撃つな!」
人族の小隊長が叫んだ。
セナは伏せたまま顔を上げた。
「刃を抜くな!」
セナも叫んだ。
二つの言葉は、草原を這う煙の中で重なった。
発砲の一時間前まで、二百八十一号杭では誰も武器を構えていなかった。
獣人諸氏族は、既設線の両脇へ座っていた。
既設線は以前から墓の丘の裾をかすめて東へ延びていた。
今回の複線化で新たに敷こうとしていたのは、その丘側へ並べる二本目だった。二百八十一号杭は、新しい線路の中心を示すように墓の土へ打ち込まれていた。
灰狼、赤狐、岩猪、草兎。
呼集の煙を見て集まった者は百人を越えていたが、正確な数は誰にも分からない。遅れて来る者と、子供を別の集落へ送る者が絶えず出入りしていたためだった。
腰の刃は外していない。
ただし、柄へ手を置かないと決めていた。
アルヴェルンの兵士も、小銃を背負ったままにしていた。
弾倉は装着されていたが、撃鉄は起こしていない。
作業列車は、既設線を使って鋼条をここまで運んできた。
工事隊は、その鋼条を貨車から下ろさずに待っていた。
双方が、自分たちは戦いに来たのではないと分かる形を選んでいた。
それでも、互いがそこに居続けるだけで、相手にとっては脅しになった。
作業列車の先頭では、蒸気機関車が低く息を吐いていた。
火を落とせば、再び動かすまで半日かかる。
火を保てば、いつでも前へ進める。
機関士にとっては、命令を受けたとき動けるようにしておくための火だった。
獣人族にとっては、話し合いが終わる前に工事を始められるよう燃やしている火だった。
主任測量官が、軌条の間へ立っていた。
四日前、バルガへ丘の工事を保留すると約束した男だった。
測量帳は持っているが、頁は開いていない。
「工事は止めています」
彼は何度目か分からない説明をした。
「列車も止まっている」
セナが答えた。
「下がってはいない」
「下がれという命令は受けていません」
「墓の前へ兵を置けという命令は受けたのか」
岩猪系の老人が尋ねた。
測量官は答えず、小隊長を見た。
小隊長はまだ若かった。
軍帽の下に汗が滲み、何度も同じ場所を指で拭っている。
戦うには一個小隊で足りない。
だが、現位置保持の命令を覆して撤退を決めるには、彼の階級では足りなかった。
「部隊は、工事隊と国有資産を保護します」
「何から」
セナが尋ねた。
小隊長の視線が、百人の獣人族を一度だけ通った。
「損壊からです」
「まだ誰も壊していない」
「だから、まだ守れている」
悪意のない答えだった。
だから、誰にも飲み込めなかった。
作業列車の通信機が鳴った。
鉄道局員が受信紙を引き抜き、主任測量官へ渡した。
「一つ前の交換駅で、貨物列車が足止めされています」
主任測量官が紙へ目を落とした。
石炭と小麦粉、それに冬用の毛布を積んだ定期列車だった。
東部の人族集落へ向かう荷だったが、塩と薬の一部は獣人族の交易所にも卸される。
複線化工事を止めても、既設線まで使えなくなったわけではない。
だが、作業列車が単線上に留まるかぎり、交換駅の貨物列車は先へ進めなかった。
「このままでは通せません。作業列車を交換駅まで戻し、待避線へ入れる必要があります」
セナが訊いた。
「貨物だけ通せないのか」
主任測量官が首を振った。
「下げればいい」
「現位置を保持せよと命じられています」
「誰に」
「東部鉄道局です」
「その上から、別の命令が来るまで待っているのか」
「はい」
人族の国では、命令の順序が責任の順序だった。
上から来た命令に従えば、結果が悪くても説明できる。
下で勝手に変えれば、結果が良くても処罰されることがある。
セナは鉄道工場で、それを何度も見ていた。
壊れかけた機械を止めた工員が、生産を遅らせたとして減給される。
事故のあとでは、なぜ止めなかったのかと同じ上司が尋ねる。
「返事は、いつ来る」
「分かりません」
「分からないまま、全員で待つのか」
「それ以外の命令がありません」
空へ吐き出された黒煙が、風に押し戻された。
機関車の煙突から小さな火の粉が飛んだ。
一つは軌条へ落ちて消えた。
もう一つが、線路脇の枯れ草へ入った。
最初は、指先ほどの赤い点だった。
風が吹いた。
赤い点が、横へ走った。
「火だ!」
機関士が叫んだ。
工夫たちが貨車から飛び降りた。
水桶と土を掻くための鋤を持ち、墓の丘へ向かう。
獣人族も立ち上がった。
丘には、地上から見える墓標がない。
代わりに、死者とともに折った刃と、名を刻んだ木片を革で包み、浅い土へ埋めてある。
地上へ残すのは、墓標を掘り出すための革紐だけだった。
火が草の根まで入れば、革の包みも木片も焼ける。
百人が、同じ火へ向かって動いた。
工夫は墓を消そうとしているように見えた。
獣人族は列車へ押し寄せてくるように見えた。
小隊長が兵士へ命じる。
「小銃は背負ったまま! 消火を手伝え!」
兵士たちは銃を置かなかった。
百人に囲まれた場所で、武器を手放す訓練は受けていなかった。
片方の牙しか生え替わっていない灰狼の少年が、燃える草の中へ入った。
地面から突き出た革紐を掴み、力任せに引いた。
だが、浅く埋められた墓標は土に固く噛んで抜けない。
少年は爪を土へ立てた。
乾いた地面は固く、指先ほどしか崩れなかった。
後ろから追ってきた母親が、自分の短刀を抜き、少年へ柄を差し出した。
「根元を掘って。火は私が止めるから」
成人前の子供へ氏族の刃を預けることはない。
だが、一人で火を食い止めながら墓標を掘り出す時間はなかった。
母親は外套を脱ぎ、墓標へ迫る火を叩き始めた。
少年は母の刃を受け取り、地面へ突き立て、革紐の周囲の土を掘り始めた。
火が墓標へ移る前に、掘り出すつもりだった。
人族の兵士が一人、少年へ走った。
刃から遠ざけようとしたのか、火から助けようとしたのか、セナには分からなかった。
兵士は少年の肩を掴んだ。
少年が振り向いた。
火と煙の中で牙を剥き、短刀を持った腕を引いた。
「違う!」
セナが叫んだ。
近くにいた別の兵士が、小銃を肩から外した。
少年の刃が誰へ向いているのか、煙で見えなかった。
兵士は一度、止まれと叫んだ。
人族の言葉だった。
少年は聞き取れなかった。
引き金が引かれた。
少年の脚が崩れた。
短刀が草の上へ落ちる。
一瞬、火のはぜる音しか聞こえなくなった。
少年の母が、喉の奥から長い遠吠えを上げた。
獣人族の手が、一斉に腰へ動いた。
兵士たちも小銃を前へ回した。
二発目が鳴る前に、小隊長が自分の銃を地面へ置いた。
「全員、銃を下ろせ!」
部下たちは動かなかった。
小隊長は撃った兵士の前へ立ち、その銃身を両手で下へ押した。
「命令だ!」
一人が銃を下ろした。
隣の者も続いた。
獣人族の側では、セナが短刀を鞘ごと抜き、地面へ置いた。
「射手を押さえろ! 殺すな!」
「子供を撃たれた!」
灰狼の女が叫ぶ。
「分かってる! だから次を撃たせるな!」
セナは少年のもとへ走った。
弾は腿を貫いていた。
血が多い。
少年は牙を鳴らし、触ろうとする手を振り払った。
「人族の衛生兵を呼ぶ」
「要らない」
「死にたいなら、傷が塞がってから決めろ」
返事を待たず、セナは小隊長を見た。
小隊長は衛生兵を呼んだ。
誰かが土をかけ、誰かが上着で火を叩き、誰かが水桶を運んだ。
人族と獣人族の区別は、煙の中では分からなくなった。
火は、両方の手で消された。
灰狼の少年は、人族の包帯で止血された。
撃った兵士は武装を解かれ、最後尾の車両へ入れられた。
獣人族の誰かが窓へ石を投げた。
窓は割れたが、小隊長は発砲を命じなかった。
最初の銃声から十三分後、仮設電信機が鳴った。
通信員が細長い紙を持って駆けてくる。
小隊長は受け取り、その場で読んだ。
――工事を中断。
――鋼条は貨車から下ろすな。
――部隊は現在位置で待機。
――直接攻撃を受けない限り、発砲を禁ずる。
末尾には、国家統監ハイン・ロートの署名があった。
小隊長は紙から顔を上げた。
割れた車窓。
草の上に落ちた短刀。
地面に並べられた小銃。
消えたばかりの火。
命令に書かれた直接攻撃が、すでに起きたのかどうかを判断しなければならなかった。
「どう書く」
主任測量官が尋ねた。
小隊長は、撃たれた少年を見た。
「見たまま書く」
「少年が刃を向けたと?」
「俺には見えなかった」
「兵士は、向けられたと言っている」
「少年は」
セナが答えた。
「墓標を掘り出していたと言っている」
「あなたは見たのか」
「刃を持っていたのは見た。どこへ向けたかは、私にも見えなかった」
小隊長は命令書の裏へ書き始めた。
火災発生。
双方が消火のため同時に移動。
煙により視界不良。
獣人族一名が刃物を所持。
兵士一名が攻撃と判断し発砲。
被弾者一名。生存。
発砲後、列車への投石一件。
追加発砲なし。
発砲の正当性については、現時点で判断不能。
「軍の報告書に、判断不能と書くのか」
通信員が尋ねた。
「判断できないから、そう書く」
小隊長は答えた。
「分からなかったと残さなければ、あとで俺が見たことにされる」
主任測量官も、黙って自分の帳面を開いた。
セナは、二人の紙を見た。
獣人族には、同じ紙がない。
氏族へ伝えるのは、傷を見た者の言葉と、火薬の臭いと、少年の脚に残る穴だった。
人族の記録には、命令の発信時刻まで残る。
どちらも嘘ではない。
どちらも、それだけでは同じ出来事にならなかった。
「列車を下げろ」
岩猪系の老人が言った。
小隊長は命令書を握った。
「現在位置で待機せよとある」
「次の火が出れば、また同じことになる」
主任測量官が口を挟む。
「機関車だけ火を落とします。貨車は動かさない。交換駅の貨物列車には、そのまま待つよう伝える」
「食糧は」
セナが尋ねた。
「明日までなら持つ。それ以上は、別の荷車を手配します」
「獣人族の交易所へ来る塩と薬も載っている」
老人がセナを睨んだ。
「だから墓を退けと?」
「違う。私たちも、線路だけを止めて生きているわけじゃないと言っている」
セナは小隊長を見た。
「既設線上に作業列車を置くなら、兵を後ろの車両へ戻せ。消火する者だけ外に出す。こちらも線路の上からは退く。ただし、丘と貨車の間に残る」
「誰の決定ですか」
「私の提案だ」
「氏族を拘束できるのか」
「できない」
小隊長の口元が、苦く動いた。
会議室で、ハインがバルガへ尋ねたことと同じだった。
「だが、ここにいる者へ聞くことはできる」
セナは火の消えた場所へ戻った。
短刀を地面へ置く。
一人ずつ、提案へ賛成する者が自分の刃をその隣へ置いた。
全員ではなかった。
反対した者も、すぐに列車へ襲いかかりはしなかった。
人族の小隊長は、兵士を灰色の車両まで下げた。
小銃は車内の架台へ固定させ、扉の外へ衛兵を二人だけ残す。
命令書にはなかった措置だった。
主任測量官は、機関士へ火を落とすよう告げた。
煙突から出る黒煙が薄くなり、最後には白い蒸気だけになった。
二百八十一号杭は、抜かれなかった。
その周囲に、人族が鋤で作った防火帯と、獣人族が短刀で刈った草の輪が残った。
輪の内側には、撃たれた少年の血が落ちている。
輪の外側には、割れた列車の窓ガラスが散っていた。
日が沈む頃、二つの報告が草原を離れた。
一つは電信線を通り、アルヴェルン政府とセレネアの会議室へ送られた。
もう一つは、走る者の口から口へ、各氏族の火へ運ばれた。
人族の報告には、発砲の正当性は判断不能と書かれていた。
獣人族の報告には、子供が墓を守って撃たれたと伝えられた。
どちらにも、火を消した手の数は書かれなかった。
停戦の残りは、十九日。
戦争は始まらなかった。
ただ、次に刃を持った者を見たとき、その刃がどこへ向いていたかを確かめる時間は、前より短くなっていた。




