表裏
そんな、特に意味もない会話をした後の事だった。
時間は確か、12時を迎える少し前だっただろうか。まだ鐘の音は聞こえていなかった。
いい位置まで太陽が昇っていて、その時の僕は布団を干すかどうかを考えていたと思う。
唐突に、ドアをノックする音が聞こえた。
その音はまず二回、少し空けてもう二回と聞こえてきたから、とても礼儀正しい印象だった。
ちょうど近くにいたミルがドアを開けると、そこには小柄な女性が立っていた。
その人は姿勢が良く、着ている服も派手すぎず、かといって地味なわけでもない上品なよそ行きのものであった。
「突然押しかけてごめんなさい。初めまして、私エマ・デ・シエルと申します」
彼女は深くお辞儀をしながら言った。
その一言で、ミルは顔色を変えた。
見るからに僕達のような庶民ではなさそうだとは思っていたが、では彼女はそれなりの地位を持った貴族か何かであろうか。
気になって視線を送ると、ミルは言った。
「えっと...どうして王女様がここに...」
「あら、やはり実名を名乗るべきではなかったですね。でももし偽名を言っていても、そこの貴方になら見抜かれてしまいそうね」
明らかに、彼女は僕の方を見て微笑んでいた。
彼女にはわかるのだろうか。ミルではなく、僕だと。
そもそも王女様ともあろうお方がわざわざ自らの足で出向くなんて。
これはただ事ではない。そんな予感に、僕は居ても立ってもいられなかった。
さて、彼女はどんな面白い物語を書くのだろうか。
「紅茶はお好きですか?」
僕は台所から書斎の彼女に声をかけた。
彼女は今ミルと向かい合わせに座っている。
ミルはいたたまれない様子で、時々助けを求めるようにこちらを見ていた。
彼女はやはり王女なだけあって、ただ椅子に座るだけでもその動作は一つ一つが優美だった。
「えぇ、好きよ。でもあまり気を遣わないで。堅苦しいのは苦手なの」
ここに来た時からずっと、彼女は身分を気にするような素振りを見せなかった。
高い地位を持つ者ほど、その地位を盾にするのだと思っていた。だからこそ彼女が当たり前のように此方に歩み寄ってくる事が不思議だった。
でも彼女はまるで籠の中の鳥のようだ。ただ純粋に外の世界に憧れる、一人の少女だ。
そんな彼女の前にカップを置き、僕はミルの隣に腰を下ろした。
「それでは早速本題に入らせていただきます。貴方がこちらへいらした理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
彼女はゆっくりと頷いて言った。
「私は、もっと気楽に生きたい。だから貴方のその力を貸して欲しい」
「具体的には?」
「そうね、私が死んだ時に悲しむ人は一人でいい」
彼女は、生まれる前から王女として期待されていた。
だから、物心がついて間もない頃から礼儀作法や教養を叩き込まれた。
「あの頃は言われるがままに過ごしてた。まだ善悪の区別すらついていなかったから、何を信じて何について行けばいいのか分からなかったのかもしれない」
そして彼女は、両親が望む通りに成長した。
齢15にして、どこを見ても完璧な王女だった。
それ故に彼女との結婚を望む国は多かった。
そして来月16歳を迎える彼女は、誕生日に遠国の王子と結婚することが決まったそうだ。
「家のために知りもしない人と結婚するなんて、正直良い事ではないでしょう。でもそれすらも受け入れてしまいそうな自分が居て、それが不快でたまらない。私はずっとそれが当たり前の環境で育ってきたから、それしか知らないの」
彼女は髪を耳にかけながら言った。その横顔は、すごく大人びて見えた。
「いい暮らしをしておいてこんな事思うなんて、贅沢だっていうのは分かってる。むしろ贅沢だからこんな事を思うのかもしれない。でも、だからこそ私はそんな常識を忘れて生きてみたい」
やはり僕の目に狂いはなかった。
彼女はきっと、世界をも動かす存在となる。
いや、必ず。




