沈思黙考
結局、彼は近くの小さな空き家を借りて住む事にしたようだった。
僕のいるこの家は人目につかない場所にひっそりと建っているから、引っ越した後でも通うにはそれなりに時間がかかるようだ。
それでも、前よりも格段に彼と過ごす時間が増えた。彼の描く物語を読む時間が増えた。
それは嬉しい事である反面、今までと比べ物にならないくらいに僕のことを追い詰めた。
でも今は気づかないふりをすることにした。
今はまだ、純粋に嬉しいと思う感情の方が強いから。
何より、これは自分で選んだ道だ。僕はそれを簡単に手放すほど愚かではない。
だからこのまま、捏造のままでいることを選んだ。
僕は彼に、仕事を教えた。
なんとなく、もう自分はダメな気がしていたから。
自分はどうなったってよかった。でも、自分のせいで他の物語が変わっていくのだけは嫌だった。
だから自分が正常でいられるうちに彼に引き継いでおく事にした。
今の彼にはまだこの仕事はこなせないかもしれない。
でも、彼がここに来るようになってからも、前までの通り彼のような来客は時々やってきた。彼のように記憶を消しに来る人はいなかったけれど。
それでも、少なくとも彼はそれを横で見てきたはずだ。
だから僕はそんな彼の将来に期待をすることにした。
それしか出来なかったから。
僕は彼に何を教えられただろうか。何か、彼のためになる事をしてあげられただろうか。
きっと、もし彼にそう聞いたら笑顔で頷いてくれるだろう。
でも実際僕は何もできていなくて、むしろ僕の方が救われていたのではないか。
いや、間違いなく救われていた。
彼に物語を教えるのは、本当に僕でよかったのだろうか。
そんな考えが何度も頭をよぎった。目を閉じる度に思い出した。
物思いにふける時間は、日に日に長くなっていった。
今日もまた、無意識に深く考え込んでいた時の事だった。
段々と周りの音が聞こえなくなっていく中、彼の声でふと我に返った。
「もしかして、僕の事嫌いですか?」
数秒間その意味を理解する事ができなかった。だって、質問の意図が理解できなかったから。
咄嗟に間抜けな声を出してしまった。
今みたいに、この彼を前にしてみれば悩みなんてものはどうでもよくなる。彼が口を開く度に、自分の悩みなんてどうでもよくなるような難題を突きつけられるから。
それこそが今の悩みでもあった。
「そういうのは相手に勘付かれないように聞くものですよ。やり直しです」
「じゃあえっと、僕の事好きですか?」
僕はただ、ため息をつくしかなかった。肩に入っていた力が抜けた。
「あのね、反対の意味にすればいいってものじゃないんですよ。貴方の事は好きか嫌いかで言われたら好きですけど」
やっぱり、僕は彼に何も教えられなかったのかもしれない。
少なくともこんな突拍子もない事を言えだなんて教えた覚えはない。
でも、あの彼がなんの前触れもなくこんな事を言い出すなんて。それこそ教えた覚えがない。
「それで?また貴方は、どうしていきなりそんな事を言い出したんです?」
「だって、最近呼んでも返事をしてくれないじゃないですか。そもそも名前を教えてくれないから、どうやって呼べばいいか分からないし。名前を教えてくれないって事は信用されていないのと同じだし」
彼は拗ねるように下を向いた。
その時だけは、彼のその端整な後ろ姿が幼い子供のように見えた。
「名前は、聞かれなかったから言わなかっただけですよ。貴方を無視するような事をしたのはごめんなさい、考える事が多くて」
これは、その場しのぎの言い訳だった。
だって、自ら名乗らないのは失礼なことだと分かっている。
でも僕はただ自分の本当の名前を知らないから言えなかっただけで。
なんて、これも結局は言い訳でしかなかった。
本物だろうが偽物だろうが、名乗れる名前があるなら名乗ればいいのに。
僕はどこまで卑怯なのだろうか。本当のことは一つも言えないのに言い訳はいくらでも思いつく。
「じゃあ名前、教えてください」
でも彼はどうだ。彼と僕は根本が違う。
「それで、これからは名前で呼ばせてください。だから僕のことも名前で呼んで、沢山呼んで。呼ばれたら、いつでも行きます」
彼は僕の無礼に怒るどころか、こんな僕にでも手を差し伸べようとしてくれている。
それすらも素直に受け取ることができない自分に嫌気が差して、僕はつい言ってしまった。
本当は適当に偽名を言って誤魔化そうと思っていたのに。
「名前は、レイ、でしょうか。これで満足ですか?ミルくん」
彼には笑顔が戻った。
本当に、彼は少し単純すぎるのではないだろうか。少なくとも僕が心配になるくらいには単純だ。
でも彼は今日も彼だったから、それに安心した。




