逃げ
「あなたは今まで沢山の物語に触れてきたでしょう?それなら他にもっと教えを乞うべき人がいるのではないのですか?」
咄嗟に出た言葉は、言い訳だった。
僕は彼に、物語の書き方を教えたい。だって、彼は教えさえすれば面白い話を書きそうだから。
でもそれには責任が伴うわけで。
そもそも僕は感覚に頼って物語を書いているから、彼に教えられることなんてなかった。
文章の基礎くらいなら教えられるが、それは別に僕でなくたっていい。
彼が今日会ったばかりの僕に執着する理由はないだろう。
だから無理やりそういう理由をつけて、彼を僕から遠ざけたかった。
でも、やはり彼は一筋縄ではいかなかった。
「確かに僕は、今まで生きてきて色々な物語に出会いました。でも、こんなにも感情に忠実な物語を書く人は初めて見たんです」
「そうなんですね、それで?」
「だから、あなたに教えて欲しいんです」
彼は一歩も引き下がらなかった。
説明と結論が矛盾しているけれど、彼が言うとそんな事なんでもないように聞こえた。
僕は今まで生きてきて、忠実だなんて言われたのは初めてだった。
だって実際は全く忠実なんかじゃない。僕は本心の自分に素直になれない。
それは自分だからわかる事かもしれないけれど。
でも、だからこそ、それを信じて言っている人に偽物の言葉を投げかけるほどの勇気は僕になかった。
「僕はルナのために物語を書きます。思ったんです、読む本がないのなら書いてみたらよかったなと」
彼は彼なりにたくさん考えたのだろう。
それが考えた結果なのなら、物語を書く動機なんてなんでもいい。
でも彼には、出来るのならずっとそのままでいて欲しい。
裏側なんて気にしないで、純粋なままでいて欲しい。
だから、正直彼は物語を書くべきではないと思っていた。
文字なんて見せかけの物にとらわれずに、現実を見て生きてほしい。
でも、彼は少しズレている。
彼は近道を知らない。
どんなに急いでいても、整備された道を行く。
その中で彼が埋もれない理由は、最初から目指す道が他の人とは違うからだ。
その道の上では彼は独壇場だから、誰ともぶつからない。
だから、僕は自ら彼にぶつかりに行った。
でも、もしかしたらこれは願望だったのかもしれない。
僕は彼と同じ土俵にさえ立てていなかったのかもしれない。
だとしたら、今目の前にあるものは全て錯覚だ。
「こんな事思ったって今更なんです。だからもう、残りの人生全部賭けてみようかと思って」
流石の僕だって、彼のそれが中途半端な覚悟なら止めた。
でも、彼の目は本気だった。
だから今回は僕の負けだ。
「わかりました。教えさせてください」
その言葉を聞いた時の彼の顔は、今でも忘れられない。
この返事をしてよかったなと思う反面、これからこの人に嘘をつかなくてはいけないのだという罪悪感も同時に感じた。
彼のその笑顔の一つ一つが鉛のように重かった。
だからいつか抱えきれなくなる事も、その時既に分かっていた。
あの日から、彼は毎日僕のもとを訪れるようになった。
出会った時は赤の他人でしかなかった僕らも、今ではその関係に名前がつくくらいにはなった。
僕は毎日彼に何かしら怒られる。
今日は確か、風邪をひくから書斎で寝落ちするのはやめろと言われた。
彼曰く机は寝床ではないらしい。
彼は、僕の髪を梳かすのが好きだった。
ルナも長髪だったらしく、だからもしかしたらルナを思い出しているのかもしれない。
切るのが面倒で無造作に伸び続けていたこの髪だったけれど、その時だけは少し価値を感じた。
彼に出会ってから、自分には生活力がないことに気づいた。常識を知った。
僕が常識だと思っていたことは常識ではなかった。
でも彼が僕に足りない部分を補ってくれたから、いつしか気になることはなくなった。
僕は人を頼ることを知った。それと同時に、彼に依存する事への恐怖も感じた。
だからその代わりのように、僕は彼に物語を教えた。
初めは最初から最後までつきっきりだったが、今ではもう一人で書きあげる事ができるようになった。
彼の書く物語は、まだお世辞にも上手いとは言えない。
でも、それなりに面白かった。
彼はやはり物語でも彼のままで、だから毎回誰が見ても美しい物語が出来上がる。
彼こそ忠実という言葉が似合うのではないかと思う。
僕は彼という存在だけでなく、物語という形でその真っ直ぐさが具現化されるのが嬉しかった。
そんな、彼のいる生活が当たり前になった頃だった。
彼は言った。
「毎日通うには遠いので、もう少し近くに引っ越そうと思っているんです」
それは、彼がまた一つ区切りをつけようとしていることを意味した。
彼が今住んでいる家は、彼の両親と、そしてルナと過ごした家だ。
きっと、思い入れも思い出もたくさんある。
だからそれを手放すというのには、それなりの覚悟がいるだろう。
「あの家は、僕が一人で住むには少し大きすぎるんですよね」
と言う彼からは、寂しさも悲しさも、微塵も感じられなかった。
もしかしたら彼はずっと離れたかったのかもしれない。
場所に残る思い出というものは恐ろしくて、そこにいるだけで思い出したくないことまで思い出してしまう。
だからここに通うというのは、離れる理由にうってつけだっただけなのかもしれない。
その事もあってか、彼はずっと住む場所を探していた。
丁度この家には空き部屋があったので、いっそここに住んだらどうかと提案した事もあった。
彼は喜んでいた。
でも、だからこそだと言った。
「本に囲まれて過ごせるなんて幸せじゃないですか。やる事を成し遂げていない僕はまだ幸せになれないんです」
傍にルナがいないと意味がないと言っていた彼だが、やはり本は好きなようだった。
僕はそれを聞けただけで満足だった。




