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知らず知らずのうちに

「彼女が、私の事を忘れて生きてと言ったこと」

自分勝手な願いですよねと、彼は自嘲的に言った。

「記憶を消すことに自分勝手も何もないですよ。だって、あなたの記憶なんですから」

「そう、ですよね」

膝の上で握られた彼の手が小刻みに震えていた。

彼が今どんな言葉をかけて欲しいかなんて、考えれば誰にでも分かるはずだ。

僕にだって分かる。でも、だからこそ言わない。

「では次に、あなたはどのように記憶を消したいですか?例えば、消したい記憶だけを切り取って消すことも出来ますし、それに関連がある事柄も一緒に消す事も出来ます」

彼は、この問いには間髪入れず食い気味に答えた。

「彼女が言ったことだけを消して欲しいです」

「分かりました」

彼の決意は最初からずっと揺るがなかった。

でもまっすぐな人というより、どこか追い詰められた悪役のような印象があった。

だから、できるのならこれ以上彼を揺さぶりたくはないけれど。

「では最後の質問です。あなたはその記憶をルナさんの記憶からも消したいですか?」

記憶を消したり変えたりする場合、その記憶に関わっていた人の記憶も同時に変えなくては辻褄が合わなくなってしまう。

しかし、今回のように関わっている人が亡くなっている場合や、なんらかの理由で二度と会う事がない場合には、関わっている人の記憶を改竄するかどうかの最終決定は依頼主に委ねられる。

「…え?」

彼は一瞬、明らかに動揺を見せた。

きっとそこまで考えていなかっただろう。

彼もやはり人間だ。自分の事で精一杯で、人の事までは頭が回らない。

でも彼の意思は僕が思っていたよりずっと真っ直ぐだったようだ。

動揺したのもあの一瞬きりで、やはり彼の覚悟は固いのだと感じた。

「彼女の記憶はそのままにしておいてください」

「分かりました」

メモをとる僕の前で、彼は言った。

「あなたは本当に、何も言わないんですね」

今度は呟きではなくて、はっきりとそう聞こえた。

最初に言った時はきっと嫌味混じりだっただろう。でも今回のそれは僕にとって褒め言葉のように感じた。

「はい。オーダーがあれば今のうちに」

「いえ、大丈夫です」

会話はそこで途切れた。

僕もこれ以上何も言う気はなかった。

彼の物語はずっと美しいから、修正はいらない。

このままでいい。

このままでいいのに。

「ルナさんがあなたに言ったあの言葉は、まさに呪いのようなものです。あなたのその優しさは、同時にあなたをも苦しめます」

「……え?」

言葉が浮かんだ時にはもう声になっていた。

多分あの時これを聞いた彼よりも、自分が一番驚いていたと思う。

「少し歪んだ形の愛かもしれませんが、それはルナさんがあなたのことをよく分かっていたからこそ出来た事だとも思います」

久々に人の物語に口を出してしまった。

だからといって何かが変わる訳ではないけれど、でもやっぱり人の物語に口を出すのはいい気分がしない。

深く息を吐き出しながら、僕はそっと本を閉じた。

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