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理由

彼は終始無言で、ただ僕の後ろを歩いていた。

だから、廊下には2人の足音だけが響いた。

書斎に着いたあたりで、彼はそっと呟いた。

「何も、言わないんですか」

「何がですか?」

本当は彼の言いたいことが分かっていた。

でも答えなかった。

きっと彼もそれを分かっていたんだろう。

「いえ、何でもないです」

彼は続きを言わなかった。

そしてそのまま何事もなかったかのように、僕に続いて部屋に入った。

この時彼は一体どんな顔をしていたんだろうか。

気にならなかったわけではないけれど僕はずっと前を向いていたから、後ろの彼の事は分からない。


彼は「ミル」と名乗った。

年齢は正確には分からないからと聞いても教えてくれなかったが、18歳ほどではないかという印象だった。

僕から見るとまだ幼く見えるが、しっかりと受け答えができている。

それに時々彼が見せる表情はどこか大人びていて、外側と中身が違うものを見ているような不思議な感覚に陥った。

そんな彼をソファーに座らせて、隣に座っていた僕は紅茶を淹れようと思って立ちあがった。

カップが入っている棚に手を伸ばしつつ向こうの様子を窺うと、彼は書斎に並べられた大量の本を物珍しそうに眺めていた。

「本がお好きなんですか?」

「いえ、この世界にはこんなにもたくさんの本を持っている人がいるんだなと思って。貴重で高価なものなので、僕はあまり読んだことがないです」

本を見つめる彼の目には、少し光があったような気がした。

「そうなんですね。良かったら読んでいってください。色んな人に読んでもらえる方が本も喜ぶと思いますし、僕も集めてよかったなって思います」

僕はそれを少しは喜んでくれるかと思って提案したのだが、むしろ機嫌を損ねてしまったようだった。

彼は本から目を背けてしまった。

僕はそんな彼を見て、つい笑みをこぼした。

でも、何も見なかったように彼の前に湯気が立つカップを置いた。

そして今度は彼に向かい合う形で座った。

「では、本題に入りましょうか」

その一言で、さっきまでそっぽを向いていた彼の視線が一気にこちらに集中した。

きっと同時に彼の前に本を出したからだと思う。

彼の人生についての本を。

「これがあなたの本です。あなたが消して欲しいのはこれの何ページ辺りの記憶ですか?」

「…ページですか?えっと、日付なら。ちょうど2年前の今日です」

彼はまさかページ数なんて聞かれるとは思っていなかっただろう。

素直に慌てている彼を見て少し微笑ましく思いながら、僕は本を手に取った。

これは僕からのちょっとしたいたずらだった。

「物語を書き換えるにあたって、僕はあなたの本を読むことになりますが大丈夫ですか?」

「はい、見るに耐えないものかもしれないですが」

そう言う彼は冷静な声のトーンとは裏腹に、動揺が行動に出ていた。


彼の物語は、読み応えのあるものだった。

彼は、18年ほど前に山の中の小さな家で生まれた。

貧乏だったが母には愛され、その時の彼はそれなりに幸せだったようだ。

しかし、ある時母親が急死してしまう。父親は既に亡くなっていて引き取り手もない。

彼に残されたのは家族と過ごした家だけ。

そんな時に彼に手を差し伸べたのが、3つ上のルナという女性だった。

彼女も彼に似た過去を持っていて、だからこそ一人立ち尽くす彼を放っておけなかったようだ。

そして2人はいつしか一緒に暮らすようになり、やがて家族となる。

はずだった。

ルナは病にかかり、それから2年後に病死する。

彼は再び独りきりの人生を過ごすことになった。

「ルナ…彼女は死に際に、私の事を忘れて生きてと言ったんです」

彼は自分の本から目を背けるように下を向いた。

「最初はよくある例えだと思ったんです。本当に忘れて欲しいんじゃなくて、これから先私に気を遣わないで生きて、みたいな。でもあの時の彼女の真剣な目が、僕にはそう言っているようには見えなかった」

「では、あなたはその方の事を忘れたいのですか?」

すごく、静かだった。だから外で吹く風の音がやけに大きく聞こえた。

「いえ、僕は彼女の事を忘れたくないです。今日まで生きてきて一瞬でも彼女が頭から離れたことはなかった、それくらい大切な人です」

沈黙の中、僕はただ彼の次の言葉だけを待った。

彼は覚悟を決めたように息を呑んだ。

「だから僕が消して欲しいのは」

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