反対
閉じた本を机に置いた時、目の前の彼は唐突に立ち上がった。
勢い余って、机がガタッと音を立てた。
立ち上がった理由は彼自身にも分かっていないと思う。
彼の目には涙が浮かんでいた。
でも全く悲しそうではなくて、むしろ嬉しそうに見えた。
「では、予定通り記憶を消す段階に入ります」
「……」
「まず今週中にプロットを仕上げるので出来上がり次第確認を…」
僕は記憶を消す事を逃げだとは思わない。
向き合っていたからこそ辛くなったんだと思うし、わざわざ辛いままでいる必要だってないと思う。
使えるものは使う。消せるなら消す。
たったそれだけの話だと思っていた。
だってその辛さを真正面から受け止めてみたとしたら、きっと粉々に砕け散るから。
そんな中、真正面から受け止めることに嬉しいという感情を見出すのが彼だと確信した。
彼には一撃だって逃さず、全部受け止めて欲しい。その姿は容易に想像する事が出来たから。
だから試した、彼にはまだ砕けてもらっては困るけれど。
ペンを持つ僕の左腕が掴まれた。
やっと。ようやく。
今の彼にはそんな言葉が相応しいのではないかと思った。
「待って、消さないでください」
腕を掴む力は思っていたよりも強かった。彼も無意識だったようで、咄嗟に「ごめんなさい」と言った。
でも、掴んだ腕を離すことはなかった。
「対価は予定通り払います。今更こんな事言って迷惑なのも分かっています。ごめんなさい。でも、消さないでください」
「どうしてですか?」
僕はこんな事を言って、記憶を消すのを止めたかったわけではない。
純粋に、ただその理由が知りたかっただけだ。
でも彼は答えなかった。
答えが分からなかったというより答える意味がないと思っているように、じっとその場に立っていた。
「では、言い方を変えます。1つだけ教えてくれませんか?」
彼は数秒考えた後、無言で頷いた。
「さっき、あなたが本から目を背けた理由はなんですか?」
「あぁ、やはりあなたに隠し事は通用しませんね。上手く隠せているつもりだったのに」
「目線とか行動の違和感とか、ちょっとした事で分かるんですよ」
「なるほど。そうですね、あの時は無意識でしたが強いて言うのであれば」
ルナがそこにいなかったから。
それは予想外の答えではなかった。でも実際にそれを彼の口から聞くと、やはり説得力が違った。
彼は僕のせいにしなかった。
「どんなに面白い本だって、珍しい本だって、傍にルナが居ないなら僕には価値がない。僕はルナが本を好きだから、本が好きなんです」
僕はふっと息をこぼした。
本当に好きなら、理由も動機も何だっていい。
「ルナは本を読むのが好きでした。昔はよく寝る前に物語を話して聞かせてくれました。ルナはずっと言っていました。たくさんの本に囲まれて、静かに暮らすのが夢だと」
僕はそれを静かに聞いた。
呼吸を忘れそうになるくらい音のない時間だった。
「でもお金がなくて、俺がちゃんと稼げなくて。もっとたくさん、飽きるくらい本を読ませてあげたかった」
彼は息継ぎもせず一気に、今度は泣かずに言い切った。
そしてさっきよりも一回り大人になったように寂しく笑った。
そんな彼は言った。
「僕にも、1つ教えてくれませんか?」
「内容次第です」
僕のこの言葉は、本心ではない。
本当は今の彼にならどんな内容でも教えるつもりだった。
「どうしてルナはあんな事を言ったんでしょうか、それだけがずっと疑問でした」
「それはきっと...いえ、なんでもないです。ルナさんの本、読んでもいいですか?」
別に僕の憶測をそのまま彼に話したっていいのだけど。
でもそれはやはり僕の口からじゃなくて、彼女から伝えるべきだと思った。
「それは、僕が許可を出すことではないので」
「それもそうですね。では、読ませていただく事にします」
彼は、本当に分かっていないのだろうか。
いや、きっと既にたくさん考えて、それでも分からなかったんだろう。
彼女の本を読んで納得した事がある。
僕の憶測は大体合っていた。でももちろん意外な事もあった。
やはり物語は実際に読んでみないと分からない。
予想通り、2人はすごく似ていた。
どうしたら人間はここまで真っ直ぐでいられるのだろうか。
読み進めるたびにその疑問は深まった。
本を読んでひとりでに微笑む僕を見て、彼は首を傾げていた。
「ルナさんは、あなたに忘れて欲しかったんじゃない。むしろその逆です」
「…じゃあ、どうして」
「大切な人に忘れて、なんて言われたら余計に忘れられなくなるでしょう?さすが、ルナさんは読書家なだけあって策士ですね。そしてあなたはそれにまんまと引っかかった、と」
たった、それだけの事。
たったそれだけの事の為に2年も考え続けて、今日までの時間は何だったんだと。僕が彼の立場になったらそう思うかもしれない。
でも僕は、そのたったそれだけの事も大事にする彼が好きだ。
見て欲しい、今の幸せそうな彼を。
彼はきっと、2年の長さなんて気にしていない。
だって最初からずっと笑っているんだ。
ここまでくると、さすがの僕でも少し恐怖に近い何かを感じた。
彼はルナに忘れてと言われたことがそんなに悲しかったのか。
それとも。
いつにもなく想像が止まらなかった。
そしてこれは、今まで生きてきて初めて自分の常識が通用しなかった瞬間だった。
「この一言が、あなたには少し効き過ぎてしまったのかもしれませんね」
2人は誰から見ても相思相愛であることに間違いはない。
でも、だからこその結末でもある。
そして、僕が今すべきなのは2人を交わらせる事。
「ほら、あなたもちゃんと見てあげてください。彼女の事を」
そう言って僕は、本の最後のページを開いて彼に差し出した。




