第33話 雲上の世界
「わぁ……」
一瞬だけ、晴人のことも、ルルのことも何もかも忘れてしまった。
眼の前いっぱいに広がる星空。何者の邪魔も入らない静かな世界。これまで散々雨風に吹き晒されてきたのがまるで嘘のようだ。
当然のことかもしれないけれど、大雨の日だって雲の上は晴れているのだ。ただそれだけの理屈が、いたく感動的に思えた。
「そうだっ、晴人とルルは!?」
身体を捻って周りを見渡す。もう安達屋さんに投げてもらった勢いが無くなる。そうなれば次に待つのは問答無用の自由落下のみだ。
「どこだ、どこに……あっ!!」
見つけた瞬間、興奮で身体が震える。少し距離が離れているけれど、確かにルルだと思われる黒い巨体が雲の海を優雅に泳いでいた。
それはやはり、一見して巨大な鯨のように見えた。しかしその身体からは、まるでタコのように太い触手が何本も伸びている。形容しがたいその外見はこの世ならざる怪物そのものだった。
黒く染まった身体は、いったいどれほどの全長になるのか想像もつかない。飛行機どころか戦艦だってすっぽりと飲み込んでしまえそうだ。少なくともこの地球上のどんな生物よりも大きいのは間違いないだろう。
「……って、うわっ、まずい! 落ちる!」
悠長に思考している暇は無い。ふわっ、という内臓が浮く嫌な感覚と共に全身が重力に引かれはじめる。このまま情けなく地上に戻るわけにはいかない。私はここに、ルルとの決着をつけに来たのだから。
「縛って! 拘束花!!」
どこまでも続く蔓を脳裏に描いて槍を振るうと、私の血がそのイメージ通りに細長く伸びていく。その先端がルルの身体から伸びる触手にうまく結びついた。
「よしっ、これで……」
落下の勢いをそのままに、触手にぶら下がるようにしてルルに接近していく。その途中で、探し求めた青の光とすれ違った。
「……真白!?」
「晴人!!」
晴人だ。良かった、まだ無事だ。身体は見るからにボロボロで、あちこちから血を流しているけれど、とにかくまだ生きている。やっぱりあれからずっと戦い続けていたんだ。たった一人きりで……。
「へぇ、来たんだ。出来損ない」
ゾクリとする。見上げると、私が掴んでいる触手の上にいつの間にか黒衣の少女の姿があった。私よりも若干幼く見えるけれど、確かに同じ顔立ち。ルルは触手の上に座り込むと、静かに楽しげな笑みを漏らした。
「後で探し出して、何日も何日もかけてじっくりと殺してあげようと思ってたのに」
ルルの冷たい視線が私を捉える。
「まあいいか。ここで可哀想なお兄ちゃんと一緒にいたぶってあげるのも悪くないし」
そう言うと、少女の姿をしたルルの体は触手の中へと吸収されるように消えていった。憶測でしかないが、きっとこの巨大な鯨こそがルルの本来の姿であって、少女の姿は仮初めの器でしか無いのだ。
『せいぜい簡単に死なないでよね?』
どこからともなく声が響くと、素早く伸びてきた細い触手が、私の支えだった蔓をあっさりと切り捨てた。
「くっ……」
再び自由を失って落下していく。咄嗟にもう一度蔓を伸ばそうとするが、迫りくる触手たちがそれを許してくれない。
「このっ……!」
上下左右から鋭い刃を持った触手が一斉に押し寄せてくる。身体をよじり、急所に迫る攻撃を槍で防ぐだけで精一杯だ。手足をかすめていく刃が私の身体を裂いていく。ダメだ、空中戦では勝負にならない。なんとか反撃の糸口を見出さないと……。
「真白!」
後方から晴人が飛んでくると、まとわりつく触手を素早く切り裂き、私の身体を抱きかかえた。晴人もまた別の触手に追われている。逃げるために二人でルルから距離を取っていく。
「ありがとう、晴人……」
改めて見ても、晴人の体はやはりボロボロだ。異能で空を飛び回る速度も本調子ではないように思える。
『逃がしたりしないよ』
ルルの触手が速度を上げる。私を抱えたままでは晴人は逃げ切れそうにない。
『まぁ、別に逃げてもいいけど。でもそうしたら、お兄ちゃんの大好きな人間さん達はいったいどうなっちゃうんだろうねぇ?』
くすくすと笑い声が響く。晴人がここで一人戦い続けていたのは、ルルの攻撃の手を自分に向けさせるためでもあったのだ。そしてきっと、晴人にはルルを倒すための決定打が無い。悪趣味なルルのことだ。この数時間、ゆっくりと手間をかけて晴人をいたぶっていたのだろう。
「くっ……!」
晴人が苦い顔をする。
「晴人、私は大丈夫だから! ルルのところに向かって!」
「でも……」
「このまま逃げても事態は解決しないよ! 私も一緒に戦う。ここでルルを倒そう!」
晴人が方向を転換してルルのもとへ向かっていく。その行く手で待ち構えるように、大量の触手達が立ちふさがった。
「弾けて、炸裂花!!」
今は言葉を交している余裕はない。とにかくひたすらに眼の前の触手を撃ち落としていく。晴人も私を背負ったままで懸命に触手を切りつける。傷ついた身体で出せる限りの速度を出し、ルルに迎撃される前に懐へ飛び込まんとする。
「突っ込むぞ!!」
それは着地というより最早突撃だった。勢いを落とすことなど考えず、体ごと巨大な鯨の背へと突っ込んでいく。逃げ場のない衝撃を全身で受け止めたせいで、あちこちの骨がひしゃげる嫌な感覚がする。しかもそのどさくさで、晴人と離れ離れになってしまった。
「晴人!」
ヒヤリとしたが、遠くで起き上がっている姿を見て安心する。ルルの本体である鯨の背はとてつもなく広い。端から端までが見渡せないほどだ。
『そうそう。頑張ってくれなきゃ面白くないからね』
ルルの声がしたかと思うと、鯨の背から外異たちが一斉に湧き出てきた。熊のような体毛と爪を持つもの、チーターのような鋭い牙をもつものなど、何十体もの多種多様な敵が私のことを獰猛に狙っている。
「私、動物園だってまだ行ったことないのに……!」
悪態をつきながら手近な一体に斬りかかる。この調子だといくらでも沸いてきそうだ。外異の王。そんな言葉が頭をよぎる。ルルが全ての外異を作り出しているのならば、やはりルル自身を倒さなければキリがない。
「貫いて、剛力花!!」
襲い来る外異達をいなしながら、鯨の背にありったけの力で槍を突き立てる。
「硬いっ……!」
槍が深く刺さってくれない。外皮自体にとてつもない硬度があるのだ。僅かについた切り傷も、少し血を吹き出させただけでたちまち修復されてしまった。
外異はその血がある限り何度でも再生する。おそらくルルも同じだろう。しかし、この空を埋め尽くすほどの巨体が全てルルなのだとしたら……一体どれほどの血を使わせれば、私達は勝つことができるのだろう。
「ぐっ……!」
気を取られた一瞬の隙に、背後から肩口を爪で切り裂かれる。振り返りざまに遠心力をつけて槍を大きく振り払い、外異を牽制する。ルルと私では保有している血の量が違いすぎる。単純な削り合いでは全く勝負にならない。
「この包囲網を破らなきゃ……」
眼前の敵の両腕を切り落とし、晴人の方へと走り出す。一人じゃ無理だ。力を合わせないと!
離れた場所で外異に取り囲まれていた晴人も、こちらの意図を察して私のところへ向かってくる。外異たちはルルの背から際限なく現れ続けている。それら全てが私達の前に立ちふさがり、全身を切りつけ、殴り、噛み砕いてくる。
流れる血の量がどんどん増えていくのがわかる。それでも構わず必死に走った。二人ならこの場を打開できると信じて……。
「晴人!!」
「真白!!」
私達の手と手が触れた。そして、身体から流れる血と血が触れた。
その瞬間に、私は眩しい光を見た気がした。




