第9話 舞台の上で
もう夜も深い。生物の気配が絶えた屋敷の中は、夏だというのに冷たく静謐な雰囲気に満ちている。
思えば父もそういう人だった。常に物静かで何事にも動じず、的確な指示で一族をまとめ上げていた。その顔を思い出そうとしても、浮かんでくるのは感情の乏しい厳格な顔つきだけだ。
「あれ……この場所、電気が付かないみたいです」
照明のスイッチに触れても反応がない。大きな天窓から差し込む月明かりだけが頼りだ。
「戦いになった時にぶっ壊れちまったのか? 嬢ちゃん、転ばねぇように気をつけろよ」
見上げるほどの高さがある天井の下、いくつもの机や座席が配置されたこの空間は、講堂として色々な集まりや会議に使われていた。
奥には数メートル高いステージもあって演説ができるようになっている。
「あの日、私はここに呼び出されました。父はあのステージに立っていて、その隣から外異が出てきたんです」
薄暗い中を慎重に進んでいく。何か一つでも、父の行方を示すものがないかと探して。
一人でステージの上に登ると、足元の安達屋さんと晴人が低く見えた。あの時父が立っていた場所に目をやる。するとそこには、何やら黒っぽいシミのようなものがついていた。
「なんだろう、これ……」
ゆっくりと近づいていく。その時、視界の端で何かが動いたような気がした。
ステージの奥、カーテンのかかった向こう側。その空間が、不自然に膨らんでいるように見える。
何かがおかしい。普通じゃない事態に巻き込まれていく嫌な感覚を微かに感じながらも、カーテンを手に取り、捲った。
「……気のせいか」
捲った先にはただ壁があるだけだ。強ばっていた身体を休め、ほっと息をついた。
――いや、待て。何も無いはずはない。もっと良く考えろ。さっき床についていたあれは、ただのシミなんかじゃないだろう。
振り返り、足元に目を凝らす。そこに広がっていたのは黒々とした血液だった。
天窓から差す月明かりを受けて光沢を帯びるそれは、乾いてなんかいない。今にもその内側から何かが這い出してきそうなほど不気味に潤っている。
遠い記憶を反芻する。幼い頃、一人で部屋を抜け出してここを探検しているのを父に見つかったことがあった。そんなことが、なんで今頭をよぎるんだろう……。
「ここで何をしている」
全神経が竦み上がる。唐突に至近距離から声がした。厳かで、有無を言わせないような圧力のある声。決して聞き間違えようもない、その声の主は――
「お父さん……!!」
我が目を疑う。失踪したはずの父が、先程まで誰もいなかった空間に立っていた。
「うおっ!? なんだこいつら! どっから湧いてきやがった!!」
安達屋さんの大きな声が講堂に響き渡る。見れば、何体もの外異がどこからともなく急速に現れ始めている。
「真白、気をつけろ!!」
晴人の声も聞こえる。外異たちは、ステージの上の私と、その下の二人を分断するような位置を取っている。何が何だかもわからないまま、私は目の前に佇む父へと向き直った。
「お父さん、一体何があったの? なんでここに外異がいるの? お父さんは一体何をしようとしてるの? ねぇ、家の皆はどこにいっちゃったの!?」
胸の内で膨らみ続けていた疑問が、堰を切ったように口から溢れ出す。しかし父はそれに答えることなく、厳格な表情を保ったままで短く告げた。
「お前には関係の無いことだ」
綺麗に整えられた白髪。四十代の半ばを迎えても尚、眼鏡の奥に覗く眼光の鋭さは昔と変わらない。
「関係ないって……どれだけ多くの人がお父さんを探してるかわかってるの!? それにこれは七夜家の問題でしょ!? 私だって……」
「七夜家の問題だからだ。お前には関係ない」
無慈悲に突き放されるような感覚。ずっとそうだ。この人は、私の話を聞いてくれたことなんて一度もなかった。
どうして学校に行っちゃいけないの。どうして他の子みたいに家の外で遊んじゃいけないの。
どんな問いかけにも理由を告げず、「ただ決められた通りにしていればいい」の一点張りだった。
ステージの下では二人が外異と戦っている。最早、穏やかに済ませられる場ではない。
意識を胸の奥底へと向けるイメージ。眠っていた血が目覚めると、右手首を突き破って高く噴き出した。半透明のピンクに輝くそれは、すぐさま細身の槍となって私の手中に収まる。
「……私だって、もう戦えるんだから……!」
父の体へと槍先を向ける。対話する気が無いというのなら、力ずくで拘束するしかない。でも、どうやって。実の父を切りつけることが、果たして私にできるのだろうか。
迷いながら一歩踏み出した私の頬を、鋭い氷のつぶてが掠めた。
「邪魔をするのであれば、容赦しない」
父の瞳は薄い水色に染まっていた。体の中の血が覚醒している証拠だ。
良く知る異能。自らの血液を極低温で瞬時に凍結させ、私へ向けて飛ばしたのだ。
血を自在に操ることができる私達は、それぞれに固有の特別な力を持っている。
一人につき一つだけ、その人が最も強くイメージできる概念が形になった力。それを私達は異能と呼ぶ。
私が血で造る花の槍を誰も真似することができないように、父が造りだす血の氷もまた唯一無二のものだ。だから、今目の前にいるのは、間違いなく私の父なのだ。
その父が、躊躇いもなく私を傷つけようとしてきた。
今更だと自分でも思う。大切にされていなかったことなんかわかりきっていた。しかし、事ここに至って、言いようもなく悲しい気持ちが胸の内から沸いてきた。
普通に育ててくれなくたって、ろくに会話すらしなくたって。父親だって、思ってたのに。
「嬢ちゃん!! 後ろに下がれ!!」
私と父の間に割って入るように、安達屋さんがステージ上に飛び上がって来る。緑色に光る血が私の視界をまばゆく照らした。残った外異は晴人が一人で引き受けているようだ。
「七夜史登……娘の前で悪いが、これ以上好き放題させるわけにはいかねぇな!」
安達屋さんの背には何か巨大な物体が浮かんでいる。腕だ。丸太よりも遥かに太い巨人の腕。
緑の血によって造られたその両腕は、安達屋さんの動きに追従し、その意のままに相手を粉砕する強力な武器だ。
「『流星砕き』!!」
猛然と掴みかかってくるその巨腕を、父は即座に分厚い氷の壁を造って食い止めた。
「へっ、しゃらくせえ! 大人しくしやがれ!」
構うものかと安達屋さんが勢い任せに氷を殴りつける。講堂全体が揺れるような衝撃と、破砕音が一面に響く。
こうして見ているだけじゃだめだ。私は一体どうすればいい。父を止めなくては。でも、思うように体が動いてくれない。突っ立っているだけでは足手まといだ。力を使わなきゃただの木偶の坊だ。どうすればいい、私は……!
「真白!!」
晴人の声で我に返る。外異が一体、私のすぐ側まで近づいて来ていた。
虎と人とをぐちゃぐちゃにかき混ぜたような風貌だ。鋭い牙と爪が同時に私へと迫る。
瞬間的に本能が察知した。純然たる暴力の前では、あれこれ理屈をこねている暇なんてどこにもないんだ。
これから私の体を引き裂き、砕こうとしている相手には、こちらも持てる力の全力でやり返す他ないのだ。
舞台に上がったのなら、戦わなくては。
「はぁっ――!!」
素早く背後へと退きながら、槍先で相手の鋭い爪をいなす。体制を崩した相手の懐へと一息で潜り込み、その脇腹に深々と槍を突き刺した。
声にもならないような奇怪な音で奏でられる絶叫。抜けなくなった槍を放棄し、また新たな一振りを血液から創り出す。
この血が体の中を巡り続ける限り、私は圧倒的な身体能力で戦い続けることが出来る。
しかしそれも無限ではない。もしも血を全て武器に変えてしまうか、傷つき、出血しきってしまえば、その果てに待つ結末は想像に難くない。
腹を貫かれながらも外異は再び私に迫ってくる。必要なのは決定打だ。こいつらの血を全て枯らしてしまうような、致命の一撃を!
「拘束してくれ!」
ステージの下から晴人の声が飛んでくる。その意図を察し、二本の槍で続けざまに外異の足首を突き刺した。
その体がステージに縫い付けられ動きが止まる。そして背後から、晴人が刃を構えて勢いよく突っ込んできた。
「じゃあな!」
青い血の刃が、外異の巨躯を細切れにしていく。血による再生を許さないほどの速さだ。強化された動体視力でも、何が起きているのか把握するのがやっとだ。
「凄い……」
閃光に刻まれ、外異が音もなく消滅していく。それと同時に、突き刺さっていた私の槍も元の血液へと戻って床に零れ落ちた。
「いい連携だ、真白!」
「うん! やったね! ……って、安達屋さんは!?」
周囲を見渡せば、何体も湧いていたはずの外異はもう残っていない。晴人が全て片付けたようだ。離れた場所で父と安達屋さんだけが戦い続けている。
「へっ……史登さんよ、あんた俺と同い歳くらいだろ? お互いにいい歳したおっさんなんだから、あんまり長引かせてもしんどいだけだぜ?」
安達屋さんの軽口にも父は反応を示さないでいる。その表情からは全く感情が読み取れない。
緑の血の輝きが微かに鈍ると、安達屋さんはすかさず腰のホルスターから針のついたカートリッジを取り出して自らに注射した。増血剤だ。
普通の人は、本部で特別に調合された増血剤を打たなければ、外異との戦いにも到底耐えられないし、そもそも異能だって使えるようにならない。
それを使わずに戦えるのは、私や父のような限られた一族の人間だけだ。
「どうした、もうバテちまったのか? 来ねえならこっちから行くぜ!」
静観を決め込む父に、安達屋さんが殴りかかろうと距離を詰める。しかしその瞬間に、父の姿が忽然と消えてしまった。
「なっ!?」
決して目を離していたわけではない。だが、至近距離で戦っていた安達屋さんでさえ戸惑っている。一体どこに……と辺りを見回したその時、私の耳元で静かに声が響いた。
「二日後の夜、教会で待つ」
父の声だ。しかし咄嗟に振り返っても、既にそこには誰もいなかった。
「消えちまった……のか?」
安達屋さんが、振り上げた拳の収めどころを探すように呟く。
訪れた静寂。もはや、直前までの戦闘が嘘のようにさえ思える。私達の足元に拡がっていた黒い血溜まりも、いつの間にか無くなっていた。
「どうした! 何が起きてる!」
講堂の扉が勢い良く開かれる。騒ぎに気づいた本部の関係者が踏み込んできたのだ。私が七夜家の関係者だとバレたら面倒なことになる。風兎香さんのフリをするために、慌てて異能を解除した。
――二日後の夜、教会で待つ。
混乱した頭の中で、父の言葉を何度も反芻していた。




