第09話 ー『月見荘の再生』
第09話 ー『月見荘の再生』
2026年4月12日(日)——午前8時0分。
恵比寿のマンション。
樹は軽やかな気分で目を覚ました。
今日はどこへ行く必要もない。約束もない。書類もない。新しい目標を持ったシステムが目の前に現れることもない。ただ、新しいマンションでの静かな日曜日だ。
しかし、何かが引っかかっていた。
月見荘。
箱根のあの古い旅館は、まだ放置されたままだった。雨漏り。荒れた庭。使えない浴室。樹はそれを買ったが、まだ本当に世話をしていなかった。
「……何かしなきゃな。」
彼はベッドから起き上がり、キッチンへ向かい、コーヒーを入れた。熱いコーヒーをすする合間に、スマホを開き、箱根エリアのリフォーム業者を探した。
いくつかの名前が表示された。樹は二、三件をメモし、見積もり依頼の短いメッセージを送った。
「でも……大がかりな改修は必要ないんだよな。」
彼が望んでいるのはシンプルだ。
· 清潔な部屋
· 快適な布団
· 美味しい食事
· 良い温泉
· 静かな接客
高級ホテルではない。五つ星リゾートでもない。ただ自分が快適に過ごせる場所。
樹はスマホを閉じ、洗面所へ向かった。シャワーを浴び、着替える——昨日買ったばかりのカジュアルシャツとジーンズ——そして箱根へ行く準備をした。
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午前10時0分——新宿駅。
樹は再び小田原行きの新幹線の切符を買った。ホームでは、週末の観光客たち——小さな子供連れの家族、若いカップル、はしゃぐグループ——の中で電車を待った。
彼は乗り込み、窓際の席に座り、流れゆく景色に身を任せた。
頭の中では、簡単な改修計画を練っていた。
· 雨漏りの修理
· 古い布団の交換
· 庭の掃除
· 温泉の配管修理
· 剥がれた壁の塗り直し
それ以上ではない。
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午前11時30分——箱根湯本駅。
樹は在来線を降り、バス停へ向かい、月見荘行きのバスに乗った。二日前と同じ景色が続く。緑の山々、小さな川、人気のない村々。
旅館近くのバス停で降り、細い道を歩いていった。
門の前に着くと、彼は予想外のものを見た。
一人の女性が庭に立っていた。薄手の白いジャケットを着て、長い黒髪を背中に流している。彼女は真剣な表情で旅館の木製の壁を調べていた。
「……久遠さん?」
冴が振り返った。樹を見て、目をわずかに見開いた。
「如月さん。おはようございます。」
「おはようございます……来てくださったんですか?」
冴は静かに息を吐き、歩み寄った。「別の物件の件で小田原方面に来ておりました。ついでに月見荘の状態を確認しておこうと思いまして。」
樹は眉をひそめた。「……ついで?」
「ええ。ついでです。」
樹は完全には信じなかったが、それ以上は追求しなかった。「そうですか。来てくださってありがとうございます。」
「お礼には及びません。」冴は旅館の壁を指さした。「屋根の一部が歪み始めているのが見えます。修繕のご予定は?」
「ええ。地元の業者に何件か連絡したところです。」
「どの業者ですか?」
樹は今朝メモした名前を挙げた。冴は注意深く聞き、そして静かに首を振った。
「一社目は料金が高すぎて、品質も見合いません。二社目は良いのですが、スケジュールが二ヶ月先まで埋まっています。三社目は——」冴は一旦止め、少し考えた。「——社長を知っています。来週から始められるはずです。」
樹は瞬いた。「……箱根の業者をご存知なんですか?」
「以前、このエリアの物件を担当したことがあります。まだ繋がりのある業者が何人かいます。」
「……本当にすごいですね、久遠さん。」
冴はその褒め言葉には反応しなかった。ただスマホを取り出し、何度かタップしてから耳に当てた。
「もしもし、アステリア・ホールディングスの久遠です。箱根の物件の改修スケジュールについてお聞きしたいのですが……はい、月見荘です。新しいオーナーがすぐにでも改修を始めたいと……はい、ありがとうございます。」
彼女は電話を切り、樹を見た。
「明日、調査に来られるとのことです。問題がなければ、火曜日から改修を始められると。」
樹はしばらく沈黙した。
「……今、業者に電話してくださったんですか?」
「はい。」
「頼んでもいないのに?」
「あなたがそれを必要とするからです。」冴は玄関へ向かって歩き始めた。「では、もう一度内部を見せていただけますか?」
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午後0時30分——本館内部。
冴は旅館の廊下を歩き、あらゆる細部をプロの目で観察した。障子を開け、畳の床を調べ、部屋の隅々を確認する。樹はその後ろからついていき、何と言っていいのか分からなかった。
「この部屋の畳は交換が必要です。」冴は膝をつき、黄ばんだ畳の表面に触れた。「湿気で何箇所か傷んでいます。」
「……それは大事なんですか?」
「ここに泊まるつもりなら、はい。傷んだ畳はアレルギーや呼吸器系の問題を引き起こすことがあります。」
樹は頷いた。「わかりました。交換してください。」
冴は次の部屋へ進んだ。「こちらの障子も修理が必要です。何箇所か紙が破れています。」
「はい。」
「二階の浴室の配管——」
「はい。」
冴は立ち止まり、振り返って樹を見た。「……私の言うことに全て同意されるのですか?」
「ええ。あなたの方が詳しいですから。」
冴は息を吐いた。「如月さん、これはあなたの物件です。ご自身で決断なさるべきです。」
「でもあなたの決断の方が、私の決断より良いですから。」
冴は数秒間、樹を見つめた。彼の言葉に皮肉はない。偽りのお世辞でもない。彼は本当に冴の方がよく知っていると信じているのだ。
「……あなたは変わった方ですね。」
「よく言われます。」
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午後1時30分——温泉の湯舟のほとり。
彼らは湯舟のほとりに立ち、湯気が昼の空へ立ち上るのを見つめていた。冴は建物全体の点検を終え、樹はすべての改修に同意していた。
「改修費用の総額は約八百万円と見込まれます。」冴はタブレットのメモを見ながら言った。「屋根修理、畳の張り替え、障子の修理、配管工事、塗装を含みます。」
樹は頷いた。「いいですよ。」
「値段交渉はなさらないのですか?」
「いいえ。あなたの見積もりを信じます。」
冴は樹を見つめた。「……あなたは信じすぎです。」
「信じすぎじゃない。合理的なものに値段交渉の時間を無駄にしたくないだけです。」
冴はその論理に反論できなかった。ビジネスの世界では、交渉は重視される技術だ。しかし樹はビジネスの世界にいない。彼は自分自身の世界にいる。
「……わかりました。改修の契約を手配します。」
「ありがとうございます、久遠さん。」
彼らはしばらく黙って立ち、静けさを楽しんだ。遠くで、鳥が木々の間でさえずっている。風が優しく吹き、硫黄と木々の香りを運んでくる。
「如月さん。」
「はい?」
「一つお聞きしてもよろしいですか?」
「どうぞ。」
「……この旅館をビジネスにしようとはお思いにならないのですか?」
樹は首を振った。「いいえ。」
「では、なぜ改修なさるのですか?」
「自分が快適に住めるようにするためです。」
冴は樹を見つめた。「……本気でおっしゃっているのですか?」
「ええ。ただ静かな休息の場が欲しいだけです。東京は騒がしすぎる。何かを期待する人が多すぎる。ここには、誰も何も期待しない。」
冴はしばらく考えた。
「……わかりました。」
彼女は「わかった」と言った。しかし初めて、冴は目の前の奇妙な若者との繋がりを感じた。仕事上の繋がりではなく、もっと深い何かを。
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午後3時0分——大広間。
全ての計画が終わり、冴は本来なら帰るべきだった。しかし彼女は大広間に座り、樹が入れてくれたお茶を楽しんでいた。
「もっと良いキッチンを用意したほうがいいかもしれない。」樹が突然言った。「外食ばかりもできないし。」
冴は眉を上げた。「料理はなさるのですか?」
「あまり上手くない。でも覚えられると思う。」
「……よろしければ、簡単な料理本を何冊かお送りできますが。」
樹は小さく微笑んだ。「ありがとうございます。本当に助かります。」
冴は答えなかった。ただお茶をすする。温かさが胸に広がるのを感じながら。
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午後5時30分——月見荘の門の前。
日が西に傾き、木々の影が庭に長く伸び始めていた。
冴は門の前に立ち、帰る準備をしていた。樹がその隣に立ち、両手をジャケットのポケットに入れている。
「来てくださってありがとうございます、久遠さん。どうお礼を言えばいいのか。」
「お礼には及びません。これは——」冴は言葉を止め、適切な言葉を探した。「——これは仕事ではありません。私がそうしたいからしているだけです。」
樹は冴を見つめた。その目には、心からの驚きがあった。
「……ありがとうございます。」
冴は頷き、そして去ろうとした。
ブレザーのポケットでスマホが震えた。彼女は取り出し、画面を見た。
アステリア・ホールディングスCEO、高峰耕介からの着信だ。
冴は電話に出た。
「はい、高峰さん。」
電話の向こうから、落ち着いた中年男性の声。「冴君。箱根の物件を担当していると聞いた。月見荘だな?」
「はい。」
「新しいオーナーは……如月樹というのか?」
冴は止まった。「……はい。」
「彼との面会をセットしてくれないか。直接会ってみたい。」
冴は樹の方を向いた。彼はまだ門の近くに立ち、くつろいだ表情を浮かべている。
「……何のためでしょうか、高峰さん?」
「興味があるんだ。事業計画も投資家としての経歴もなく、古い旅館を買った男——彼がどこまで行くのか、見てみたい。」
冴はしばらく沈黙した。
「……手配いたします。」
「よろしい。会談後、報告を頼む。」
電話が切れた。
冴はスマホをポケットにしまい、読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。
「如月さん。」
「はい?」
「……私の会社の社長が、あなたにお会いしたいと仰っています。」
樹は眉をひそめた。「アステリア・ホールディングスの社長?」
「ええ。高峰耕介。月見荘の新しいオーナーに直接お会いしたいそうです。」
「……なぜでしょう?」
冴は小さく微笑んだ。ほとんど見えないほどの微笑みだ。「あなたが彼の興味を引いたからです。」
樹は長い息を吐いた。「……ただ静かに生きたいだけなのに。」
「分かっています。しかし時には、静かに生きることほど難しいものはありません。」
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【次話 第10話——『社長との夕食』】
樹はアステリア・ホールディングスのCEO、高峰耕介との面会に同意する。銀座の高級懐石料理店で、樹と高峰は向かい合って座る。高峰はビジネスに関する質問で樹を試すが、樹は全く興味を示さない。皮肉なことに、樹の無関心さが高峰の興味をさらに掻き立てる。
【第10話へ続く……】




