第08話 ー『丸の内の女』
第08話 ー『丸の内の女』
2026年4月11日(土)——午前8時5分。
恵比寿のマンション。
樹は、いつもとは違う感覚で目を覚ました。悪夢のせいでも、騒音のせいでもない。ただ、この三日間、一度も月曜日のことを考えていないことに気づいたからだ。
それは奇妙な感覚だった。何年も着続けてきたきつい服を、ようやく脱ぎ捨てたかのような。
彼はベッドに起き上がり、まだ何も置かれていないリビングを見渡した。初日に買った家具は今日届く予定だ。彼はそれらを受け取るためにマンションにいなければならない。
しかしその前に——
ウィンドウが彼の前に現れた。
【QUEST 03 —— 発生】
【七日間、自身の生活水準を向上させるため一億五千万円を使用してください。】
【リワード: 五億円】
樹はそのウィンドウを見つめた。
「……一億五千万。生活水準を上げるためだけにか?」
【はい。生活水準の向上に関するあらゆる支出が対象です。】
【ただし、投資や事業資産の購入は引き続き禁止されています。】
樹は長い息を吐いた。
「わかった。」
彼は立ち上がり、洗面所へ向かった。鏡の中の自分を見る。乱れた髪、少し疲れた顔、古びたパジャマのシャツ。
「……服を買わなきゃな。」
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午前8時30分——恵比寿駅へ向かう道。
樹はまだ静かな朝の道を歩いていた。店が一つまた一つと開き始めている。コンビニ、カフェ、焼きたての香りを漂わせるパン屋。彼はコンビニの前で立ち止まり、缶コーヒーを買ってから、再び駅へ向かった。
ホームで、渋谷行きの電車を待つ。
スマホが震えた。知らない番号からのメッセージだ。
「おはようございます、如月さん。久遠です。月見荘の書類データをメールで送信いたしました。ご確認ください。」
樹はそのメッセージを読み、短く返信した。
「ありがとうございます、久遠さん。確認しておきます。」
彼はスマホをポケットにしまった。電車が到着し、彼は混み始めた乗客と共に乗り込んだ。
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午前9時30分——渋谷、ファッション地区。
樹はこれまでファッションにあまり関心がなかった。仕事をしている間、彼はいつも同じスーツを着ていた。白いシャツ、黒いネクタイ、グレーのスーツ。バリエーションもなく、スタイルもなく、ただ退屈なサラリーマンのユニフォームだった。
しかし今日、彼は本当に着たい服を買うことに決めた。
彼は表参道のブティックに入った。大きなガラス張りのショーウィンドウと、遠くからでも高価そうに見える服が並ぶ店だ。女性の店員がプロフェッショナルな笑顔で迎えた。
「おはようございます。いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「服を探しています。全ての種類です。フォーマル、カジュアル、普段着。」
「……全ての種類?」
「ええ。どこから始めればいいか分からないので。手伝ってください。」
店員は微笑んだ。少し困惑しながらも、プロフェッショナルな態度を崩さない。「かしこまりました。どうぞこちらへ。」
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午前10時15分——表参道のブティック。
樹は鏡の前に立ち、自分が持つとは想像もしていなかったシャツを着ていた。布地は滑らかだ。おそらくシルクか高品質のコットン。そしてカットは、きつすぎずに体にフィットしている。
「いかがでしょうか?」と店員が尋ねた。
樹は鏡の中の自分を見た。明るいグレーで、普通のシャツとは少し異なる襟のデザイン。彼は……違って見えた。よりハンサムになったわけではない。より金持ちになったわけでもない。ただ、違っていた。
「……これください。」
「こちらのシャツは八万七千円でございます。」
樹は驚かなかった。ただ頷いた。「ください。他も見せてください。」
次の二時間、樹は値段を見ずに服を買い続けた。
· ネイビーのフォーマルスーツ:二十八万円
· チャコールグレーのフォーマルスーツ:三十一
万円
· フォーマルシャツ(6枚):合計四十二万円
· フォーマルパンツ(4本):合計三十二万円
· カジュアルジャケット(3着):合計五十四万円
· 高品質な無地のTシャツ(10枚):合計二十八万円
· カジュアルセーター(4着):合計三十八万円
· レザージャケット:六十二万円
· フォーマルシューズ(2足):合計四十八万円
· カジュアルシューズ(2足):合計三十四万円
· スニーカー:十八万円
· 革製財布:十五万円
· ベルト(3本):合計十八万円
· 腕時計:二百四十万円
レジに合計金額が表示された時、店員は汗をかき始めていた。
「お客様……合計で六百九十八万円でございます。」
樹は黒いカードを取り出した。取引は数秒で完了した。
「この住所に送ってください。」彼は恵比寿のマンションの住所を書いた。
「かしこまりました、お客様……」
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午前11時30分——六本木·ロールス・ロイスのショールーム。
樹はエレガントなショールームの前に立っていた。大きなガラスと、向かい合った二つのRのロゴが入った分厚い木製の扉。内部では、柔らかな照明が大理石の床に駐車された三台の車を照らしていた。
スーツをきちんと着た男性——おそらくショールームのマネージャーだろう——がプロフェッショナルな笑顔で迎えた。
「いらっしゃいませ。何かお手伝いできますか?」
樹はショールームの中央にある車を見た。漆黒で、シャープなライン、アイコニックなフロントグリル。
「あれは……何という車ですか?」
「ロールス・ロイス・スペクターでございます。最新のクーペEVモデルです。」
樹は近づいた。彼は車にあまり興味がなかったが、お金を使う必要があった。そして高級車は数千万円を一気に使う最も早い方法だ。
「お値段は?」
「ベーススペックで五千五百万円からでございます。」
樹はその車を見た。内装は贅沢だ。クリーム色のレザー、ダークウッド、そして小さな星のパターンが輝く天井。
「これください。」
ショールームのマネージャーが瞬いた。「……お客様、試乗はなさらなくてよろしいのですか?」
「必要ありません。」
「それとも詳細なスペックを——」
「必要ありません。これをください。すぐにできますか?」
マネージャーは数秒間沈黙した。そして微笑んだ。先ほどよりもずっと大きな笑顔で。
「もちろんです、お客様。書類の手続きのため、こちらへどうぞ。」
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午後0時30分——ショールームの事務室。
ロールス・ロイス・スペクターの購入手続きには約一時間かかった。書類、保険、車両登録——全てを、非常に興奮した様子のマネージャーが処理した。
樹は全ての書類に、読まずに署名した。
合計:六千二百万円(登録料、保険、オプション費用を含む)。
「三日后にお届けいたします。」
「ありがとうございます。」
樹は奇妙な感覚を抱えながらショールームを出た。彼は今、六千二百万円の車を買った——それは彼の年収の総額を超えていた。
そして彼はまともに運転することさえできなかった。
「……運転を覚えなきゃな。」
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午後1時30分——銀座、高級ショッピング地区。
樹は銀座のメインストリートを歩いていた。高級ブランド店が両側に並んでいる。ルイ·ヴィトン、グッチ、シャネル、エルメス、カルティエ、ブルガリ。彼は以前、これらの店に入ったことはなかった。これまでの人生で、これらの店はショーウィンドウを外から眺めながら通り過ぎる場所だった。
今日、彼はそのうちの一軒に入った。
エレガントなビルの一階にある高級時計のブティック。店内では、ガラスのショーケースに何百もの時計が並び、その価格は目を疑うものだった。
「こんにちは、お客様。」スーツをきちんと着た男性店員が迎えた。「お探しのモデルはございますか?」
「……分かりません。一番良いのを見せてください。」
店員は微笑んだ。「かしこまりました。」
彼は樹を隅のショーケースへ案内した。濃いブルーの文字盤、黒いレザーのストラップ、近づいて初めて分かる複雑な細工。
「こちらはパテック·フィリップ·ノーチラス5711/1A-014でございます。最もアイコニックなモデルの一つです。お値段は六百五十万円でございます。」
樹はその時計を見た。エレガントだ。派手ではない。知っている人にだけ高級だと分かる。
「これください。」
店員が眉を上げた。「……お客様、試着はなさらなくてよろしいのですか?」
「必要ありません。」
「他のモデルもご案内できますが——」
「必要ありません。これをください。」
取引は五分で完了した。
樹は小さな箱を持って店を出た。六百五十万円の時計が彼の手首に巻かれている。彼はそれを見た。針がゆっくりと動き、静かで落ち着いた鼓動を刻んでいる。
「……なかなか重いな。」
彼は歩き続けた。
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午後2時0分——東京都千代田区丸の内。
樹は丸の内に到着した。東京のビジネスの中心地だ。高層ビルが整然と並び、青いガラスが昼の空を反射している。それらのビルの中で、一つが際立っていた。
アステリア丸の内タワー。
三十二階建てのビルで、濃い青色のガラスのファサードを持つ。正面玄関では、スーツを着た社員たちが足早に出入りしている。樹にとって馴染み深い世界だ。
彼はビルの前に立ち、無表情でそれを見つめた。
数日前まで、彼はこんなビルの前で小さく感じていたかもしれない。今はただ——
退屈だ。
樹はロビーに入り、受付へ向かった。
「こんにちは。如月樹と申します。月見荘の書類を提出するため、久遠冴さんとの約束があります。」
受付係はタブレットを確認した。「かしこまりました。久遠秘書に連絡いたします。」
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午後3時20分——アステリア丸の内タワー、二十八階。
冴は二十八階の廊下に立ち、手にタブレットを持ち、エレベーターから樹が出てくるのを待っていた。彼女は受付から樹が来たという連絡を受けていた。
エレベーターの扉が開いた。
樹が足を踏み出す——そして冴は彼をほとんど見分けられなかった。
服が違う。濃いグレーのカジュアルジャケット、きちんとした襟の白いシャツ、フォーマルすぎないが高そうなダークパンツ。そして手首には、冴が一瞬で見分けた時計。
パテック·フィリップ。
決して安いモデルではない。
冴は表情を整えたが、目に浮かんだわずかな驚きは隠せなかった。
「如月さん。こんにちは。」
「こんにちは、久遠さん。週末にご迷惑をおかけしてすみません。」
「構いません。追加の書類がいくつかありましたので。」冴はもう一度樹を見た。服から、時計から、いつもと同じくつろいだ表情まで。「……お姿がお変わりになりましたね。」
樹は自分自身を見た。「ああ。今日、買い物をしたんです。」
「……そうですか。」
「派手すぎましたか?」
冴は首を振った。「いいえ。ちょうどいいです。ただ……昨日とは違いますね。」
「昨日はまだ古い服を着ていました。今日は新しいものを買うことに決めたんです。」
「良い決断です。」
彼らは廊下を歩き、冴の仕事場へ向かった。途中、何人かのアステリアの社員が振り返った。樹が新しい顔だからかもしれない。あるいはその服のせいかもしれない。あるいは、冴が勤務時間外に誰かと歩いているのが珍しいからかもしれない。
彼らは冴の仕事場に入った。小さく整頓された部屋。ダークウッドの机、人間工学に基づいた椅子、書類でいっぱいの本棚。壁には、大きな窓から見える東京の街並み。
「お座りください。」冴は彼の前の席を指した。
樹は座り、署名済みの月見荘の書類が入ったファイルを取り出した。
「これが全ての署名済み書類です。漏れがあったらすみません。」
冴はファイルを受け取り、素早く正確に内容を確認した。「全て揃っています。ありがとうございます。」
「いいえ、こちらこそありがとうございます。あなたの助けなしでは、これらを全て終わらせられなかったでしょう。」
冴は眉を上げた。「……弁護士や不動産会社に依頼することもできましたよ。」
「でもあなたの方が早かった。」
それは作り物の褒め言葉ではなかった。冴には樹の言葉の誠実さが分かった——ビジネスの世界では滅多に出会わないものだ。
「……ありがとうございます。」
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午後4時30分——アステリア丸の内タワー·ロビー。
書類の手続きが終わると、冴は樹をロビーまで見送った。途中、数人のアステリアのスタッフが冴に丁寧に挨拶をした。樹はそれを静かに観察していた。
彼らはロビーに到着した。冴は入口の近くで立ち止まった。
「如月さん。」
「はい?」
「一つお聞きしたいことがあります。」
樹は冴を見つめ、待った。
「……あなたは、クビになったばかりの人には見えません。」
樹は小さく微笑んだ。「もう自分をクビになった人間だとは思っていません。ただ……あの仕事は終わったんだと思っています。」
冴はしばらく考えた。
「……それは健全な考え方ですね。」
「そう思いませんか?」
「いいえ。私もそう思います。」冴は読み解くのが難しい眼差しで樹を見つめた。「ただ……大抵の人はそれができません。」
樹は肩をすくめた。「たぶん、どうでもいいことを考えるのに疲れたんでしょう。」
冴は笑いそうになった。ほとんど。彼女はこらえたが、口元がわずかに緩んだ。
「……あなたは変わった方ですね、如月さん。」
「よく言われます。」
彼らはロビーに立っていた。忙しい東京のビジネス界に囲まれて。社員たちが行き交い、電話が鳴り、足音が急ぎ足で響く。しかしその全ての中で、樹と冴の間には、周囲よりも静かな沈黙があった。
「では。」樹がようやく言った。「失礼します。」
「はい。お気をつけて。」
樹は振り返り、出口へ向かった。その足取りはゆったりとして、急ぐことなく、まるで何も追いかけていない人のようだった。
冴はロビーに立ち、彼の後ろ姿を見送った。
彼女の手には、樹が先ほど手渡したファイルがある。彼女はそれを開き、各ページに署名された樹の筆跡を見た。きれいだが、決して飾りすぎではない文字。
そして彼女は書類の間に挟まっているものを見つけた。
一枚の名刺。新品の名刺。そこには如月樹の名前と新しい電話番号だけが印字されている。役職なし。会社名なし。住所なし。
ただ名前と番号だけ。
冴はその名刺を見つめ、そしてブレザーのポケットにしまった。
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午後6時0分——二十八階·冴の仕事場。
冴は仕事場に戻り、椅子に座り、パソコンの画面を見つめた。終わらせなければならない報告書がたくさんある。まだ読んでいないメールがある。折り返さなければならない電話がある。
しかし彼女は集中できなかった。
樹。黒いカードと古い旅館を持つ奇妙な若者。彼が頭から離れなかった。彼の話し方。彼の歩き方。彼が、重要であるはずのことに無関心でいる様子。
冴は息を吐き、スマホを開いた。
彼女は名刺に書かれた樹の番号を見た。
指が画面の上でためらった。そして彼女は短いメッセージを打った。
「書類を受領しました。問題ありません。良い週末をお過ごしください、如月さん。」
間もなく、スマホが震えた。
「ありがとうございます、久遠さん。良い週末をお過ごしください。」
冴はそのメッセージを読んだ。
そしてスマホを閉じ、仕事に戻った。
しかし彼女の心の中には、説明できない小さな温かさがあった。
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【次話 第09話——『月見荘の再生』】
樹は箱根に戻り、簡単な改修を始める。自分が快適に過ごすためだけの、ささやかな改修だ。しかし彼のささやかな行動は、次第に注目を集め始める。冴が手伝いに来て、彼らは一緒に古い旅館の改修を始める。樹は気づいていない。彼の一つ一つの決断が——どんなに小さなものでも——彼の想像を超えた変化をもたらし始めていることに。
【第09話へ続く……】




